特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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カテゴリ:戦争( 9 )

狂気を宿す−その2

狂気を宿す−その2

 果たして、 私にはそんな狂気を宿せているのだろうか?
想像しただけで人生からエネルギーを吸い取られてしまうような経験を経て来たのか?
 時として最愛なる人を失うことは自分の命を失うよりも耐えがたいことがある。
我が身、我が人生を振り返った時、彼らの悲しみに匹敵するような苦難を私は経験してはいないと思う。
 この身には、多分、彼らのような"狂気"など宿せてはいないだろう。

 そんな"狂気"の力を得なければならないと、ひと月もの間、全く食事を絶ち、水のみで過ごしたこともある。
 しかし、到底、彼らに匹敵するだけの"狂気"は我が身には宿せなかった。

 人はつながる。
 直接的なつながりもあれば、空間を超えてつながることもある。
 しかし、人は時間も超えてつながることもできる。もしかしたら次元すら超えて。
  数百年前の欠片が現代の誰かに何かを語ることもある。
  数百年前の武道の極秘が忽然と現代の誰かにその本義を伝えることもある。
  あなたの残した生き様や思いが子や孫の力になることもある。
  100年前の書物の一節にあなたが悶絶し、そして生き方を変えることもある。
 そしてそれは、直接的に伝わるものと、いくつもの事象に弾かれて時間をかけてバウンドしながら伝わって来るものがある。

 私に"狂気"と呼べるものがあるとしたら、それが多分、確かに私が受け取った"狂気"だったと思う。

私が初めて渡ったミャンマーの地では、50年前の第二次世界大戦で30万人の日本人達が戦い、そして約三分の二の20万人が散っていった地獄のビルマ戦線が繰り広げられていた。
戦争の"狂気"。
 
 彼らはどのように生き、そして死んでいったのか。
 彼らの思い、無念。
 家族の思い、寂しさ。
 現地の人々の思い、悲しみ。

 時間と次元をバウンドしながらそれらは私のところにたどり着いてしまった。
50年を経てたった一人、医療を行いながら、激戦により数万人が亡くなりいまだ2万人が埋まっていると言われている大地に、戦後初めての日本人として住み、戦争を経験した多くの年老いた現地の人々、生き残った日本人たちの涙や一人ひとりの人生ストーリー、壁にいまだに残る当時の弾痕、安置された日本軍の朽ちた装甲車、お寺の境内に残された錆びた鉄兜、古ぼけた兵士の写真や日本に残してきたその家族の写真、そして多くの位牌、破れた日の丸。
どれもこれもが戦争の゛狂気゛を悲しく私に伝えていた。
それらを私はシャワーのように浴びすぎたのだ。
電気もほとんどこない、安全な水も紙も手に入りにくく、たった一人で孤独だった私には自身の境遇ゆえ彼らとリンクしてしまったのかも知れない。
その時、彼らの、そしてあの大地で亡くなった人々の"狂気"を私は受け取ったのだと思う。
それらが私をここまで導いて来てきた気がする。

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 たった一人、現地で医療をはじめた1995年。
苦しかった時、もう諦めようと思った時、どこに行ってもいつも私の周りには、あの大地で亡くなった日本人たちの無数の慰霊碑が存在していた。
 その慰霊碑はその前にたたずむ私に、
 「どんなに辛くとも、戦って死ぬよりはいいだろう?」と語りかけてきた。
 そう、死ぬよりはいい。
 私は人を殺すためではなく、生かすためにここに来れている幸せをかみしめたのだ。
 「戦って死ぬよりはいい。」この言葉を私は何度繰り返したことだろう?
 だからもう一度、力を振り絞りいつも立ち上がることができたのだと思う。

 1995年頃、世界中のNGOが軍政下のミャンマーで活動許可を得れずに何年も待たされていた時、「お前は日本人だから信じる!」と言ってミャンマー政府がたった数カ月で私に活動許可を与えてくれたのは、私の力ではないと今でも思っている。

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 そして、不思議にいつも苦しかった時、私を現地で助けてくれたのは戦争時代からの縁ある人ばかりだった。

 私が失ったのは今血のつながりがある人ではなく、きっとこの日本の長い歴史のどこかで私の血とつながっている、50年以上前に散った日本人たちだったのだと思う。
私が生まれた1965年。それより20年も前に私は大切な仲間を失っていたのだ。

