特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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カテゴリ:基本( 96 )

いい看護師を作るのではない、いい人間を作るのだ

いい看護師を育てようと頑張ってきた。
時には厳しく、時には寛容に、そして時には無関心という態度を取りながら、どうすれば最も患者のために、そして現場を繁栄させる看護師を作ることができるのだろうと悩み続けてきた。

 医師や看護師の人生などというものは、これから人生100年の時代にはその長さはわずか40%の比重に過ぎない。人はその渦中にいるときはそれを全てだと勘違いしているが、定年を迎えた後は更にその長さと同じく40%の人生が残っている。
 この中間の期間を中途半端でいいかげんな、あるいは横柄な態度で過ごすことは、残りの人生を台なしにしてしまうという事を容易に想像させる。特に後半の人生が寂しく惨めなものであれば、若い頃にどれ程輝いてみせても死ぬときに必ず後悔することになる。
 
 いい看護師とは果たしてどのような看護師を指すのだろうか?
いい看護師であったことが、そうでなかった看護師たちよりも、その後の長い人生の中で役に立たないということがあってはならないだろう。
 技術力が高い看護師がいい看護師なのだろうか?
 もちろん、それはそうだろう。
 しかし、技術力があったことがその後の人生でどれだけ役に立つのだろうか?
 その後の人生とたいした連続性も持たず、役にも立たないような事を手に入れる事に相当な時間とエネルギーを投下することは、果たして自分の人生を幸せにしているのだろうか?
 知識も同じだろう。もちろんそれは持たねばならないし、医療者にとっては必須のものだ。しかし、医療の知識などというものがその後の人生にとってどれ程再利用できるのだろうか?
 人生にとっては結果よりもそのプロセスが影響を及ぼす度合いが高い。
 私という人生では、高い技術を持っていたことよりも、高い技術を持とうと日々一生懸命努力したことに強い影響を受ける。
 多くの知識を持っていることよりも、より多くの知識を身につけようと日々たゆまなく努力したことが強い影響を及ぼす。

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 確かに高い技術や知識を持っている看護師はいい看護師といえるのかもしれない。では、それらを十分に持ち合わせていながら患者の境遇や気持ちを理解できない看護師はどうなのだろうか?

 高い技術も知識もいい看護師である為の必要条件でしかない。
 高い技術や知識はどこでどう訓練すれば身につくのか? 大方の人はよく分かっていると思う。しかし、それらは医療という幅広い分野の中で、自分が現在いる領域でしか力は発揮できず、分野が少し変わればまた同様の努力を繰り返さなければならない。しかもこれらの能力は比較的短期間で習得可能な能力でもあるのだ。

 一方、患者の境遇や気持ちを理解できる力とか、患者やその家族の不安や状況を察知できる能力、いつも清潔な環境を目指す能力、同僚やチームとバランスを取りながらコミュニケーションを高度に達成する能力、患者や仲間との約束を守る能力など、これらはいい看護師に必要な能力だが、決して短時間で簡単に作れる能力ではない。
 むしろこれらの能力こそ、いい看護師になるためのしっかりしたトレーニングの機会が必要なものではないのか。
 その次元では、医療行為も、掃除も、料理も、ミーティングも同様に同等に大切なものになる。そのどれもがその人の人生には同等に大切な要素だから。
 

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 人間はすぐに言い訳し、自分を守り、逃げ出す。そして、逃げた罪悪感や敗北感を背負わなくてもいいように他人や環境を責め、自分を正当化する。
 これを繰り返していてそれらの能力が十分につくのか?
そんな弱い自分だからこそ、踏ん張って逃げ出さずに自分と向き合える状況や環境に身を置かねばならない。

 その場こそ、私がジャパンハートを作る前から主宰していた長期の看護師ボランティア研修(現・国際看護師研修)だった。
既に300人以上の看護師たちがそこを通過している。

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 長い間、私なりに悩みながらやってきて、上手くいったときもあれば、正直、失敗したときもあった。

 しかしようやく一つの結論に達しつつある。

それはこの看護師研修は、いい看護師を作ることだけの為に行われるものではなく、いい人間を作る為にこそ行われる。
 本当にいい人間こそがいい看護を行える。
 本当にいい人間であれば看護師という時期を終えても幸せになれる。
 今は看護師というその人の人生そのものを幸せにする。
 その幸せな看護師が周りの患者やその家族たちを幸せにしていく。



 そして今、私が思う看護師たちの為の研修は、一言にすると以下のようになる。

 私(ジャパンハート)が行う長期の看護師ボランティア研修は、

           いい人間を育てること

  を目標にしている、のだと。

 
 


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by japanheart | 2019-05-05 18:44 | 基本 | Comments(0)

積み上げていく


数年前、社長に頼み込んで、長野県伊那市にある"かんてんぱぱ"という会社へ見学に行かせてもらったことがある。この会社は地元でもとても人気があり、今では就職するためにはすごい倍率を勝ち抜かねばならないらしい。
 自然の中にあるその会社は様々な面でとてもしっかりとした管理教育がされ魅力的な会社だった。
 ある工程の施設を見学したときに、独特な機械を見せてもらう。なぜ、こんな凄い機械を作り上げることができたのだろうと感心した。それこそ東大や京大等の一流大学出身の人たちが集まって作ったものではない。地元の人たちを採用し、その人達が改良に改良を重ねて作り上げたものだ。
 私たちはそのでき上がった最終形のものを見て「凄い!」と唸り、感心する。
しかし、こういうレベルの高い機械も一つひとつの地道な努力の積み重ねでできていることに、なかなか思い至らないものなのだ。
 数百メートルの高層ビルも、一つひとつの資材の積み重ねを一階部分から行い、時間と労力をかけ、やがて高層ビルが完成する。
 しかし私たちはやはりでき上がったビルの姿を見て感心してしまうのだ。

