特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

ブログ引越しのお知らせ

いつも吉岡秀人のブログをご愛読いただき誠にありがとうございます。

このたび、吉岡秀人のブログをより多くの方へお届けするため、
誠に勝手ながら、excite blogからnoteに引越しすることとなりました。

▼noteの吉岡秀人ページ

さっそく新しい記事を投稿していますので、
今後はぜひnoteの吉岡秀人ページをフォローいただき
ご覧になってください!

excite blogに掲載のブログ記事は、
しばらくの間そのまま残しておきますので、
また是非くりかえしお読みいただけると幸いです。

今後とも、よろしくお願いいたします。

ジャパンハート 広報
ブログ引越しのお知らせ_e0046467_15071332.jpg

# by japanheart | 2020-06-13 15:07 | 事務局からのお知らせ | Comments(0)

変化に備えよ!

 かつて地上は、巨大な恐竜たちが栄華を極め闊歩していた。
 ある時、恐竜からすれば本当に偶然に地球に隕石が落ちて来た。
 それにより、あれ程高温多湿だったこの地球が冷え始め、体表面積の大きい恐竜たちはどんどん死滅していった。しかし、体長1m50cm程度の動物達はその寒冷の環境下でも生き残る事ができたという。

 ある環境下で最強ということは、環境が大きく変化すれば最強ではなくなる可能性が高い。むしろ恐竜たちの様にバタバタ斃(たお)れていく可能性もある。もしも環境が大きく変化しても大丈夫であるということは、今までの環境がその組織や生物に最適化されたものではなかったか、その組織や生物にはその環境変化に順応できる形質、すなわち多様性が内在されていて、新しい環境に順応し変化できたということだろう。

 組織も動物も大きいと強いが、環境の変化には順応力が低いかも知れない。
 今の世界で恐竜に当たるものはなんだろうか?
 国家か?
 グローバル企業か?
 それとも今、私達が正しいと信じている民主主義や貨幣経済なのか?
 恐竜でいう体表面積に当たるものはなんだろう?

 今回の新型コロナウイルスのパンデミックで考えてみた。もしもこのウイルスが隕石ほどのインパクトがあるとしたら。

 これから何が変わるのだろうか?
 どんな価値観や形態が滅びていくのだろうか?
 75年前の世界大戦が終わった後のような変化が世界を襲うことになりそうだ。
 あの戦争の前はアジアやアフリカはほぼ全て植民地であり、国家なんて存在しなかった。その後から次々に国家が生まれ今では当たり前のように現在のイメージができている。中国にも東南アジアにも南米にもアフリカにも、全て国家が存在しなかったって信じられる?

 ここからまた、今までの延長線では考えもしないような世界になると思う。75年ぶりの歴史的な非連続性社会構造変化だ。
 私はわくわくがとまらない。
 今までは多分、経験的には無理だろうと思っていたことが、物理的にも精神的にもボトルネックが外れることになる。
 逆に、今まで権威や規模を誇った組織や形態が今まで通りに同じ価値をこの国で持っているようならば、日本はきっと駄目になっているだろう。
 世界で最も保守的で仕組みや価値観を自ら変えられない国は日本だろう。
 だから少し不安に思っている。

 指針としては、
 組織や成果で規模や数量を誇るよりは、質を誇れるようになった方が時代の力を受ける事ができる。さらに、個人が今まで以上に価値を持つ時代になるので、常に質を追求する姿勢を持っておく。

 偏った価値観を絶対視せずに、色んな分野と関わりを持つ、できれば自分の視界外の分野や人と合流してみる姿勢と謙虚さを堅持する。

 日本人やアジア人は経験の重要性を過大評価せず、若い世代、それこそ十代や二十代の人たちの可能性や能力を正当評価して、積極的に利用し社会発展や改革のために役立てる。特に日本はそれやらないと。

 企業や個人もお金を目的とせず常にそれを手段として何を為そうとするのか意識して生きていく。今まで以上に。

 特に経営者や企業は表層的な理屈付けではなく、トコトン何故、その規模を大きくするのか? 何故、それを大量生産し社会に供給する必要があるのか? それが本当に社会利益になるのかをずっと考え続けておく方がいい。結局、長い目で見たら社会利益になっていなければ社会から捨てられる。
 
 一年後、どんな世の中になってるのだろうか?

 楽しみ。
変化に備えよ!_e0046467_16582004.jpg













# by japanheart | 2020-05-13 04:42 | 基本 | Comments(0)

誇り高く生きたいから

 いつも医療者は、
 「自分たちは安全な場所から医療をしているんだ」
 「患者がどんな重い病気でも結局は自分には関係ない」
 「そりゃ、検査の時に患者に付き添いレントゲンの被曝が多少あるとか、手術や輸血やその他の医療行為の最中に感染のリスクがあるとか。けれどそれでも患者達の場所から比べると随分と安全な場所にいるんだ」
 「手術が失敗しても、検査が上手くいかなくても、医療者は死にはしないから」

 でも、今回ばかりは少し違ってる。
 今回のコロナウイルスはいつも安全な場所にいる医療者達をかなり危険な位置まで近づけている。
 圧倒的に市中の一般市民よりも犠牲になる確率は高いのだ。


 私達医療者にはいま、目の前に4つの生き方が提示されている。
 この時、たとえ日本にいようが、海外で医療をしていようが、私達、医療者の前には天から4つの生き方を提示されているのだ。

1 ウイルスに勇敢に立ち向かい、そして自分も生き残る
2 ウイルスに勇敢に立ち向かい、しかし自分もウイルス感染にたおれる
3 ウイルスに恐怖し逃げ出し、そして自分は生き残る
4 ウイルスに恐怖し逃げ出し、しかし自分もウイルス感染にたおれる

 あなたならばどの生き方を選択するだろうか?

 私はどうせ医者になったのだから、こんな時こそ、ウイルスに立ち向かいたいのだ。
 もしかしたらウイルス感染にたおれるかもしれない。命を落とすかもしれない。
 でも私は死の床で「これでよかった。自分の信念と人の為に戦い死ねてよかった」と思える自信がある。医者でよかったと思える自信がある。
 でも逆にもしも逃げ出してしまったら、たとえその後、生きていても医者を辞めるかもしれない。そんな臆病な自分が許せなくて苦しむと思う。医者を続ける資格がないと思ってしまうかもしれない。

 私は、私達は、”病で苦しむ人達のためになりたい” と医療の世界に飛び込んだ。
 もちろんそれは、自分が世の中から必要とされたい、してほしい、期待されたい。そしてそういう自分を自覚し、自分の人生を肯定したかったからだろう。
 海外で私の元にやってきた医療者達も、多かれ少なかれそう感じていたと思う。

 人はこういう経験を通して本当のプロフェッショナルになる。
 自分の人生と仕事を通して、自分のミッションに誇りを持つようになるのだ。

 私はそういう医療人をつくりたい。

 最高の医療人には、高い精神性の人間でなければなり得ない。
 精神性の高い人間は、困難が目の前に立ちはだかろうと、逃げはしない。
 人々が病で苦しんでいれば、我が身に困難が降りかかろうと、人々の為に喜んで前に進むだろう。
 
 人生100年時代、そういう人間はたとえ医療人としての人生が終わった後でも豊かな人生を送っていけるのだろう。
 
 中国でも、ヨーロッパでも、アメリカでも、医療者達は誇り高く戦っている。

 彼らにできて私達にできない道理があるはずがない。

 何で医療の道に来た?
 
 我がスタッフたちよ、そして日本の医療者たちよ、がんばれ!




 あなた方の前には4つの生き方を用意した。

 好きな道を進むがいいだろう。





 PS: 私も海外への航空便が運航を再開したら、直ぐに現地に戻るよ。


誇り高く生きたいから_e0046467_10063907.jpg


# by japanheart | 2020-04-07 06:13 | 活動記録 | Comments(0)
 今日は4月1日。エイプリルフールなので珍しく未来予想などしてみたいと思う。どうせエイプリルフールだから、ハズレたら「あれは冗談でしょう!」と、将来言い訳しようと思っている。

 世界には文明のスライドを唱える人々がいる。数百年毎に東洋から西洋へと振り子の様に文明の中心が移るという仮説だ。
 これは過去そのように移ってきたとまあ、半ば強引にそのように理屈を付けしてきた仮説なのだが。

 ”15世紀頃から始まったヨーロッパ文明の世界制圧の歴史は、今回のコロナウイルスで終わると思う”というのが私の仮説になる。

 第一次世界大戦、第二次世界大戦で本来はそれは終わるはずだったと思う。
 正確には第0次世界大戦、すなわち日露戦争から始まったヨーロッパ文明制圧の終焉は、これでほぼ確定される。
 本来は第一次・第二次世界大戦で終わるはずだったヨーロッパ文明は、アメリカ大陸を発見し、北アメリカ大陸には主にイギリス・フランスが、南アメリカ大陸には主にスペイン・ポルトガルが文明を移植した。第二次世界大戦後は、特にアメリカ大陸に文明や力の中心がシフトし、あれから75年、正確には約100年程度、その制圧の延命がはかられたと理解してる。
 個人的には第三次世界大戦が起こりそれが終焉するかもと思っていたけど、人類は少しは利口になってそれが起こらなかった。しかし、「文明がスライドする」という大きなシフトが起こることには変わりなく、それがウイルス感染によって引き起こされることになったのだ。

 その文明シフトの観点から予測すると、今後、このウイルス感染の予想はヨーロッパ大陸やアメリカ大陸では更に酷くなるが、次の文明拠点のアジアではそれほど酷い状況にはならないのではないかと思っている。
 慌てふためくヨーロッパやアメリカをこれから世界は目撃するだろう。そしてヨーロッパは酷く衰退するのではないかと、ちょっと心配してるのだ。それに比べてある程度上手くこのウイルス感染をコントロールできたアジア諸国は自信を深めこれからその文明をかつての様に高めていく。

エイプリルフールの戯れ言_e0046467_14534869.jpg

 日本はどうだろうか?
 その観点からいうと、日本の役目はほぼ終わっているから。
 日本がアジアで1番初めに発展したことも、日本がたった一国で世界を相手に戦った第二次世界大戦の結果、アジア諸国やアフリカ諸国が独立して今日の国際状況を作ったことも、全て含めてほぼ役割は終えてる感じがするのだ。

 パナソニック創業者の松下幸之助翁は「文明発展は時計回りにしか回らない。なぜだかは分からないが、そうなっているのや!」と言ったらしいが、多分、本格的にアメリカ大陸からアジア大陸へとそれが来たと思っている。

 日本が唯一、ある程度の発展した場所として生き残るためには、少子化を克服することが必要になると思っている。ただ、今の日本政府の場当たり的なやり方ではほとんど効果は出ないと思う。

 では、お前に代案あるのか? と問われれば、一応はある。
 キーワードは、中央集権体制の破壊。
 昭和の初めに戦時体制として作られた東京集中の中央集権化を破壊すれば、自然に少子化は終わると思う。
 衆議院は東京、参議院は大阪に移す。各省庁はそれぞれ各都道府県に移し、道州制を加速させる。そして今回のウイルス感染はリモートワークを加速させ、地方企業にまたとないチャンスを生みだし、首都圏という企業立地の価値を著しく低下させることになる。
 東京圏に3500万人以上住まわせ、かつてないほど劣悪な通勤を若い男女共にさせ、更に経済的にも圧迫して、どうして子どもを何人も産めようか! 
 地方分権・分散を進め、小さな政府に向かっていかないと少子化は止むことはないと思う。そう考えると、少子化のそれは全て政治の責任なのだと思う。
 これを政治が達成できれば日本は残り、できなければヨーロッパの後を追って衰退していくと思う。
 そして衰退が加速すると日本からアジア諸国への移住や人口分散が加速して起こると思う。


 エイプリルフールだからね。

 全部、私の勘違いかもしれない。
 





# by japanheart | 2020-04-01 13:35 | 戦争 | Comments(0)

幸せを知る

 幸せの本質に迫りたければ”そぎ落とし”しかない。
 幸せと感じているものを一つずつそぎ落としていく。
 どうしてもゆずれない本質的なもの以外はそぎ落としていく。

 本当に食べれることの有り難さを体感智するためには、断食しかない。
 しかも一カ月程度の断食が必要かもしれない。
 あなたが食べれば幸せと感じている、寿司やステーキやお菓子やケーキなどの食から順に断っていく。
 次に当たり前のお米や卵や野菜や諸々を断つ。
 コーヒーやお茶を断ち、やがて水のみの生活にする。
 そしてさらに、水の量の制限に至る。
 これを全て意識的にやってのけてみる。
 既にこの頃には空腹感からは開放されている。渇きのみが肉体に自覚されているだろう。
 ほとんど全てのものをそぎ落としたこの時に、かつては全く認知できていなかった、当たり前にあった水の甘みやうま味を体感智できる。
 これを有り難き幸せの状態という。

 健康も同じだろう。
 筋肉を付けるとか、早く走るとか、マラソンやトライアスロンに出場するとか入賞するとか、山に登れるとか……。
 全て大病をすれば捨て去る事になる。
 きっと死を間近に意識した時、人は当たり前に日々、食べ、歩き、寝て起きて、笑い、泣く。そんな当たり前の日常の尊さを体感智する。

 本質的な幸せの自覚は日常の密度を大きく変えていく。

 我が子の事も同じなのだ。
 ジャパンハートがやっているSmileSmileProject(がんの子どもたちの旅行のサポート)などを経験してると、最後に親が子どもに望む事は、いい子でいることでも、勉強ができる事でも、いい学校や就職先を得ることでも何でもない。ただ、そこで生きて存在してくれていれば、それ以上何も望まないのだ。
 親にとって子どもに望むことは、そぎ落としていくと、ただ生きていてくれることだと分かる。そして、それこそが本質的幸せであり、それ以外は贅沢な幸せなのだと分かるのだ。
 だから昔、一休上人はこう詠んだのだ。
 「親が死に、子が死に、孫が死ぬ。この上の幸せはなし。」
 
 だから幸せには二つの方向性があることが理解できる。
 一つは付ける幸せ。いつもあなたが求めているものだ。
 もう一つ、そしてより本質的な幸せ。そぎ落としのその先にある幸せ。

 そしてとても個人的な見解なのだが、そぎ落としの方向の豊かさや幸せを得なければ、本当には人生は豊かにはならない。それは空気や水の有り難さを自覚できることに似ている。
 豊かさは積み上げるだけではなく掘り下げる事もできるのだ。

 別の角度からの例えとしては、かつてある武道家は無数の技を身に付け本当に取り込んだ時には、技を捨て去ることになると表現した。
 その時、無敵となると。
     
 そして、海外医療も実は同じなのではないのか。

 敢えて詳しくは語らないが、そぎ落として、そぎ落として、その結果。
 全ては自分自身の為にやっている行為だと悟ることになる。
 他人のためにやっているという人は、その入口にいるに過ぎない。
 そういう人間は常に主体としての自分と客体としての患者を意識する。
 だから心が常に動揺する。

 しかし、全ては自分の為なのだと体感智すれば、医療という相対的な行為から客体が消え去り、主体としての私だけが存在する世界観になる。病人や病気を相手にしながら、常に我が人生との対話を積み重ねていく。
 つまり、病というものを通して我が人生と向き合っているというそれだけの状態がそこにある。
 大した病気や危険を目前に置き、避ける事も逃げる事も自由。
 誰も私を責めることはなく、逃げてしまえば責任など発生しようもない。
 リスクを取らなくても臆病とは言われず、自らに理性的な判断なのだと、言い聞かせる事もできる。
 未来は多層的に広がっているだろうが、その中で選べる未来はたった一つ。
 それ以外の未来はそれこそ未来永劫、この世から消え伏せる。
 その決断がよかったかも悪かったかも分からぬまま時間は進んでいく。

 どんな時もそこにいるのは、満たされた私でもなく、満たされない私でもなく、他人の為に頑張っている私でもない。
 ただひたすらに心の声に従ってやらねばならぬことを為している自分が存在している。
 すでに求道の道のただ中にいる。
 誰かが口にする理屈は既に遠い風の音のようになっているだろう。

 その時、私はボロを纏っているのか、暖かい立派すぎるコートを着ているのか、藁を噛んでいるのか、贅沢な食を噛み締めているのか。
 どちらでも構わないのだ。
 心の目はそんなところを見てはいない。
 表面的な豊かさや貧しさなど、私を何も縛りはしない。 
 水の美味しさを知っている人間には、それ以外は誤差に過ぎない。

 私の人生にとって最も大切なものは何かを知ることは、まさに水の美味さを知る事なのだ。

 あなたも自分自身の人生と対話してほしい。
 他人の意見や目線などの世界から離れて。
 リスクをとって未来を開く方がいい未来が訪れると信じているのか?
 それともそんな信心は採用していないのか?
 あなたはどちらの人生を信じているのだろうか?
 あなたは、あなたが誰かの事を思い祈りを捧げるその行為に、あるいは誰かへの思いはきっと届くと信じている、その在り方を採用するだろうか?