 私に宿された"狂気"は、正確には、私を含む私の周りに宿された"狂気"であり、何か危機的な状況に陥った時、いつも得体の知れない"狂気"の力に護られているような気がする。

 かつて傷ついた日本人達を救ってくれたのは、名もなきミャンマーの農民達だった。戦争末期、日本と共にイギリスを相手に戦ったミャンマー(ビルマ)政府は、敗戦国にならず自国の独立を勝ち取るために敗色濃厚になった日本に対して逆に宣戦布告し、戦闘状態に突入する。イギリス軍に追われ、ミャンマー軍にも追われた日本人達を救ってくれたのは、誰だったのか?
それは、名もなき農家や市井のミャンマー人たちだったのだ。
 だから、私は学んだのだ。
 本当の最後の砦、日本の最後の安全装置は、武器ではなく現地の市井の人々に信頼されること、大切に思ってもらえていることなのだと。
 それは日本政府がしている援助では決して得ることができない、人と人の時間をかけたつながりから生み出された信頼や恩義のみが可能にする安全弁だと思う。

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 中村哲先生がいたことは、日本にとっては幸いである。
 アフガニスタンで日本人に何かあっても、多くのアフガニスタン人がその人を助けてくれるだろう。
 そして、ミャンマーでは、もし何かあったら私が25年かけて医療を施してきたその人たちやその家族が、75年前のようにあなたを助けてくれるはずだ。

 75年以上前に生まれたその戦争の"狂気"を私は受け取ってしまった。
そしてその"狂気"は私をこの道に縛り付け決して死ぬまで離してはくれないだろう。
 でも、それが私の人生ならば迷わず行くしかない。
 その先に何があり、どんな未来になっているのか?
 行けば分かる、行かねば分からぬ。

 これからどんな時代になろうとも、私はこれからもきっと戦争から生み出されたその"狂気"に身を包みながら生きていくと思う。
 私が倒れた時、その歩いてきた道には少しだけ平和という状態の花が咲いているのだと信じながら。
 
 この道こそが私の信じる平和の行使だと思っている。

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by japanheart | 2019-12-20 00:13 | 戦争 | Comments(0)

ビルマ戦線の話

ビルマ戦線の話

 先週、東京広尾でスタッフミーティングを1年ぶりに開いた。約70名が参加。
 毎年、私が知り合った人たちの中で、何となく今年はこの人の話をスタッフに聞かせてあげたいと思う方を選んで講演をしていただいている。
 基準は特にないのだが、私よりかなり先輩が多い。
 何でか決して私が知ることができない時代の、その方たちの苦労を私自身が知りたいからだと思う。

 そして今年は、
 第二次世界大戦のビルマ戦線に岡山県から参加された方にお願いをした。
 その方は
 「一兵士の戦中体験  ビルマ戦線 生死の境       修学社」
 という本を出しておられる方。

 
 さまざまな話を直接お聞きして、本当に叶わないなと思う。毎年の事ながら。
 一体、何なのだろうか?
 望むと望まざるに拘わらず、人はそういう運命にほうりだされるのかもしれない。
 一人ひとりが脱落して死に行く様が、悲しかった。
 岡山県からは800名程度戦線に参加し、生き残ったのが200名強。
 どうだろうか?
 この方は戦争はいけない、平和は尊い。と何度もおっしゃったが、死んでいった仲間たちのそのときの状況と生き残った自分のその後を比べておられたようだ。
 
 ビルマ戦線は今忘れ去られようとしている。それはそれで時代の流れかもしれない。
 私はこだわっているが、多くの人たちは知識として記憶にとどめる程度だろうか?
 初めてこの地を訪れたのはちょうど終戦50年目のときだった。
 多くの現地の年寄りたちが私に本当の生の声や思いを聞かせてくれた。
 もちろんその後、日本のビルマ戦線体験者やその家族の人たちの声も聞いてきた。

 あるとき、日本で講演をしたあと、私はいつもビルマ戦線の話しを入れるので、ある人が私にビルマ戦線で多くの犠牲を出したインパール作戦は誰々の完全な作戦ミス、読み違いだったんだ、と言われた。
 まあ、こんな感じだ。
 
 私は戦線の話は片手間にするが、する内容のほとんどは日本人の死に様と思い、現地ビルマ人の思い、その家族の思い。
 事柄だけには全く興味がない。そこには体温がないから。
 同じ日本人なら、圧倒的同情心を持って、知識を仕入れなければならない。
 でなければ、戦争の真の悲しみなど学べるわけがない。

 それでも限界があると思っている。
 大切な家族の一員を病で失った人たちの悲しみは、どんなに深く医師としてかかわっても、同じ次元では悲しめはしないのと同じだ。
 しかし、せめてそれくらいの悲しみをもてない医師に、患者たちは、その家族は医療をしてほしいのだろうか?
 だれもが、思うことだ。
 本当に心豊かな医師や看護師に自分や家族を見てほしい。
 同じじゃないかな?
 