 そうして「とても自分にはこんなものは作れないのだろう」と諦めてしまう。

私たちの様な外科医の技術も同じ。「こんな凄い手術は自分にはできない」と学生の頃は思ってしまう。

 私が手術の時、どのように考え、そのやり方やアイデアを採用し、その後その状態をどの様な視点で見ているかを現場で話す。
なかには言っている意味がチンプンカンプンの人もいる。どこをどう扱ったらそのような発想とかそのようなやり方をできるようになるのか?全く想像外に感じ、諦めに近い感覚になる人もいる。
 どうせ自分は医者ではないからとか、専門家ではないからと言い訳をしながら思考を停止させる。
そういう人間は生涯、そのレベルには立てない。そのレベルに立てないという事は、少なくとも私よりも患者たちに危険を与える存在であり続けるということになる。

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 でも、振り返ってみると約30年弱前の私は、数日前までは学生だった身で、現場の事など何も知らず、そしていましがた医者になった、そんな存在だった。
 毎日毎日、少しづつレンガを積むように経験や知識を諦めずに積み上げ今の姿や能力がある。そしてそこから生み出される考えやアイデアを社会に放散している。
 しかし、周りの人間は今、放散しているものだけを見て、自分には無理だと、自分は分からなくてもいいのだと勝手に思い込む。結果、知らぬ間に患者たちにリスクを背負わせる。
 今の私の状態は、決して順風に楽々とでき上がったわけではない。努力はもちろん大変な思いもしたし、惨めな辛い経験も何度も何度も経験して何とかやっとでき上がったものなのだ。

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 だから、私以外の人も一つひとつレンガを積むように、諦めずに確実に積み上げていくしかない。時間をかければやがて私のレベルなどは簡単に到達してしまうだろう。
 他人が努力の末に到達した”結果”の部分だけを見て、自分には無理だなどと諦めずにさえいれば。
フラストレーションこそ、素晴らしい未来への燃料になる。
 自分のレベルが低いと思うならば、自分の現状に満足できないのならば、今から始めるしかない。

 始めるのに、今より最良の開始時期はあなたの人生にはないのだから。


by japanheart | 2019-05-03 15:35 | 基本 | Comments(0)

夢のカタチ

親に比べて子どもはイマイチ?
そう言われることもあるのかもしれない。
親が立派すぎると、あるいは兄弟姉妹の上の出来が良すぎると。

例えば、うちの長男は私が40歳の時の子どもで次男は42歳の時に生まれた。
私と子ども達の間には40年もの時間の差がある。
世間は親に比べてと言うけれど、私からすれば、「オイオイ、比較するなよ!失礼な。」と思ってしまう。
 少なくとも私の場合は40年間も自分の長男よりも長く生き、その間、努力し苦しみやってきて今に至る。そんな長い時間のエネルギーをかけて今の自分がいるのに、40年分の努力もエネルギーも投下してない若者と当たり前のように比べられてもね〜。
 逆に比べられた若者も迷惑だろうね。小学生の時にプロの野球選手と比べて、お前は能力がないと言われているようなものだろう? まだまだこれからなのに。
 しかも、40年間時間をかければ何でもできる気がするではないか。
 大切なことは、ただ、不器用でも一生懸命に生きること。
 自分はこんなもんだと自分を低く扱わずに生きること。

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高い給料をもらう。
大きな企業に勤める。
有名なブランド品を手に入れる。

こういう生き方が私たちの世代の目指す生き方だった。
そうして長い間、そういう人間達をたくさん観察してきた。
それでよく分かったのは、人間、給料はそこそこもらえていれば、自分とその家族の範囲は生きていける。
お金をたくさん持っていて自分自身の為にしか使えない人間は、まあー、心と生き様が20世紀に取り残された人間だと思って避けた方がいい。
 私が思う使えない程のお金を持つメリットはただ一つ。
そのお金を他人や社会の為に使えるということだ。
 だから、そこそこ以上のお金は自分や家族のために必要ないと思う。

 いい車を持つとか、立派すぎる家に住むとか、いい衣装や携帯品を持つのは、私にとっては全部見栄の問題だからそこさえコントロールできれば、私の様になるかもしれない。

 車は必要なときにあって壊れずに動きさえすればいい。
 住む家は何とか雨露をしのぐレベルでいい。
 衣類は寒さや暑さに耐え、携帯品は機能性に優れた物が最もいい。
こんな人間は文化や産業を育てにくいけれども、いざとなればこの辺まで考えや生き方をもってくればいいのだという覚悟があれば、人生も必要以上に苦しまずに済むかもしれない。

 これからの若者達は、どんどん吉岡化していくような気がする。
 もしかしたら二極化するのかも知れないけれど、きっと多くの人たちが私の様に感じ、考え、行動するようになると思う。
 江戸時代や明治時代の貴族のような生活を現代の若者達がしているわけだから、本質的にはそれで満足できるのかもしれない。
 明治時代と比べて見てよ! 現代の若者達ですら栄養価の高い食品を毎日食べ、かつてでは考えられないくらい高度な医療の庇護下にあり、かつては何日間もかかった距離をわずか数時間で安全に移動し、全く入って来なかった世界中の情報を瞬時に手に入れる。身分や生まれとは無関係に、何よりも自由に未来が描ける可能性があること。

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明治時代までは、日本人にとって「夢」という概念は寝ている間に見る夢を指した。
今、言われているような将来の事を指す概念はそもそもなかったのだ。

 私たち、日本人は身分や生まれに関係なく生きれる様になって、未来を描く事ができるようになったのだ。
 だから、夢を持つことこそが近代人の近代人たる証なのだと思う。
この時代に生まれて自由な未来を描く事を放棄したら過去の人類に申し訳ない。
 
 自分と親を比べても意味がない。
 お金を必要以上に持つために時間を失うのは人生の無駄遣い。
 多分、お金は目的ではなく、結果として手に入れているもの。
 これからの世の中、人の評価は所属会社にはなくて、その人自身についていくもの。会社のブランドで自分を誇るというみっともない事はこれからしなくてもよくなる。
 車も家も衣装も、見栄を張るためでなく、文化や産業を育てる意識で購入する時代。だから、値段に重きを置くのではなく自分の個性に見合うブランドを選び購入していく。
 
