特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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基本的な事柄は人生をつくる

 今カンボジアにいて、短期参加者たちに朝から怒った。
 「おはようございます」の挨拶もできない。
 こちらからしても、返事をしているのかしていないのかわからない。
 こっちには全く聞こえないので、無視しているのと同じなわけだ。
 礼儀正しかったかつての日本人は幻となった。

 カンボジア人は、ちゃんと挨拶をしてくる。
 しかもスタッフたちは日本語で丁寧にしてくれる。
 この差は、なんだと思う。

 挨拶をしろ!!と怒れば今やパワハラだ!とやられるに決まっている。
 しかし、企業は大体挨拶もできない人間は採用などしない。
 はじめからアウト!
 上司もパワハラをすることもない、かもしれない。

 しかし、ここでは言わせてもらう。
 挨拶しなさい!できなければ帰りなさい。

 ここへ短期でくる人間は数日しかいない。 
 ここはカンボジア社会であり、そしてジャパンハートの団体の活動の中だ。
 彼らははじめ異物であり、部外者だ。
 この社会に、この組織に受け入れてもらわなければならないはずだ。
 だからこそ、自分からカンボジア社会やジャパンハートのここのスタッフたちに受け入れてもらう努力をしなければいけない。
 自ら挨拶をし、自ら笑いかけ、自ら前に出て自分の存在をアピールする。
 そうしなければ、数日間はあまりに短すぎる。

 ジャパンハートだって、そんな人間には来てもらわなくてもいい。
 ちゃんとコミュニケーションを取り、人間関係を持とうとする人に来てもらいたい。

 彼らは皆、自分を変えたかったり、多くの友人を得たかったり、病人たちのために働きたかったり、さまざまな動機を抱えてここへくる。
 確かに、知識として、こういう時にはこのように声をかけなさい、このように笑いかけ、このように目線をあわせと教えられているだろう。
 そしてそのようにして見せることもできるだろ。
 しかし、そんなの本心じゃない。
 本心じゃないから、頭で考えたことで、心から行っている行為でもない、だから、すぐにぼろが出る。

 自分が忙しいときには振り向きもせず、話もろくに聞かない。
 患者にはいい顔をしても、同僚や部下には冷たい。
 仕事は、いい加減で、いつも他人のせいにする。

 どこにでもいるだろう。
 そういうあなたもそうではないか??

 挨拶は、他人と世界が混ざり合う最初で最小の、入り口になる。
 それを無意識に拒否しているということは、何を意味するのか?
 口では友達もほしい、新しい世界を見てみたい、自分を変えたいといっていても、こころの隠れた欲求は、そうは言っていない。
 こころの声は、混ざり合いたくもなく、コンタクトしたくもなく、他人との交流を拒否しているのだ。
 それがあなたの隠れた本心だ。
 だからいつまでも世界が変わらず、いつも不平ばかり言っている。
 友達も大して増えない。

 ほんの小さな人生の基本事項をしっかりと行うだけで、人生は大きく変わり始める。
 あなたの最強のコミュニケーション・ツールが動き始めるはずだ。
 「おはようございます!」
 「こんにちは!」
 「ありがとうございます!」
 「さようなら、またお会いしたいです!」

 大きな声でしっかりといってみてほしい。
 これらの言葉は他人の耳に入るだけでなく、わが耳、わが心に染み込んでゆく。
 そしてやがて、私は多くの人たちや多くの出来事と、”リンク” したいのだと、いや、するのだ!と認識し始める。
 そして、、、現象が動き始める。


 人生の基本をおろそかにしてはいけない。
 これをないがしろにして、普通の人間に人生の開花などありえない。

 人生を開花させたければ、基本的な事柄を継続してやり続けることは、”MUST” だ。
 やっとほうがいいのではなく、”やれ!”ということだ。

 先日、同じことを6歳の次男に、言って聞かせた。
 今日は誰に言った?
 20・30才台の人間だよ。

 いつも言っているが、人生は基本だ。
 基本さえできていれば、大過なく生きていけるのだ。
 もう一度、基本とは何かを見つめてほしい。
 
# by japanheart | 2013-09-11 04:04 | 基本

久しぶりに口唇裂

久しぶりに口唇裂

 口唇裂というタイトルでブログを書いたのはもう8年も前かもしれない。
 あの頃は、確かに今よりもずいぶんとレベルはひどかったと思う、我ながら。

 あの頃に、ある専門家からやめた方がいいと遠まわしに言われたこともあった。
 じゃ、お前が私の代わりにここに住んでやってくれっていうふうに思っていたが。

 よく、未熟なレベルでやるべきでないという人もいるが、私はそうは思わない。
 なぜならば、この貧しい患者たちは、どんなレベルの人に治療をしてほしいとはねだってはいないからだ。
 彼らは治療というものを受けれるだけで幸せなのだ。本当に彼らはそう思っている。
 