 もしあなたが、私と同じくそれを信じているのならば、きっと今日助けられなかった同じ病に苦しむ人を、あなたも10年後はきっと救えていることだろう。

 あなたが1番好きなことは目の前のそれか?
 あなたがそんな風に生きたかったのか?
 あなたは誰かの為の犠牲だと言うけれど、ホントにそうすることがその誰かを最も幸せにする保証はどこにある?
 
 いつもいつも自分と対話してみることだ。
 
 
幸せを知る_e0046467_09240645.jpg


# by japanheart | 2020-02-28 20:57 | 基本 | Comments(0)

ジャパンハートの目標

 2020年を境に日本を取り巻く状況は大きく変わる。経済的にも安全保障分野でも、国際情勢も国内の高齢化や社会保障分野での人材不足も。
 たとえ専門家でなくてもそんな足音はよく分かる状態になっている。
 ”20年”は、私が時代を測る尺度として考えている時間の概念だ。
 私が生まれた1965年は丁度、第二次世界大戦が終わって20年目。1945年、日本は焼け野原で壊滅していた。
 わずか20年で日本は既に東京オリンピックを終え、その5年後にはアジア初の万国博覧会である大阪万博に数百万人が押しかけたのだ。
 1985年はプラザ合意を終えてドルの自由相場に移行し、日本は翌年からバブルに突入する。
 それからわずか5年目の1991年、ベルリンの壁は崩壊し、ソビエト連邦は瓦解、東西冷戦は終結した。
 20年後の2011年に東日本大震災、その10年前の2001年はニューヨークで旅客機がワールドトレードセンターに突っ込んだ911のテロが起こり、時代が大きく変わっていった節目となっている。
 それから20年。

 どんな時代になるのだろうか?

 大きくうねる社会の中で怯え続けていても仕方ない。自分は自分にしかできないことをしっかりやっていくことを考えないと。

 私にしかできないことは何だろう?
 私がいなければなかった世界とはどんな世界なのだろうか?

 そう考えてジャパンハートの近未来をビジョンしてみた。
 私がいなければなかった世界がそこにあるための必要条件、そしてその指標。

ジャパンハート三つの指標
1)日本一のブランドとなる
2)日本一の規模となり、多くの雇用と絶大な裨益者の利益を実現する
3)これから勃興するであろう無数の日本のNGOの先導役となり、時代を加速させる


 三つのうちの2)3)を達成するためには1)の通過点を押さえなければならないだろう。
 特に3)は時代からジャパンハートが課せられた使命だと感じている。

 なぜ、ドラッカーがこれからはNGO・NPOが世界の主役の一翼になると考えたのか、この世界の流れを見ていると少しずつ分かる気がする。
 私が若い頃に流行ったようなアイドルはもう生まれないとよくいわれる。
 その事と同根のように思う。

 すなわち、この世界はかつてないほどに個人が大切にされ、個性や多様性が重要視される時代になり、それは今後も加速していくだろう、きっと。
 大切で個性的な個人は、多様性を大切にする世界の中で、彼らの細分化された要求を世の中に発信し、そしてそれを世の中で叶えてくれる存在が顕れてくる。

 誰もが同じものに価値を感じなくなる。いやむしろ、同じものしか好まない人間を世界は軽蔑するようになっていくのかもしれない。
 大企業のマスを対象としたマーケティングは、どんどんその規模を縮小していくだろう。
 きっと近い将来、大企業のしていたマスマーケティングは何と効率の悪いやり方だったのかと、反省の材料にされていることだろう。
 例えば、テレビの車のコマーシャルは、巨額のお金をかけて免許のない人々や子どもたちにもマーケティングをかけていることになる。
 これからは個人情報を元に、ターゲットマーケティングにどんどん切り替わることだろう。遥かに低コストで、遥かに効率よく成果を出すことだろう。

 では、誰がその細分化された個人の要求を叶えてくれるのだろう?

 それは大企業では不可能なのだ。
 そう、それがNGO・NPOの主戦場となるなのだ。
 無数に現れたNGO・NPOが、細分化された社会的ニーズにマッチングしていくだろう。
 大企業は抽象度の高いプロダクトを生み出さなければやがて衰退していく事になるだろう。そしてその衰退までのサイクルはもうかなり早まっていると思う。

 そしてそういう環境がおおよそ実現した世界では、企業とNPO・NGOの格の違いはほぼなくなり、より大きな母集団に向けたニーズに応えようとする企業と、小さく細かいニーズに応えようとするNPO・NGOとどちらで働きたいか、あるいはどちらの方が働きがいかあるのかというその基準で職場が選択される。
 多くの若者が新卒でNPO・NGOに就職し、優秀な若者もたくさん入ってくるだろう。
 一流企業や商社に入った若者が数年で辞めてNPO・NGOに転職する光景を当たり前に見かけるだろうし、その人たちがさらに時代の流れを加速する役割を担う。
 また、もしかしたらメインの職場をどちらに置くかは別として、その両方に籍を置く人も多く存在していると思われる。

 そして、今後しばらくジャパンハートがその先頭に立ち、多くのNPO・NGOを刺激し、誘導し、サポートしながらどんどん時代を先へ進めていきたいと思っている。

 で、結局、その先に何を見ているのかというと、

人の価値が、その人生の価値が、どんどん大きく高くなってる、そういう世の中にしたいと思っている。

ジャパンハートの目標_e0046467_13163719.jpg

# by japanheart | 2020-02-08 08:30 | 基本 | Comments(0)

才能というもの

 時間を大きくロスし、なおかつ何かを大きく犠牲にして何かを手に入れるという生き方は、将来、時代にマッチしなくなると思う。
 
 最小限の犠牲で済ませ、何かを手に入れながら前に進む。
 才能が一つしかないという意識がベースにある時代は、その才能を開花させるための大きな犠牲は時間をかけても許容される。
 もちろん、その犠牲はその才能に全て転化される前提だし、そもそも健康寿命がかつては大変短かった。日本はつい最近まで社会的制限が多く、人間がいくつもの才能を開花させるには、ちと人生、時間が無さすぎたのだ。
 私が子どもの頃の50年前は定年が50〜55歳程度で、肉体労働の人が多く彼らは50歳を過ぎれば体はガタガタだったと思う。私の子ども達の時代、平均寿命予想は100歳を超えているから、なんと、かつての定年退職年齢はまだ人生の半分くらいのところになる。
 
 ”人間にはいくつもの才能がある” と理解したこれからの時代は、時間がかかる大きな犠牲を払うことは、寿命が延び投資時間をたくさん持てるにもかかわらず逆に人生全体で見ると投資対効果の効率が低くなる。才能の開花は、一つの才能が次々と別の才能をいもズル式に引っ張り出すという表れ方をするからだ。
 だから、最小限の犠牲で済ませながらどんどん効果を相乗的に生み出し、成果を出していく。引っ張り出された二つ目、三つ目の才能が逆向きに一つ目の才能を刺激して大きく成長させるようになる。一人の人間の中にある才能は互いに連動性をもっていると思う。だから、一つの才能の開花だけにあまり時間をかけすぎない方がいいと思う。

 テストみたいなものだと思ってもらうといいかな?
 一つ目の問題が難しく、それに時間を食われて余裕をなくすより、二つ目、三つ目の解ける問題からスタートして余裕をもって最後に一つ目の問題に戻るように、人生も限られた時間しかないのだから。

 働いてお金を稼ぎ、そのお金を元に技術や知識を学び、それを使って更に新しいビジネスを創めお金を大きく生み出し機会を創出し、更に大きく稼いだお金で投資して、新しい生活を手に入れる。友達を増やし、世界の観光地をまわり、見識や記憶を増やし、、、というように、やっていく。
 
才能というもの_e0046467_13230828.jpg

 私は随分長い間、途上国のインフラの整わない貧相な設備でしかも不十分な金銭的財源と人的不足の中で医療をしなければならなかったので、手術は普通の日本人医師よりも早く、手際のよい手術をする。
 しかし、外科手術はアートではないので、見た目にいくら手術が上手く見えても、バイオリンやスポーツのように評価されるのは少し違うと思っている。
 例えば、野球は打てればどんな道具を使ってもいいわけではない。通常、木で作られたバットを使う。その条件下で成績を競う。バイオリンも良い音が出せればどんな人工素材を使ってやってもいいわけではない。その楽器は既にバイオリンとは呼ばないだろう。
 ところが、戦争すら武器の制限があるのに、医療には制限がない。
 素材も機器も、その他どんなテクノロジーも患者に対する利益・不利益の効率が良ければどんな手段でも普通は問題ないのだ。
 学生時代、テストではカンニングは罰せられたのに、新しい機器が臨床現場で使用されるときはマニュアルを横に置き、それを見ながら、しかも横から機器メーカーの人間にアドバイスすら堂々ともらいながら手術が行われる。

 極論すれば、どんな手段でもいいから患者を最も治せるものが正義なのだ。
 別に、見た目のテクニックは本来どうでもいい。

 だから、時代に照らし合わせれば、これからは時間をかけて見た目上の上手さを求めるのは正しいやり方にはならないと思っている。
 それよりも最も患者の治療成績を上げられるテクニックとテクノロジーを取り入れ、時間をどんどん飛び越えていくのがいい。
 徒弟制度のような医師の仕組みは早晩、壊れると私は見ている。
 この制度はこれからますます投資対効果が薄くなるから。
 これから医師は、医師だけで集まってやるのではなく、企業やできればベンチャーと組んで新しい価値を創出していったほうがいいと思う。
 そうすれば、その医局には創造性に優れた優秀な医師がたくさん集まるだろう。
 大学の医局には、出来上がった商品を売る人間だけではなく、新しい価値を共に創ろうとする多くのベンチャーが引っ切りなしに出入りしている未来でなくてはならないと思う。

 話を戻す。
 
 これからの人類、特に日本人は伝統的に「一つの事をやり込め」と教えられてきた人々なので、人間はいくつもの才能を持つ動物であると証明していかねばならない。
 そのためにいい方法は、目的とプロセスを一致させてしまう事だ。
 旅行に行くために、頑張ってお金を稼ぐのをやめる事だ。
 旅行そのものが金銭的財源を生み出したり、お金を稼ぐ仕事が人生の学びや楽しみを十分満たしているように生きること。
 ”ボランティアに行くか、旅行に行くか” ではなく、その両方を満たすアイテムを探しあてる事。
 そして、その体験を再び、人生に投下できるように位置づけて置くこと。
 もちろんそこで出会った人々との新しいネットワークや繋がりもその一つだと思う。
 単なる思い出つくりは、やめたほうがいい。
 働くという行為とボランティアという行為の分離。
 こういう発想は時代遅れになる。

才能というもの_e0046467_13230892.jpg

 それから全て頭で考えて理解してるような気になることは危険。
 体験を重視した方がいい。
 常に、理想や思い込は現実とズレるから。

 将来、途上国で医療をしたいのだが今どんな事をやっておけばいい? とよく質問を受ける。
 これに正解はない。
 もしも正解があるとしたら、それは今すぐに途上国で医療すること以外考えられない。
 体験してそこから自分に合った正解に向かって思考を進めるしかない。
 私にはその人の正解などは到底、分かりようがないからだ。
 体験してそれを次の自分に投下していく。

 未来は行動した人間にのみ確実にその道を示し、微笑むようにできている。

才能というもの_e0046467_13230977.jpg

# by japanheart | 2019-12-31 13:12 | 基本 | Comments(0)

狂気を宿す−その2

狂気を宿す−その2

 果たして、 私にはそんな狂気を宿せているのだろうか?
想像しただけで人生からエネルギーを吸い取られてしまうような経験を経て来たのか?
 時として最愛なる人を失うことは自分の命を失うよりも耐えがたいことがある。
我が身、我が人生を振り返った時、彼らの悲しみに匹敵するような苦難を私は経験してはいないと思う。
 この身には、多分、彼らのような"狂気"など宿せてはいないだろう。

 そんな"狂気"の力を得なければならないと、ひと月もの間、全く食事を絶ち、水のみで過ごしたこともある。
 しかし、到底、彼らに匹敵するだけの"狂気"は我が身には宿せなかった。

 人はつながる。
 直接的なつながりもあれば、空間を超えてつながることもある。
 しかし、人は時間も超えてつながることもできる。もしかしたら次元すら超えて。
  数百年前の欠片が現代の誰かに何かを語ることもある。
  数百年前の武道の極秘が忽然と現代の誰かにその本義を伝えることもある。
  あなたの残した生き様や思いが子や孫の力になることもある。
  100年前の書物の一節にあなたが悶絶し、そして生き方を変えることもある。
 そしてそれは、直接的に伝わるものと、いくつもの事象に弾かれて時間をかけてバウンドしながら伝わって来るものがある。

 私に"狂気"と呼べるものがあるとしたら、それが多分、確かに私が受け取った"狂気"だったと思う。

私が初めて渡ったミャンマーの地では、50年前の第二次世界大戦で30万人の日本人達が戦い、そして約三分の二の20万人が散っていった地獄のビルマ戦線が繰り広げられていた。
戦争の"狂気"。
 
 彼らはどのように生き、そして死んでいったのか。
 彼らの思い、無念。
 家族の思い、寂しさ。
 現地の人々の思い、悲しみ。

 時間と次元をバウンドしながらそれらは私のところにたどり着いてしまった。
50年を経てたった一人、医療を行いながら、激戦により数万人が亡くなりいまだ2万人が埋まっていると言われている大地に、戦後初めての日本人として住み、戦争を経験した多くの年老いた現地の人々、生き残った日本人たちの涙や一人ひとりの人生ストーリー、壁にいまだに残る当時の弾痕、安置された日本軍の朽ちた装甲車、お寺の境内に残された錆びた鉄兜、古ぼけた兵士の写真や日本に残してきたその家族の写真、そして多くの位牌、破れた日の丸。
どれもこれもが戦争の゛狂気゛を悲しく私に伝えていた。
それらを私はシャワーのように浴びすぎたのだ。
電気もほとんどこない、安全な水も紙も手に入りにくく、たった一人で孤独だった私には自身の境遇ゆえ彼らとリンクしてしまったのかも知れない。
その時、彼らの、そしてあの大地で亡くなった人々の"狂気"を私は受け取ったのだと思う。
それらが私をここまで導いて来てきた気がする。

狂気を宿す−その2_e0046467_15494566.jpg

 たった一人、現地で医療をはじめた1995年。
苦しかった時、もう諦めようと思った時、どこに行ってもいつも私の周りには、あの大地で亡くなった日本人たちの無数の慰霊碑が存在していた。
 その慰霊碑はその前にたたずむ私に、
 「どんなに辛くとも、戦って死ぬよりはいいだろう?」と語りかけてきた。
 そう、死ぬよりはいい。
 私は人を殺すためではなく、生かすためにここに来れている幸せをかみしめたのだ。
 「戦って死ぬよりはいい。」この言葉を私は何度繰り返したことだろう?
 だからもう一度、力を振り絞りいつも立ち上がることができたのだと思う。

 1995年頃、世界中のNGOが軍政下のミャンマーで活動許可を得れずに何年も待たされていた時、「お前は日本人だから信じる!」と言ってミャンマー政府がたった数カ月で私に活動許可を与えてくれたのは、私の力ではないと今でも思っている。

狂気を宿す−その2_e0046467_15501353.jpg
 
 そして、不思議にいつも苦しかった時、私を現地で助けてくれたのは戦争時代からの縁ある人ばかりだった。

 私が失ったのは今血のつながりがある人ではなく、きっとこの日本の長い歴史のどこかで私の血とつながっている、50年以上前に散った日本人たちだったのだと思う。
私が生まれた1965年。それより20年も前に私は大切な仲間を失っていたのだ。

 私に宿された"狂気"は、正確には、私を含む私の周りに宿された"狂気"であり、何か危機的な状況に陥った時、いつも得体の知れない"狂気"の力に護られているような気がする。

