特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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カテゴリ:子どものこと( 51 )

 ジャパンハートの事業のひとつに「smile smile project」というものがある。
このプロジェクトは、小児ガンの子どもたちを、好きなときに好きな場所へ連れていく!というのがコンセプトの中心となっている。
あるときはディズニーランド、あるときはキッザニア、そしてあるときはピクニック。
そこに医師や看護師が同行し、安心・安全を担保していくのが特徴だ。

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毎年毎年、たくさんの子どもたちへたくさんの旅行をプレゼントしてきた。
中には、もう限界ギリギリの子どもたちもいた。残念ながらその日を待たずして亡くなってしまった子どもたちも少なくはない。

 親は我が子の事を愛おしく思い、できる限り何でも、あらん限りの事をしてあげたいと思う。
そしてまた他人であっても、子どもたちのその姿を実際に一目見れば、何かしら力になってあげたいと思う。


 ある女子高生は有名なB’zの大ファン。
ファンクラブにも入り、コンサートのチケットも手に入れる。
しかし、、、。
状態が思わしくなく、もう起き上がることもできない。
そんな自分、そんな状況、そして手元に虚しく残るコンサートチケット。
やけになる。
大切な人生の時間なのに、やけになり過ごさなければならない。

でも、彼女の主治医はあきらめなかった。
ジャパンハートに連絡をしたのだ。
そして主治医自らもこの子に付き添い、半ば強引に手押しベッドのままコンサート会場へ入った。
とうとう、B’zのコンサートに参加するというこの子の夢の時間を実現したのだ。
その子は、考えられないくらいにコンサート中を元気に過ごせた。

命をかけてでも行きたかったそのコンサート。

 もしかしたら、、、。
それを実現した誰もが、その思いを抱えていたことだろう。

それをするべきだったか?やらざるべきだったか?
もしもの事態が発生していたらどうだったのか?

正解は誰にもわからない。
ただ、神様はそれを許してくれたようだった。


 もう一人、この子も高校生の男の子。
新垣結衣さんの大ファン。
しかし、頭にできた小児ガンが再発。治療はかなり厳しいらしい。
せめて、この子の憧れの人であり、そして会うことが夢の新垣結衣さんに会えないのか?会わせてあげられないのか?
と、親がジャパンハートへ連絡をしてきた。

 もしも私が医師ではない一人の若者だったとしたら、その子に会う勇気があるかな?
あなたに会うのが夢でしたと言われたら、どんな表情をしたらいいのだろう?

ましてや、小児ガンの治療をしている人は日本に15000人以上いて、そのうち何人もの人に会いたいと言われたらどうするのだろう?
一人目の子には会うだろうか?
でも、二人目、三人目の子には同じチャンスはあるのだろうか?

再現できないような事をしてもいいのだろうか?

それをすべきか、やらざるべきか?

どちらも正解ではなく、誤りでもないだろう。


 今、この件は上手く進んでいない。
でも、スタッフ達は必死にこの子の夢を叶えようと動いている。
それを止めるような野暮な事は誰もしない。
どうすべきか?

理屈は確かにある。
人は頭で考え判断する。

しかし私たちは感情で動く。
これこそが、本来の人の姿なのだろう。


だから、できてもできなくてもただこの子の為に動きたいならば動く。
この子のために、せめて小さな奇跡が起こることを願う。

「この世は捨てたものじゃない」と、この子にも思ってもらいたい。
そして私たちも、そう思って生きていきたいから。







by japanheart | 2018-10-02 04:34 | 子どものこと | Comments(1)

 カンボジアに小児医療センターを開設し、入院患者を受け入れはじめて1ヶ月が過ぎようとしている。

 

この病院をつくった大切な目的のひとつは、小児がんを治療することだ。


日本では既に8割程度も救命することが出来る小児がんの種類でも、カンボジアで治療を受けることが出来ている子どもたちは、おそらく10%もいないだろう。また金銭的な理由や医療設備の面から見ても、たとえ治療にこぎつけたとしても、最後まで治療を完遂できる子どもたちはほとんどいない。つまりそのほとんどは亡くなっているものと思われる。

 

 現在、私たちが特に力を入れているのは固形腫瘍というタイプの悪性腫瘍だ。

このターゲットとする固形の悪性腫瘍は、腎臓や肝臓、神経や筋肉などから発生する悪性腫瘍もので、通常は血液から発生する白血病よりも弱めの化学療法を行うことが多い。だから、感染症に対する過度な設備投資も一般的には不要になる。

ただし固形腫瘍は、薬剤治療だけがメインの白血病と違い外科的手術も必要になる。

しばらくの間はカンボジア、ミャンマー、ラオスのこのような腫瘍の子どもたちをこの小児医療センターに受け入れて、力の及ぶ限り助けていきたいと思っている。


小児悪性腫瘍で一番頻度の高い白血病は、無菌室や骨髄移植、造血製剤など様々な設備面で現在のカンボジアの状況ではハードルが高く、次のステップにターゲットとするしかない。


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 長い間、たくさんの子どもたちの難病と関わってきて、なんともやりきれないような気持ちになることもある。

そんな中、この9月に手術予定である一人の少女の話をしようと思う。


 その少女は8歳。幼い頃に右上腕の筋肉から腫瘍が発生した。そしてそれは悪性だった。

少女は、不十分ながら小児のがんを治療してきた(しかしほとんどは成人のがん治療しかしていない)カンボジア最大の国立病院であるカルメット病院で治療し、元気に小学校にも通っていた。

ところが昨年の12月、再び悪夢が襲った。そして入院。再治療を開始したが、、、。


 お父さんはクーラーの修理屋、お母さんはホテルで働いていた。家族は少女を含め子ども4人の計6人家族。母は闘病に付き添うために仕事を辞め、父親もこの2ヶ月仕事をしていないという。

一体生活はどうなっているのだろうか?