私は、昔、死ななくてもいいのに不幸にも戦争に行って死んだ日本の若い人たちの悲しみを拾ってあげたいのだ。
by japanheart | 2009-04-26 22:00 | 戦争 | Comments(2)

語りたいこと

語りたいこと

 私には今日は語っておきたいことがある。

 昨日の テレビ放送の中での一場面。
 私がミャンマーで活動し続ける理由について、太平洋戦争の時に迷惑をかけ、お詫びの気持ちでやっているという言葉が入っていたが、それは今の私の気持の正しい表現ではない。

 私がなぜミャンマーでやっているのか。
 それはミャンマー人に「感謝」しているからだ。決して罪滅ぼしのつもりではない。
 戦争当時、多くの日本人が傷つき倒れた時、飢えて死にかけた時、名もなきミャンマー人たちは彼らを助け、癒してくれたのだ。
 食料のなかった焼け野原の日本にお米を送ってくれたのだ。

 アジアの他の国は少しでも多くの戦争の賠償額を日本から取ろうと決して進んで賠償を決めなかったのに、率先して賠償を決め、それを基準に他の国々が決めるようにしてくれたのだ。

 いつも言うように、国と国にも恩がある。
 それを忘れてはいけない。
 アメリカのようにさんざん痛い目にあわせてから、少しの飴をくれたのではないのだ。

 今、日本はそれを返す時期なのだと思う。
by japanheart | 2009-01-19 23:30 | 戦争 | Comments(0)

風になって

風になって

 私にはどうしてもわからないことがある。
 
 ある僧侶の人が、数年前にはやった歌で、死んでも自分は墓にはいない、という歌がはやっていることを嘆いていた。
 にほんの宗教的には、やはり死んだ人は墓に入っていなくてはならないのだろう。
 墓の前で、お経を上げる意味すら薄れてしまう。

 そこに遺骨があり、静かに眠っている。

 だから風になってあちらこちらにいていることは不自然なのかもしれない。

 そう考えている僧侶の方も多いのかもしれない。


 63年前の戦争の遺骨がまだ100万も帰っていない。
 ほとんど誰も集めていない。
 僧侶の人たちも、中には現地にいって、お経を上げてくれる人はいる。
 しかし、遺骨は帰らない。
 毎年、お盆には僧の方たちは、うちにやってきてお経を上げるにもかかわらず、現地には毎年入ってはくれない。ほとんど一度か二度で終わり。

 本当は、こういう立場の人が、その遺骨を日本に持って帰るために先頭にたたねばならないのではあるまいか。
 すべての遺骨を、日本の僧侶たちが、取り返せれば、日本の仏教は蘇る。
 多くの若者が、参加することだろう。
 しかし、誰かそれを何年もやっている僧たちを知っている人はいるか?
 どうせ、誰も連れて帰る気がないのならば、せめて風になって日本に帰ってきたほうがいいではないか。

 ミャンマーには10万以上の遺骨が放置されている。
 日本政府は、相変わらず何もしてはくれないだろう。
 役人たちは、安全な場所で変わらず、生活を謳歌していることだろう。
 恩人たちの、顔を踏みつけながら。

 私の使命のひとつは、それを伝え、自らもそれを行なうことなのだと最近気づいたのだ。
by japanheart | 2008-09-16 02:51 | 戦争 | Comments(0)

過去と向かい合う

過去と向かい合う

 最近、いろんなことが上手くいかない。
 どうして、こんな風になってしまうのだろうと考えていた。

 ゆっくり時間をかけて色々整理していた。
 さまざまなことに想いをめぐらし、少しずつではあるが自分なりに、その答えを見つけ出していった。
 その答えはこれから、行動で示してゆきたい。