 かつて傷ついた日本人達を救ってくれたのは、名もなきミャンマーの農民達だった。戦争末期、日本と共にイギリスを相手に戦ったミャンマー(ビルマ)政府は、敗戦国にならず自国の独立を勝ち取るために敗色濃厚になった日本に対して逆に宣戦布告し、戦闘状態に突入する。イギリス軍に追われ、ミャンマー軍にも追われた日本人達を救ってくれたのは、誰だったのか?
それは、名もなき農家や市井のミャンマー人たちだったのだ。
 だから、私は学んだのだ。
 本当の最後の砦、日本の最後の安全装置は、武器ではなく現地の市井の人々に信頼されること、大切に思ってもらえていることなのだと。
 それは日本政府がしている援助では決して得ることができない、人と人の時間をかけたつながりから生み出された信頼や恩義のみが可能にする安全弁だと思う。

狂気を宿す−その2_e0046467_15503003.jpg

 中村哲先生がいたことは、日本にとっては幸いである。
 アフガニスタンで日本人に何かあっても、多くのアフガニスタン人がその人を助けてくれるだろう。
 そして、ミャンマーでは、もし何かあったら私が25年かけて医療を施してきたその人たちやその家族が、75年前のようにあなたを助けてくれるはずだ。

 75年以上前に生まれたその戦争の"狂気"を私は受け取ってしまった。
そしてその"狂気"は私をこの道に縛り付け決して死ぬまで離してはくれないだろう。
 でも、それが私の人生ならば迷わず行くしかない。
 その先に何があり、どんな未来になっているのか?
 行けば分かる、行かねば分からぬ。

 これからどんな時代になろうとも、私はこれからもきっと戦争から生み出されたその"狂気"に身を包みながら生きていくと思う。
 私が倒れた時、その歩いてきた道には少しだけ平和という状態の花が咲いているのだと信じながら。
 
 この道こそが私の信じる平和の行使だと思っている。

狂気を宿す−その2_e0046467_15532468.jpg

# by japanheart | 2019-12-20 00:13 | 戦争 | Comments(0)

狂気を宿す−その1

狂気を宿す−その1

 先日、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師はかつて自身の息子を脳腫瘍で亡くしている。
 その息子が危篤の途にある時にも、日本への帰国を現地の人々が勧める中でも、「ここで帰国すれば自身のこれまでの発言が嘘になる」と頑なに拒否したそうだ。
 しかしながら、多分、彼は息子の死に際には傍にいてくれたのだと思う。
 脳腫瘍の息子の死をみおくったその三カ月後、彼はある決意を宣言する。
 飢えと渇きで既に亡くなってしまった、同じような幼い我が子を抱いたアフガニスタンの母親の姿を思い、息子の弔い合戦だと命を懸けてあることを決意したのだ。
 今のアフガニスタンに最も必要なもの。
 水と、彼らが生活できる場所、そして人々の生活の糧。
 彼は医療を捨てて巨大な用水路の建設に乗り出す。
 一切、そのための知識も経験もなかった。全て一からのスタートだった。
 しかし、彼には一つだけ誰にもないものがあったのだ。
 息子の命と引き換えに手に入れた"狂気"。
それから何年もかけて用水路は完成し、数十万人のアフガニスタンの人々の命と人生を救う事になる。

狂気を宿す−その1_e0046467_10571651.jpg

 しかし、もう少し、もっと彼が生きていたらその数は何倍にもなったことだろう。
 もっと多くの人々が彼の存在を知り、支援できていたら、もっと多くの人々が既に救われていたことだろう。
 


もう一人。
 日本最大の民間病院群「徳洲会」を作り上げた徳田虎雄医師。彼は戦前、鹿児島県奄美諸島徳之島で子だくさんの家庭の長男に生まれる。彼が10歳の時、彼の幼い弟(三男)が激しい嘔吐下痢になる。嘔吐が止まらず、夜間母親は暗闇の中、山を越えて医者を呼びにいく。しかし、医者は貧乏人の農家の倅のためになどは来てくれなかった。そして、母親の報告を受けた10歳の虎雄はたった一人、夜中に山を越えて別の医者を呼びに行く。
 しかし、その医者が三男のために虎雄の元を訪れたのは翌日の昼過ぎのことだった。既に、弟は息を引き取っていた。
 この時、虎雄はこう思ったそうだ。
 「今まで自分は医者というのは神様の次に偉い存在だと思ってきた。しかし、それは間違いだった!」
 この弟の死が彼に"狂気"を与えたと、後年、彼は語っている。
徳洲会の年中無休、貧乏人からはお金を取らない、などの理念のオリジンは彼のこの原体験に根差して生まれたものなのだ。
 自分自身に生命保険を賭けて、自分の命を担保に、彼はどんどんお金を借り入れ病院を増やし続ける。こんな"狂気"の元はかけがえのない弟を死なせてしまったその無念さと怒りだったのだと思う。

 そして、この二人、中村哲医師と徳田虎雄医師にとっての大切な身内の死が、やがて彼らをして多くの人々の命を救い、やがてその身内二人の無念の死が昇華されその死の意味付けを変えて行く。
 幼い息子と弟の可哀相な死があったからこそ、たくさんの命が救われたのだ。
彼らの死は決して無駄でもなく、意味のないものでもなく、多く命を救った尊い犠牲であったのだとこの医師二人は命を懸けで証明したのだ。

狂気を宿す−その1_e0046467_11345158.jpg


# by japanheart | 2019-12-16 18:23 | 病と人間 | Comments(0)

運命を整える

最近、医学部を目指す学生が多いらしく、時々そういう学生を対象に話をする機会が増えている。
どうしたら医学部に受かるのかはイロイロな理屈はあるのだけれども、私は二つのことを同時にしなくてはならないと思っている。
一つはもちろん勉強。
勉強については専門家の人達に任せて今回はもう一つのことに焦点を当ててみたい。

もう一つというのは、運命を整える習慣のこと。

 この中にはたくさんの事柄があって一概にこの事だとは言いにくいのだが、簡単に言ってしまえば勉強以外の全部の事かもしれない。
 体力を整えたり、食事をコントロールしたり、試験当日に風邪を引いていない様に調整したり、家庭内の環境を上手く調節したりという、実に様々な事柄が含まれるのだが、これらは理性的には当たり前の事であって誰でもできる事だと思う。
 私が重要視しているのはそのうちの理性以外のもの。あえて言えば理性ではなくて感性的なもの。
運気を上げると言えばご都合主義なのだが、正確にはやっぱり”運命を整える”という言い方が適当だと思う。
 自分固有のリズムの狂いを調整し、知らぬ間に狂ってしまったリズムの乱れから起こる様々なトラブルを未然に防ぎ、人間関係や体調を調整し、身に付けた成果を滞りなく発現させる。

運命を整える_e0046467_14413189.jpg


 昔から剣の達人達が瞑想を取り入れていたのもおそらくこれが理由だと思う。身体を使う剣術の稽古とはおおよそ真逆の、静的な所作を何故あれぼど重要視していたのか? 何故、心という捉えようがないものに向かい合ったのか?
 受験で合格しようが落ちようが、その人の人生にとって、終わってみればその後の人生に最高の結果をもたらすであろう、その結果へと運命を導いてくれるであろうその中継点に着地できるように。

 人は知らぬ間に社会や親から洗脳を受けているものだから、それが本人の才能とズレがあることに気付かないまま、まるで自分の意思かのように勘違いして見当違いの方向へ人生をスライドさせていく。
 医師に向いていない人間が医師にならないように。
 医師になるよりもさらにその人の人生にとって、望むらくは人類にとって大切な別の才能が埋もれてしまわぬ様に。
 運命を整えるということは、自分の個性や能力を自然に発揮させる方向へ向かうという言い方もできるかもしれない。

運命を整える_e0046467_14103360.jpg

 ところで、たとえどんな結果になろうとも、それぞれの人生に持ち越せるものがあることも合わせて知っておかないといけない。
 それは本気で苦しんだ体験の事を指す。
この体験は応用が利き、死ぬまで何度でも使い倒せる。
だから中途半端や諦めは禁物だ。
空振りしてもいいから本気で球を撃ちにいくということ。
適当にバットを振って結果がホームランになってもその体験は人生にとっては単にムラを生み出す原因にしかならず、おそらく将来、知らぬ間にその人の人生の成果を目減りさせていくと思う。

 さて、運命を整えるということにおいては、例えば、健全な野菜を中心とした食事を摂るという実際の行為よりも、健全な野菜を摂ろうという意思を常に意識していることが影響する。
 運動が苦手な人間が3km走れる様になるよりは、毎日1kmでも必ず走る習慣を付けようと努力する意思が大切なのだ。
 30分瞑想できるようになるよりは、毎日必ず5分続けて瞑想を繰り返す習慣を確立する思いが大切になる。

 毎日、外界を遮断した中での掃除や決まった心地好いスピードのウオーキングをすることで、無意識にリズムを整え、そのリズムからズレた時の違和感を感得する。違和感というとても不安定なものの感得なので微細さが求められるため、常にリズムを整えるその人なりの技法を持っておいて、常に時間がある時には繰り返す癖をつけておいた方がいい。

 目を閉じて深呼吸を10回するでもいいのかも知れない。
 お経を何回も心の中で唱えてもいいのかも知れない。
 単に右指先を同じ方向に5分回し続けるだけでもいいのかも知れない。
とにかく、リズムを正常に戻すためのトリガーが必要なのだ。
これを癖にしてしまうことで運命は整えられていく。
 
  しかしながら、もちろん勉強は効率よく全力でやらなければならない事は当たり前。

 レストランでいうと、勉強することはおいしい料理を作る作業と同じ。
 運命を整える作業は強いて言えば、その料理を上手く人に宣伝する事。正当に料理のおいしいさを世の中に知ってもらうこと。ただし、おいしい料理でないと2度と店には来てもらえず、悪い噂も立ち、やがてそのレストランは潰れることになる。

同じ事が人生にも起こるので、くれぐれも勉強は手を抜かないように。心して。


運命を整える_e0046467_13454417.jpg

# by japanheart | 2019-11-28 02:08 | 医者の本音 | Comments(0)

日本の知恵

神社にいくと子どものころは「何を拝んでいるのだろか?」と思っていた。
仏教のイメージも相まって仏像の様なものが置いてあるのだろうと何となく想像していた。

神社は不思議なもので、石を奉っているところもあるし、刀を奉っているところもある。
しかし一番多いのは鏡なのだろう。
何故、鏡を奉っているのか?
しばらく意味が分からなかった。
昔は鏡というものが高価なもので、なかなか手に入れることが困難な宝物だったからかもしれないな、などと考えていた。

でも最近は人生少しばかり長く過ごしてきたこともあってか、なるほどそういうことね!と分かるようになってきた。
最近不思議と人生の様々な事柄の意味を言語化できるようになり、言語化できるようになると更に深くその意味を理解できるようになってきているような気がする。

人間は元々、宇宙に存在している意識体みたいなものだ。宇宙は本当は真っ暗闇だから私には私のことが全く分からない。
ただ、「我思う、ゆえに我あり」で、考えている自分がいるのだから、自分は存在していることだけは理解している。
しかし、どんな手足を持ち、どんな容姿で、綺麗なのか醜いのか、そもそも肉体を持っているのかすら分からない。
本来は。

しかし、宇宙には星がある。星の光が存在する。
その光が私を照らす。真っ暗闇の中に映し出された私の手足。私の皮膚。
私は自分が肉体を持っている存在であることを知る。


私たち人間には光が必要なのだ。光がなければ私たちは自分のことが何もわからない。

私たちにとっての光は、自分を取り巻く世の中のことだ。
自分の周りにいる人々のことであり、この世界全てのことだ。

私たちは人と交わり様々な感情を抱く。交わった時に初めて自分がそういう感情を持っていると知ることになる。
どんな感情が私の中にあるのか自分では全く分からない。
日本の知恵_e0046467_11173759.jpg
人を好きになって初めて自分にそういう感情が内在されていたことを知る。
世の中は私の全てを映し出す鏡なのだ。
鏡がなければ自分の顔を見ることができないように、世の中に映し出さなければ私たちは自分の何も知ることはできない。

神社にある鏡はそのことを私たちに教えている。

そして、もう一つ大切な意味がある。

私たちが世の中に当てて自覚したその全てのものは元々、私たちの中に内在されていたものなのだ。
人を愛おしむ感情も醜い感情も、全て。

多分、私たちは私たちに必要なものは全てはじめから持っている。
更に言えば、自分に元々内在されていないものはどんなに望んでも手に入らない。

人は何かを外から付けると思っているが、それは誤解だと思う。
外から能力は付かない。
自分に元々内在されていた能力が開花しただけなのだ。

何か努力する。
勉強でも、スポーツでも、何でもいい。
それは刺激であって、その結果として自分の中にあるものが目覚めているに過ぎない。

数学が解けるのも、100mを9秒台で走れるのも、全部その人の中に生まれた時から内在されていたものなのだ。
内在されていないものはどんなに努力しても、望んでも達成されない。
人間が空を自分で飛べないように。

何かを欲して私たちの多くは神社に行きそこで手を合わせる。
そこにあるのは、鏡。
そこに映し出されているのは、おそらく手を合わせる自分自身。
多くの神社は自分で自分を拝む場所なのだ。
だから、願いごとをしているのは、実は自分自身にお願いをしていることになる。
日本人は遠い昔からそのことを理解していたのだろう。
自分を拝み、自分にお願いすることが最も効果のある力を生み出すこと。

そこに鎮座するその神様たちはそれを多分、静かに見て笑っている。

そういう場所が神社なのだと思う。


人や組織に頼ってはいけない。頼るのは自分自身なのだ!といにしえの昔から教えてくれている日本の知恵なのだ。

日本の知恵_e0046467_11173784.jpg

# by japanheart | 2019-09-29 05:17 | 基本 | Comments(0)
 生き方の重心を意識する


人間には、我々が感知・感得できるおおよそ全てのものが内在されている。

 瞑想はその内在されているのもを感知・感得する作業かもしれない。
人は感知・感得できないものをそもそも認知できないし、脳はそれをスルーしてあたかもその人の人生にはその事柄は存在しなかったかのごとく振る舞うだろう。
その人の能力を開発するとは、外界の刺激や触媒を利用して、その人に内在している可能性を発現させていくことに他ならない。

特に私が最近、危惧していることがある。

自分自身にとっても社会にとっても、良い能力ならばどんどん開花させればいいようなものだが、世の中はどうもそんなに簡単ではないらしい。

世の中に大いなる恵みをもたらすものは、同時に大きな災いをもたらす可能性がある。
そして厄介なことにそれは宿命的なものなのだ。
何かを成すことができるというのは、ある性質のエネルギーを手に入れた(開花させた)ということだが、そのエネルギーの発現の方向性の違いによって、私の場合でいうと命の尊厳を守れたり、命を傷つけたりという結果をもたらしているだけなのだ。

もっとかみ砕いた例を挙げると、人の命を救うことができる医療技術は人を殺すことも、助けることもどちらもできるということで、単にその目的によって結果が変わるが、その本質は同じで、それを操る者はそのレベル(エネルギー)の可能性を開発させているということなのだと思う。

 だからこそ1番大切なことは、どこに重心を置いた生き方をしているか? ということなのだと思う。

 生き方の重心を意識する_e0046467_17522379.jpg

私は時にとても他人に寛容になれるが、時に同程度に酷く他人に怒りを覚えて責める事がある。
私は人の命を大切にしてとても敏感に対応するが、自分に危害を加えようとする人間や動物や昆虫には全く無慈悲に対応し、血を吸いに来る蚊は叩き潰し、その命を平気で奪っても何ら良心の呵責には苛まれない。

私は自分の好む臭いにはとても心地よさを感じるが、苦手な臭いの場所には全く近づきたくない。
これが私なのだ。

そしてこれは私だけではない。
人間はこんなものだ。

日米戦争で日本への原爆投下を計画して、毎日の様に多くの都市を爆撃し一般人の婦女子を殺しまくる指示を出していたアメリカ大統領のルーズベルトは、飼っている犬をとても可愛がって大切にしていた。彼にとっては人間の命よりも近くにいるその犬の方が、何倍も大切で尊いものだった。彼にとって日本人の命など、虫けら以下にしか感じなかったのだ。
ルーズベルトだけでない。

人間はこんなものだ。

自分の成果は誇り褒められたいくせに、他人の成果は否定し、足を引っ張る。
自分と同じ意見は過剰に評価するくせに、違う意見は叩き潰そうとする。

 生き方の重心を意識する_e0046467_17575430.jpg

人間、自己の可能性を開発するということは、実は大きなリスクを伴っているゆえに、自己のコントロールを上手く効かせなければならない。
その可能性を大きく手に入れれば入れる程に、逆の形で世の中に発現させてしまうと大変なことになる。