まだ幼い弟は、この間、おばあちゃんに預けられている。

そして6ヶ月、治療を続けてきたが、金銭も尽きてしまう。

 

その国立病院の唯一のがん専門医から電話がかかり、家族がジャパンハートの病院に行きたいといっているという。既に治療もあまり効果が見込めなくなっていたのかもしれない。

しかしまだ設備的に準備ができない状況の中、再発のこのタイプの肉腫は難治性で移植を含む高度な治療となり、気の毒ではあるが難しい…と、ジャパンハートの小児医療センター小児がん専門医の嘉数医師と相談していた。 


ところが、患者が返事もまだしていないうちに勝手に押しかけてきてしまった。


それには理由があった。


少女は激しい痛みに苦しんでいたのだ。

その痛みのためにずっと泣き叫んでいる。

もうそれが長い間、続いていたようだ。

既に、この8歳の小さな身体に大人の使う数倍の量のモルヒネが投与されている。

しかし痛みはコントロールできていない。

泣き叫ぶ少女に寄り添いながら、両親は助けてほしいと拝んでいる。

わが子をこの痛みから救ってほしいと、拝んでいる。

痛みがなくなるならば、この腕を落としてほしいとせがまれる。


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私も嘉数医師もこの家族を帰すわけにはいかなかった。


もちろん完治が厳しいことはお互いに多分理解している。

でも、やらないわけにはいかないだろう。 

せめて、痛みを止めてあげられないか?

 

 命が助かる可能性が低いとき、何もしないという効率的なものが医療なら、私はとうに医者を辞めていただろう。

医療は、その人の人生を少しでもよくする為にあるのであって、決して数量で割り切れるものではない。

 

私はいつもそうやって、一つ一つの命、一人一人の人生と向かい合ってきた。

 

たとえ命が助けられなくとも、この子から痛みを取り除いてあげることができれば、それもまた、立派な医療のひとつのかたちなのだ。

 その日から、嘉数医師によって抗がん剤治療が再開される。

それが落ち着いた頃、たった8歳の、この子の大きく腫れ上がった右腕を切り落とす手術をする。


誰もしたくないそんな手術を、私はやらねばならない。


2週間後、私が再びカンボジアを訪れたとき、少女は部屋で両親と笑っていた。

抗がん剤が効き、痛みから解放されたのだ。 

 

家族で一緒にトランプをしていた。

その腫れ上がった腕の先、彼女の指にはトランプが何枚も握り締めてられていた。


 少女は先日外泊した際、お家でお誕生日会をしたそうだ。

本来彼女の誕生日は11月なのに「なんで?」と聞いたら、「腕が上がるうちに、両手でケーキを持ちたかった」と。

それは彼女自らの提案だったそうだ。


 もうすぐその日がやってくる。


この腕を落とすのが私の役目。

医者という職業は本当に幸せなのだろうか?



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カンボジアの小児医療センターに興味のある人はジャパンハートのホームページをのぞいてみてほしい。






by japanheart | 2018-08-31 02:50 | 子どものこと | Comments(1)

 うちの長男が中学受験をするらしい。そのためさまざまな事柄を、親が書かなければならない“申請書”の提出を求められているらしい。

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図々しくも長男が、日ごろの在り方の反省もせずに、それを書いてほしいとお願いしてきたので

「書くのは嫌だ!」

と言ったら

「それでも親か?」

みたいなことを言うので、1時間ほど説教をしておいた。

「お前は落ちたほうがいいと思っている」

と言うと、さらに

「それでも親か?」を通り越して「それでも人間か!」

のような表情をするので、大きく頷いておいた。



 そんな目先の利益しか考えていない人たちに、今日は是非に伝えておきたいことがある。

それは物事は必ず長期的視点で利益を目指せということだ。


目先の小さな利益や欲望は、長期的には損失を生じることのほうが多い。一時の大きな利益は、その後の人生や会社の運命を、全く不幸にしてしまうことなどざらにある。

人生ここが勝負というときに、100万円を惜しむ人は100万円に泣き、さらに大切な機会を失う。

目先の損得に飛びつかず、100万円を投資し新たな未来や機会を生み出す。すなわち可能性を生み出す。

自分のね。


極端な話、人生は小さなベストの合計が全体のベストと一致しない。かなり目減りすると思っておいたほうがいい。どこかの球団のようにスターばかり集めたからといって、必ずしも勝つわけではないということだ。


最善x最善x最善、、、、、、=最善

ではない、ということ。


パズルのように、雄ネジと雌ネジのように、上手く役割をかみ合わせた補強や協力、共生関係がはたらくと、より強固なチェーンを生みだす。

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もっと言うと、ある最善は別の最善を消費する、減力する。

例えば、年間100試合に出場することによって最高の成績を残せる人が、他のベスト選手に押し出されて30試合しか出場するチャンスをもらえなければ、その活躍はかなり目減りするということだ。


 私の考えとして、何事も全力で取り組める人間はその時点で救われているといえる。

試験に落ちようが、就職できなかろうが、それはその人にとってまずベストの結果を受け取っていると思っていい。もちろん、長期的な。

本気でやったけど医者になれなかったというのは、私から見ると“医者になる必要がなかった”と考えられる。

ちょっとした努力で結果を手に入れるよりは、一生懸命努力して失敗するほうが、得るものははるかに多いし、失うものははるかに少ない。

適当にやって結果を手に入れたということは、もともと低い跳び箱を飛んでいたに過ぎない。時間の無駄使いだ。


長期的な視点でー、

といっても未来のことは見えないし分からない。もちろん保証などどこにもない。

もしも疑うのなら、目先の利益に飛びついていればいい。

信じられないのは私の意見ではなく、自分の未来だと自覚をするのだ。


うちの子も本気で毎日それに向き合っていたら、黙って申請書くらい書いたんだけど。


とにかく、一旦立ち止まって、

本当にそれが必要なのか?

