人生はなんといっても瞬発力が大切。
今日も、ミャンマーの田舎で手術をする。昨日は26件、今日は21件。6名の医者と6名の看護師達に助けられながら手術をする。
若い頃、こんな地の果てのミャンマーで手術をしている日本人のことなど誰も知らず、きっと、緩やかに世界から忘れ去られていくことだろうと、半ばあきらめ加減ですねて思っていた。
飽きもせず、しかし諦めもせず、ただ何年も、何年も同じことを繰り返しす。
手術が上手くなっても、誰も褒めてはくれない。
だから、人から認められるために手術をがんばるんではなく、純粋に患者の成績が良くなるためにがんばる。
若いうちに何をしておいた方がいいのかと聞かれることがよくあるが、答えは自分で出せ。
いつから海外で活動するのが一番いいかを聞かれるが、それも答えは自分で出せ。
まあ、自分の人生だから、自分で決めたほうがいい。
とにかく時間が大切だ。
人生の中で、今より感度の高い時間はないと心得た方がいい。
年とともに、感度は確実に落ちる。
20歳より、21歳は悪く、50才より、70歳はさらに悪い。
昨日より今日は悪く、今日より明日は悪い。
だから今、何事も集中してやるのがよろしい。
今を充実させるとは、明日を楽しみにして、あるいは未来のために現在を犠牲にすることではない。
とにかく、今、この時間を、精一杯生きる、楽しむ、苦しむということだ。
いつから海外でやるのがいいのかと、中途半端に考えているのは時間の無駄だ。
2年考えれば、2年失う。
悩んでもいい。
しかし、吐くほど悩め。他の事が手につかないほど悩め。
それであれば、考える価値はある。
しかし、時々悩む程度なら、悩まない方がましだ。
時間の無駄。
とにかく中途半端に、時間を浪費するな。
行動して、動きながらかんがえたほうが時間を大切にした生き方になる。
人生は、瞬発力が大切だ。
思ったらすぐ行動する。
これはくせにできるから、やってるうちに慣れてくる。
いつもこころの掛け声は、「エイ、ヤー!!」に決まっている。
多くの人は何かに強制されないと思うように体が動かない。
だから、自分が仕方なくでも動かねばならないような環境に自分をおくことが大切だと思う。
海外医療がやりたければ、悩まず飛び込めばいい。
それから考えろ。
何が自分に足りないのか?自分の能力は何か?将来、これからどうやって生きていくのか?
齢50を前にして、20代や30代の若造達が悩んでいる姿を見ると、嫌味のひとつも言いたくなる。
だってそうだろ。こっちはその時間に戻りたくて仕方ない。
その年代のことばかりを思い出している。
あの感度、あの時間が、もう一度あったならば、いかほどのすばらしい人生の時間を体験できるだろうかと。
日本の常識は世界の非常識。
かつての日本の常識は、今の日本では非常識。
私達の周りにある常識を疑ってかかった方がいい。
TVや新聞であたかも本当のように流される情報は、果たして真実であるのかどうか?
新聞で流れる海外情報は、大体どこからか流してもらったものばかりだ。
あるいは国内の情報だって、記者が自分で調べた情報がどれほどあるか?
イラクに大量破壊兵器があるから。
戦争を始めて、たくさん人が亡くなって、その戦争理由が真実だったか?
でも世界中は、それを信じた。なぜ?
あなたの周りにある食べ物にかいてある賞味期限は、本当に正解なのか?
薬の効用や副作用は、使用書とうりなのか?
薬の臨床データはそんなに正確に取れるものではない。
だからあまり正確でないデータの積み重ねが、副作用表に現れているとしたら、それは信じるに値するのか?
ある著者が子どもは褒めて育てろという?
その方法が、ホントに普遍性をもつのだろうか?
どの子にも合う指導法などあるのだろうか?