だからこそ先ほど述べた生き方の重心が大切なのだ。

 能力を開発した者は、してしまった者は、必ず意識して重心を世の中の為になる方向にもっていかねばならない。
なぜなら、自分が出したそのエネルギーの反作用を自分が受けることになるだろうから。
 そのエネルギーを外部に放出したくない場合、残念ながら方法は一つしかない。自分のエネルギーレベルを全体的に下げること。その代わり、全体的にエネルギーレベルを落とすと生きる力が弱まる
結果、気力が萎え、精気を失っていく。
水はやり過ぎても、やらなさ過ぎても植物は枯れてしまう。
人間も同じ。
自分の中にエネルギーを溜めすぎれば、人も腐ってしまう。

だから、外にエネルギーを循環させねばならない。
世の中の為に何かを成すのは自分の為でもある。
開花させた能力を世の中の為に使うのは、自分の為でもあるのだ。
そういう重心に日常を置いておく意識を常にもっておかなけばいけないのだと考えている。
とにかく、常に。
緩めば重心は知らぬ間に移動しているから。

 生き方の重心を意識する_e0046467_17522452.jpg




# by japanheart | 2019-08-12 04:51 | 医者の本音 | Comments(0)

赤い風船

赤い風船


そう遠くない昔、日本の子どもたちは本当にたくさん亡くなっていた。
昭和の戦前は日本人の平均寿命は45歳程度。
これは5歳以下の子ども達がかなり死んでいたということを意味する。

日本で1番大きな医療グループ徳洲会の創設者である徳田虎雄は奄美群島の徳之島で育った。
三番目の幼い弟がひどい下痢と嘔吐を起こしたため、虎雄は医者を呼びに行き懇願したが、一人目の医者は貧乏な農家には来てくれず、二人目の医者はようやく翌日昼過ぎにやってきた。その頃、弟は既に亡くなっていた。
この弟の死が、彼に狂気を与えたのだ。
そして、それが原体験となり日本中に病院を作っていく。

童謡に『シャボン玉』という歌がある。

 シャボン玉飛んだ  屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで  こわれて消えた
 風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ

 シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
 生まれてすぐに こわれて消えた
 風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ

これを作詞した野口雨情は長女みどりを生まれてすぐに亡くしている。この歌には、はかなく散った娘への切ない想いが込められているといわれている。

日本では多くの親や家族が本当に耐えがたい悲しみを背負ってきたのだ。

赤い風船_e0046467_17530993.jpg



最近、YouTubeを見てたら、偶然にも私が子どもの頃に流行った懐かしい歌を発見して聴いてみた。聴いてみたら、なぜだかその歌に引き込まれ、ここ数日何度も何度もその歌を聴き、口ずさむようになった。
そして、これは偶然ではない! ということにようやく気づいた。
過去から未来へ時間が振れる。

その歌のタイトルは
  『赤い風船』

歌詞は

 あの娘はどこの娘 こんな夕暮れ
 しっかりにぎりしめた赤い風船よ
 なぜだかこの手をするりと抜けた
 小さな夢がしぼむ どこか遠い空
 そんなとき 誰かがほら
 もうじきあの あの人が来てくれる
 きっとまた 小さな夢もって


これは本当に、途上国の子ども達の事を歌っている歌だと思った。
”赤い風船”は子どもの命
”あの人”とはあなたのことだ!
あなたのことなんだ!

この歌を最近、毎日口ずさむ。
一人、一人と、私のもとに”あの人”が集い、そしてあの娘たちの赤い風船をつかみ取ってくれる人が現れることを願って。

私一人では、するりと抜けた赤い風船はどこかの遠い空に消えてしまう。
だから、あなたが医療者ならばあなたの技術や知識を貸してほしい。
あなたが学生や社会人ならば、あなたの時間や労力やネットワークを貸してほしい。
あなたが起業家ならば、あなたの持っている社会変革力の一部を分けてほしい。
あなたが普通の主婦ならば、あなたの周りの人に私たちのことを伝えてほしい。
あなたがまだ若い中学生や高校生ならば、必ず将来、私と共に働くのだと誓ってほしい。


私は必ず待っているから。

 あの娘はどこの娘 こんな夕暮れ
 しっかりにぎりしめた赤い風船よ
 なぜだかこの手をするりと抜けた
 小さな夢がしぼむ どこか遠い空
 そんなとき 誰かがほら
 もうじきあの あの人が来てくれる
 きっとまた 小さな夢もって

赤い風船_e0046467_17530831.jpg

# by japanheart | 2019-07-18 02:10 | 子どものこと | Comments(0)

境界線を壊す

私のミッションは
 既存の境界線を消すことがその役割
国境! 人種! 宗教! 人が作った様々な制約! 貧富の格差による運命!

と、ふと、言葉が脳裏に浮かんできた。

多くの日本人の親は子どもを否定的に育てるのが当たり前だった。貧しい時代や生活するのが大変な国々ではそういう考えが一般的になってしまう。そうしなければ生きていけない、社会全体で協力し合わなければ生活基盤が維持できないそういう国々では、子どもたちは否定的に育てられる。
それは現実を知る大人たちの人生そのものの投影だったのだろう。
大志を抱けと子どもに教えたところで、大人達はろくな助けなどできはしなかったのだから。
誰もが肩を寄せ合い協力しながらやってきた。人類のそういう時間が如何に長かったことか。
かつての日本のように、あるいは中国やロシアのような食糧すら十分供給できなかった国々は大人達の可能性も子どもたちの可能性も多くは否定されながら育てられたのだ。

境界線を壊す_e0046467_13465416.jpg

アメリカで自己啓発や肯定的な指導が盛んになったのは当たり前なのだと思う。アメリカは、この70年位の長い間、どこの国々よりも豊かで食べる事には不自由しなかった。そういう人々だから子ども達の可能性も否定せずにやれたのだと思う。もちろん、大人達も自らの可能性も肯定的に捉えられたのだと。


でも、
しかし、
時代は変わったのだ。

もう日本人達は十分豊かになって40年位は経っているんだろう?
変わったのに、相変わらず昔の貧しかった時代の子育てや他人への評価をしているのではないのか?
限られた環境や条件のなかで最高の成果を目指し人間の能力を作り上げていくという、日本の得意とするあり方は、既にこの時代にはミスマッチしている。

理由は二つ。
一つはイノベーションのスピードが人の能力アップのスピードを超えている。そして、もう一つは世界は狭い日本だけで動いてるわけではなくなり、何十億もの人々が連動して動く時代となり、限られた環境や条件の範囲が既に何十倍にも広がっているから。

 なのに、日本人は相変わらず昔のままの、貧しかった長い歴史の考え方や文化が人々のあり方に幅を効かせている。
 学校教育や職場環境、女性の地位や労働、あるいは少子化の問題でさえ同じように古い考えが人々の意識のベースにあり、それが人々の人生を、そしてこの日本という国を弱めていってると思う。

 子どもが電車やバスの中で泣いているだけで腹を立てている大人達がいる国に未来などあるわけがない。
 未婚の子どもを持つことが罪の意識を呼び起こす国に少子化など止めれるわけはない。
 どこの利権か不明だが、高齢者に大量の医療費を注ぎ込み、若い人々の教育を無償化できない国に未来はあるのだろうか?

 自分の人生を振り返り、そして自分の成してきた事を振り返ったとき、私は何をしてきたのか?何をしていきたいのか、本当は?
自問自答してみた。

そしたら、

私のミッションは
      既存の境界線を消すことがその役割

と脳が答えてきた。
 
医療の世界はまだまだ、貧しい国では酷いものだ。
 子どもが簡単に死んでしまう。
 そんなに簡単に殺すならば、国家や免許の壁を取っ払ってくれればもっと人々は助かるのに、と思う。
 なんで医療技術の低い医療者に、その国の人間だからいう理由だけで診てもらわなければならないのか?
 世の中にはもっと良い医療者が、たとえ国籍が違っても、安い値段で医療を提供してくれるかも知れないのに。
 国家という仕組みが人々を不幸にしている。
情報や食糧や物品は簡単に国境を跨ぐのに、なぜ、医療はこんなにも制約が多いのだろう?

境界線を壊す_e0046467_13465475.jpg

 日本政府もどこの国々も似たり寄ったりだが、その国の製品を売るために予算を付け、補助金を付け、企業を後押しして海外に出ていく。
 物が溢れる時代に、メイド イン ジャパンだと誇らしげにそのようなことをしても、もう尊敬や信頼はかつてのようには獲得できないと何故、分からないのだろう?
 これから未来のホントの国益はどのようなものになるのだろうか?
物を売ったり、ODAで中国の数分の1程度の予算を付けることがホントに国益になるのだろうか?
 
 医療が必要な貧しい人々を無償で20年救い続ける事は、日本の為になっていないのか?
 ミャンマーで死んでいく子ども達のために、生体肝移植や心臓病の治療や技術移転をしていることは、日本の為になっていないのか?
 カンボジアで酷い生存率だった小児がんの治療を日本で最高の医療チームがいま、行っている事は日本の為になっていないのか?

 日本の役人達は、NGOを低く見ている人間が多い。

ホントに私たちが正しいと信じる事など認めもしないし、そのように柔軟性を持たせる事もしない。ただ、自分達のルールに合わせなければ何も認めない。
だから、政府からの予算など制約が多過ぎてもらってられない。
個性など潰されるか封印されてしまう。
何のためにそれぞれのNGOがあるのかも意味をなさなくなってしまう。
政府が”これからは多様性が必要なのだ”とうそぶいても、やってることは中央集権の画一的なやり方のままだ。
NGOなど対等だとは思ってないのだろう。
政府は国民から税金でお金を集め、それを再分配するのが役目だが、そこに制約が多く付けられバイアスが大きくかかるのは、ホントに国民の希望通りなのか?
私が考える”国民に対する正義”は、より素晴らしい活動に税金を投下することだと思うけど。

どんなに立派な活動をしていてもまあ、日本政府から声をかけてくることはない。
それは不公平になるという理屈なのだと思うけど。
だから、いつもこちらから申請することになる。そうなると評価するのは向こうで、評価されるのはこちらになる。で、結果的に上下関係ができ上がるという悪循環だ。NGO関係者がペコペコしてる姿を見るのは悲しい気持ちになる。

だから、苦しくて大変でも自分でお金を集めるしかないのだ。

けれど、私は諦めない。
なぜなら、
私のミッションは
      既存の境界線を消すこと
だから。
 
境界線を壊す_e0046467_13465346.jpg

たとえ苦しくても、政府が税金を再分配してくれなくても、この世界にある既存の境界線によって起こっている様々な障害や不公正をなくしてやろうと決意している。
貧しいから質の悪い医療しか受けられないという常識を壊してやろう。
メイド イン ジャパンは物の質だという常識を壊して、「メイド イン ジャパンとは無形の日本人達の高い精神性」を指す言葉に変えてやろう!


多くの人々がここに集ってくれることを願う。

境界線を壊す_e0046467_13475834.jpg

# by japanheart | 2019-07-08 00:28 | 活動記録 | Comments(0)

大阪 講演会のお知らせ

大阪 講演会のお知らせ

6月5日 大阪で講演会を行います。
普段は企業や学校法人など、とてもクローズな場で話すことがほとんどの為、一般の学生や社会人には話をする機会をなかなか持てないのが心残り。

何とひょんなことから知り合いになった占い師のTeraさん(この人凄いらしい)が講演会を企画してくれました。
 占いなどほとんど信じない私ですが何故かこの人の言うことは良く聞くようにしてます。多くの人にはそれが意外らしい。
 でも、少しイケてる人は占いを信じるらしい。
さらに凄い人間は占いを利用するらしい。
ということで、私は占いを利用してさらに凄い人間であろうと企んでいるということもある。

関西の人にはなかなか話をする機会がないので、少しお金はいるけど是非、お越し願えればと思います。
 いい映画一本観たくらいの価値ある話はするつもりですから。
では、是非、大阪で会いましょう!


大阪 講演会のお知らせ_e0046467_07353488.jpg


場所は大阪のBIGCAT


開催日2019年06月05日(水)
時間18:00開場 18:30開演
会場心斎橋 BIGCAT
アクセス〒542-0086 大阪市中央区西心斎橋1-6-14 BIG STEP 4階
参加費前売り券3,000円 当日券3,500円 (税込み/自由席/入場時ドリンク代別途600円)
プログラム18:30~20:30 吉岡秀人 講演会
20:30~21:30 インタビュアーとの対談(来場者からの質疑応答含む)
※時間、内容は予告なく変更となる場合がございます。ご了承ください。
チケット販売場所

チケットぴあ(Pコード:641-656)
ローソンチケット(Lコード:54563)
e+(https://eplus.jp/sf/detail/2844430001


# by japanheart | 2019-05-27 07:20 | 講演会 | Comments(0)
いい看護師を作るのではない、いい人間を作るのだ

いい看護師を育てようと頑張ってきた。
時には厳しく、時には寛容に、そして時には無関心という態度を取りながら、どうすれば最も患者のために、そして現場を繁栄させる看護師を作ることができるのだろうと悩み続けてきた。

 医師や看護師の人生などというものは、これから人生100年の時代にはその長さはわずか40%の比重に過ぎない。人はその渦中にいるときはそれを全てだと勘違いしているが、定年を迎えた後は更にその長さと同じく40%の人生が残っている。
 この中間の期間を中途半端でいいかげんな、あるいは横柄な態度で過ごすことは、残りの人生を台なしにしてしまうという事を容易に想像させる。特に後半の人生が寂しく惨めなものであれば、若い頃にどれ程輝いてみせても死ぬときに必ず後悔することになる。
 
 いい看護師とは果たしてどのような看護師を指すのだろうか?
いい看護師であったことが、そうでなかった看護師たちよりも、その後の長い人生の中で役に立たないということがあってはならないだろう。
 技術力が高い看護師がいい看護師なのだろうか?
 もちろん、それはそうだろう。
 しかし、技術力があったことがその後の人生でどれだけ役に立つのだろうか?
 その後の人生とたいした連続性も持たず、役にも立たないような事を手に入れる事に相当な時間とエネルギーを投下することは、果たして自分の人生を幸せにしているのだろうか?
 知識も同じだろう。もちろんそれは持たねばならないし、医療者にとっては必須のものだ。しかし、医療の知識などというものがその後の人生にとってどれ程再利用できるのだろうか?
 人生にとっては結果よりもそのプロセスが影響を及ぼす度合いが高い。
 私という人生では、高い技術を持っていたことよりも、高い技術を持とうと日々一生懸命努力したことに強い影響を受ける。
 多くの知識を持っていることよりも、より多くの知識を身につけようと日々たゆまなく努力したことが強い影響を及ぼす。

いい看護師を作るのではない、いい人間を作るのだ!_e0046467_11211064.jpg

 確かに高い技術や知識を持っている看護師はいい看護師といえるのかもしれない。では、それらを十分に持ち合わせていながら患者の境遇や気持ちを理解できない看護師はどうなのだろうか?