 人はどんどん自由になっていく。
 40年。
 私と息子世代の時間差。
 
 この間に人類が手にしたものはとてつもなく大きすぎる。

  
 だから、40年も過去を生きた人間と比べて心乱す必要もないということだ。
 これから間違いなくもっと素晴らしい時代が到来し、もっと素晴らしい可能性が待ち受けている。
 うらやましい限りだ。

 海外旅行がせいぜいの私の世代。
 あなた達の時代はきっと宇宙旅行ができるだろう。
 無料でスマホで通話し、音に聞き耳を立てているのがせいぜいの私の世代。
 あなた達の時代は、きっと空間に映し出される相手を見ながら会話を楽しんでいるだろう。
 大きな財布を開き国ごとにお札や小銭を支払っている私の時代。私の財布には13カ国のお金がいつも用意されている。
 あなた達の時代はきっとお札や小銭は必要とされず、どの国に行っても実物のお金などというものは触ったこともない時代になっているだろう。実物の代わりにただ数字が移動する時代。

 これからはまた少し夢の形が変わるかもしれない。
現実の変化が人の夢の形に変化を与えていく。


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by japanheart | 2019-04-28 15:07 | 基本 | Comments(0)

マイナスの能力

マイナスの能力
 
 ダメ親の下に生まれたせいで、大人物になるという事がある。
貧乏育ちや貧困の為に教育機会損失にあい、結果、社会的成功を収めるということもある。
短期的なマイナスが長期的マイナスにつながるのか、それともプラスに転化するのか。
それは誰にもわからないが、本人の人間性のあり方と、あとは縁、出会いなのかも知れない。

 年齢的にも多くの人たちの指導やアドバイスを求められる立場になってよく思うことがある。
 人間、自分は誤魔化せないので、自分の能力やその限界はよく分かっていて、当然、自分ができもしないことを他人に要求しないといけない場面に遭遇するようにもなる。
 それはスポーツのコーチも同じで、既に体力的には当然、自分では無理な事を現役選手達に要求する。若い、あるいは生意気?な選手達は、「なら、お前がやってみろよ!」と心の中で悪態をつく、あるいは態度に出して反抗することもあるだろう。
 
 人生にはやはり二つの見本が必要になる。

一つは、プラスの影響、プラスの見本。自分の成功体験、頑張っている大人や仲間、先人達の姿やエピソード。
 これは方向性を教えてくれる星のような存在、あるいは、コーナーストーンのようなものだろうか。

二つ目は、マイナスの影響、マイナスの見本。
 実はこちらの方が人生には大きな影響を及ぼす事が多い。
 惨めに失敗した経験、失恋、受験の失敗、人から馬鹿にされた記憶。
 貧乏や親の失業、友人の倒産。
 これは生きていくプロセス、すなわち過程そのものに影響を及ぼしてくる。

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私は後者の方が人生には圧倒的に重要だと思っている。
特に最近、気がついたのは、人生の後半においてはこちらの方が圧倒的に重要で、その重要さは年月と共に増していくと感じる。
 記憶は時間によって薄められる。
 失敗の経験も、失恋の体験も、時間がその痛みや苦しみを薄め、意味付けを変化させていく。
だから必要以上に、感情的にその体験に引きずられずに、その体験をアップサイクルできるようになる。
だからアップサイクルに必要な材料を多く持たない人間は、人生の後半に大きな飛躍はない。若い頃の苦い体験や失敗が、そしてその数が如何に大切かが分かる。
問題は分かるがそれが実際に分かる時期にはもうかなり手遅れになっている。

 それで私が何を若い人に望み、何を半ば強要しようとしているかというと、二流コーチよろしく、自分ができる事もできない事も同様にさせようとする事であり、その中で失敗を含むイロイロな経験、一生懸命やるという経験を持たせる事である。
 私は自分ができる事だけを他人に求めるという謙虚さは持ち合わせておらず、その謙虚さの不足からの強要が却って自分にはない他人の能力を多く目覚めさせてきたという体験を多くしているので、「なら、お前がやってみろよ!」という彼らの心の声すら全く心地好く響いてくる。

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 その時、一つだけ自分に注意している事があり、それはそうなれるかどうかは別にして、彼らの事を好きになろうと努める事だ。
 愛情ない指導など、なかなか上手くいくわけないだろうと思うのと、彼らが私がどんな理不尽さを発揮してもそれが愛情からだと、信じてくれていないと指導や教育など上手くいくわけないからだ。

 親に嫌われたこどもや教師に嫌われたこどもが素直に指導に従うはずもなく、自立などという事にはおおよそ到達しないからだ。

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by japanheart | 2019-04-26 14:53 | 基本 | Comments(0)
 日本人に生まれてよかったと私が思う1番の理由は、労働に対する価値観にある。
 人は、もしも働かなくてもよくなって、食べていける時代がやってきたらと想像する。
人工知能が劇的に進歩した時代、人々はそれを使うことが生活のメインとなり、何かと無理しなくても十分に生きていける、そんな時代。
 無理に仕事などということをしなくても飢えることもなく、豊かに生きていける。
 人生から、”収入を得るための仕事”という価値観は消滅する。
そんな時代。
人々は何をして時間を過ごしているのだろうか? 少なくとも健康寿命が劇的に伸び、平均寿命も100歳を優に超えてしまったその時代に。
人々は長い長い時間を何をして生きているのだろう?
その時代人々はどうやって心を成長させるのだろうか?
恋愛やスポーツから得れる苦労や
その結果、手に入れることができる心の成長、満たされる心のある側面は、確かにあると思う。

 現在の人々の多くは出会いや別れ、藤や寛容という摩擦のなかで心を成長させていく。そしてそれを手に入れる場所や機会は、”仕事という場”を通してなされている。
 その”場”を失ってしまった時に人々はそれをどのように補填するのだろうか?