それを本当に求めているのか?

長い目で見たとき、自分はこのことによってどうなるのか?

本当はどうなりたいのか?

しっかりと自分に聞いてみたほうがいい。

胸に手を当てて自分に聞くんだ。

私の人生は本当にそれを求めているのか?と。


 60分間の我が子への話の中で私が伝えたことは、“親は本質的に子どもに伝えることは一つしかない”ということ。

それは、この世の真理の姿をわが身を通して子に見せること。


情けは人の為ならず。

自分と同じように人を大切にする人は人から大切にされる。

世の中を幸せにした人が幸せになれる。

奪う者は結局、損をする。

などなど、、。


これらのことを話し続けた。


生きてる時代も違えば、影響を受けたものも違い、未来も全く違う。

それを親たちは自分が未来でも見通しているかのごとく、子どもを自分の価値観に縛り付けようとする。

10年後のことも全く分からないくせに、こうすれば将来安全だし安心だと宣言する。

そして子も、それに従うことで安心する。

そのときは。


子どもの生きていく時代のことは親には分からないのだから、子どもの感性に任せる。

それが正解ではないのか?

そう子どもに伝えた。

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「お前の人生は今から自分で決めろ。親に従うことは正解ではないと思う。」

たった12歳の小学生の子どもに、そう伝えた。

親がそうしてほしいから受験をしたり、公務員になったり。

親想いのいい子だけど、本当にそれでいいのか?

親がいなくなった後も人生永い間続くぞ?!


本当に受験したいのか?

それはなぜ?

本当に公務員になりたいのか?

それはなぜ?


それを自分の心に手を当てて聞いてみて。

それで心がそういうならば、もちろん損得はなしで、そのまま進めばいいと思う。

しかし、少しでもわだかまりがあるのなら、一旦止まってみるべし。

期限までにそれが解決されないならば、それはやはり進むべき道ではないと思う。



 器の小さい人間は、その小さな器に人を無理やり押し込もうとする。

気をつけないと。

もちろん、自戒もこめてね。

大体、持ってる時間それ自体が、可能性の塊みたいなものでしょ。


私には残りせいぜい30年の時間しかないけれど、AI時代の長男には残り90年の時間がある。

時間は三倍だけど、それっていったい何倍の可能性の差なんだろう?





by japanheart | 2017-12-26 19:27 | 子どものこと | Comments(1)

強い人間は弱いものいじめはしないのか?


「本当に強い人間は弱いものをいじめない。」は本当か?

この事について先日、小学生の息子たちに話をした。


私がまだ小学生の頃、同じクラスに全く話をしない女の子がいた。本当にほとんど声を聞いたことがなかった。

たまに先生が無理やり、朗読や質問に答えさせるのだが、それでも蚊の鳴くような声しか出さない子どもだった。そんな調子だから、ある種の子どもたちからは、格好のいじめの対象になっていた。

その女の子がある日、本当に偶然、私が公園で遊んだ帰り道、その子がお父さんと手をつないで歩いている場面に出くわした。その時、初めてその子の声がそんな声なのだと聞いてしまった。

お父さんと本当に楽しそうに、大きな声ではきはきと笑いながら話していたのだ。

なんともいえない気分になった。割り切れないようなそんな感情だった。


最近、特に50歳を過ぎた頃から、ふとした光景の中に愛おしさを感じるようになった。


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例えば、私が医療支援活動を行うミャンマーでは深夜まで手術が続くが、ある人が自分の手術を控え室で一人で待っている。誰もいないその部屋で、ただ下を向いて静かに待っている光景をふと見る。

その時、とても愛おしくなり抱きしめたくなる。


手術を受けた子どもが次の日におもちゃで遊んでいるのを見た時も、汗水たらして路肩で働いている人を見たときも、同じような気持ちになる。

人が焦って必死になっているのを見たときも、緊張で手が震えている人を見たときも、同じような気持ちになるのだ。




何でそんな気持ちになるのか?



多分、その人の人生そのものを、なんとなく感じとれるようになったのではないか。

その人の部分的なものではなく、その人を全体として感じとるようになったのではないか。

ある光景を、その中心に存在するある人物だけでなく、その人物を中心にした全体的な構図の中でその光景を理解できるようになったのではないか。

と思っている。

だから、抱きしめたくなってしまうのは、きっとその人物の全体性に対して愛おしくなってしまうからだろう。


ところで、これも最近なんだが、映画やドラマでいじめのシーンが出てくるといたたまれなくなるのだ。

中学生が、ある子どもを直接ではなくても机や椅子をいじめの意味で蹴っているシーンですら、みていられない。

何でこんなことをするのか理解できない?