でもその著者は、それを普遍的だと表現する。
感覚を磨きながら、与えられた常識を疑いながら非常識な感覚も持ち合わせたほうがいい。
油断していると常識という手法で他人からの情報操作に晒され、人生が磨り減る。
時に賞味期限など当てにしないで、食べ物のにおい、味、色など自分で判断して食べればいい。
たとえ使用期限が過ぎていようと、問題ないと感じる薬は試してみる価値はある。
子どもとしっかり関わり、時に褒め、時にけなし、怒り、育ててもいいかもしれない。
自分の感覚を信じるということは、同時に他人に振り回されないということでもある。
他人とは、まさに常識といわれるもののことだ。
他人から非常識といわれようと自分の常識に従う。
時にその内部感覚を信じる。
まずは、現実を揺らすこと。
現実を揺らすとは、他人の常識を疑ってみること。
そして自分の頭と内部感覚で判断すること。
これからは、これがもっと大切な時代になる。
人生は、自分でがんばるしかないといえば、確かにそうかもしれない。
先日、北海道に行った。
昔から北海道の人たちがよく、北海道の不景気はひどい、ひどいと言っていた。
だから、みな生活が大変なんだよと。
まだ雪も残っていて寒いから余計にそう感じたのかもしれないが、本当に寂しい感じがした。
札幌は今回行っていないが、千歳から小樽、岩内へと抜けた。
どこの町にっても人もまばらだし、観光客も少ないし、飲食店もガラガラのような気がした。
その後、沖縄にいった。
沖縄も似たり寄ったり、暖かい分、幾分気持ちは沈まないが、はやっている店はごく一部、季節柄か、勧告客があふれている気配がない。
産業があまりない沖縄が、この程度の観光客で大丈夫かと思った。
少しでも客のあまりいない店で食べてあげよう、とふと感傷に浸っている。
こんな感傷のあり方は、子どもの頃と変わっていない。
日本人の性か、何となく、そういう人々や光景に哀愁を感じてしまう。
客のいない店の中で、静かに一人テレビを見ているマスターや女将。
がんばって家族経営で何とかやりくりしている旅館。
こんなのは、昔から当たり前の日本の一風情?でありきたりのものだった。
しかし、何とかしてやれよ!日本政府。今のままじゃまずいだろ?って言ってしまいそうになる。
しかし、アジアやミャンマーの人たちと接していると、はじめから政府を頼っている人々なんていない。
当てになんかしていない。
当てにしても仕方がない。
何かあっても自分で、自分達でなんとやって行く。
それが当たり前。
洪水になっても、あっさりしたものだ。
自分達で掘っ立て小屋を作って、生活し、収まれば、当たり前に元いた場所に帰っていく。
毎年のように見る光景だ。
私がアジアで学んだ大切なことは、結局、自分でがんばるしかないってことだった。
誰かを頼りにしたり、当てにしたりしていたら、自分の能力が制限されてしまうということだった。
精一杯努力して、誰かに助けてもらうことはあるかもしれないけど。
北海道の人たちだって、沖縄の人たちだって、自分でがんばるしかないんだ。
同情をもらったって、他人の同情など長続きするわけがない。
今の若者も同じ。
結局は自分ががんばるしかない。
夢や希望がないというけれど、毎日、空爆にさらされた70年前の戦争中や戦後の焼け野原の頃の日本の若者達よりはよっぽど、希望や夢もてるだろ。
テレビの向こうのかわいそうな境遇にある子どもを見て、みんな同情してくれるけど、どうせすぐに忘れる人たちばかりだ。
人間というのはそういう生き物だ。
それを責めちゃいけない。
大切なのは、子ども達が自分達でがんばることだ。
ただそれだけだ。
その同情してくれた人たちの中のそのまた少ない人たちだけが実際に助けてくれるかもしれない。
それは神様の助けみたいなもので、本来、望んではいけないものだ。
だから、誰かに頼るこころではなく、何があっても自分が自分の力でがんばって生きていくんだ、という事が当たり前に根付いている人間をつくりたいと思う。

やはり本当のライバルがいなくてはならない。
ソ連を失ってからの、アメリカは大変見苦しく、そしてどんどん弱まっている。
それはそれで、日本という国の真の独立にとってはいいことだと思う。
無理やり創り出した「悪の枢軸」や「中国」、「アルカイダ」、「イラク」「イラン」そして「テロ」などという概念は、虚しいだけだ。
悪いあがきにしか見えない。
そんなアメリカ失速時代の、ひとつの断層がまた見える。
TPPへの誘導。
どんなことでもそうかもしれないが、言いだしっぺが一番得をするから、それを口にしたと考えた方がいい。
最初はともかく、今やTPPはアメリカのためにある。
前にも書いたが、良い悪いは別。
良かろうが悪かろうが、やってくるもんはやってくる。
その覚悟と準備はするしかない。
良くも悪しくも、アメリカに逆らって生きていける国は世界にないのも事実だから。
笑い話だが、天変地異の次にどうにもならないのが、今のアメリカという国家で、中国を越えている。
翻って、わが身を振り返る。
そういえば、先日、日本最大の外科医の学会(今回は1万3000人以上が参加したらしい!)、日本外科学会の総会で発表を依頼された。
時代は変わったもんだ。
私が医者になった頃、海外医療したいなどといえば医局から痛い目にあわされた。
そんな奴は、マトモな輩ではないので、取り合うなといわれた。
もちろん日本に帰国後は就職につくことも難しかった。
たった20年で、、。
時代は変わった。
そんなマトモでない人間の話を、皆で集まって聞こうという。
しかも、日本で最も権威ある学会挙げて。
誰もが予想しなかったことだ。私も含めて。
医局制度が弱体化し、医療者が流動し始めた。
大学に属することの最終目的だった安定した良い職場への永久定着は、大学の医局というシステムを経由しなくても、自分で直接、アクセスできるようになったのだ。
さらに、TPPの加盟で保険が歪み、医療が変わっていく。
もしかしたら、外国人の医療者が流れ込んでくるかもしれない。
グローバル企業にとっては、医療者のコストは安ければ安いほうが良い。
まさに、医療界は、幕末の日本と同じ。
封建的な医局制度は権威を失いながら、今も続いている。
医局からの、脱藩が止らない。
佐久間象山や吉田松陰のごとくの時代を別の角度で眺めていた私のような人間の話を皆で聞く始末。
TPPは黒船になる。
こじ開けられる。
医師会も医局も、もう時代の流れには逆らえない。
時代の流れというのはそういうものだ。
10年後、20年後の医師会や医局の姿を、語れるものがどれほどいるか?
