特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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才能というもの

 時間を大きくロスし、なおかつ何かを大きく犠牲にして何かを手に入れるという生き方は、将来、時代にマッチしなくなると思う。
 
 最小限の犠牲で済ませ、何かを手に入れながら前に進む。
 才能が一つしかないという意識がベースにある時代は、その才能を開花させるための大きな犠牲は時間をかけても許容される。
 もちろん、その犠牲はその才能に全て転化される前提だし、そもそも健康寿命がかつては大変短かった。日本はつい最近まで社会的制限が多く、人間がいくつもの才能を開花させるには、ちと人生、時間が無さすぎたのだ。
 私が子どもの頃の50年前は定年が50〜55歳程度で、肉体労働の人が多く彼らは50歳を過ぎれば体はガタガタだったと思う。私の子ども達の時代、平均寿命予想は100歳を超えているから、なんと、かつての定年退職年齢はまだ人生の半分くらいのところになる。
 
 ”人間にはいくつもの才能がある” と理解したこれからの時代は、時間がかかる大きな犠牲を払うことは、寿命が延び投資時間をたくさん持てるにもかかわらず逆に人生全体で見ると投資対効果の効率が低くなる。才能の開花は、一つの才能が次々と別の才能をいもズル式に引っ張り出すという表れ方をするからだ。
 だから、最小限の犠牲で済ませながらどんどん効果を相乗的に生み出し、成果を出していく。引っ張り出された二つ目、三つ目の才能が逆向きに一つ目の才能を刺激して大きく成長させるようになる。一人の人間の中にある才能は互いに連動性をもっていると思う。だから、一つの才能の開花だけにあまり時間をかけすぎない方がいいと思う。

 テストみたいなものだと思ってもらうといいかな?
 一つ目の問題が難しく、それに時間を食われて余裕をなくすより、二つ目、三つ目の解ける問題からスタートして余裕をもって最後に一つ目の問題に戻るように、人生も限られた時間しかないのだから。

 働いてお金を稼ぎ、そのお金を元に技術や知識を学び、それを使って更に新しいビジネスを創めお金を大きく生み出し機会を創出し、更に大きく稼いだお金で投資して、新しい生活を手に入れる。友達を増やし、世界の観光地をまわり、見識や記憶を増やし、、、というように、やっていく。
 
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 私は随分長い間、途上国のインフラの整わない貧相な設備でしかも不十分な金銭的財源と人的不足の中で医療をしなければならなかったので、手術は普通の日本人医師よりも早く、手際のよい手術をする。
 しかし、外科手術はアートではないので、見た目にいくら手術が上手く見えても、バイオリンやスポーツのように評価されるのは少し違うと思っている。
 例えば、野球は打てればどんな道具を使ってもいいわけではない。通常、木で作られたバットを使う。その条件下で成績を競う。バイオリンも良い音が出せればどんな人工素材を使ってやってもいいわけではない。その楽器は既にバイオリンとは呼ばないだろう。
 ところが、戦争すら武器の制限があるのに、医療には制限がない。
 素材も機器も、その他どんなテクノロジーも患者に対する利益・不利益の効率が良ければどんな手段でも普通は問題ないのだ。
 学生時代、テストではカンニングは罰せられたのに、新しい機器が臨床現場で使用されるときはマニュアルを横に置き、それを見ながら、しかも横から機器メーカーの人間にアドバイスすら堂々ともらいながら手術が行われる。

 極論すれば、どんな手段でもいいから患者を最も治せるものが正義なのだ。
 別に、見た目のテクニックは本来どうでもいい。

 だから、時代に照らし合わせれば、これからは時間をかけて見た目上の上手さを求めるのは正しいやり方にはならないと思っている。
 それよりも最も患者の治療成績を上げられるテクニックとテクノロジーを取り入れ、時間をどんどん飛び越えていくのがいい。
 徒弟制度のような医師の仕組みは早晩、壊れると私は見ている。
 この制度はこれからますます投資対効果が薄くなるから。
 これから医師は、医師だけで集まってやるのではなく、企業やできればベンチャーと組んで新しい価値を創出していったほうがいいと思う。
 そうすれば、その医局には創造性に優れた優秀な医師がたくさん集まるだろう。
 大学の医局には、出来上がった商品を売る人間だけではなく、新しい価値を共に創ろうとする多くのベンチャーが引っ切りなしに出入りしている未来でなくてはならないと思う。