意味がわからない??のだ。

しかもそれは生理的なレベルで既に受け付けなくなっている。

昔はそんなことは全然なかった。

でも最近どうもだめなのだ。


それでふと、思ったのだ。

人間、本当に人としての力がついてくると、こんな感じになってしまうのだと。

すなわち、人間として強くなるとこうなっていくのだと。

だから、「本当に強い人間は弱いものをいじめない。」は正確には、

「本当に強い人間は弱いものを(生理的に)いじめたくなくなる。(生理的に)いじめることができなくなる。」ということなのだ。

 強いから「いじめない」のではなく、強くなると「いじめることができなくなる」ということ。



これが、広がると社会的弱者や不正義に対して、生理的に我慢できなくなってしまうのだと思う。


今の私が、小学校の頃の教師であったなら、きっとあの少女はいじめの対象にならなかったと思う。

なぜならば、その子のことをめっちゃ褒めるから。


だって大きな声も出せないのに、健気にちゃんと学校に来ていたんだ。毎日毎日。

いじめられても、ほとんど休まず学校へやってきていた。

それだけでもなんて愛おしい子どもで、何とがんばっているのだろうと、涙が出るほど感激してしまう。

心の中で何度も抱きしめていることだろう。

そんな子どものことを人生かけて守るよ、やっぱり。

教師なんだから。


本当はお父さんと話していたときのように大きな声で話し、笑えるはずなのに。

誰が声と笑いを奪ったのだ?


そう思うと、やっぱり教師のせいだと思う。

音読をその子に当ててる場合じゃない。

教師が心から信頼し、大切にしているものを子どもたちの誰も傷つけることはできはしない。


息子たちに言ったんだ。

「人間いじめをしている間、人に意地悪をしたいと思っている間は、ちっちゃい弱い人間だということ。そういう人間は逆にいじめの対象にされるかもしれないよ。人間強くなってきたら、いじめに興味がなくなりはじめる。もっと強くなってきたら関係なくてもいじめを見たらなぜか自分が傷つくんだ。そういう本当に強い人間になってもらえるかな?」






by japanheart | 2017-02-28 03:59 | 子どものこと | Comments(2)

アジアの小児がんの子どもたちを救おうと思う


 この時期にカンボジアに病院を設立する。

 

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 20年以上の間、アジアの途上国で医療を行ってきて確実に人々を取り巻く疾病状況にも変化を実感する。

 現在はラオスと中国の国境の山岳で医療をしていても、ミャンマーの僻地にいても、カンボジアの田舎町で医療をしていても、その町で暮らす人々の多くはみな市販のミネラルウオーターを飲んでいる。

 多くの人々はインスタントラーメンを当たり前に食べている。

 20年以上前、アジア最貧国といわれた時代のミャンマーは、川の水や池の水を簡単な陶器でろ過して飲んでいる人々が多かった。最近ではあまり見かけなくなってしまったが。


 日本人の多くはいまだに勘違いをしているかもしれないが、下痢で命を落とす子どもたちは今やそう多くはないのだ。

 どこのも町にも抗生物質は多くの種類そろえられており、いつでもそう高くない値段で購入できる。

 もちろん点滴も受けることが大抵はできるのだ。

 これらの変化は、アジア全体の経済状況の底上げが大きく影響している。

 その中でも中国の経済成長は思わぬところで、多くの人々の命をあくまで意図せず、結果的にではあるが救っている原因の最たるものだと思う。


 もし国際機関やNGOをはじめ多くの人々が相変わらず30年前のコンセプトでものを考え同じ行動を繰り返しているとしたらその多くの努力は結果には反映されておらず無駄になっているかもしれない。


 そのような社会的変化の中で、私たちもメインで対応するべき疾患を変えるべき時期が来たのだ。

下痢や急性の呼吸器疾患だけでなく、多くの子どもたちが命を落としている疾患とは何なのだろう?


 ひとつは、先天性の心疾患。生まれつきの心臓奇形がある。これは100人に1人の割合で生まれてきており、形態の異常を手術等で修正しなければ多くの子どもたちが命を落とすことになる。

 おそらく、ミャンマーだけで1年に1万に以上の心疾患の子どもが産まれ、多くは治療できずに死んでいく現状である。出生率からするとカンボジアは3000人以上、ラオスは1000人以上生まれていると思う。

 ミャンマーではなんと子どもの心臓外科医はたった一人も存在しないのだ。

それが何を意味するかは誰でも理解できると思う。


 長年見過ごしてきたこの事態に私はとうとう昨年から手を付け始めたのだ。

いろいろ動いて結果的には、東京女子医大の小児循環器科と国立循環器病センターの小児循環器科の日本を代表する人々が協力をしてくれることになり、産経新聞社の基金を使い、多くの医療者を現地に派遣、現地の医療者を日本に招聘して勉強してもらいつつ時間をたっぷりかけて子どもの心臓病の医療者たちを育成することになったのだ。ジャパンハートの役目はそれら全ての現地での動きをコーディネートすることになり、この4者で時間をかけて子どもたちのいのちを救っていく活動が昨年から始まった。


 実は、もうひとつ私が長年見過ごしてきた病態がある。

 それは小児がんだ。

 その多くは白血病であろうと思われる。

 日本では年間2000~3000人の小児がんが発生するといわれている。

 そして白血病の場合は今では多くの子どもがサバイブできる状態になっている。

 ところが、私たちが活動するミャンマー・ラオス・カンボジアでは昔の日本のようにほぼ全滅している可能性が高い。

 カンボジア、ラオスではおそらく十分な抗がん剤すら揃っていないかもしれない。


 しかし、時代はそういう国々でも、日本のように多くの子どもたちが救えなくても、日本のたとえ半分の割合の子どもたちでも救わなければならない時代になったと感じている。

 日本のような高額な医療をできなくても、昔から使っている今では薬価が下がった薬を使った治療であっても、半分くらいの子供たちが救えるのではないかと私は希望を持っているのだ。


 日本政府は多くのお金を日系企業にサポートを与え現地の富裕層相手の病院建設のために私たちの税金から拠出している。それはもちろん無策で行っているわけではない。日本の製品を世界に販売していくためのサポートをしているということだろう。

 しかし、その税金はおそらく現地の貧困層の人々には届かないだろう。


 昔、ミャンマーの医療機器メーカーの人が私にこう言ったことがある。

「金持ちは私立病院に行き治療を受ける。その次にお金を持っている人々は政府の病院に入院し治療を受ける。その人たちよりお金がない人は政府の病院に入院はするが、何もしてもらえずそのまま亡くなる。本当の貧乏人はどこへもいけずに静かに村で死んでいる。」


 日本の良識ある国民は自分の税金がどちらに使われたいのか、もう一度、自問してもらいたい。

 貧困層の病院なのか?