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 労働が罰や罪の感覚と結び付き、賃金を得て生きる為のものという価値観を持つ多くの国と違って、日本人にとって働くということは、傍の人々を楽にするという意味合い通りに、周りの人々の為でありまた、自身の心の成長を得る手段として位置づけてきた。この日本の伝統はとても尊いと最近強く感じている。
 掃除や料理が単に苦痛な労働としておとしめられていない意味合いをいまだに保持する人々がいるのはとても素晴らしいことだと思う。

 掃除をして綺麗になった空間を獲得したとき、なぜか心が気持ち良くなる感覚は誰でも経験する。これは物理的な空間を単に綺麗にしている作業だけに留まらず、心の中を整理整頓している作業でもあると理解するといい。
 目の前に展開する物事は脳の中に時系列に押し込まれていく。このばらばらに押し込まれた事象を整理し過去の情報と統合し意味付けするのは、睡眠や休養などの脱力作業中に起こるというのが私の経験からの答えだ。
 掃除を無心に行うという状態は、私の中ではいわゆる動的瞑想の状態であり、実はとても有効な脳の活性化の時間と考えている。

 別にお釈迦の言葉を借りるまでもなく、人々は苦行をしても悟りを得られることはないと思う。
 ただこの言葉を私なりに正確に表現すると、悟りを得るためには苦行だけでは不十分だということになる。
 苦行は悟りを得る為の必要条件でしかない。
 逆に言うと、苦行をしていない人間には悟りはおとずれない。

 先にも述べたように、人が成長するのは回復期なのだ。
 肉体もストレスをかけている間は筋肉は付かない。
 技術もそれをがむしゃらにやっている間は、技術力は付かない。
 失恋も苦しんでいる間は、心は成長しない。
 
 すべてそれを一旦終えて、休息状態に入ったときに能力、すなわち脳力は獲得されていく。

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 お釈迦は苦行の末、瞑想にはいる。
 そして悟る。

 このエピソードは緊張と弛緩、この両方が大切だと私たちに教えてる。
 しかも、まずは緊張が先なのだと教えてくれている。

 このエピソードの教えは子どもの教育にも使えるだろう。
 技術や学業の成長にも使えるだろう。
 そして心の教育にも使えるだろう。

 次回はさらにここから労働という意義について掘り下げていきたい。

  長くなるから、今日はここまで。

 
 
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by japanheart | 2019-02-23 06:16 | 基本 | Comments(1)

場のちから

 以前からパワースポットブームが続いているが、私自身にそういうことを特別に感じとる能力があるわけではない。

しかし“場のエネルギー”というものはやはりあると思う。

 例えばスポーツの試合での、ホームとアウェイ。言うまでもなく、ホームでの場のエネルギーは絶大だ。
また、ある人と一緒にいるだけでとても幸せに感じること。それはおそらく、その場のエネルギーが安定しているのであろう。
 
 私の場合、手術室でよくそれを感じることがある。その一つの閉ざされた空間を、自分の“リズム”でコントロールしたいと強く思う。その中で、誰かが自分のリズム以外の音や動きを発すると、求めていたリズムが著しく乱されるのがよくわかる。誰かが何かを落とした音や、私語や、咳払い、歩く動きや足音でさえ、私の意識がそちらに引っ張られていくことがよくわかる。

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 それはオーケストラの指揮者のような感覚であると思う。その場のリズムが乱されると良い演奏があり得ないように、スムーズな手術は難しくなる。リズムの乱れはミスを誘発する。
 
 私が本当に最高の状態にあるときというのは、術野に意識が縮小固定された状態ではない。術野には他より高い密度の意識が投下されつつ、その他も十分に意識下に置かれた状態、すなわち手術室の全体を見渡すような意識を意味する。
 脳が予想外の情報を与えられると、私の場合、妙にそちらに意識を持っていかれる。この間、術野ではベストパーフォーマンスが成し遂げられない時間が続く。そしてそれを回復するには、思った以上の時間が必要となる。
脳が予め予想していない出来事が術野の中で起こることも同じで、予想通り動かない助手や、突然吹き出した血液によってもリズムは狂ってしまう。
また、たとえ優秀であっても新しい人と一緒に手術を行うと、リズムの調整には時間がかかる。
脳は未経験の事柄への調整には、時間を要してしまうのだろう。

 ついでにいうと、このリズムはその人特有のものであり、他のリズムで代用は効かない。手術の時、音楽をかけたり、メトロノームを動かしたりする人もいるが、私はそれはしない。私の場合、私の生来のリズムは、代用したリズムではいくら安定していても決してベストの状態にはなれないと信じているからだ。


 手術のみならず、物事を進めるときに私が最も意識しているものの一つがこの“リズム”であり、リズムから作り出される“場のちから”である。

 場のちからとは、「その中心になるもののリズムによって作り出されたエネルギー場」といういい方ができるかもしれない。この場との相性は、その場に存在する人間にとってとても大切なこととなる。 
 
まさに、神社やお寺や古い樹木を中心に形成されているパワースポットのようなイメージ。

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ある人はそれをある種の雰囲気と表現するかもしれない。

 常にこの場を作り出すことを意識している。
この場は、一定の周波数のリズムによって統一された世界ということになり、その周波数以外の存在は、周波数を変えてアダプテーションするか、その場から出るかという選択になる。

この場を上手く作り出すことができれば、能力が多少低い人がいてもそのリズムの流れに巻き込みながら結果的に合格点のレベルまで持っていける。

 なぜあの時あのような行動をしてしまったのだろう?とか、なぜあの時あのように考えたのだろう?
と後になって思うのは、その時の場の影響をかなり受けていたものだと思われる。
 この、場とその人間との関係性を上手く利用することかできれば、能力以上の結果を得られる可能性がある。しかしたとえ無意識であれ、場の選び方を間違えてしまうと、能力が発揮できないということが起こりうる。

 ある空間に入った瞬間に、まず、場と自分との相性を感じとる。

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それは時として、暗いとか明るいとかいうイメージとして伝わって来るかもしれないが、悪ければ離れる、勝負しない、長居しないという手段を、常に心に留めておくとよいかもしれない。
 
 自己の能力や性質は、相手や周辺環境や時間的なタイミングとの関係性の中にあることを、自覚する必要がある。
過去に上手くいったのも、それが良かったからであり、くれぐれも自分の能力だけでそれを成し遂げたと思わない方が賢明だ。
この時代の・この時期に・この事柄を・この人がしたから、上手くいったということ。


 リズムと場ということを少し意識して生きてみると、世界を違う角度から理解できるかもしれない。

 
 