 患者あってこその医師であり、医療だ。

 このくらいの専門的実力がないものはこういう活動をするべきでないというのはやっている側、医者側の理屈だ。

 私は心臓病も、脳の病気も、肺の病気も、子どもの病気も産科や婦人科も全部診ている。
 口唇裂の手術ができないのなら、すべてやめないといけないことになる。
 どれも十分ではないことなど若い頃から自覚している。
 
 文句はある人間はここにそれだけのスタッフを連れてきて、同じ成果を上げてほしい。
 そう思って20年やってきた。

 まあ、ともかくそれでもめげずにやってきた、、、口唇裂の手術。
 今ではおそらく年間の新手術件数は、日本でもトップクラスになっていると思う。
 専門家たちが聞いたらみんな驚いているから。

 最近では専門家がきても、何も言わなくなった。
 何せ、ここでは日本の3分の1の時間でやりきらないといけない。
 そんなことをする人は少ない。

 でも、子どもたちは、家族たちは、本当に幸せそうなんだ。

 誹謗や中傷、そして妨害は幾多もあったし、その人の価値観を押し付けられて押さえこまれそうになることもあった。
 しかし、めげずにやってよかった。
 誹謗中傷した人は、それっきりだからね。
結局、口だけで責任なんて取ってくれないのだ。
 
 たくさんの子どもたちに、未熟な技術で迷惑をかけたけど、ここから少しずつ、世の中にお返しをできそうな気がする。

 8月28日から3日間で17件。
 口唇裂の手術を、国境の町でやってきました。

 子どもたちのかわいくなった顔をどうぞ、見てやってほしい!!

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# by japanheart | 2013-09-08 15:49 | 活動記録

我が家のルール

我が家のルール

 この度、我が家にルールを設けることにした。
 もちろん子どもたちが守るべきルール。
 もともと我が家は、私が不在が多く女性たちによって子どもたちがほとんど育てられてきた。

 そのため、非常に子どもたちは上手く女性と付き合う術を心得ている。
 甘え上手で、ごね上手。
 必ず最後は、勝利している。
 このことを常々、私は苦々しく思ってきた。
 しかしながら、彼らもなかなかで、私がいるときには非常にいい子どもを演じている。
 時に尻尾を出して私に怒られるが、なかなか尻尾を出さない。

 それでも子どもの性格によっては上手く人生を乗り切っていきそうな長男と、たぶん大きなリスクを負いそうな次男。

 今回日本に帰国し、新しい学校に通うことになったが、長男は合格通知をもらったものの、次男は上手くいかない。何とか会議を開いてもらい合格したらしい。長男とあわせ技で。

 教師たちは何を不安に感じたのだろうか?
 
 次男は、時に父親を求める傾向が強い。
 これは彼が、父性というものを、必要としているからに違いない。
 父性とは、秩序であり、ルールであり、力であり、安定であり、時に強制である。

 このような種類のものを次男は求めているに違いない。
 もともと長男よりエネルギーレベルが高く、いつもその処理を上手くできない次男はさまざまな問題を周辺と起こす傾向が強い。
 これが、高学年や中学生になったときに上手く誰もコントロールできなければ、周辺に悪影響を及ぼすことは目に見えている。
 おそらく、教師たちの一部は、これを感じたと思う。

 しかし、私はこの子と上手く付き合っていく自信がある。
 この有り余るエネルギーを上手く誘導してやれば、さぞかし景色のいい時間をすごすことになるだろう。
 失敗すれば誰もが地獄の時間に変わるかもしれない。

 そこで、子どもたちに父性の一部を流し込んでいくことにした。
 これがしっかりできれば、必ず上手くいく。
 甘やかしは禁物だ。

 人間には勉強よりも大切なことがある。
 正確には、勉強の前に習得しておかねばならないことがあるということだ。

 今回、私が子どもたちに宣言したルールを少し書いてみよう。

 1.朝起きたら「おはよう!」とあいさつをする。
 2.ご飯はのこさず食べる。
 3.食器は、流し台まで持っていく。
 4.いってきますと元気にいう。
 5.くつは、ちゃんとそろえる。
 6.使ったものは元の場所に戻す。
 7.便所掃除を毎日順番にする。
 8.宿題はすぐにする。
 9.ご飯の後は歯をを磨く。
10.