 富裕層の病院なのか?

 私はせめてその10分の1でもいいから、もう少し貧困層にも届く税金の使い方を自国の政府にはしてほしいと、一国民として純粋に思うのだ。


 しかし、嘆いていても始まらない。

 誰かがこのような貧困層の人々でも医療が受けれる病院をつくらなければならない。

 だから自分がはじめようと思ったのだ。

 誰かに期待していても何も始まらないから。


 スタートが1日遅れれば何人もの子どもたちの命が失われるかもしれない。

 だから、そこに1日でも早くたどり着けるようにお金も十分ないのに建設をスタートさせてしまった。

 

 その病院がいよいよこの6月あたりからスタートする。


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 アセアンは昨年末経済統合され、ユーロのようになっていくだろう。

 既に医療者の免許の統合に向けて進んでいる。

 この病院に各国の若手の医療者たちを集め、日本の医療者が指導・教育できる仕組みをつくる。

 各国からバスや格安の航空機を使いやってきた病気の子どもたちを各国の医師や看護師たちと一緒に治療する。


 まずは第一期の段階は周産期の治療から始める。安全なお産と新生児へ対応になると思う。

 そして第三期を迎えた段階で、小児がんの子どもたちを受け入れ始める。


 それが早くなるか遅れるか?

 私たちのファンドレージングの能力、そして医療者をはじめとする日本人たちの力を私たちがどれくらい集めれるかにかかっている。


 今はボードにのって静かに時代の大きな波を待っている。 


 PS:

    先日、ラオスで5歳の男の子が白血病で静かに死んだ。

    お金がないから、当たり前にタイに治療にも行けなかった。

    父親は虫の息になったわが子を見て「タイに連れて行きたい」と言った。

    私たちは無力だった。

    ただ病院のベッドに寝かせておくことしかできなかった。昔の日本の医者のように。

    

    この光景が私たちが活動する国々で毎日、毎日、何十回も繰り返されている。

    



by japanheart | 2016-02-29 01:35 | 子どものこと | Comments(2)
人間には「拘束(或いは、緊張)と開放」という時間のバランスが必要だと思う。
そして必ず順番も、「緊張 ⇒ 開放」の順番だと思っている。
これは誰でも経験的に、直感的に理解できると思う。

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人は弱さゆえ緊張を嫌い、開放を望む。
これが最初から開放の状態を持ち込むと惰性や怠惰という状態になってしまう。

緊張とは、ある場面では抑圧であり、弾圧であり、強制である。

たとえば、
飢餓があれば、食の有り難さを知る。
極度の弾圧、抑圧があれば、本当の自由を知ることができる。

有名な「夜と霧」の著者は第二次世界大戦時ナチスの死と隣り合わせのアウシュビッツ収容所で本当の自由とは何かということに気付いたと回想している。

肉体もそのようにできている。
高く、あるいは遠くへ飛びたければ、屈曲という肉体的緊張をまず必要とし、その後、その緊張を進展という開放状態にもっていかなければならない。

何の話かというと、実は今回は教育の話をしたいのだ。

私は子育てであれ、学校教育であれ、まずはある種の拘束状態を子どもに与えなければならないと思っている。
特に初等教育は、まず社会のルールを少しづつ教えていく時期なのだが、この時期にある種の強制が必要になる。
算数をする。国語をする。音楽をする。子どもたちが嫌がろうと、まずは強制していかなければならない。その強制は、極度であれば折れ曲がりすぎて膝が伸びなければ飛べないように、子どもにとって適度なもの、もっというと飛び上がることができるギリギリのところまでいけると効果は最大になる。ここが教師の能力の問題になってくる。上手く誘導する教師はいい教師ということだ。

例えば子どもに、算数を過度に強制すると、子どもは算数自体を拒否するようになる。だめ教師はこれをしてしまう。

さらに難しいのは、中学校の教育だ。ここまで義務になっているから、必ず強制されることになる。
中学の各教科は、それぞれにいろいろな学問の基礎を学ぶのでどれも一度は強制をしたほうがいい。向いていないことが判明したら、高校にいかないという選択肢も与えられている。
しかし、もし一度も強制しなければおそらく、多くの子どもたちはその課題から逃れ、その学問的素養から生まれる様々な利益を、生涯にわたって失うことになるだろう。
だから強制的にそれを一度は学ばせる必要がある。

現在の日本の問題点は、勉強が嫌になった子どもに、高等学校で教育を受けることを社会が暗黙に強制しているところにある。その目的がいい大学に入るとか、いい就職をするためとかいうのだから情けない。

学問が過度の強制になっていいことは一つもない。

そのような子どもたちには、中学校を終わると高校や大学など行かなくても別の能力開発のための道を作ることも大切なことだと、いつか社会が変わってくれる日を待っている。

一度、枠に押し込めることは本当に大切な要件で、私は海外の医療現場でも必ずこの手順を踏む。
まずは正しいと信じるやり方で、医療者たちに我流や経験を一旦捨ててもらい、私のやり方、方法に強制的に従ってもらう。おそらく心の中ではかなり反発もするし、かなりのストレスを抱える人も多いが、必ず強制する。