 高い技術も知識もいい看護師である為の必要条件でしかない。
 高い技術や知識はどこでどう訓練すれば身につくのか? 大方の人はよく分かっていると思う。しかし、それらは医療という幅広い分野の中で、自分が現在いる領域でしか力は発揮できず、分野が少し変わればまた同様の努力を繰り返さなければならない。しかもこれらの能力は比較的短期間で習得可能な能力でもあるのだ。

 一方、患者の境遇や気持ちを理解できる力とか、患者やその家族の不安や状況を察知できる能力、いつも清潔な環境を目指す能力、同僚やチームとバランスを取りながらコミュニケーションを高度に達成する能力、患者や仲間との約束を守る能力など、これらはいい看護師に必要な能力だが、決して短時間で簡単に作れる能力ではない。
 むしろこれらの能力こそ、いい看護師になるためのしっかりしたトレーニングの機会が必要なものではないのか。
 その次元では、医療行為も、掃除も、料理も、ミーティングも同様に同等に大切なものになる。そのどれもがその人の人生には同等に大切な要素だから。
 

いい看護師を作るのではない、いい人間を作るのだ!_e0046467_11211044.jpg
いい看護師を作るのではない、いい人間を作るのだ!_e0046467_11211161.jpg

 人間はすぐに言い訳し、自分を守り、逃げ出す。そして、逃げた罪悪感や敗北感を背負わなくてもいいように他人や環境を責め、自分を正当化する。
 これを繰り返していてそれらの能力が十分につくのか?
そんな弱い自分だからこそ、踏ん張って逃げ出さずに自分と向き合える状況や環境に身を置かねばならない。

 その場こそ、私がジャパンハートを作る前から主宰していた長期の看護師ボランティア研修(現・国際看護師研修)だった。
既に300人以上の看護師たちがそこを通過している。

いい看護師を作るのではない、いい人間を作るのだ!_e0046467_11205604.jpg

 長い間、私なりに悩みながらやってきて、上手くいったときもあれば、正直、失敗したときもあった。

 しかしようやく一つの結論に達しつつある。

それはこの看護師研修は、いい看護師を作ることだけの為に行われるものではなく、いい人間を作る為にこそ行われる。
 本当にいい人間こそがいい看護を行える。
 本当にいい人間であれば看護師という時期を終えても幸せになれる。
 今は看護師というその人の人生そのものを幸せにする。
 その幸せな看護師が周りの患者やその家族たちを幸せにしていく。



 そして今、私が思う看護師たちの為の研修は、一言にすると以下のようになる。

 私(ジャパンハート)が行う長期の看護師ボランティア研修は、

           いい人間を育てること

  を目標にしている、のだと。

 
 


いい看護師を作るのではない、いい人間を作るのだ!_e0046467_11205740.jpg


# by japanheart | 2019-05-05 18:44 | 基本 | Comments(0)

積み上げていく


数年前、社長に頼み込んで、長野県伊那市にある"かんてんぱぱ"という会社へ見学に行かせてもらったことがある。この会社は地元でもとても人気があり、今では就職するためにはすごい倍率を勝ち抜かねばならないらしい。
 自然の中にあるその会社は様々な面でとてもしっかりとした管理教育がされ魅力的な会社だった。
 ある工程の施設を見学したときに、独特な機械を見せてもらう。なぜ、こんな凄い機械を作り上げることができたのだろうと感心した。それこそ東大や京大等の一流大学出身の人たちが集まって作ったものではない。地元の人たちを採用し、その人達が改良に改良を重ねて作り上げたものだ。
 私たちはそのでき上がった最終形のものを見て「凄い!」と唸り、感心する。
しかし、こういうレベルの高い機械も一つひとつの地道な努力の積み重ねでできていることに、なかなか思い至らないものなのだ。
 数百メートルの高層ビルも、一つひとつの資材の積み重ねを一階部分から行い、時間と労力をかけ、やがて高層ビルが完成する。
 しかし私たちはやはりでき上がったビルの姿を見て感心してしまうのだ。

 そうして「とても自分にはこんなものは作れないのだろう」と諦めてしまう。

私たちの様な外科医の技術も同じ。「こんな凄い手術は自分にはできない」と学生の頃は思ってしまう。

 私が手術の時、どのように考え、そのやり方やアイデアを採用し、その後その状態をどの様な視点で見ているかを現場で話す。
なかには言っている意味がチンプンカンプンの人もいる。どこをどう扱ったらそのような発想とかそのようなやり方をできるようになるのか?全く想像外に感じ、諦めに近い感覚になる人もいる。
 どうせ自分は医者ではないからとか、専門家ではないからと言い訳をしながら思考を停止させる。
そういう人間は生涯、そのレベルには立てない。そのレベルに立てないという事は、少なくとも私よりも患者たちに危険を与える存在であり続けるということになる。

積み上げていく_e0046467_21115185.jpg

 でも、振り返ってみると約30年弱前の私は、数日前までは学生だった身で、現場の事など何も知らず、そしていましがた医者になった、そんな存在だった。
 毎日毎日、少しづつレンガを積むように経験や知識を諦めずに積み上げ今の姿や能力がある。そしてそこから生み出される考えやアイデアを社会に放散している。
 しかし、周りの人間は今、放散しているものだけを見て、自分には無理だと、自分は分からなくてもいいのだと勝手に思い込む。結果、知らぬ間に患者たちにリスクを背負わせる。
 今の私の状態は、決して順風に楽々とでき上がったわけではない。努力はもちろん大変な思いもしたし、惨めな辛い経験も何度も何度も経験して何とかやっとでき上がったものなのだ。

積み上げていく_e0046467_21115353.jpg

 だから、私以外の人も一つひとつレンガを積むように、諦めずに確実に積み上げていくしかない。時間をかければやがて私のレベルなどは簡単に到達してしまうだろう。
 他人が努力の末に到達した”結果”の部分だけを見て、自分には無理だなどと諦めずにさえいれば。
フラストレーションこそ、素晴らしい未来への燃料になる。
 自分のレベルが低いと思うならば、自分の現状に満足できないのならば、今から始めるしかない。

 始めるのに、今より最良の開始時期はあなたの人生にはないのだから。


# by japanheart | 2019-05-03 15:35 | 基本 | Comments(0)

夢のカタチ

親に比べて子どもはイマイチ?
そう言われることもあるのかもしれない。
親が立派すぎると、あるいは兄弟姉妹の上の出来が良すぎると。

例えば、うちの長男は私が40歳の時の子どもで次男は42歳の時に生まれた。
私と子ども達の間には40年もの時間の差がある。
世間は親に比べてと言うけれど、私からすれば、「オイオイ、比較するなよ!失礼な。」と思ってしまう。
 少なくとも私の場合は40年間も自分の長男よりも長く生き、その間、努力し苦しみやってきて今に至る。そんな長い時間のエネルギーをかけて今の自分がいるのに、40年分の努力もエネルギーも投下してない若者と当たり前のように比べられてもね〜。
 逆に比べられた若者も迷惑だろうね。小学生の時にプロの野球選手と比べて、お前は能力がないと言われているようなものだろう? まだまだこれからなのに。
 しかも、40年間時間をかければ何でもできる気がするではないか。
 大切なことは、ただ、不器用でも一生懸命に生きること。
 自分はこんなもんだと自分を低く扱わずに生きること。

夢のカタチ_e0046467_20082881.jpg

高い給料をもらう。
大きな企業に勤める。
有名なブランド品を手に入れる。

こういう生き方が私たちの世代の目指す生き方だった。
そうして長い間、そういう人間達をたくさん観察してきた。
それでよく分かったのは、人間、給料はそこそこもらえていれば、自分とその家族の範囲は生きていける。
お金をたくさん持っていて自分自身の為にしか使えない人間は、まあー、心と生き様が20世紀に取り残された人間だと思って避けた方がいい。
 私が思う使えない程のお金を持つメリットはただ一つ。
そのお金を他人や社会の為に使えるということだ。
 だから、そこそこ以上のお金は自分や家族のために必要ないと思う。

 いい車を持つとか、立派すぎる家に住むとか、いい衣装や携帯品を持つのは、私にとっては全部見栄の問題だからそこさえコントロールできれば、私の様になるかもしれない。

 車は必要なときにあって壊れずに動きさえすればいい。
 住む家は何とか雨露をしのぐレベルでいい。
 衣類は寒さや暑さに耐え、携帯品は機能性に優れた物が最もいい。
こんな人間は文化や産業を育てにくいけれども、いざとなればこの辺まで考えや生き方をもってくればいいのだという覚悟があれば、人生も必要以上に苦しまずに済むかもしれない。

 これからの若者達は、どんどん吉岡化していくような気がする。
 もしかしたら二極化するのかも知れないけれど、きっと多くの人たちが私の様に感じ、考え、行動するようになると思う。
 江戸時代や明治時代の貴族のような生活を現代の若者達がしているわけだから、本質的にはそれで満足できるのかもしれない。
 明治時代と比べて見てよ! 現代の若者達ですら栄養価の高い食品を毎日食べ、かつてでは考えられないくらい高度な医療の庇護下にあり、かつては何日間もかかった距離をわずか数時間で安全に移動し、全く入って来なかった世界中の情報を瞬時に手に入れる。身分や生まれとは無関係に、何よりも自由に未来が描ける可能性があること。

夢のカタチ_e0046467_20065210.jpg


明治時代までは、日本人にとって「夢」という概念は寝ている間に見る夢を指した。
今、言われているような将来の事を指す概念はそもそもなかったのだ。

 私たち、日本人は身分や生まれに関係なく生きれる様になって、未来を描く事ができるようになったのだ。
 だから、夢を持つことこそが近代人の近代人たる証なのだと思う。
この時代に生まれて自由な未来を描く事を放棄したら過去の人類に申し訳ない。
 
 自分と親を比べても意味がない。
 お金を必要以上に持つために時間を失うのは人生の無駄遣い。
 多分、お金は目的ではなく、結果として手に入れているもの。
 これからの世の中、人の評価は所属会社にはなくて、その人自身についていくもの。会社のブランドで自分を誇るというみっともない事はこれからしなくてもよくなる。
 車も家も衣装も、見栄を張るためでなく、文化や産業を育てる意識で購入する時代。だから、値段に重きを置くのではなく自分の個性に見合うブランドを選び購入していく。
 
 人はどんどん自由になっていく。
 40年。
 私と息子世代の時間差。
 
 この間に人類が手にしたものはとてつもなく大きすぎる。

  
 だから、40年も過去を生きた人間と比べて心乱す必要もないということだ。
 これから間違いなくもっと素晴らしい時代が到来し、もっと素晴らしい可能性が待ち受けている。
 うらやましい限りだ。

 海外旅行がせいぜいの私の世代。
 あなた達の時代はきっと宇宙旅行ができるだろう。
 無料でスマホで通話し、音に聞き耳を立てているのがせいぜいの私の世代。
 あなた達の時代は、きっと空間に映し出される相手を見ながら会話を楽しんでいるだろう。
 大きな財布を開き国ごとにお札や小銭を支払っている私の時代。私の財布には13カ国のお金がいつも用意されている。
 あなた達の時代はきっとお札や小銭は必要とされず、どの国に行っても実物のお金などというものは触ったこともない時代になっているだろう。実物の代わりにただ数字が移動する時代。

 これからはまた少し夢の形が変わるかもしれない。
現実の変化が人の夢の形に変化を与えていく。


夢のカタチ_e0046467_20050381.jpg

# by japanheart | 2019-04-28 15:07 | 基本 | Comments(0)

マイナスの能力

マイナスの能力
 
 ダメ親の下に生まれたせいで、大人物になるという事がある。
貧乏育ちや貧困の為に教育機会損失にあい、結果、社会的成功を収めるということもある。
短期的なマイナスが長期的マイナスにつながるのか、それともプラスに転化するのか。
それは誰にもわからないが、本人の人間性のあり方と、あとは縁、出会いなのかも知れない。

 年齢的にも多くの人たちの指導やアドバイスを求められる立場になってよく思うことがある。
 人間、自分は誤魔化せないので、自分の能力やその限界はよく分かっていて、当然、自分ができもしないことを他人に要求しないといけない場面に遭遇するようにもなる。
 それはスポーツのコーチも同じで、既に体力的には当然、自分では無理な事を現役選手達に要求する。若い、あるいは生意気?な選手達は、「なら、お前がやってみろよ!」と心の中で悪態をつく、あるいは態度に出して反抗することもあるだろう。
 
 人生にはやはり二つの見本が必要になる。

一つは、プラスの影響、プラスの見本。自分の成功体験、頑張っている大人や仲間、先人達の姿やエピソード。
 これは方向性を教えてくれる星のような存在、あるいは、コーナーストーンのようなものだろうか。

二つ目は、マイナスの影響、マイナスの見本。
 実はこちらの方が人生には大きな影響を及ぼす事が多い。
 惨めに失敗した経験、失恋、受験の失敗、人から馬鹿にされた記憶。
 貧乏や親の失業、友人の倒産。
 これは生きていくプロセス、すなわち過程そのものに影響を及ぼしてくる。

マイナスの能力_e0046467_10193101.jpg


私は後者の方が人生には圧倒的に重要だと思っている。
特に最近、気がついたのは、人生の後半においてはこちらの方が圧倒的に重要で、その重要さは年月と共に増していくと感じる。
 記憶は時間によって薄められる。
 失敗の経験も、失恋の体験も、時間がその痛みや苦しみを薄め、意味付けを変化させていく。
だから必要以上に、感情的にその体験に引きずられずに、その体験をアップサイクルできるようになる。
だからアップサイクルに必要な材料を多く持たない人間は、人生の後半に大きな飛躍はない。若い頃の苦い体験や失敗が、そしてその数が如何に大切かが分かる。
問題は分かるがそれが実際に分かる時期にはもうかなり手遅れになっている。

 それで私が何を若い人に望み、何を半ば強要しようとしているかというと、二流コーチよろしく、自分ができる事もできない事も同様にさせようとする事であり、その中で失敗を含むイロイロな経験、一生懸命やるという経験を持たせる事である。
 私は自分ができる事だけを他人に求めるという謙虚さは持ち合わせておらず、その謙虚さの不足からの強要が却って自分にはない他人の能力を多く目覚めさせてきたという体験を多くしているので、「なら、お前がやってみろよ!」という彼らの心の声すら全く心地好く響いてくる。

マイナスの能力_e0046467_10193193.jpg


 その時、一つだけ自分に注意している事があり、それはそうなれるかどうかは別にして、彼らの事を好きになろうと努める事だ。
 愛情ない指導など、なかなか上手くいくわけないだろうと思うのと、彼らが私がどんな理不尽さを発揮してもそれが愛情からだと、信じてくれていないと指導や教育など上手くいくわけないからだ。

 親に嫌われたこどもや教師に嫌われたこどもが素直に指導に従うはずもなく、自立などという事にはおおよそ到達しないからだ。

マイナスの能力_e0046467_10202423.jpg

# by japanheart | 2019-04-26 14:53 | 基本 | Comments(0)
突き詰めた緊張の後の完全なる弛緩は能力開発のための秘訣となる。
緊張状態の活動中は、おそらく様々な事柄が時系列にそって情報として脳に押し込まれていく。
脳内ではただ情報が無作為に分布したような状況になっている。
新しい情報は、活動を続けている間はひたすら脳内に押し込まれていく。

そしていったん休息に入ると、それらの情報は脳内で過去の情報と統合され、新しい意味付けが与えられながら整理されていく。
そうしてシナプスによって繋ぎ合わされた新しい情報群はさらなる可能性を私たちに与えてくれる。

労働を奪われた時代-その2_e0046467_16115951.jpg

脳内に投入される情報が少なければ、でき上がる新しい情報群も少なくなる。よって獲得される能力、すなわち”脳力”は著しく低くなる。

十数年前にマイクロクレジットという概念でノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行創設者のムハマド・ユヌス博士(バングラデシュ)と対談した時に「これからは皆さん社会起業家として起業することを推奨します」と言っていたが、おそらく私は彼とは別の意味で皆さんに何がしかの起業家としての生き方を推奨したい。

なぜなら、今言われている労働時間の短縮によって、あるいは今後起こるであろう人工知能の発達によって、我々人類は著しい緊張状態を持つための絶好の機会となる”労働”を奪われてしまうからだ。
 一日数時間程度の労働時間と残りの優雅な弛緩時間の組み合わせは脳力開発のためには極めて不利な状態だと思っている。
 だから、起業することによって社会的労働時間の制限から解放され、自分の中で労働量を調節できるようにするしか方法がない。
雇われの身分では一日数時間程度の労働量しか法的に持てなくなる時代になってしまった。
 ここで一つ大切なポイントに触れておかねばならないだろう。
それは、もう一度、前回のお釈迦の話を思い出してもらいたい。
お釈迦は長い時間、難行苦行をした。
一カ月以上の断食もした。
これが成し遂げられた秘訣は、お釈迦はあくまでも自己の意志でそれを成したということだ。
他人や社会から強制されてやらされたわけではないということ。
人は社会や他人から極度の強制や緊張を長時間押し付けられると心が持たない。

このポイントに注意しながら、緊張状態を将来どのように自己の人生の中に持ち込むかを人は考えねばならない時代がやってくる。

我々人類の数十年先の姿を想像する。
人類はきっとミャンマーの僧侶達のような日常を過ごしているのではないかと思っている。
彼らは本来、戒律によって自分の袈裟以外の所有物は持ってはいけないことになっている。現実は様々な人がいるのでそうはなっていない僧侶がほとんどだろうか?
彼らはお経を上げ、瞑想をし、経典を学び、時に肉体労働を行う。
生きるための糧は、人々が恵んでくれる。
ただひたすら生涯にわたって悟りを目指しそれを繰り返すというのが本来のあるべき姿なのだ。

食べ物を手に入れるための労働からほとんど解放され、多くの自由な時間を手に入れた未来の人類は、自己啓発のために瞑想やヨガを行い、哲学や様々なリベラルアーツを学び、日常を生きることになるのだろう。
世界中のパワースポットはきっと瞑想をする人であふれていることだろう。
人々は便利さよりも不自由さを求め、人工的な環境よりも自然の中で過ごしたいと願っている。

労働を奪われた時代-その2_e0046467_16123969.jpg

人類の意識はきっとその時代に合った進歩をとげていると思う。
それでも現在の人類よりも深い人生の洞察があるかと言われれば、きっと今の人類の方がその力を持っている人が多いのかもしれない。
 1000年前の人類に比べて今の人類の方が洞察力があるのかと言われれば、どうなのだろうか?
紀元前に生まれたお釈迦やキリストの様な存在は今、生まれているのだろうか?
1000年近く前の親鸞や日蓮の様な先哲たちや江戸時代の武道の達人の様なレベルに達する身体能力や人間性を開発する人が未来の方が多いと言えるのだろうか?