 話を戻す。
 
 これからの人類、特に日本人は伝統的に「一つの事をやり込め」と教えられてきた人々なので、人間はいくつもの才能を持つ動物であると証明していかねばならない。
 そのためにいい方法は、目的とプロセスを一致させてしまう事だ。
 旅行に行くために、頑張ってお金を稼ぐのをやめる事だ。
 旅行そのものが金銭的財源を生み出したり、お金を稼ぐ仕事が人生の学びや楽しみを十分満たしているように生きること。
 ”ボランティアに行くか、旅行に行くか” ではなく、その両方を満たすアイテムを探しあてる事。
 そして、その体験を再び、人生に投下できるように位置づけて置くこと。
 もちろんそこで出会った人々との新しいネットワークや繋がりもその一つだと思う。
 単なる思い出つくりは、やめたほうがいい。
 働くという行為とボランティアという行為の分離。
 こういう発想は時代遅れになる。

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 それから全て頭で考えて理解してるような気になることは危険。
 体験を重視した方がいい。
 常に、理想や思い込は現実とズレるから。

 将来、途上国で医療をしたいのだが今どんな事をやっておけばいい? とよく質問を受ける。
 これに正解はない。
 もしも正解があるとしたら、それは今すぐに途上国で医療すること以外考えられない。
 体験してそこから自分に合った正解に向かって思考を進めるしかない。
 私にはその人の正解などは到底、分かりようがないからだ。
 体験してそれを次の自分に投下していく。

 未来は行動した人間にのみ確実にその道を示し、微笑むようにできている。

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by japanheart | 2019-12-31 13:12 | 基本 | Comments(0)

狂気を宿す−その2

狂気を宿す−その2

 果たして、 私にはそんな狂気を宿せているのだろうか?
想像しただけで人生からエネルギーを吸い取られてしまうような経験を経て来たのか?
 時として最愛なる人を失うことは自分の命を失うよりも耐えがたいことがある。
我が身、我が人生を振り返った時、彼らの悲しみに匹敵するような苦難を私は経験してはいないと思う。
 この身には、多分、彼らのような"狂気"など宿せてはいないだろう。

 そんな"狂気"の力を得なければならないと、ひと月もの間、全く食事を絶ち、水のみで過ごしたこともある。
 しかし、到底、彼らに匹敵するだけの"狂気"は我が身には宿せなかった。

 人はつながる。
 直接的なつながりもあれば、空間を超えてつながることもある。
 しかし、人は時間も超えてつながることもできる。もしかしたら次元すら超えて。
  数百年前の欠片が現代の誰かに何かを語ることもある。
  数百年前の武道の極秘が忽然と現代の誰かにその本義を伝えることもある。
  あなたの残した生き様や思いが子や孫の力になることもある。
  100年前の書物の一節にあなたが悶絶し、そして生き方を変えることもある。
 そしてそれは、直接的に伝わるものと、いくつもの事象に弾かれて時間をかけてバウンドしながら伝わって来るものがある。

 私に"狂気"と呼べるものがあるとしたら、それが多分、確かに私が受け取った"狂気"だったと思う。

私が初めて渡ったミャンマーの地では、50年前の第二次世界大戦で30万人の日本人達が戦い、そして約三分の二の20万人が散っていった地獄のビルマ戦線が繰り広げられていた。
戦争の"狂気"。
 