なぜならばこれこそが、その後の医療者たちの飛躍を生むからだ。
言い方を変えれば、私のやり方を習得するということは、私の人生を自分の一部にしたということだ。
ある学問を学ぶということは、人類の歴史の一部を自分のものにしたのと同じだ。

そしてやがて私のやり方から開放されたとき、過去の自分の経験と今私から奪い取った経験が融合され、自分自身の能力がさらに進化し、新しい自分を手に入れることができる。

そして人生はそこからが勝負になる。
さらにその先にある全く新しい時間に自分を進め、何かを生み出していくという段階になる。
自分だけのオリジナルなものを生み出すということだ。

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それはまた、ある学問をまず強要され、学び終わったら、そこから新しい理論や発見をしていく過程と似ている。
こういう階梯をかつては、「守・破・離」と呼んだわけだ。

 守というのは高く飛ぶために、膝を屈曲すること。
 破というのは極限一歩手前まで曲がった膝を伸ばしはじめ、元の高さまで膝が伸びること。
 離というのは元の高さより高く飛び上がること。

小学・中学時代の強制は、人生に守を与えることだ。ここがない人生は、決して高くは飛べない。

必ず学校教育が必要なわけではないが、なければそれに変わる何かを用意しなければならない。
その理屈でいうと、子どもを叱る教育も大切だということだ。はじめからほめて育てるやり方は、いきなり子どもに飛び上がれといっているようなものだ。しっかり叱り、いいタイミングで褒めまくる。
これが守・破・離に則ったやり方だ。

子どもは賢いので、親の顔色ばかり見ている、或いは親に気を使っている、或いは親に変に洗脳されている子ども以外は、何かに付けて親から与えられた習い事も無理やりやらされている、親がやらせたがっているとちゃんと理解している。
うちの小学生の子どもたちも堂々とそのように文句を言うのだ。
しかしこれは立派なことだ。少なくとも私はそのように感心したのだ。
しかし今、子どもたちには、君たちのいう事、感じていることは全くその通りだが、今はここに書いてきた理由により、少なくとも小学生のうちは強制しますと宣言している。

守の状態は苦しいものだ。体重を支えながら膝を折れ曲げる動作はストレスフルなのだ。
(親の役目はここまで。)

どこでその重さから開放されるのか?
それはまさに折り曲げ始めたゼロ点を通過した瞬間からだ。


そのことも知っておいたほうがいい。
ゼロ点を過ぎればできるだけ脱力したほうが高く飛べる。
そのことも知っておいたほうがいい。

要するに、親は干渉したりしゃしゃり出ない方がいいということだ。

 ゼロ点というのは人生でいうといつになるのか?
 
日本という社会は、大学生になっても、社会人になっても親が出てきたりする。
それはわが子の成長を阻害する行動だと思ったほうがいい。

社会人の子どもが海外に医療ボランティアに行きたいという。
そして、親が反対しています、とか。親が帰って来い、とか。いい始める。
心配するのは分かるが、親は基本的に子どもが死ぬまで生き続け、面倒はみれないのだ。
だから、そんな親の発言は子どもの人生の発展を上から押さえてつけているようなものだと思う。
 

ゼロ点というのはいつなのか?もう一度しっかり考えてみたい。
中学卒業したときなのか?
高校卒業か?大学卒業か?
それとも社会人になった時なのか?

 私は結構、早い時期だと思っている。
by japanheart | 2016-01-13 23:11 | 子どものこと | Comments(0)
ラオスの子ども助かった、、、と思う

 先般からお伝えしていたラオスの胆道拡張症の1歳の女の子は無事に手術を終え、回復に向かっていることを伝えたい。

 岡山や広島から行っていただいた小児外科の先生方や、ミャンマーから帰国前にわざわざ行っていただいた遠藤先生にも感謝をしたい。

 ラオススタッフも皆さん平山を中心にがんばって関わってくれた。
 資金的サポートをしていただいたJSファウンデーションやこの子のために寄付を頂いた方々にも感謝します。

 一人の子どもためにいったいどれほどのエネルギーを裂くことが出来るのかというのは大した課題だが、一人の人間を助けるのはそれほど大変なことだとも教えてくれる。
 この世の中はどうも総論と各論のバランスが取れないことが多い。
 なるべく少ないお金でなるべく効率よく人を助けたいと思ってはいても、今回のように大したお金をかけないと助けられないこともある。
 かつて、アメリカにいって心臓移植のための治療は1億は必要だった。
 そのお金をマラリヤの薬に代え、アフリカやアジアにばら撒けば数万人の命を救える可能性だってある。
 よく学生たちに質問されることに、そんなタイプの質問が多い。

 もっと効率よく多くの人を救いたい、救うべきではないかと語ってくれる学生も多いが、昨今の世界情勢の中で、いろいろな人たちがそう考えてさまざまな試みをしているが、果たして結果はどうだろう。
 結局、私の人生という各論では、一人ひとりちまちま確実に救ってきたこの長い年月のほうが、結果ははるかに良かっただろう。若い頃に理想に燃えて大風呂敷を広げ、多くの人々を一度に救おうと張り切ってやってこなくて良かったと思う。きっと上手くいっていなかったから。
 
 世界中でさまざまな難問に大きな希望を抱いて取り組んでいる人も多いが、果たして上手くいっているのかな?
 地球温暖化の問題は解決しそうなのかな?
 感染症のブレイクアウトや、核廃絶の問題はどうなっているのだろう?