20.呼ばれたらいつも、「はい!!」と元気に返事する。


 とまあ、ざっと20個程度のルールを決めた。
 
 こんな当たり前のことができれば、子どもはちゃんと育つ。
 当たり前のことを当たり前にしていないから、おかしくなっていく。
 夜更かしさせたり、間食をひどくさせたり、問題は親にある。

 親が、ルーズだから子どもがルーズになる。 
 親がサボっているから、子どももサボる。
 小さいうちから、親の背中を見て生きてきたのだから、そうなるに決まっている。
 子どものやりたいようにさせることは自由でもなんでもない。
 社会でも好き勝手にやったら、捕まるのと同じだ。
 好き勝手にやることは、他人の自由を侵害するからだ。

 これらのルールを定め、これを守らせていくのが父性だと思う。
 力ずくで、従わせずに、繰り返し我が身で示しながら、繰り返し、繰り返しやっていくつもりにしている。

 我が家の子どもたちの才能を目覚めさせるために、今からいくつかのことを考えているが、いいタイミングで繰り出していきたいと思う。
 子どものエネルギーを少しも目減りさせたり、失わせてはいけない。

 このやり方は、国際看護長期研修でも取り入れていく。
 もちろんもっと複雑に、もっと体系的にやっていく。

 いい人間が、いい医療ができる。
 特に看護の分野はそれが顕著だと思うから。

 まずは、立派な人間をつくりたいと考えている。
# by japanheart | 2013-08-23 02:53 | 子どものこと

エネルギーの行方

エネルギーの行方

 最近の子どもたちはつかみどころがないとよく言われる。
 先日、中高生向きのスタディーツァーを、ミャンマーでやった。
 この時の子どもたちの感想が、私にはショックだった。

 ここに来た子どもたちは、口々に生きている実感が持てたと語った。
 まだ、15歳前後の子どもたちだ。
 いったい、日本では何が行われているんだろうか?
 
 子どもたちに媚び、個性重視の名の下に、至れり尽くせり。
 結果、子どもたちから生きている実感を奪っているという、由々しき事態になっている。

 ここで整理しておきたいのだが、個性を重視することと、嫌いなことをさせることは決して矛盾することではない。
 いい年になってしまったら、どうせ嫌いなことなどしなくなるのだ。

 だからこそ、若いうちに嫌いなことや苦手なことをさせなければならない。
 これが子どもたちの将来の、土壌の栄養になる。
 根が張らない子どもなど、大きな木に育たない。

 人間には睡眠を除くと、本質的には欲求は2つしかない。
 性欲と食欲だ。
 性欲は、今の日本では著しくコントロールされる。
 ゆえに、子どもたちのエネルギーは、別の経路に流されることになる。
 学業であったり、スポーツであったりと。
 これらが本人の個性にうまく合致してくれていたり、いい指導者にめぐり合ってうまく誘導してもらえればキット、いい人生をイメージして前に進んでいけるし、本人も日々、充実した時間をもてる。
しかし、何もこれといったものが持てなかった子どもたちは迷走する事になる。

 かつては暴走族や夜遊びということになった。
 結局は、教育者を親を中心とした大人たちが、彼らのエネルギーをうまく誘導できなかったせいだ。
 彼らが、そういう世界から抜け出していけるのは、時間がたって、別のエネルギーのはけ口というか、誘導先を見つけるまで待たなければならない。だから、多くは20歳を過ぎたころまで時間が必要なのだ。