 その中で、特に最近私が意識したことがある。
 なぜ、自分が今もミャンマーに留まり、やっているのか。
 というオリジンをもう一度、再確認した。これが今でもその土地で私がやり続けている根に当たる部分であるからだ。
 
 「ミャンマー、それはわずか60年数年前、19万人の日本人が死に、多くの日本人がミャンマー人によって助けられた場所」

 ということに尽きる。

 少しうがって聞こえるかもしれないが、あの戦争の、多くのミャンマーでの悲劇と日本という国の未来のために散っていった日本人達の死を、語り伝え、日本やアジアに意味ある未来を生み出すことが出来る使命を、受け取った人間が、私なのかもしれない。と本気で思っている。
インパールの悲劇も、悲しい人々の物語も、今なを国から見捨てられたままになっている多くの遺骨の物語も私が伝えてゆく。
私が生きている限り、歴史は生き続ける。
私がちょうど戦後50年目にあの土地に降り立ったのも決して偶然ではないだろう。

 そして同じ力で未来を生み出して行きたい。



 
 
by japanheart | 2008-09-07 00:56 | 戦争 | Comments(0)

歴史を受け継ぐ

歴史を受け継ぐ

先日ある方とお会いした。
この国の独立に深く関わり、今でも健在の日本の方だ。
(この国やインドの英国からの独立は日本の関係なくしてはありえなかったのだ)
この方とは過去、何度かお会いし、当時の様々な話を聞かしていただいた。
このような方の話は聞かねばならない。
そして大切なものを受け継がねばならない。

もう余り時間がない。
日本人ひとり一人が歴史を受け継ぎ、次に繋げていく使命がある。

誰しもそんな話を聞けば、今、生きてここにあることに感謝せずにはいられないだろう。今の時間を実感せずにはいられないだろうと思う。
by japanheart | 2007-02-18 00:00 | 戦争 | Comments(0)

私たちの時間

戦争の体験

少し前、日本である方にあった。86歳。
61年前の世界大戦のフィリピン戦線で生き残られ、戦後財界で活躍された方だ。
戦争当時の話を聞いた。
感想を一言で言うと、我々はまだまだ本気で生きているとはいえないということだ。
バターン攻略線の話を聞いた。3次総攻撃までの話を聞き、1万人規模の人々が、爆音の続く中、次々と爆死していく様は聞いているだけで私たちの存在を揺さぶられているような気がした。あっという間に万人単位の人の死がおこる。
一瞬で、全ての人生が吹っ飛ぶ。

私はもっと自分がしっかり生きねばならないと思った。
まだまだだとも思った。
何かに甘えていたのではないかと感じた。

60年以上前の日本からのメッセーだと感じだ。
これからの人生に意味のある出会いだった。
by japanheart | 2006-10-08 10:40 | 戦争 | Comments(0)

61年前の記憶

61年前の記憶

今から10年ほど前に、私はここから150キロほど離れたメッティーラという町で医療活動を続けていました。
その町はかつて日本とイギリスの間で激戦が戦われた町で多くの同胞の英霊も眠っている町でした。そこで活動を続けていくなかで、あるとき老人がこれを日本人に返してくれないかと、一枚の古びた写真を私に託けました。
丁度、戦後50年目の年。

どうせ見つけることは出来ないと思いつつも、それを日本にただ持って帰り手元に置いているうち、引越しで押入れの奥へ。
それが、昨年出てきて、今更ながらこの写真の家族に戻らないかと思うようになり、ある人づてに頼んでいます。九州の部隊も多いということで西日本新聞が掲載してくれたようでした。
今はまだ、見つかっていないようですが、、、。

古い記憶、我々日本人の古い記憶のような一枚の写真。
そこから、貧しくとも美しかったかつての日本の姿を私は感じることができるのです。

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by japanheart | 2006-08-18 21:31 | 戦争 | Comments(0)
今、私がいる場所、ミャンマー中部サガイン。ここは60年前第二次世界大戦の時に、日本人達が住んだ町です。イギリスと戦い、多くの傷ついた日本人達がこの地のビルマ人達に助けられました。この町サガインはあれから60年、その姿を殆ど変えることなくそこにあります。
昔のままの町、川、人々、、、、。タイムスリップしたような場所です。
この地で私は、日々、医療をしています。
写真はこのサガインの高台から撮った町の風景です。
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by japanheart | 2005-08-11 18:51 | 戦争