 先般読んでいた書物の中に、1980年代アメリカの異常な殺人や薬物中毒、レイプやその他のをはじめとするさまざまな犯罪発生は、行政や専門家たちのさまざまな希望に燃えた試みによっても、一向に鎮火しなかった。多くの専門家は1990年代はさらに悲惨な状況になると予想していた。ところが、すべての人の予想に反して1990年代からアメリカの犯罪は減少の一途をたどる。
 それはさまざまな勇敢な試みの成果ではなく、実は、全米の多くの州で中絶を認めたからだったそうだ。
 貧困層の子どもたちは大きな犯罪予備軍だった。
 その予備軍になるべき子どもたちがこの世に生まれず中絶によって、命を奪われていったということがその犯罪の減少の一番の理由だったそうだ。

 まあ、人間の知恵などというものはその程度なのかもしれないが、それならば確実に助けたほうが時間さえかけれればきっと成果も上がる。小さな成果なのかもしれないが。

 今回もその試みをしてみたわけだ。
 何とか上手くいきそうだと思う。
 
 今はこんなに元気になっている。

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by japanheart | 2015-04-21 00:45 | 子どものこと | Comments(0)

いのちの授業

いのちの授業

 今年から小学生を対象に、”いのちの授業”を始める。
 一クラス程度の少人数相手の授業にしたいと思っている。

 小学生の講演会を全校生徒にといってよく頼まれるが、それが平等だと教師たちが勘違いしている節がある。
 小学校の1年生と6年生に同じ話をしても、同じように理解はできない。
 低学年には低学年の話し方があって、それをすると高学年は興味を失う。

 しっかりいのちについて理解してもらいたいと思えば、どうしても高学年に焦点を与えることになる。

 そうすると、低学年はきっとあまり分からないだろう。
 相手の理解度も無視して、一部の人たちに理解できる内容をすれば、それこそ私は不平等だと思うがいかがだろうか?

 たった60分程度の話のなかでは限界がある。

 話を戻そう。

 いのちの授業は、無料で行う。
 交通費は負担してもらうが、講演費は無料。

 子どもたちにいのちについて理解してほしければ、自分のいのちを相対化するような経験を持たさなければならない。
 人は他人と比べて初めて、自分の立場を理解する。
 
 安全で、解毒化された日本の子どもたちに、打ち込む予防接種みたいなものだ。
 社会が、親が、面倒見すぎているのかもしれない。
 大人から見て気の毒なことが、本当は子どもにとって必要なことだってたくさんある。

 そういえば、ずいぶん前にミャンマーの子どもが亡くなるストリーを写真を少し入れて小学校かどこかで話したことがあった。
 あとで校長に、あの話はちょっとまずいようなことをと言われた。
 結末が不幸になるような話はしないでほしいと言う。

 世界は、不幸で満ちている。
 世の中には、残酷な世界もあるんだ。

 それを知ることも大切な教育だと思う。

 おとぎ話の世界だけを、子どもに押し付けてどうする?

 人は死ぬ。
 人は病気になる。
 
 別に、不思議なことではない。

 いのちの教育は、人が死ぬということから、教えていかなければならない。
 
 
by japanheart | 2013-11-03 08:18 | 子どものこと | Comments(2)

我が家のルール

我が家のルール

 この度、我が家にルールを設けることにした。
 もちろん子どもたちが守るべきルール。
 もともと我が家は、私が不在が多く女性たちによって子どもたちがほとんど育てられてきた。

 そのため、非常に子どもたちは上手く女性と付き合う術を心得ている。
 甘え上手で、ごね上手。
 必ず最後は、勝利している。
 このことを常々、私は苦々しく思ってきた。
 しかしながら、彼らもなかなかで、私がいるときには非常にいい子どもを演じている。
 時に尻尾を出して私に怒られるが、なかなか尻尾を出さない。

 それでも子どもの性格によっては上手く人生を乗り切っていきそうな長男と、たぶん大きなリスクを負いそうな次男。

 今回日本に帰国し、新しい学校に通うことになったが、長男は合格通知をもらったものの、次男は上手くいかない。何とか会議を開いてもらい合格したらしい。長男とあわせ技で。

 教師たちは何を不安に感じたのだろうか?
 
 次男は、時に父親を求める傾向が強い。
 これは彼が、父性というものを、必要としているからに違いない。
 父性とは、秩序であり、ルールであり、力であり、安定であり、時に強制である。

 このような種類のものを次男は求めているに違いない。
 もともと長男よりエネルギーレベルが高く、いつもその処理を上手くできない次男はさまざまな問題を周辺と起こす傾向が強い。
 これが、高学年や中学生になったときに上手く誰もコントロールできなければ、周辺に悪影響を及ぼすことは目に見えている。
 おそらく、教師たちの一部は、これを感じたと思う。

 しかし、私はこの子と上手く付き合っていく自信がある。
 この有り余るエネルギーを上手く誘導してやれば、さぞかし景色のいい時間をすごすことになるだろう。
 失敗すれば誰もが地獄の時間に変わるかもしれない。

 そこで、子どもたちに父性の一部を流し込んでいくことにした。
 これがしっかりできれば、必ず上手くいく。
 甘やかしは禁物だ。

 人間には勉強よりも大切なことがある。
 正確には、勉強の前に習得しておかねばならないことがあるということだ。

 今回、私が子どもたちに宣言したルールを少し書いてみよう。

 1.朝起きたら「おはよう!」とあいさつをする。
 2.ご飯はのこさず食べる。
 3.食器は、流し台まで持っていく。
 4.いってきますと元気にいう。
 5.くつは、ちゃんとそろえる。
 6.使ったものは元の場所に戻す。
 7.便所掃除を毎日順番にする。
 8.宿題はすぐにする。
 9.ご飯の後は歯をを磨く。
10.