 彼らはどのように生き、そして死んでいったのか。
 彼らの思い、無念。
 家族の思い、寂しさ。
 現地の人々の思い、悲しみ。

 時間と次元をバウンドしながらそれらは私のところにたどり着いてしまった。
50年を経てたった一人、医療を行いながら、激戦により数万人が亡くなりいまだ2万人が埋まっていると言われている大地に、戦後初めての日本人として住み、戦争を経験した多くの年老いた現地の人々、生き残った日本人たちの涙や一人ひとりの人生ストーリー、壁にいまだに残る当時の弾痕、安置された日本軍の朽ちた装甲車、お寺の境内に残された錆びた鉄兜、古ぼけた兵士の写真や日本に残してきたその家族の写真、そして多くの位牌、破れた日の丸。
どれもこれもが戦争の゛狂気゛を悲しく私に伝えていた。
それらを私はシャワーのように浴びすぎたのだ。
電気もほとんどこない、安全な水も紙も手に入りにくく、たった一人で孤独だった私には自身の境遇ゆえ彼らとリンクしてしまったのかも知れない。
その時、彼らの、そしてあの大地で亡くなった人々の"狂気"を私は受け取ったのだと思う。
それらが私をここまで導いて来てきた気がする。

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 たった一人、現地で医療をはじめた1995年。
苦しかった時、もう諦めようと思った時、どこに行ってもいつも私の周りには、あの大地で亡くなった日本人たちの無数の慰霊碑が存在していた。
 その慰霊碑はその前にたたずむ私に、
 「どんなに辛くとも、戦って死ぬよりはいいだろう?」と語りかけてきた。
 そう、死ぬよりはいい。
 私は人を殺すためではなく、生かすためにここに来れている幸せをかみしめたのだ。
 「戦って死ぬよりはいい。」この言葉を私は何度繰り返したことだろう?
 だからもう一度、力を振り絞りいつも立ち上がることができたのだと思う。

 1995年頃、世界中のNGOが軍政下のミャンマーで活動許可を得れずに何年も待たされていた時、「お前は日本人だから信じる!」と言ってミャンマー政府がたった数カ月で私に活動許可を与えてくれたのは、私の力ではないと今でも思っている。

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 そして、不思議にいつも苦しかった時、私を現地で助けてくれたのは戦争時代からの縁ある人ばかりだった。

 私が失ったのは今血のつながりがある人ではなく、きっとこの日本の長い歴史のどこかで私の血とつながっている、50年以上前に散った日本人たちだったのだと思う。
私が生まれた1965年。それより20年も前に私は大切な仲間を失っていたのだ。

 私に宿された"狂気"は、正確には、私を含む私の周りに宿された"狂気"であり、何か危機的な状況に陥った時、いつも得体の知れない"狂気"の力に護られているような気がする。

 かつて傷ついた日本人達を救ってくれたのは、名もなきミャンマーの農民達だった。戦争末期、日本と共にイギリスを相手に戦ったミャンマー(ビルマ)政府は、敗戦国にならず自国の独立を勝ち取るために敗色濃厚になった日本に対して逆に宣戦布告し、戦闘状態に突入する。イギリス軍に追われ、ミャンマー軍にも追われた日本人達を救ってくれたのは、誰だったのか?
それは、名もなき農家や市井のミャンマー人たちだったのだ。
 だから、私は学んだのだ。
 本当の最後の砦、日本の最後の安全装置は、武器ではなく現地の市井の人々に信頼されること、大切に思ってもらえていることなのだと。
 それは日本政府がしている援助では決して得ることができない、人と人の時間をかけたつながりから生み出された信頼や恩義のみが可能にする安全弁だと思う。

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 中村哲先生がいたことは、日本にとっては幸いである。
 アフガニスタンで日本人に何かあっても、多くのアフガニスタン人がその人を助けてくれるだろう。
 そして、ミャンマーでは、もし何かあったら私が25年かけて医療を施してきたその人たちやその家族が、75年前のようにあなたを助けてくれるはずだ。