 

by japanheart | 2018-06-30 20:24 | 基本 | Comments(1)
 「私たちが習っている様々な勉強は、社会で実際に役に立つのですか?」

ある高校での講演会の最後に、生徒から受けた質問だ。
その質問の背後にある(そうは到底思えないのですが?)という彼の言葉を見てとることは容易であった。
誰でも一度は思ったことがあるだろう。

私は「はい。ほとんど役に立ちません。ですが、皆さんが習っているそれらの学問で皆さんは評価されます。ですから、皆さんが役に立たないと思うのであれば尚更、早く切り上げる為に集中してそれをやりきることをすすめます。」と答えた。

 かつて、このやり取りを含めこのブログに載せたことがある。それがどこかに転載され、あっという間に凄い数の批判コメントで埋め尽くされた。

「私は役に立っている!」
「こんな奴は医者にしておいては駄目だ!」
「教育は絶対に必要!」
「お前は役に立たなかっただけだろう!」
等々。

 しかし、化学記号や摩擦係数の測定、素数なんかを本当に社会に出て使うのだろうか?

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正直、先の高校生たちの体感覚はやはり間違えていないと思う。
 大人が論を労してもやはり多くの高校生たちは、「何でこんなことを勉強しないといけないのだ!」と思っているに違いない。もし学力の優劣で評価されず、将来に影響を受けないのであれば、多くの高校生が勉強など放り出してしまうと思う。
 
 親や周囲の大人たちは勉強自体の目的を、いい大学に行くため、いい会社に勤めるため、将来食いっぱぐれがないようにするため、リッチな生活をするためなどと言う。
しかしそれは、教育を受ける根本的な目的とズレてはいないのだろうか?
 
教育の目的とは、本来、人間力を付けるためではなかったのか?

教育が手段となってしまっていることを放置して、教育は大切だと言われても説得力に欠ける。そんなことは、子どもたちは見透かしているのだ。
それより、彼らが無理矢理に机の前に座り、興味も理解する気もない科目を一日中ぼーと聞き、無為に時間をやり過ごしている有り様を何とかしなければ、ひいてはこの国全体の機会損失へと繋がりかねない。

 教育という名のもとに、興味もない多くの若者の大切な時間と可能性を奪っていないか?
それは大人たちが、自己否定を恐れ、時代が凄いスピードで進んでいるにも関わらず、過去の方法論に固執し、凝り固まった教育の概念に囚われているからではないのだろうか?


 と、いうところまでが前回のブログに書いたところであった。

 さて、今日の本題はここからになる。
というのも、私のなかで教育の目的がある程度、明確になったからだ。

結論からいうと、

 教育の目的とは人類を進歩、発展、進化させること。

それが主目的になる。
そして教育を受ける人間が増えるほどに人類の進化は加速する。理由はこの後の流れから理解してもらえると思う。

 最近その重要性が強調されている“リベラルアーツ”。それは個人を主にイメージして語られることが多い。
個人の人間性への還元が本来の目的ならば、国家を挙げて、同じ科目、内容をやらせている意味が分からなくなる。それは画一的な教育内容ではなく、個個人の特性や個性、才能に合わせて最適化されていかなければ不十分に終わるからだ。

ではなぜ、全国民に対して等しく同じ教育内容を押し付けているのか?
なぜ、社会に出て到底役に立たないような知識を堂々と押し付けているのか?

今の時代、「私には役に立ちました!」等という一個人の感想のような稚拙な回答だけでは、多くの子どもたちは納得などするわけがない。

 さて、ここで人類の進歩とはどのようにして成し遂げられてきたのだろう?ということを考えてみたい。
 歴史を辿れば、人類を進歩させるような発明や発見は、わずかな数の人を中心に成し遂げられて来たものだ。産業革命の原動力となった蒸気機関の発明や、電球や電気の発明は、同時代の人びとが大勢で協力して作り上げたわけではない。ある人間を中心とした数少ない人びとが成し遂げたのだ。
それはips細胞もしかり。数学の理論や物理学の発見も同じだろう。コンピューターの発明やインターネットの発明なども、多くの人びとが与り知らぬところで成し遂げられてきた。
大多数の人びとは、そのユーザーであっても、発明する人ではないということだ。

 ある人の発想、発明を周りの人がサポートし、あるインノベーションが成し遂げられて人類は進歩していく。
言い換えれば、その人たち以外の人は、その発明や発見に対しては不要な人たちだったということになる。結果的にその無数の不要な人たちが投入した、その分野へ莫大な時間と労力は全て無駄だったということだ。せいぜい、何らかの形で飯の種になっている人間が少数いるだけだろう。

 しかし、本当にそうだろうか?

他の人間は全くの不要な存在であったのだろうか?
全ては無駄な労力と時間であったのだろうか?

 私の結論は、例えば、「一人の物理の天才を排出するためには、物理に関する無数の凡人の存在が必要になる」というものだ。
 
 一人の天性の才能を開花させるには、無数のライバル、無数の競争、無数の他人との比較という事象を抜きにしては語れない。
 子どもの頃から他人との様々な学問分野の競争の中で、挫折や称賛を経て、やがてその人が才能ある分野へと辿り着く。
その他の人間は皆、その人の才能を開花させるための肥やしになる。極論すれば、たった一人のその分野の天才の為に、その分野を経験した人類の残りの人間は、全て当て馬のような存在だということだ。
その人間の才能を刺激するために多くの人間は存在することになる。
 逆に考えてみると、その人間にいくら才能があっても、その人だけでは偉大な発明や発見などできない。その人間の才能は、それ以外の人間によって刺激され磨かれていく。その分野や他分野での競争や批判、優越感や劣等感がその人間の才能を開花させていく。

 こうして才能を開花させた人間たちが、様々な分野で発明や発見を成し遂げながら時代を一気に進めていく、人類に発展をもたらしていく。

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そういう視点でみると、教育を受けているほとんどの人間は人類の進歩に無関係ではないことが理解できる。