先日、開業している同級生達数名と食事をしたら、医師会の会合に出ると高齢化がひどく、真っ白な集団だといっていた。 髪の毛の色の話だ。もう年寄りばかりの集まりになりつつあるということだ。
新陳代謝が上手くいっていない組織や肉体は、朽ち果てる。
これも良い悪いではない。
だからどうするかという、問題だ。
今さら良い悪いを言っているより、準備をすることだ。
幕末から明治に変わったときに、多くの一般人にとってはそれは自分達と関係ないところで起こったことだった。
しかし、だからといって、明治になった後に、江戸時代の価値観のまま生きていくことが許されただろうか?
新しい時代の法律に従わされ、新しい考え方や教育を受け入れさせられたはずだ。
時代の流れというのはそういうものだ。
嫌でも逆らえないのだ。
受け入れるしかない。
だから、それを前提で、どう動けば自分達が最も上手く時代とともに進めるかを考えた方がいい。
私は、TPPなどなくても、医局は、医師会は変わらねばならないと思っていた人間だ。
(別になくなれとはいっていないが)
だから最大限に、この時代の流れを利用させてもらう。
この世から、すぐに「医者」や「医療」が不必要な存在であるわけないのだから、今起こっているのは”システムエラー”なのだと、まずは認識することだと思う。

道を開くということの大きな意味を考えねばならない。
その開かれた道の上をこれから数百人、数万人が通っていくかもしれない。
だから道を開くものたちは、その事柄の大きさに真剣に取り組まなければならない。
いい加減な思考やいい加減な態度で、簡単に道を作ろうとしている人間が多すぎる。
昔、公衆衛生や保健をやっている人間達がミャンマーで、大上段に振りかざしたプロジェクトでその後、現地の人たちが困惑し、迷惑し、苦労する姿を幾度となく見てきた。
それをコントロールしているものたちは、大都市ヤンゴンで大いに恵まれた生活を送り、別にその結果責任が、その当人に問われることもない。
こんなことで本当に、数万人の運命をもしかしたら決めるかもしれないプロジェクトが成功するだろうか?
私には、今でも、到底、そうは思えない。
自分が、適当に引いたレールの上を力もなく、純粋で、弱い立場の人たちが歩いていく。
その行き着く先が、滝つぼであってはいけないはずだ。
しかも道を開いた本人は決して落ちない滝つぼなのだ。
道を開くものは、悩め。
苦しめ。考えよ。
寝るな。食うな。
そして、考えよ。
これが私の戒めだ。
政治の世界を見て欲しい。
どうやらTPPに参加するらしい。
これを決めた人たちは、吐くほど考え抜いたのだろうか?
政治家の人たちはよく自分達の立場を、仕組みをつくる人間だと表現するが、その上を、これから億単位の人たちが歩んでいくという自覚と恐怖があるのだろうか?
知識をいくらためても未来は見えない。
いくら過去の戦争を研究しても、将来、全ての戦闘で勝利することは出来ない。
いくら本を読んでも、それが必ず未来の幸福を約束してくれるるわけではない。
未来を達観するセンスと才能を持っている人間が必要になる。
これは才能だ。
だから、学習では習得できない能力だ。
先天のものだ。
そういう人間を、政治家は抱えているだろうか?
大学の、あるいは研究機関の偉い人たちだけの意見を聞くと、必ず、いつかは大きな失敗を起こす。
政治家だけではない。
道を示す全ての人たちは、心して道を開く必要がある。
もしろくでもない道を開いてしまったら、そこに将来、投入される人々の時間、エネルギーがいかに無駄になることか。
その責任の重さをしかと自覚されたし。