 75年以上前に生まれたその戦争の"狂気"を私は受け取ってしまった。
そしてその"狂気"は私をこの道に縛り付け決して死ぬまで離してはくれないだろう。
 でも、それが私の人生ならば迷わず行くしかない。
 その先に何があり、どんな未来になっているのか?
 行けば分かる、行かねば分からぬ。

 これからどんな時代になろうとも、私はこれからもきっと戦争から生み出されたその"狂気"に身を包みながら生きていくと思う。
 私が倒れた時、その歩いてきた道には少しだけ平和という状態の花が咲いているのだと信じながら。
 
 この道こそが私の信じる平和の行使だと思っている。

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by japanheart | 2019-12-20 00:13 | 戦争 | Comments(0)

狂気を宿す−その1

狂気を宿す−その1

 先日、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師はかつて自身の息子を脳腫瘍で亡くしている。
 その息子が危篤の途にある時にも、日本への帰国を現地の人々が勧める中でも、「ここで帰国すれば自身のこれまでの発言が嘘になる」と頑なに拒否したそうだ。
 しかしながら、多分、彼は息子の死に際には傍にいてくれたのだと思う。
 脳腫瘍の息子の死をみおくったその三カ月後、彼はある決意を宣言する。
 飢えと渇きで既に亡くなってしまった、同じような幼い我が子を抱いたアフガニスタンの母親の姿を思い、息子の弔い合戦だと命を懸けてあることを決意したのだ。
 今のアフガニスタンに最も必要なもの。
 水と、彼らが生活できる場所、そして人々の生活の糧。
 彼は医療を捨てて巨大な用水路の建設に乗り出す。
 一切、そのための知識も経験もなかった。全て一からのスタートだった。
 しかし、彼には一つだけ誰にもないものがあったのだ。
 息子の命と引き換えに手に入れた"狂気"。
それから何年もかけて用水路は完成し、数十万人のアフガニスタンの人々の命と人生を救う事になる。

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 しかし、もう少し、もっと彼が生きていたらその数は何倍にもなったことだろう。
 もっと多くの人々が彼の存在を知り、支援できていたら、もっと多くの人々が既に救われていたことだろう。
 


もう一人。
 日本最大の民間病院群「徳洲会」を作り上げた徳田虎雄医師。彼は戦前、鹿児島県奄美諸島徳之島で子だくさんの家庭の長男に生まれる。彼が10歳の時、彼の幼い弟(三男)が激しい嘔吐下痢になる。嘔吐が止まらず、夜間母親は暗闇の中、山を越えて医者を呼びにいく。しかし、医者は貧乏人の農家の倅のためになどは来てくれなかった。そして、母親の報告を受けた10歳の虎雄はたった一人、夜中に山を越えて別の医者を呼びに行く。
 しかし、その医者が三男のために虎雄の元を訪れたのは翌日の昼過ぎのことだった。既に、弟は息を引き取っていた。
 この時、虎雄はこう思ったそうだ。
 「今まで自分は医者というのは神様の次に偉い存在だと思ってきた。しかし、それは間違いだった!」
 この弟の死が彼に"狂気"を与えたと、後年、彼は語っている。
徳洲会の年中無休、貧乏人からはお金を取らない、などの理念のオリジンは彼のこの原体験に根差して生まれたものなのだ。
 自分自身に生命保険を賭けて、自分の命を担保に、彼はどんどんお金を借り入れ病院を増やし続ける。こんな"狂気"の元はかけがえのない弟を死なせてしまったその無念さと怒りだったのだと思う。

 そして、この二人、中村哲医師と徳田虎雄医師にとっての大切な身内の死が、やがて彼らをして多くの人々の命を救い、やがてその身内二人の無念の死が昇華されその死の意味付けを変えて行く。
 幼い息子と弟の可哀相な死があったからこそ、たくさんの命が救われたのだ。
彼らの死は決して無駄でもなく、意味のないものでもなく、多く命を救った尊い犠牲であったのだとこの医師二人は命を懸けで証明したのだ。

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by japanheart | 2019-12-16 18:23 | 病と人間 | Comments(0)