 その人は一粒の水の分子かもしれないが、その無数の分子が集まり、流れを作り、川となり、その流れの中で、ある人が才能を開花させ、人類に恩恵をもたらしていく。

これこそ教育を行う意味だと思っている。
見方を変えれば、教育を受けた全ての人間が、皆で人類の発展を創り上げているということだ。
天才は種、その他の人間は土や肥やしということだ。

 だから、別に社会に出て知識を使えなくても問題はない。
教育というシステムは、もっともっと大きな枠組みの中で動いているのだ。
そう。だからこそ、全ての国民に全く同じ内容の義務教育を9年間も押し付けている意味があるのだ。
 
 問題は、義務教育である小学校・中学校過程を終えてもなお、既に自分に才能や興味がないと判明している学問をやらされている高校生や大学生たちだ。自分に才能がある分野を探求するというプロセスに進めず、時間を無為に浪費している高校生や大学生たちは、数多く存在するのだ。
皆が当たり前に高校へ行く、大学へ行く。良かれと思って国が大学の門戸を広げているならば、少し考え直した方がいいと思う。

 とは言え、これほど個人が大切にされる時代の中、なぜ多くの人たちは、自分にとって生涯ほとんど役に立たないような、無駄な、しかし人類にとっては多分、極めて有益なその教育という機会を、義務という形で押し付けられなければならないのか?
人類の発展など興味もなく、自分の人生が豊かになればいいだけなのに、という人も多いだろう。
それに対する答えは、人は生まれたその時から、先人達の犠牲の上に、人類が歴史上成し遂げてきたその発展の利益を先に受け取っているから。 
つまり人間は利益を先取りしてしまっているわけだ。
先人達の利益を受けるだけ受けておいて、自分は誰の利益にもなりませんは通用しない。
人は生まれた時より受けているこの前借りの利益を、未来の人類に返す義務を負っている。
そして先人達と同様に、自分も一粒の水分子になり、流れの一部になり、人類の発展に参加することとなる。

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 多くの人は盲目的に、教育は大切だと言う。
それは本当に、自分の人生が豊かになったと理解して言っているのだろうか?
あたりまえに教育を受けた人間は、教育を受けていない自分の人生を経験していない。ではなぜ、教育を受けた方が幸せだと自信を持って言えるのだろうか?

教育を受け、いい会社に就職して、十分なサラリーをもらえたからと言うならば、それは競争の手段であって、教育そのものの大切さなどとは関係ない。
そんなにも教育が大切ならば、どうして若い人たちがあれほどに反発したり、それを手に入れることに必死になれないのだろうか?彼らは利口ではないからか?教育が大切と言うときの教育とは、学校で教わることなのか?あるいはそれ以外のどのようなものを指しているのか?

 途上国でも、教育が大切だからと先進国の人たちが画一的に学校を建てまくる。ということは、彼らの考える教育とは学校で学んでいる学科というものを指すのだろう。
もしも人間にとって、私にとって教育が大切なのだと言うならば、果たしてその教育は他の人間が言うところの教育と同じものを指しているのか? 
個人単位で見たときに、読み・書き・そろばん(計算)という基礎中の基礎だけでは、何が足りないのか?

 ここで私が伝えたかったのは、国が行う教育と個人が求める教育は、同じゴールを目指してはいないということ。
国はあくまでも国家にとって有益な人間を生み出す為に、明治時代から教育を始めた。それは平成の今も変わっていないと思う。しかし個人が教育を受ける目的は、人間性を豊かにし才能を開花させることにあり、いい学校へ行ったり、いい就職を得るためだけではないということ。
国家にとって役に立つ人間をつくろうとしている教育は、その子どもにとっていいものとは限らない。だから日本の高校生たちも、あれほどに不信感を持っているのだろう。

 個人の幸せを追及できるようになった今の日本にあるのは、国家の求める教育と個人が求める教育の目的にズレが生じているにも関わらず、それを同じ教育だと信じ扱っている現実なのだ思う。



by japanheart | 2018-05-30 12:46 | 基本 | Comments(0)

能力という弱点

特に最近、強く思うことがある。

私がもし医者でなかったら何をしていただろうか?

もし医者でない立場で途上国で何かをするならば、何をしていただろうか?



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私は医者であることにこだわり続けてきた。

いい加減な自分ではあるけれど、患者や医療者たちの前では医者であることを自覚し、行動し、誇りを持って生きれるようにと、いつも強く自分と向き合ってきた。


海外でたとえどんな逆境にあってときでも、自分がメスを握り、患者たちを救っていくイメージを常に心に留め置きながら前にすすんできた。


でも、もし、私が医者でなかったならば、あの悲惨だった人々の現状を見過ごして生きていただろうか?

それとも止むに止まれぬ心が動き出し、何かを為すために前にすすみ続けていただろうか?


プレイヤーに拘り、プレイヤーとして患者に向き合うことを当たり前に選び続けてきた。


統制の厳しかったミャンマーで綱渡りのように医療を続けてきた。

もし医者でなかったならばそれも不可能だったのだろうか?



人は武器をもつと武器に拘り、型をもつと型に拘る。

それが可能性を奪っているなどとも気付かずに。

それゆえ、武道の達人は、型に入り、型を捨て、やがて自由の境地に入る。


弱い自分が、もしも武器を持っていなければ、自分より強い相手に立ち向かわない。ゆえに殺されることもない。

もしも柔道などの型を知らなければ、その個人の秩序ない拳や蹴りの動きは相手には読めず当たることもある。

型を知っていれば、その防御の策は必ず準備される。


自分の強みだと思っていたことが、実は弱みだったと気付いた。


ある日ふと気付いたのだ。


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もし私が医者でなかったならば、たとえミャンマーのように、どのような困難な状況のときにあっても今頃、病院の一つや二つ建てきって、もっと多くの人々を救えていたに違いないと。

自分ではできないから、他人の力を借りる。

自分の力に必要以上に頼るより、人々の才能を信じて借りてくる。


50歳を過ぎ、そのことの威力を思い知ったのだ。

目が覚めて、世の中にはすごい才能の人間がごまんといることに今更ながら気付いた。

私がすべきだったのは、自分で刀を振り回すことではなく、この人たちの力を借りれる仕組みを作ることだった。



私は医者が得意だ。

手術も得意だ。


しかしそれこそが私の最大の弱点だったのだ。


人は一生涯を得意なことだけして、生きてはいけない。

医者の人生は、私の人生の一部でしかない。

人生はきっと医者をできなくなった後も何年も続くだろう。


だからこそ私の命が最も活きる道を見つけなければならない。


遅すぎるとしても今始めるしか道はない。



by japanheart | 2017-04-30 07:35 | 基本 | Comments(1)

苦労は買ってでもしろ?