 かつては生きていること自体が緊張状態を突きつけられることだった。
未来は緊張状態を自らが演出しなければ持てなくなる。
より自己と向き合う時代に突入するのだ。
だから私は大変な時代になるなと思ってしまう。
人間は皆、自分に甘い。
社会や他人に強制されないとなかなか物事を前に進めることも難しい。

しかし、労働から解放されるその時代は、甘い自分を説き伏せながら自らが緊張状態を作り出さなければ、脳力開発のスピードが落ちてしまう。

瞑想をはじめとする弛緩だけでは脳力開発は進まない。
どんなにパワースポットが人であふれても人類の意識は進化しない。

私たちはお釈迦やキリストや親鸞や日蓮、あるいは武道や茶道の達人達は皆、大変な苦難を背負った人たちだったということを知っておかねばならない。

労働を奪われた時代-その2_e0046467_16125782.jpg

# by japanheart | 2019-03-20 05:07 | 随想 | Comments(0)
 日本人に生まれてよかったと私が思う1番の理由は、労働に対する価値観にある。
 人は、もしも働かなくてもよくなって、食べていける時代がやってきたらと想像する。
人工知能が劇的に進歩した時代、人々はそれを使うことが生活のメインとなり、何かと無理しなくても十分に生きていける、そんな時代。
 無理に仕事などということをしなくても飢えることもなく、豊かに生きていける。
 人生から、”収入を得るための仕事”という価値観は消滅する。
そんな時代。
人々は何をして時間を過ごしているのだろうか? 少なくとも健康寿命が劇的に伸び、平均寿命も100歳を優に超えてしまったその時代に。
人々は長い長い時間を何をして生きているのだろう?
その時代人々はどうやって心を成長させるのだろうか?
恋愛やスポーツから得れる苦労や
その結果、手に入れることができる心の成長、満たされる心のある側面は、確かにあると思う。

 現在の人々の多くは出会いや別れ、葛藤や寛容という摩擦のなかで心を成長させていく。そしてそれを手に入れる場所や機会は、”仕事という場”を通してなされている。
 その”場”を失ってしまった時に人々はそれをどのように補填するのだろうか?

労働を奪われた時代−その1_e0046467_15003179.jpg

 労働が罰や罪の感覚と結び付き、賃金を得て生きる為のものという価値観を持つ多くの国と違って、日本人にとって働くということは、傍の人々を楽にするという意味合い通りに、周りの人々の為でありまた、自身の心の成長を得る手段として位置づけてきた。この日本の伝統はとても尊いと最近強く感じている。
 掃除や料理が単に苦痛な労働としておとしめられていない意味合いをいまだに保持する人々がいるのはとても素晴らしいことだと思う。

 掃除をして綺麗になった空間を獲得したとき、なぜか心が気持ち良くなる感覚は誰でも経験する。これは物理的な空間を単に綺麗にしている作業だけに留まらず、心の中を整理整頓している作業でもあると理解するといい。
 目の前に展開する物事は脳の中に時系列に押し込まれていく。このばらばらに押し込まれた事象を整理し過去の情報と統合し意味付けするのは、睡眠や休養などの脱力作業中に起こるというのが私の経験からの答えだ。
 掃除を無心に行うという状態は、私の中ではいわゆる動的瞑想の状態であり、実はとても有効な脳の活性化の時間と考えている。

 別にお釈迦の言葉を借りるまでもなく、人々は苦行をしても悟りを得られることはないと思う。
 ただこの言葉を私なりに正確に表現すると、悟りを得るためには苦行だけでは不十分だということになる。
 苦行は悟りを得る為の必要条件でしかない。
 逆に言うと、苦行をしていない人間には悟りはおとずれない。

 先にも述べたように、人が成長するのは回復期なのだ。
 肉体もストレスをかけている間は筋肉は付かない。
 技術もそれをがむしゃらにやっている間は、技術力は付かない。
 失恋も苦しんでいる間は、心は成長しない。
 
 すべてそれを一旦終えて、休息状態に入ったときに能力、すなわち脳力は獲得されていく。

労働を奪われた時代−その1_e0046467_15021307.jpg

 お釈迦は苦行の末、瞑想にはいる。
 そして悟る。

 このエピソードは緊張と弛緩、この両方が大切だと私たちに教えてる。
 しかも、まずは緊張が先なのだと教えてくれている。

 このエピソードの教えは子どもの教育にも使えるだろう。
 技術や学業の成長にも使えるだろう。
 そして心の教育にも使えるだろう。

 次回はさらにここから労働という意義について掘り下げていきたい。

  長くなるから、今日はここまで。

 
 
労働を奪われた時代−その1_e0046467_15033119.jpg









# by japanheart | 2019-02-23 06:16 | 基本 | Comments(1)

フレームを外す

何の為に医者や看護師やってるの?


どんな看護師になりたいの?

で、ここに何を求めてやってきて働いてるの?



そして次はどこで何をするの?

それは何の為に?

それで、そこでそれをする意味は?

その結果、どうなりたいの?



と、矢継ぎ早に質問して攻め立ててみる。



まあー、そこまで皆深くは考えてないようだ。



一度しかない今の人生だからね、ちゃんと考えて生きたほうが質が高まると思うのよ。

人生はそのプロセス(過程)にこそ、真実があるのだから。



だから、

「何かを始める」「何かを求める」

そういう時でさえ、まず自分が知らない間に押し込まれている“フレーム”を疑うところから始めた方がいいと思ってる。



例えば、一昔前は(もしかして今でもかな?)、

医学生や若い医者達に将来を尋ねると皆、一様に先端的医療がしたいという。

海外ボランティアをするとか、休学をするとか、それは彼らにとって“先端的医療からの離脱”を意味していて、時代から取り残されるのだと認識していて、とてもストレスがかかるという。



でもね、考えてみてよ!


先端的医療を必要とする患者って一体、患者の何パーセントよ?

100パーセント近い人間がそれを目指してどうするのよ? と、私はいつも思ってる。

なぜか、医者たるもの皆、先端的医療をしなければ国民を苦しめるという、得体の知れない誰かが植え付けたと思われる罪悪感を、知らぬ間に背負わされている。



そういうフレームね。植え付けられた。

まずはそれを外さないと。


フレームを外す_e0046467_14445122.jpg



こういう根拠のないフレームが巷にはあふれていて、個人をうまくコントロールしたい権力や権威を持つ者に、皆、利用されている。



海外、特に途上国で医療をやる。そうすると、日本人は必ず医療の自立というのは「現地人だけでやるのが素晴らしいのだ」という考えをまあ、ほぼ全員が信じている。

私はそうは思っておらず、そのことにより「現地人だけでやる」ことが目的化され、肝心の医療の充実がおろそかになる可能性があることに危機感を抱いている。だから、私は今も自ら医療活動を続けている。

現実的な国籍や免許の問題を除けば、その国の人だけで完結する科学分野の構築は時代の流れに逆行している。恐ろしく独断的に進められている軍事や個人情報の収集など、おおよそ人類全体の利益を損なう分野だけがそのような時代遅れの考え方で運営されているとすら感じている。


その「途上国の人間だけで運営できることが素晴らしいことだ」というフレームは、「医療は患者のためにある」という大原則を考えれば、患者にとって最良の医療を提供してくれる医療こそが最善であり、提供する側の国籍などどうでもいいことだと思う。


私がその国の人間だけで運営できるのがいいと考える理由は、経済効率と現状の免許や国籍などのシステムによるところであり、他の日本人たちが信じているような“それが素晴らしい!”という理由からではない。




さて、先端医療をしなければ罪なことだと若い医療者たちに刷り込んだのは果たして誰なのか?

大方、先端的医療しなければならないと刷り込んだのは大学や大型病院で、大学の医局に医者を集めるため、あるいは権威を保つためにそのような考えや雰囲気を作り出していると思う。

日本の医療界は多分に漏れず“数は力”の論理が強いなと感じる。



大学にいかなければならないとか、英語ができなければならないとか、男はこうあるべきだとか、日本は素晴らしい国だとか…。



なんか全ての人に普遍的にさも正しいかのように刷り込んでくるから。



看護師は患者の言うことに理解を示さなければならないとかね。



お客様はどの人も大切にしなければならないとか。



本来、こんなのはケースバイケースなのに、なぜか普遍的に、そうしなければおかしいようなフレームを植え付けられている。

結果、誰もがストレスを抱えて青息吐息になって疲れているように見えてる。




話を戻すと、あるべきだと刷り込まれたフレームをいったん外してみて、自分に向き合ってみることをオススメする。


フレームを外す_e0046467_14452590.jpg


そうすると、当たり前に大方、何の為に看護師や医者をやってるかも分かってくる。

お金を稼ぐ手段。

自己実現の手段。



でも、結局、今それをやってる究極の目的は、豊かな人生を生きるためでしょ? 違うかな?

お金を稼ぐのも、自己実現も、それは豊かな人生を生きるために必要なものだからじゃないかな?

ほとんどの職業は服みたいなもので、いつでも脱ぎ捨てられるし、新しいものに代えることができる。

その服を着るために人生をすり減らし、自己嫌悪に陥り、挙句、大きな病気になったり、鬱になって自殺したりする。それでは本末転倒だろう



お金などにあまり縁のない私でさえ、お金は大切でそれがないと生きていけないことは知っている。

では、一体いくらあれば、節約したら生きていけるんだろう? と考えてみる。

こんな時代だから安定を求めるという人もいるけど、20世紀後半の一時期を除き、個人が今よりも安定していた時代などこの国には一度もないと思う。平均寿命が延びているということはすなわち、安定しているということだと思うけど。


多くの人は、お金はこれくらいあればいいのだ、という基準を設けたほうがいい。

今を犠牲にして、未来の安定を買うために、時間を投下する。

そしてその未来になれば、再び同じことを繰り返し、気が付けば生きる時間が終わろうとしている、あるいは無為な日々を送る老人になってしまっている。若い輝ける時間を犠牲にして、無為な老齢の時間を手に入れたなどという笑えない冗談を、一度しかない人生でやらかす気には、私は到底なれない。



私の中で楽天家というのは、“まあっ、いいか”と思える人間のことだ。

自分を追い詰めすぎない。

「こうすべきだ」

「こうあらねばならない」

を、自分の人生を犠牲にしてまで求めすぎない。



自分の人生を犠牲にしているかどうかは、他人には分からない。

だから自分に聞くしかない。



自分は今幸せだと感じているか?

今、希望を持てているのか?

時間の密度はかつてないほど濃密なものか?

もしも1年後に死ぬ病になっていても時間をもったいないと感じないのか?



人生はそぎ落とし。

いらないものをそぎ落としていく。

そうすれば自分に本当に必要なものだけが見えてくる。

お金も、時間も、友達も、仕事も、所有物も。



自分の人生に本当に必要なものは何か?

それはどんな人生を歩みたいから必要なのか?

本当の自分にとっての幸せとは何なのか?



私が世界から強制されるべきフレームなど本来はないのだけど、自分自身が知らぬ間にはめ込まれているフレームを外すことから自由は始まる。

そのために人生に揺らぎを与えねばならない。

揺らぎを与えるというのは、毎日の思考や常識、習慣を疑い、もう一度自分の人生にとって必要かどうか、それが本当の幸せをもたらすのかを、自分の心に聞き返し、そぎ落とす。



でないと、これから人生100年だから。

無為な老後が長くなる。



フレームを外す_e0046467_14452875.jpg





# by japanheart | 2019-01-14 03:49 | 随想 | Comments(0)
 先日、長期医師ボランティアの森先生と話しているときに「何故日本の男はアメリカでモテないのか?」という記事のことが話題になった。

日本の若者たちよ、遠慮しないで!_e0046467_17145742.jpeg

その中にはいくつもの理由が挙げてあったが、まあ、英語ができないから(これは未来にはAIによって克服される)とか、体格的な線が細いとか、DIYがろくにできないとか、ユーモアのツボが違うからとか、そういう理由があった。
日本人女性が世界中でモテまくっているのとは大違いに、かなりイタい指摘をされているのだった。

 もし自分が若い頃に、アメリカに単身乗り込み生活してたら、確実に暗くなっていた気がする。少なくともしばらくは。

日本の若者たちよ、遠慮しないで!_e0046467_09113889.jpg

なにせ言葉が通じないから、真面目に頑張らざるを得ない。となると私の場合、真面目さと暗さは同時進行に起こる(これは大学受験の二浪目の時に実証済み)ので、イケてない男になり、結果、モテないという結論が確実に待っていたと思う。元々、社交的でもないしね。

そう考えると、日本にいてよかったとも言える。少なくとも暗くない普通の青春を送ることができたから。
 
 その記事の中で、一つだけ特に気にかかった指摘があった。
それは何かというと、アメリカ人は褒めて育てられる。「お前はすごい!お前ならできる!」と。
そして多くのアメリカ人は、大した根拠や実力がなくても表面上は自信たっぷりで、時には外国人たちのちょっとしたひんしゅくを買うこともある。
ところが日本人は全く逆に、否定的に親や社会に育てられる人が多く、実力に比して自信がない、根拠もなく自信がない。そしていつも、いるのかいないのかわからないくらい、後ろの方から見ている感じになる、らしい。

 今までたくさんの外国人と接してみて、『日本人!これを直せば上手くいくんじぁない?』と思ったんだけど。
それは、『遠慮しないで素直に自分を表現する』ということ。これをするともしかしてモテるかも?少なくとも今よりは遥かに。

実力がないならないなりに、今の実力を素直に表現し、行動し、知らせる。
それで世の中は結構、理解してくれて認めてくれるから。

 私も若い頃を振り返って後悔していることがある。恥ずかしさからか社会への遠慮からかわからないけれど、自分の思っていることや考えていることを表現してこなかったことなんだ。

若い頃から私には夢があって、それは今やってる将来、すなわち、医者になって途上国の医療を受けれない人たちに医療を届けることだった。
それを誰にも言わず、語らず、生きていた。できるかできないかわからないような大それたことを言うのが恥ずかしかったし、みっともない気がしていたから。
 
 で、この年になって、たくさんの10代や20代の若い女の子たちに今さら聞いてみた。

「将来の大きな大それた夢を語る10代や20代の若造の男をどう思うのか?」と。
「例えば、僕の若い頃のこんな夢を?」と。

なんと!何と?えっ!

若造の男たちよ、よく耳をダンボのようにして聞けよ!

 「す・て・き!」
 「ス・テ・キ!」

だってよ。

 「そんな事、言う人いませんでした。」
 「夢を語る男の人、ほとんどいませんから。」
 
だってよ。 

しまった!
言っておけば、もしかしてモテモテだった?
「もし僕がそれを言ってたら確実にモテたか?」と年甲斐もなく聞いてみたら、「もちろんです!」って皆言うんだよ。リップサービスかも知れないけど。

で、日本の男たち。
だから君たち、モテないのよ。
だから君たち、体の表面に近い場所ばかり、いじったりメンテナンスしたりしないといけないのよ。
夢を語るのは、ただ。無料だよ。
語れよ!
とりあえず、語れ!

日本の女の子たちも大きな夢を、おとぎ話を聞かせてくれる男を求めてるの。
日本の女の子たちは母性が強いから、そのつまらない夢を応援してくれる人が一杯いるから。
男が夢を語れないから、女性は自分で夢をしっかり見つけて行動する人が増えてるよ。

 話を戻すと、これをすればアメリカでもモテるでしょ。普通くらいは。
英語が十分話せないなら、素直にそのレベルで自己表現する。社会や慣習に遠慮してはダメ。何も話さない奴は夢を持ってるなんて思ってくれないから。
DIYができなければ、できないなりに、不器用さを素直に表現すればいいんじゃない?
遠くから見ていないで。ノコギリやトンカチをアメリカ人の男が危険を感じるほど振り回してやれ!
周囲に、たどたどしい英語で将来のでっかい夢を聞かせてやれよ!
思いつかなきゃ「君を月に連れていきたい」とか何とか、適当に言っておけ!