20.呼ばれたらいつも、「はい!!」と元気に返事する。


 とまあ、ざっと20個程度のルールを決めた。
 
 こんな当たり前のことができれば、子どもはちゃんと育つ。
 当たり前のことを当たり前にしていないから、おかしくなっていく。
 夜更かしさせたり、間食をひどくさせたり、問題は親にある。

 親が、ルーズだから子どもがルーズになる。 
 親がサボっているから、子どももサボる。
 小さいうちから、親の背中を見て生きてきたのだから、そうなるに決まっている。
 子どものやりたいようにさせることは自由でもなんでもない。
 社会でも好き勝手にやったら、捕まるのと同じだ。
 好き勝手にやることは、他人の自由を侵害するからだ。

 これらのルールを定め、これを守らせていくのが父性だと思う。
 力ずくで、従わせずに、繰り返し我が身で示しながら、繰り返し、繰り返しやっていくつもりにしている。

 我が家の子どもたちの才能を目覚めさせるために、今からいくつかのことを考えているが、いいタイミングで繰り出していきたいと思う。
 子どものエネルギーを少しも目減りさせたり、失わせてはいけない。

 このやり方は、国際看護長期研修でも取り入れていく。
 もちろんもっと複雑に、もっと体系的にやっていく。

 いい人間が、いい医療ができる。
 特に看護の分野はそれが顕著だと思うから。

 まずは、立派な人間をつくりたいと考えている。
by japanheart | 2013-08-23 02:53 | 子どものこと | Comments(1)

エネルギーの行方

エネルギーの行方

 最近の子どもたちはつかみどころがないとよく言われる。
 先日、中高生向きのスタディーツァーを、ミャンマーでやった。
 この時の子どもたちの感想が、私にはショックだった。

 ここに来た子どもたちは、口々に生きている実感が持てたと語った。
 まだ、15歳前後の子どもたちだ。
 いったい、日本では何が行われているんだろうか?
 
 子どもたちに媚び、個性重視の名の下に、至れり尽くせり。
 結果、子どもたちから生きている実感を奪っているという、由々しき事態になっている。

 ここで整理しておきたいのだが、個性を重視することと、嫌いなことをさせることは決して矛盾することではない。
 いい年になってしまったら、どうせ嫌いなことなどしなくなるのだ。

 だからこそ、若いうちに嫌いなことや苦手なことをさせなければならない。
 これが子どもたちの将来の、土壌の栄養になる。
 根が張らない子どもなど、大きな木に育たない。

 人間には睡眠を除くと、本質的には欲求は2つしかない。
 性欲と食欲だ。
 性欲は、今の日本では著しくコントロールされる。
 ゆえに、子どもたちのエネルギーは、別の経路に流されることになる。
 学業であったり、スポーツであったりと。
 これらが本人の個性にうまく合致してくれていたり、いい指導者にめぐり合ってうまく誘導してもらえればキット、いい人生をイメージして前に進んでいけるし、本人も日々、充実した時間をもてる。
しかし、何もこれといったものが持てなかった子どもたちは迷走する事になる。

 かつては暴走族や夜遊びということになった。
 結局は、教育者を親を中心とした大人たちが、彼らのエネルギーをうまく誘導できなかったせいだ。
 彼らが、そういう世界から抜け出していけるのは、時間がたって、別のエネルギーのはけ口というか、誘導先を見つけるまで待たなければならない。だから、多くは20歳を過ぎたころまで時間が必要なのだ。

 しかし、こういう子どもたちはまだ、エネルギーを保って生きていることになる。
だから、別のエネルギーの回路が開け次第、すぐにうまく社会適応していけることが多い。

 ところが問題は、エネルギーのはけ口を持たなかった子どもが、自らエネルギーレベルをとした場合だ。
 生きているエネルギーレベルを落とすことによって、自己を保持する。
 こういう子どもたちが、引きこもる。
 引きこもれば、時間がたっても、自身でエネルギーレベルを上げない限り、社会復帰などできない。
 そして、このエネルギーレベルを上げるという作業は、大変な作業になる。
 そう簡単に一度、止めたタービンを回転させることは大変なことだ。
 寒い冬に車のエンジンをかけるのと似ている。
 それくらいのエネルギーを逆に初動で必要とする。
 ゆえに、引きこもりはなかなか直らない。

 これらを解決するには、エネルギーをうまく誘導する人間がいる。
 もちろん、仕組みとしてそれが行えれば言うことはない。
 しかし、それにはある程度の情熱と人間的なレベルが必要となる。
 教育とは、まさにそういう作業だ。

 親の子どもへの甘やかしはご法度だし、社会の子どもたちへの迎合はあまりすべきではない。
 傷が深くなる。
 情熱をもち傷つくことを恐れない教育者たちもたくさん必要になる。

 もし、本当に誰もが教育こそ大切だと思っているならば、真剣に子どもたちと向かい合わないと大変なことになる。

 私は、本当に思うのだ。
 こんな大人たちばかりで、本当に子どもたちがかわいそうだと。

 貧しいながらも目が輝いているアジアの子どもたちや、アフリカで少年兵として生きている子どもたち。
 彼らの目のほうが、日本の子どもたちより力があるのだ。
 それは、おそらく、生きていることをしっかり自覚しているからだと思う。
 生きながら子どもたちを殺していては、子どもたちがかわいそ過ぎる。

 
 
by japanheart | 2013-08-19 01:31 | 子どものこと | Comments(0)