将来の夢やビジョンはどうしたら生まれてくるのだろうか?
よく若い世代の人たちから受ける質問だ。

自分にはビジョンも夢もないから、という。
別に夢やビジョンがなくてはいけないわけではない。そんなものなくても十分幸せに生きていける。
夢やビジョンがなければ、日々の生活が充実していないわけでもない。
むしろ夢やビジョンはその人の人生を大きく変えてしまい、大きな災いを生み出す可能性もある。
言葉には、その言葉自体が持つイメージと裏腹に大きなマイナスをはらんでいる可能性があるのだ。
夢やビジョンという言葉は、まさにその一つだと思う。
愛という言葉も、そういう言葉の一つだろう。

人の一生は山あり谷あり。
一時よくても、全体を通して惨めな一生を送っている人間はたくさんいる。

人生はマラソン。
だから、42.195キロという人生を全体としてもっとも満足できる走りにしなくてはいけない。
中盤や前半の一部だけ、いい走り、満足できる走りをしても、最後にだらだらの状態になったり、途中棄権という人生では取り返しがつかない。

だから目の前の事態に対しては、当然全力で取り組むにしても、たとえ悲惨な状態であっても人生を投げたり諦めたりする必要もない。
人は小説や映画の中では、災難に見舞われ絶体絶命の主人公がそれを乗り切り、逆転の結末を迎えたとき、えらく感動し、涙を流しながら、自分の人生もそうありたいと心に誓う。
しかし、現実に自分の人生に同じような事態が訪れると途端に弱気になり、愚痴りはじめ、悪い結末を想像し、最後には現実に押しつぶされてしまう。

 しかし、人生はそこで諦めて走ることをやめなければ、必ずもう一度幸せになるチャンスは与えられている。

一方的にエネルギーを消費するマラソンと大きく違う点は、それを行っている人間のエネルギーを再び大きく高めることができるという点にある。
 だから途中棄権しないで走り続けなければならない。大きな失敗は、やがて大きな幸運を呼び込む糧になる。
特に若いうちに失敗や苦労から得た知恵や体感は、成功の母となる。
私がまだ子どもの頃、祖父に枕元に呼ばれ
「若いうちの苦労は買ってでもしろ!と昔の人は言った。現在はそういう時代ではなくなり、買ってでも苦労をしろとは言えないが、苦労をしておけば将来きっとためになる」と、何度か言われたことがある。
苦労という言葉に付きまとうイメージにも裏腹に、大きなプラスの可能性が秘められている。

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立ち止まっている人間には大きな苦労は訪れない。
しかも、立ち止まっている人間に訪れる苦労はやがて、薄められて効果も薄くなっていく。
人間は同じ苦労を経験しているとやがて適応し慣れ始めていくことができるからだ。

今世の中は、成功するのにもお金持ちになるにも、別に苦労しなくても良いではないか。という考え方がある。
それはそうかもしれない。お金儲けで別に苦労してする必要はない。
しかし、人生はそうではない。やはり苦労はしておいたほうがいい。
人生の幸せをその根で支えてくれるのは、まさにその人の苦労なのだと思う。
「苦労を買ってでもしろ」のその真意は、「行動しろ、そうすれば苦労が手に入る」ということだ。

大きな行動をすれば大きな苦労が手に入る。
大きな行動を起こすには、夢とビジョンが必要になる。
マラソンも走るコースが決まっているように、本来は、人生もすすむ方向が定まっている方がいい。
夢やビジョンはその方向性のあることだから、それがあれば、そちらへ向かってとりあえずすすむことができる。

日々の幸せとは、良いことで埋め尽くされているわけではない。
何もない日常で埋め尽くされるわけでもない。
人は適合し慣れが生まれ、同じ状態では不感症になっていく。
何も起こらない日常は平穏な日常ではなく、つまらない日常へと変わっていく。
そのつまらない日常もあなたが癌にでもなれば、再び、輝き始めるだろうが。

何でもない日常に幸せを感じたければ、良いことでデコレートしたいと思えば、必ず苦しみや悲しみという要素が必要になる。
 
夢やビジョンは動かない人には生まれない。
思考もエネルギー。
夢もビジョンもエネルギーだから、生まれても動かなければ、色あせ失われていく。

日々、目の前の変化に敏感になろう。
そして、その小さな変化へ自分から積極的に関わっていこう。
そして、その変化の振幅が大きくなっていくのを体感しよう。
やがて、そこから夢やビジョンを持てるようになる。
その過程で、必ず苦労を背負うことになるだろう。
もしそうでなければ、そんな夢やビジョンは捨ててしまおう。
人生は飛行機と同じで、向かい風がなければ飛べないようになっている。
前に向かって走るスピードは、あなたの生きる密度となる。
それが早ければ早いほど、向かい風、世の中からの風当たりは強くなるだろう。

しかし、やがて自分の体がふと浮かび上がる瞬間がやってくる。
空から見下ろすその景色は、あなた自身の人生の景色そのものになる。
それは安定して地上にいたときとは全く違った景色になる。
その見える範囲が、あなたの夢とビジョンの範囲なのだ。
高く飛べば飛ぶほど必ず重力が増していく。
その重力の大きさこそが、自分が背負う苦労という。
より高く飛ぶは、より大きな夢を持つと同じ。
大きな夢を持つほど、より苦労を背負う。人生も世の中の理も全く同じである。
より高く飛んでいる人間の見ている世界は、低いところを飛んでいる人間からは理解できない。
だから夢やビジョンは自分より低い人間ではなく、高い世界にいる人に語らなければ理解してもらえない。