日本の若者たちよ、遠慮しないで!_e0046467_17220799.jpeg

 最近よく思うことがあるんだよ。
もし人間がだよ、30年後の他人の人生を見れたら、もう高校生や中学生の時から、好きになる人や付き合う人が変わっちゃうんじゃないかって。

美人だけど30歳で死んでしまう人。
悪さばかりしてるけど、将来、大金持ちになる人。
イケメンだけど、将来、内臓の病気で苦しむ人。
将来、社会的成功をおさめる人、将来、貧相になる人…。

こういう未来を見れたら、見せることができたらよかったなとふと思うんだよ、自分の場合は。  
でもそれくらい人間の好き嫌いは、未来への評価で変化するんだよ。
明るい未来を感じさせることができれば、相手の気持ちにも変化を起こす事が可能になるかも知れない。

 話が逸れたけど、こういう考えの総体がその国の現状を作ってるって思わないか?

根拠なく自信たっぷりに行動を起こすアメリカ人。
とりあえずやってみて、上手く行ったらもうけもの、上手く行けばどんどん攻める中国人。
根拠なく自信がなく、実力以下の行動しか起こすことができず、失敗ばかり想像して怖じけづく日本人。
 
 最近、若い人たちが大人しいという。それは全く当たっていると思う。
私の考察ではこうなる。
『年寄りが増えると若者は大人しくなる』という面白い相関があると思う。
若い人たちが大人しくない時代は今まで何度もあった。
明治維新の頃と戦後復興後しばらく。この時に日本は急速に成長した。この時に同時に起こっていたのは、人口爆発。
すなわち、若い人たちがどんどん増えていた時代。
戦後の最も若者たちの犯罪が多かったのは1970年代。戦後生まれた世代の若者たちの人口が膨れ上がった時代。
それから若者たちの人口減少が加速し、犯罪はどんどん減っていく。
そして大人しくなったと言われだしたのは、若者の数が減ってきた頃からだ。と、同時に年寄りが増えはじめた頃から。

私の仮説では、これから高齢者の比率がまだまだ増えるということは、若者たちがまだまだ大人しくなっていくということだ。
そして、それだからこそ、日本はどんどん衰退していくと思う。
犯罪率を上げる必要などないけれど、若者たちが元気になるためには、相対的にその数を増やすしかないというのが、別に人類学者でもない私の仮説。

 全体としては衰退しても、個人単位でいい人生を生きてほしいと願っている。
そのためには自分の人生を、他人の目線や日本の慣習にも遠慮などしてないでほしい。アメリカ人のように能力以上に大きく見せる必要はないので、等身大の自分を素直に表現してほしいと切に願う。

できないことをできないと宣言し、諦めるのではなく、「これくらいしか出来ません」と行動でそれを示さないと。
あなたの不器用さを、能力の足りなさを示すしかない。示さなければ、能力ゼロと見なされる。示せば、少なくともプラスにはなるから。
90点や100点を取ろうとしてはいけない。
世界は60点か70点で十分合格だからね。

素直に遠慮しないで、自分を世の中に示してみてほしい。
まあ、ダマされたと思って3年続けてみて。
人生変わるから。








# by japanheart | 2018-11-16 17:39 | 医者の本音 | Comments(3)
 ジャパンハートの事業のひとつに「smile smile project」というものがある。
このプロジェクトは、小児ガンの子どもたちを、好きなときに好きな場所へ連れていく!というのがコンセプトの中心となっている。
あるときはディズニーランド、あるときはキッザニア、そしてあるときはピクニック。
そこに医師や看護師が同行し、安心・安全を担保していくのが特徴だ。

やるべきか?やらざるべきか?_e0046467_10305846.jpg
やるべきか?やらざるべきか?_e0046467_10360616.jpg



毎年毎年、たくさんの子どもたちへたくさんの旅行をプレゼントしてきた。
中には、もう限界ギリギリの子どもたちもいた。残念ながらその日を待たずして亡くなってしまった子どもたちも少なくはない。

 親は我が子の事を愛おしく思い、できる限り何でも、あらん限りの事をしてあげたいと思う。
そしてまた他人であっても、子どもたちのその姿を実際に一目見れば、何かしら力になってあげたいと思う。


 ある女子高生は有名なB’zの大ファン。
ファンクラブにも入り、コンサートのチケットも手に入れる。
しかし、、、。
状態が思わしくなく、もう起き上がることもできない。
そんな自分、そんな状況、そして手元に虚しく残るコンサートチケット。
やけになる。
大切な人生の時間なのに、やけになり過ごさなければならない。

でも、彼女の主治医はあきらめなかった。
ジャパンハートに連絡をしたのだ。
そして主治医自らもこの子に付き添い、半ば強引に手押しベッドのままコンサート会場へ入った。
とうとう、B’zのコンサートに参加するというこの子の夢の時間を実現したのだ。
その子は、考えられないくらいにコンサート中を元気に過ごせた。

命をかけてでも行きたかったそのコンサート。

 もしかしたら、、、。
それを実現した誰もが、その思いを抱えていたことだろう。

それをするべきだったか?やらざるべきだったか?
もしもの事態が発生していたらどうだったのか?

正解は誰にもわからない。
ただ、神様はそれを許してくれたようだった。


 もう一人、この子も高校生の男の子。
新垣結衣さんの大ファン。
しかし、頭にできた小児ガンが再発。治療はかなり厳しいらしい。
せめて、この子の憧れの人であり、そして会うことが夢の新垣結衣さんに会えないのか?会わせてあげられないのか?
と、親がジャパンハートへ連絡をしてきた。

 もしも私が医師ではない一人の若者だったとしたら、その子に会う勇気があるかな?
あなたに会うのが夢でしたと言われたら、どんな表情をしたらいいのだろう?

ましてや、小児ガンの治療をしている人は日本に15000人以上いて、そのうち何人もの人に会いたいと言われたらどうするのだろう?
一人目の子には会うだろうか?
でも、二人目、三人目の子には同じチャンスはあるのだろうか?

再現できないような事をしてもいいのだろうか?

それをすべきか、やらざるべきか?

どちらも正解ではなく、誤りでもないだろう。


 今、この件は上手く進んでいない。
でも、スタッフ達は必死にこの子の夢を叶えようと動いている。
それを止めるような野暮な事は誰もしない。
どうすべきか?

理屈は確かにある。
人は頭で考え判断する。

しかし私たちは感情で動く。
これこそが、本来の人の姿なのだろう。


だから、できてもできなくてもただこの子の為に動きたいならば動く。
この子のために、せめて小さな奇跡が起こることを願う。

「この世は捨てたものじゃない」と、この子にも思ってもらいたい。
そして私たちも、そう思って生きていきたいから。







# by japanheart | 2018-10-02 04:34 | 子どものこと | Comments(1)

 カンボジアに小児医療センターを開設し、入院患者を受け入れはじめて1ヶ月が過ぎようとしている。

 

この病院をつくった大切な目的のひとつは、小児がんを治療することだ。


日本では既に8割程度も救命することが出来る小児がんの種類でも、カンボジアで治療を受けることが出来ている子どもたちは、おそらく10%もいないだろう。また金銭的な理由や医療設備の面から見ても、たとえ治療にこぎつけたとしても、最後まで治療を完遂できる子どもたちはほとんどいない。つまりそのほとんどは亡くなっているものと思われる。

 

 現在、私たちが特に力を入れているのは固形腫瘍というタイプの悪性腫瘍だ。

このターゲットとする固形の悪性腫瘍は、腎臓や肝臓、神経や筋肉などから発生する悪性腫瘍もので、通常は血液から発生する白血病よりも弱めの化学療法を行うことが多い。だから、感染症に対する過度な設備投資も一般的には不要になる。

ただし固形腫瘍は、薬剤治療だけがメインの白血病と違い外科的手術も必要になる。

しばらくの間はカンボジア、ミャンマー、ラオスのこのような腫瘍の子どもたちをこの小児医療センターに受け入れて、力の及ぶ限り助けていきたいと思っている。


小児悪性腫瘍で一番頻度の高い白血病は、無菌室や骨髄移植、造血製剤など様々な設備面で現在のカンボジアの状況ではハードルが高く、次のステップにターゲットとするしかない。


ケーキを持ち上げる君の手を_e0046467_14390401.gif


 長い間、たくさんの子どもたちの難病と関わってきて、なんともやりきれないような気持ちになることもある。

そんな中、この9月に手術予定である一人の少女の話をしようと思う。


 その少女は8歳。幼い頃に右上腕の筋肉から腫瘍が発生した。そしてそれは悪性だった。

少女は、不十分ながら小児のがんを治療してきた(しかしほとんどは成人のがん治療しかしていない)カンボジア最大の国立病院であるカルメット病院で治療し、元気に小学校にも通っていた。

ところが昨年の12月、再び悪夢が襲った。そして入院。再治療を開始したが、、、。


 お父さんはクーラーの修理屋、お母さんはホテルで働いていた。家族は少女を含め子ども4人の計6人家族。母は闘病に付き添うために仕事を辞め、父親もこの2ヶ月仕事をしていないという。

一体生活はどうなっているのだろうか?

まだ幼い弟は、この間、おばあちゃんに預けられている。

そして6ヶ月、治療を続けてきたが、金銭も尽きてしまう。

 

その国立病院の唯一のがん専門医から電話がかかり、家族がジャパンハートの病院に行きたいといっているという。既に治療もあまり効果が見込めなくなっていたのかもしれない。

しかしまだ設備的に準備ができない状況の中、再発のこのタイプの肉腫は難治性で移植を含む高度な治療となり、気の毒ではあるが難しい…と、ジャパンハートの小児医療センター小児がん専門医の嘉数医師と相談していた。 


ところが、患者が返事もまだしていないうちに勝手に押しかけてきてしまった。


それには理由があった。


少女は激しい痛みに苦しんでいたのだ。

その痛みのためにずっと泣き叫んでいる。

もうそれが長い間、続いていたようだ。

既に、この8歳の小さな身体に大人の使う数倍の量のモルヒネが投与されている。

しかし痛みはコントロールできていない。

泣き叫ぶ少女に寄り添いながら、両親は助けてほしいと拝んでいる。

わが子をこの痛みから救ってほしいと、拝んでいる。

痛みがなくなるならば、この腕を落としてほしいとせがまれる。


ケーキを持ち上げる君の手を_e0046467_14391888.gif


私も嘉数医師もこの家族を帰すわけにはいかなかった。


もちろん完治が厳しいことはお互いに多分理解している。

でも、やらないわけにはいかないだろう。 

せめて、痛みを止めてあげられないか?

 

 命が助かる可能性が低いとき、何もしないという効率的なものが医療なら、私はとうに医者を辞めていただろう。

医療は、その人の人生を少しでもよくする為にあるのであって、決して数量で割り切れるものではない。

 

私はいつもそうやって、一つ一つの命、一人一人の人生と向かい合ってきた。

 

たとえ命が助けられなくとも、この子から痛みを取り除いてあげることができれば、それもまた、立派な医療のひとつのかたちなのだ。

 その日から、嘉数医師によって抗がん剤治療が再開される。

それが落ち着いた頃、たった8歳の、この子の大きく腫れ上がった右腕を切り落とす手術をする。


誰もしたくないそんな手術を、私はやらねばならない。


2週間後、私が再びカンボジアを訪れたとき、少女は部屋で両親と笑っていた。

抗がん剤が効き、痛みから解放されたのだ。 

 

家族で一緒にトランプをしていた。

その腫れ上がった腕の先、彼女の指にはトランプが何枚も握り締めてられていた。


 少女は先日外泊した際、お家でお誕生日会をしたそうだ。

本来彼女の誕生日は11月なのに「なんで?」と聞いたら、「腕が上がるうちに、両手でケーキを持ちたかった」と。

それは彼女自らの提案だったそうだ。


 もうすぐその日がやってくる。


この腕を落とすのが私の役目。

医者という職業は本当に幸せなのだろうか?



ケーキを持ち上げる君の手を_e0046467_14385396.gif



カンボジアの小児医療センターに興味のある人はジャパンハートのホームページをのぞいてみてほしい。






# by japanheart | 2018-08-31 02:50 | 子どものこと | Comments(1)

場のちから

 以前からパワースポットブームが続いているが、私自身にそういうことを特別に感じとる能力があるわけではない。

しかし“場のエネルギー”というものはやはりあると思う。

 例えばスポーツの試合での、ホームとアウェイ。言うまでもなく、ホームでの場のエネルギーは絶大だ。
また、ある人と一緒にいるだけでとても幸せに感じること。それはおそらく、その場のエネルギーが安定しているのであろう。
 
 私の場合、手術室でよくそれを感じることがある。その一つの閉ざされた空間を、自分の“リズム”でコントロールしたいと強く思う。その中で、誰かが自分のリズム以外の音や動きを発すると、求めていたリズムが著しく乱されるのがよくわかる。誰かが何かを落とした音や、私語や、咳払い、歩く動きや足音でさえ、私の意識がそちらに引っ張られていくことがよくわかる。

場のちから_e0046467_14070091.jpg
 
 それはオーケストラの指揮者のような感覚であると思う。その場のリズムが乱されると良い演奏があり得ないように、スムーズな手術は難しくなる。リズムの乱れはミスを誘発する。
 
 私が本当に最高の状態にあるときというのは、術野に意識が縮小固定された状態ではない。術野には他より高い密度の意識が投下されつつ、その他も十分に意識下に置かれた状態、すなわち手術室の全体を見渡すような意識を意味する。
 脳が予想外の情報を与えられると、私の場合、妙にそちらに意識を持っていかれる。この間、術野ではベストパーフォーマンスが成し遂げられない時間が続く。そしてそれを回復するには、思った以上の時間が必要となる。
脳が予め予想していない出来事が術野の中で起こることも同じで、予想通り動かない助手や、突然吹き出した血液によってもリズムは狂ってしまう。
また、たとえ優秀であっても新しい人と一緒に手術を行うと、リズムの調整には時間がかかる。
脳は未経験の事柄への調整には、時間を要してしまうのだろう。

 ついでにいうと、このリズムはその人特有のものであり、他のリズムで代用は効かない。手術の時、音楽をかけたり、メトロノームを動かしたりする人もいるが、私はそれはしない。私の場合、私の生来のリズムは、代用したリズムではいくら安定していても決してベストの状態にはなれないと信じているからだ。


 手術のみならず、物事を進めるときに私が最も意識しているものの一つがこの“リズム”であり、リズムから作り出される“場のちから”である。

 場のちからとは、「その中心になるもののリズムによって作り出されたエネルギー場」といういい方ができるかもしれない。この場との相性は、その場に存在する人間にとってとても大切なこととなる。 
 
まさに、神社やお寺や古い樹木を中心に形成されているパワースポットのようなイメージ。

場のちから_e0046467_14454281.jpg

ある人はそれをある種の雰囲気と表現するかもしれない。

 常にこの場を作り出すことを意識している。
この場は、一定の周波数のリズムによって統一された世界ということになり、その周波数以外の存在は、周波数を変えてアダプテーションするか、その場から出るかという選択になる。

この場を上手く作り出すことができれば、能力が多少低い人がいてもそのリズムの流れに巻き込みながら結果的に合格点のレベルまで持っていける。

 なぜあの時あのような行動をしてしまったのだろう?とか、なぜあの時あのように考えたのだろう?
と後になって思うのは、その時の場の影響をかなり受けていたものだと思われる。
 この、場とその人間との関係性を上手く利用することかできれば、能力以上の結果を得られる可能性がある。しかしたとえ無意識であれ、場の選び方を間違えてしまうと、能力が発揮できないということが起こりうる。

 ある空間に入った瞬間に、まず、場と自分との相性を感じとる。

場のちから_e0046467_14521369.jpg

それは時として、暗いとか明るいとかいうイメージとして伝わって来るかもしれないが、悪ければ離れる、勝負しない、長居しないという手段を、常に心に留めておくとよいかもしれない。
 
 自己の能力や性質は、相手や周辺環境や時間的なタイミングとの関係性の中にあることを、自覚する必要がある。
過去に上手くいったのも、それが良かったからであり、くれぐれも自分の能力だけでそれを成し遂げたと思わない方が賢明だ。
この時代の・この時期に・この事柄を・この人がしたから、上手くいったということ。


 リズムと場ということを少し意識して生きてみると、世界を違う角度から理解できるかもしれない。

 
 






 

# by japanheart | 2018-06-30 20:24 | 基本 | Comments(1)
 「私たちが習っている様々な勉強は、社会で実際に役に立つのですか?」

ある高校での講演会の最後に、生徒から受けた質問だ。
その質問の背後にある(そうは到底思えないのですが?)という彼の言葉を見てとることは容易であった。
誰でも一度は思ったことがあるだろう。

私は「はい。ほとんど役に立ちません。ですが、皆さんが習っているそれらの学問で皆さんは評価されます。ですから、皆さんが役に立たないと思うのであれば尚更、早く切り上げる為に集中してそれをやりきることをすすめます。」と答えた。

 かつて、このやり取りを含めこのブログに載せたことがある。それがどこかに転載され、あっという間に凄い数の批判コメントで埋め尽くされた。

「私は役に立っている!」
「こんな奴は医者にしておいては駄目だ!」
「教育は絶対に必要!」
「お前は役に立たなかっただけだろう!」
等々。

 しかし、化学記号や摩擦係数の測定、素数なんかを本当に社会に出て使うのだろうか?