 しかし、こういう子どもたちはまだ、エネルギーを保って生きていることになる。
だから、別のエネルギーの回路が開け次第、すぐにうまく社会適応していけることが多い。

 ところが問題は、エネルギーのはけ口を持たなかった子どもが、自らエネルギーレベルをとした場合だ。
 生きているエネルギーレベルを落とすことによって、自己を保持する。
 こういう子どもたちが、引きこもる。
 引きこもれば、時間がたっても、自身でエネルギーレベルを上げない限り、社会復帰などできない。
 そして、このエネルギーレベルを上げるという作業は、大変な作業になる。
 そう簡単に一度、止めたタービンを回転させることは大変なことだ。
 寒い冬に車のエンジンをかけるのと似ている。
 それくらいのエネルギーを逆に初動で必要とする。
 ゆえに、引きこもりはなかなか直らない。

 これらを解決するには、エネルギーをうまく誘導する人間がいる。
 もちろん、仕組みとしてそれが行えれば言うことはない。
 しかし、それにはある程度の情熱と人間的なレベルが必要となる。
 教育とは、まさにそういう作業だ。

 親の子どもへの甘やかしはご法度だし、社会の子どもたちへの迎合はあまりすべきではない。
 傷が深くなる。
 情熱をもち傷つくことを恐れない教育者たちもたくさん必要になる。

 もし、本当に誰もが教育こそ大切だと思っているならば、真剣に子どもたちと向かい合わないと大変なことになる。

 私は、本当に思うのだ。
 こんな大人たちばかりで、本当に子どもたちがかわいそうだと。

 貧しいながらも目が輝いているアジアの子どもたちや、アフリカで少年兵として生きている子どもたち。
 彼らの目のほうが、日本の子どもたちより力があるのだ。
 それは、おそらく、生きていることをしっかり自覚しているからだと思う。
 生きながら子どもたちを殺していては、子どもたちがかわいそ過ぎる。

 
 
# by japanheart | 2013-08-19 01:31 | 子どものこと

鎧を誇る人たちへ

鎧を誇る人たちへ

 スポーツの世界は医者の世界と違ってつくづくいい世界だと思う。
 ほとんどの場合、過去の栄光や現在の肩書きなどは現在は何の役にも立たないからだ。
 ところが医者の世界は、そうはいかない。

 例えば専門医という制度がある。
 誰かを評価するときに、すぐに専門医を持っているかなどと言ったりする。
 柔道や空手や剣道も同じで、何段を持っていますとやったりする。
 だから、みんなそれを求めて迷いなく進むことになる。

 ところが、このような世界から遠く離れて生きている私にとってはこんな制度など何の意味もないことになる。
 できるかどうかが全ての世界にいる。
 スポーツの選手達は、数字や結果が確実に表れるので、私はいわばこのような世界観の中にいる。

 専門医や段位を持つというのは、私から見れば同時にリスクを背負うということになる。
 柔道3段ですと威張っている人間が、初段の人間に試合で負けたときの心情はどのようなものだろうか。
 もし小児外科や形成外科、消化器外科の専門医を持っていますと、それを拠り所したり誇りにしている人間より、私のほうが圧倒的に手術が出来れば一体どう思うだろうか?そういう人間は例外だと、黙殺してしまうのだろうか。
 人間、形だけを追い求めてはいけない。
 中身のともなわない器など、滑稽でしかない。

 専門医や段位などという形は、自分の中のひとつの到達目標であって、外に向かって誇ったりしてはいけない。ましてやその尺度で他人を見ていると、世間知らずの自分が恥ずかしくなるからやめたほうがいい。

 ミャンマーやカンボジアにもたくさんの医療者がやってくる。
 日本での量的経験値では、多分、生涯私の追いつく人間は少ないと思う。

 繰り返しになるが、地位や名誉は、他人に誇るものではなく、それを使うことによって世のために役立てるためにこそ、天から与えられたものだと認識する。
 形や器にとらわれず、いつも他人の真の実力、すなわち中身を見抜く目を持つ。(その為には自らが形に重きを置いていてはならない)

 専門医をもつことよりも、たくさんの手術を経験し、たくさんの患者を経験することを基準に日々過ごす。
 
 どの世界にいても真の実力をつけるように生きていく。
 結局はそれが、どんな時代でも、どんな世界でも、自分を助ける唯一の力になる。

 中身がないのに器だけ立派なものをもっている人間は、見ていてみっともないと悟らねば。
# by japanheart | 2013-08-07 01:21 | 医者の本音