何事も効率だけが正義とされる世の中だから、50年のときを経て、祖父から受け取った大切な日本の知恵を若い世代に伝えておきたい。

 
「若いうちの苦労は買ってでもしろ!と昔の人は言った。現在はそういう時代ではなくなり買ってでも苦労をしろとはいえないが、目の前の時間に大切に生き、とにかく行動を起こせ。それはあなたに必要な身の丈にあった苦労をあなたに連れてくる。苦労を積み重ねていけば、かみ締めるほど現在が充実し、そしてその経験は将来もきっとあなたの宝になる。」

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by japanheart | 2016-12-31 14:39 | 基本 | Comments(2)
我が医療活動の原点を見つめ直す

 ある日、ある貧しい国で目の前に病気の子どもを小脇に抱え女性が現れる。
日本人の自分を見つけ、あなたの国は豊かな国なので、この子のために治療費を出してくれとせがむ。
あなたはその国の生活環境改善の任務を得て赴任している。
その国の劣悪な生活環境は、小手先のテクニックだけではとても改善されるわけもなく、何かしら抜本的な取り組みを始めなければ同じことが繰り返される。

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そのとき、あなたはその女性にお金を与えその子を助けようとするだろうか?
それとも、お金を与えずにその場を立ち去るだろうか?
もちろんそんな試みが成功したとしても、この国の現状には全く影響などない。

私の経験上、一般の人たちはお金を与えてその子どもを助けようとする人たちが多い。
逆に、いわゆる政府機関などで公衆衛生の大きなプロジェクトに関わる人間は、与えないことが多いような気がする。

絶対はないにしても、より好ましい回答というのはないのだろうか?
私ならばどっちの行動を取るのだろうか?

国際協力に関わってから22年目になるが、昔も今も私の答えは変わっていない。

私ならば、迷わず、お金を与える。

22年前、本当に劣悪な状況のミャンマーで医者として働き始めた頃、国際機関で働く多くの日本人から言われたのは、「ちまちま一人ひとりを助けていても仕方ないから、多くの人を一度に助けませんか?」という話ばかりだった。
私のような患者一人ひとりと取り組む作業は、かなりの批判的な意見を受けたものだった。

しかし、当時も今も、日本でも医療を行う医者というのは、それこそちまちまと、患者たちの病と日本全土で格闘している。なぜ、日本でも行われている行為を、途上国で行おうとすると批判されるのか?
私は理解に苦しんだ。そして彼らの考えに一種の違和感を感じたのだ。だから自分が正しいと思う医療活動を行い続けてきて今に至る。

最近思い返してみてわかることは、彼らは各論と総論を混同していたのではないのか、ということだ。
同じコンセプトでも各論と総論は全く、見える景色が違ってくるということだ。

いくつか例を挙げると、
ポリオという病気の予防接種が日本で毎年行われている。これは生ワクチンを使うので、その予防接種によってポリオにかかってしまう子どもが必ずわずかなパーセンテージ存在する。
その子どもは、おそらく予防接種などしなければ生涯、ポリオにかからなかった可能性は十分ある子どもかもしれない。
その子どもの人生にフォーカスしてみると、予防接種がなければよかったということになる。各論的には。
ところが、もし予防接種を行わなければ、多くの子どもたちが毎年ポリオに罹患し苦しむことになる。だから総論的にはポリオの予防接種は行われるべきものとして扱われている。

車や飛行機の使用も、事故で死んだ人間や家族にとっては各論的にはなかったほうがよかったものだ。

ルーズベルトやトルーマンが原爆を日本に投下したが、大きな航空写真や風景だけでなく、一人ひとり焼けただれて死んでいった人たちをリアルタイムで見せ付けられたとしたら、もう既に数人で彼らはその計画をギブアップしたと信じたい。

各論と総論は風景が違う。
全く逆の局面が見えることもしばしばある。
そのことを理解しなければならない。
大切なのは、総論の思考で各論を扱わないことだ。
政治家が、国全体を良くすると信じる政策を行うとき必ず犠牲になる人々が存在する。
それに振り回されてその政策をやめてしまうと、多くの人々が苦しむことになる。
しかし、その犠牲になっている人々を無視したときに政治家としては死んでいく。
必ずその人々の声に耳を傾け、個別に救う試みをしなければならない。
その個別の試みは決して全体に影響など与えないだろうが。

人は総論的な事柄を推し進めようとする時、必ず各論的な視点を強く意識なければ、道を間違うことになる。
その視点さえあれば、原爆投下などという人類の愚考など行われることなどなかったのだ。
日本社会でマイノリティーの声に耳を傾ける大切さもここにある。
各論に目を向ける意識は、大きな過ちを防ぐセーフティーボックスになるのだ。

だから私はその女性にお金を与え、その病気の子どもを助けようとするだろう。
一人の母親の声に耳を傾けて取り組めない人間が、大きな事柄をなそうとすると既に危険領域に踏み込んでいることになる。
ましてや、その病気の子どもの運命とその国の生活環境は時間スパンが違うので、全く結果に影響しないのに。

そして、自分の医療を振り返ると、医者になった動機は、やはり各論的に一人ひとりの患者に関わり助けることができればということだった。
その国の医療を良くしようとか、日本の医療レベルを上げようとかそんな気持ちは微塵もなかった。
はじめからあったのは、ひたすら患者のために働く自分の姿だけだった。

それを今も、ひたすら繰り返しているだけなのだ。

私の医療活動。
ジャパンハートの医療活動は、各論をひたすら愚直に繰り返す医療活動であろうと。
患者一人ひとりの人生を考える医療であろうと思う。

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現地の医療者を育てることが一番、患者のためになるのならばそうしよう。
そうでなければ、それはしない。
それは総論的に理屈で良いからではなく、それが各論的に患者のためになるのならばそうするというだけだ。
だから政治を変えろという提言もしない。
それはそれでやる人たちがいる。
その人たちに任せればいい。

私たちはどんな時代になっても、どんな状況でもひたすら患者個人の人生に関わり続けよう。

それがこの活動に関わる多くの人々の動機であったし、今も私たちの唯一の共通した志となる。
by japanheart | 2016-09-30 16:40 | 基本 | Comments(1)