なぜ、教育を受けるのか?_e0046467_14473725.jpg

正直、先の高校生たちの体感覚はやはり間違えていないと思う。
 大人が論を労してもやはり多くの高校生たちは、「何でこんなことを勉強しないといけないのだ!」と思っているに違いない。もし学力の優劣で評価されず、将来に影響を受けないのであれば、多くの高校生が勉強など放り出してしまうと思う。
 
 親や周囲の大人たちは勉強自体の目的を、いい大学に行くため、いい会社に勤めるため、将来食いっぱぐれがないようにするため、リッチな生活をするためなどと言う。
しかしそれは、教育を受ける根本的な目的とズレてはいないのだろうか?
 
教育の目的とは、本来、人間力を付けるためではなかったのか?

教育が手段となってしまっていることを放置して、教育は大切だと言われても説得力に欠ける。そんなことは、子どもたちは見透かしているのだ。
それより、彼らが無理矢理に机の前に座り、興味も理解する気もない科目を一日中ぼーと聞き、無為に時間をやり過ごしている有り様を何とかしなければ、ひいてはこの国全体の機会損失へと繋がりかねない。

 教育という名のもとに、興味もない多くの若者の大切な時間と可能性を奪っていないか?
それは大人たちが、自己否定を恐れ、時代が凄いスピードで進んでいるにも関わらず、過去の方法論に固執し、凝り固まった教育の概念に囚われているからではないのだろうか?


 と、いうところまでが前回のブログに書いたところであった。

 さて、今日の本題はここからになる。
というのも、私のなかで教育の目的がある程度、明確になったからだ。

結論からいうと、

 教育の目的とは人類を進歩、発展、進化させること。

それが主目的になる。
そして教育を受ける人間が増えるほどに人類の進化は加速する。理由はこの後の流れから理解してもらえると思う。

 最近その重要性が強調されている“リベラルアーツ”。それは個人を主にイメージして語られることが多い。
個人の人間性への還元が本来の目的ならば、国家を挙げて、同じ科目、内容をやらせている意味が分からなくなる。それは画一的な教育内容ではなく、個個人の特性や個性、才能に合わせて最適化されていかなければ不十分に終わるからだ。

ではなぜ、全国民に対して等しく同じ教育内容を押し付けているのか?
なぜ、社会に出て到底役に立たないような知識を堂々と押し付けているのか?

今の時代、「私には役に立ちました!」等という一個人の感想のような稚拙な回答だけでは、多くの子どもたちは納得などするわけがない。

 さて、ここで人類の進歩とはどのようにして成し遂げられてきたのだろう?ということを考えてみたい。
 歴史を辿れば、人類を進歩させるような発明や発見は、わずかな数の人を中心に成し遂げられて来たものだ。産業革命の原動力となった蒸気機関の発明や、電球や電気の発明は、同時代の人びとが大勢で協力して作り上げたわけではない。ある人間を中心とした数少ない人びとが成し遂げたのだ。
それはips細胞もしかり。数学の理論や物理学の発見も同じだろう。コンピューターの発明やインターネットの発明なども、多くの人びとが与り知らぬところで成し遂げられてきた。
大多数の人びとは、そのユーザーであっても、発明する人ではないということだ。

 ある人の発想、発明を周りの人がサポートし、あるインノベーションが成し遂げられて人類は進歩していく。
言い換えれば、その人たち以外の人は、その発明や発見に対しては不要な人たちだったということになる。結果的にその無数の不要な人たちが投入した、その分野へ莫大な時間と労力は全て無駄だったということだ。せいぜい、何らかの形で飯の種になっている人間が少数いるだけだろう。

 しかし、本当にそうだろうか?

他の人間は全くの不要な存在であったのだろうか?
全ては無駄な労力と時間であったのだろうか?

 私の結論は、例えば、「一人の物理の天才を排出するためには、物理に関する無数の凡人の存在が必要になる」というものだ。
 
 一人の天性の才能を開花させるには、無数のライバル、無数の競争、無数の他人との比較という事象を抜きにしては語れない。
 子どもの頃から他人との様々な学問分野の競争の中で、挫折や称賛を経て、やがてその人が才能ある分野へと辿り着く。
その他の人間は皆、その人の才能を開花させるための肥やしになる。極論すれば、たった一人のその分野の天才の為に、その分野を経験した人類の残りの人間は、全て当て馬のような存在だということだ。
その人間の才能を刺激するために多くの人間は存在することになる。
 逆に考えてみると、その人間にいくら才能があっても、その人だけでは偉大な発明や発見などできない。その人間の才能は、それ以外の人間によって刺激され磨かれていく。その分野や他分野での競争や批判、優越感や劣等感がその人間の才能を開花させていく。

 こうして才能を開花させた人間たちが、様々な分野で発明や発見を成し遂げながら時代を一気に進めていく、人類に発展をもたらしていく。

なぜ、教育を受けるのか?_e0046467_15050964.jpg


そういう視点でみると、教育を受けているほとんどの人間は人類の進歩に無関係ではないことが理解できる。

 その人は一粒の水の分子かもしれないが、その無数の分子が集まり、流れを作り、川となり、その流れの中で、ある人が才能を開花させ、人類に恩恵をもたらしていく。

これこそ教育を行う意味だと思っている。
見方を変えれば、教育を受けた全ての人間が、皆で人類の発展を創り上げているということだ。
天才は種、その他の人間は土や肥やしということだ。

 だから、別に社会に出て知識を使えなくても問題はない。
教育というシステムは、もっともっと大きな枠組みの中で動いているのだ。
そう。だからこそ、全ての国民に全く同じ内容の義務教育を9年間も押し付けている意味があるのだ。
 
 問題は、義務教育である小学校・中学校過程を終えてもなお、既に自分に才能や興味がないと判明している学問をやらされている高校生や大学生たちだ。自分に才能がある分野を探求するというプロセスに進めず、時間を無為に浪費している高校生や大学生たちは、数多く存在するのだ。
皆が当たり前に高校へ行く、大学へ行く。良かれと思って国が大学の門戸を広げているならば、少し考え直した方がいいと思う。

 とは言え、これほど個人が大切にされる時代の中、なぜ多くの人たちは、自分にとって生涯ほとんど役に立たないような、無駄な、しかし人類にとっては多分、極めて有益なその教育という機会を、義務という形で押し付けられなければならないのか?
人類の発展など興味もなく、自分の人生が豊かになればいいだけなのに、という人も多いだろう。
それに対する答えは、人は生まれたその時から、先人達の犠牲の上に、人類が歴史上成し遂げてきたその発展の利益を先に受け取っているから。 
つまり人間は利益を先取りしてしまっているわけだ。
先人達の利益を受けるだけ受けておいて、自分は誰の利益にもなりませんは通用しない。
人は生まれた時より受けているこの前借りの利益を、未来の人類に返す義務を負っている。
そして先人達と同様に、自分も一粒の水分子になり、流れの一部になり、人類の発展に参加することとなる。

なぜ、教育を受けるのか?_e0046467_14525283.jpg


 多くの人は盲目的に、教育は大切だと言う。
それは本当に、自分の人生が豊かになったと理解して言っているのだろうか?
あたりまえに教育を受けた人間は、教育を受けていない自分の人生を経験していない。ではなぜ、教育を受けた方が幸せだと自信を持って言えるのだろうか?

教育を受け、いい会社に就職して、十分なサラリーをもらえたからと言うならば、それは競争の手段であって、教育そのものの大切さなどとは関係ない。
そんなにも教育が大切ならば、どうして若い人たちがあれほどに反発したり、それを手に入れることに必死になれないのだろうか?彼らは利口ではないからか?教育が大切と言うときの教育とは、学校で教わることなのか?あるいはそれ以外のどのようなものを指しているのか?

 途上国でも、教育が大切だからと先進国の人たちが画一的に学校を建てまくる。ということは、彼らの考える教育とは学校で学んでいる学科というものを指すのだろう。
もしも人間にとって、私にとって教育が大切なのだと言うならば、果たしてその教育は他の人間が言うところの教育と同じものを指しているのか? 
個人単位で見たときに、読み・書き・そろばん(計算)という基礎中の基礎だけでは、何が足りないのか?

 ここで私が伝えたかったのは、国が行う教育と個人が求める教育は、同じゴールを目指してはいないということ。
国はあくまでも国家にとって有益な人間を生み出す為に、明治時代から教育を始めた。それは平成の今も変わっていないと思う。しかし個人が教育を受ける目的は、人間性を豊かにし才能を開花させることにあり、いい学校へ行ったり、いい就職を得るためだけではないということ。
国家にとって役に立つ人間をつくろうとしている教育は、その子どもにとっていいものとは限らない。だから日本の高校生たちも、あれほどに不信感を持っているのだろう。

 個人の幸せを追及できるようになった今の日本にあるのは、国家の求める教育と個人が求める教育の目的にズレが生じているにも関わらず、それを同じ教育だと信じ扱っている現実なのだ思う。



# by japanheart | 2018-05-30 12:46 | 基本 | Comments(0)

 「人間の命というのはお金で左右される」

これは当たり前のことだ。しかし何となく理解はできても、到底納得できるものではないという日本人は多い


 医療というのが、損得なしの福祉の一部だという建前は別として、完全に産業、言わば経済の一部に取り込まれてしまった昨今、国民皆保険という借金で成り立っている制度が、このまま維持されるわけがない。私にはよく分かる。誰もが安い費用で医療を享受できているのは、地下からお金の元が沸いてくるような国々を除けば、本当は異常なことなのだ。さらにそれが大きな借金で回っているという事実には、眉をひそめずにはいられない

 そして恐ろしいのは、誰もがそれに気づかず、ましてや感謝をすることなどなく、まだまだ足りない、もっともっと、とそれへの要求を上塗りしていることだ。


 アジアの途上国には、いまだに税金を上手く取る仕組みもない。最近までの傾向では、取れるほどの人々が少なかったと言うべきだろうか。そのような中で、入っていくる以上の還元ができるわけがない。

 25年前、ミャンマーの人口は日本の約半分弱GDPは日本の100分の1以下、国家予算の1しか福祉医療にまわっていなかった。結果、医療は壊滅的で、惨憺たる有様。

 

患者たちは針一本、綿1つから自己負担を強いられる。


そこへ放り込まれた私は、日本人が掲げる理想とは明らかに異なる現実と向き合わなければならなかった。

あれから25年、現実はそれほどには改善していない。



 昨日はカンボジアでも2件乳がんの手術を行った。

乳房を全摘出し、リンパ節を郭清する。

本来はこれに、化学療法やホルモン療法を加えながら治療することになる。

しかし、治療はこれで終了する。

ここでは手術は無料で提供できるが、薬は提供できていない。

彼女らは高価な薬を、自力でどこかで購入しなければならない。

もちろん、多くの人々にはその力はない。

だから近い将来、そのほとんどは死んでいくこととなる。


 乳がんは放置しておくと皮膚を突き破る。がん細胞は乳管や小葉の中で”ザクロの実”のように増殖し、やがて外へ向かって噴火する。

昔は日本でもよく見かけたはずだ。

大体このくらいに、あるいはそれ以上のかなりの大きさになってから、彼女らは治療に来る。

予後は悪い。

ここに来た時には、既に何も出来ないような人もいる。


乳がんが見つかった場合、その事実を家族へ伝える。もちろん本人もある程度は理解をしているが、国の慣習から、改めて本人には話さない事も多い。

そのような時、患者の中には、病院から梃子でも動かない人がいる。


アジアの途上国で乳がんを診る_e0046467_08555738.jpg


彼女らは最後の望みを託してここにきているのだ。

ここから何もせずに帰ることは、すなわち死を受け入れることとなってしまうからだ。

スタッフが時間を割き、ゆっくり患者の訴えを聞きながら、励まして、慰めて彼女らはやがて帰路へとつく。


アジアの途上国で乳がんを診る_e0046467_08545709.jpg


そんな患者たちを何人も何人も手術してきた。

せめて手術だけでもしてほしいと懇願される。

だから、手術をする。

もう長くはないかもしれない彼女らの人生に、ほんの少しだけでも希望を灯したいといつも思っている。

それがたとえ小さな灯火でも、人生、ないよりはあったほうがいい。

死のその瞬間まで、少しだけ、ほんの少しだけでも、希望はあったほうがいい。

だから手術をするのだ。



 日本でも毎年多くの女性が亡くなるこの乳がんという病は、アジアのミャンマーやカンボジアではいまだに不治の病だ。

ひとつだけ慰められることがあるとすれば、彼女らは最期、きれいに死んでいくのだ。


抗がん剤を打てない彼女らは、抗がん剤によって苦しむことはない。

髪の毛も抜けず、下痢もせず、感染もほとんど起こさない。

弱った体に高カロリー栄養の点滴もされることはない。

ただ病気が進行し、弱り、ご飯が食べれなくなった時、実にあっさりと死んでいく。

家族も長い闘病に付き合わされることもなく、経済的な負担をかけることもほとんどなく死んでいく。


家族も必要以上に苦しまず、本人の苦しみの期間は明らかに短い。

その死に様はきれいなものだ。


この姿を見ると、最期まで鞭を打たれて死んでいかなければならない日本人と、彼女らと、どちらが幸せなのか分からなくなってしまう。


神様は、せめて彼女らの最期が、安らかで美しいものであるという尊厳を与えたような気がする。



 明日はミャンマーに移動する。

やはり乳がんの患者は待っている。


命を救えない手術をすることもある。

救えないと分かりながらする手術もある。


アジアの途上国で乳がんを診る_e0046467_09115115.jpg


それでも彼女らは私の到着を待ってくれている。

明日も彼女らの心に少しでも明かりを灯せるだろうか?


たとえ体は救えなくても、少しくらい心は救えるだろうか?





# by japanheart | 2018-04-30 04:59 | 活動記録 | Comments(0)

その先への感謝

 若かりし私は、日本の病院で働き、途上国へたった1人で赴いた。

当時、病院というにはあまりにお粗末な施設しかもたなかったその国で、小さな診療所を何ヵ所も巡回していた。

自らの居住スペースも診療所に改造し、何もかも自前でひとつひとつ揃えていった。

煮沸すると熱で割れてしまうハサミやセッシなどの手術用の道具。水を吸収しそうにないガーゼ。それでも、ないよりはましだった。

全く効かない部屋のクーラー、暗いライト。水道の蛇口をひねれば、濁った水が吹き出し続けた。


その先への感謝_e0046467_17355679.jpg

 

 そんな中、自分と数人の現地人で治療に関する全てをやりとげなければならなかった。


 手術の道具は粉の石鹸を付けて歯ブラシで洗い、そのまま煮えたぎるお湯の中へ放り込む。30分もすればその中から取り出し、道具箱の中へ戻していく。

毛羽立ちがひどいガタガタのガーゼをロールで買い込み、切れないハサミで何とか適当な長さに切り、折り曲げ、湿らないようにカネの箱に入れて、滅菌の機器に放り込む。

なけなしのお金をはたいて買った小さな滅菌器は、いつ来るかも分からない僅かな通電時間を逃さずに動かさなければならなかった。1日にたった2時間しか来ない通電。度重なる停電の合間を縫って、早朝、深夜を問わず、その貴重な時間を決して無駄にするわけにはいかなかった。

薬も自分でマーケットへ買い出しに行き、ハサミで必要分だけ切り取り、患者たちへ渡していた。

食事の世話まではとてもできるはずもなく、患者とその家族は庭先でご飯を煮炊きし、自分たちで何とかしてもらっていた。


 施設のあらゆること、医療のあらゆること、患者の周りのあらゆること、全てを整えることが私の役割となっていた。


日本ではこんなことしなくてよかった。

医者だけしておけばよかった。

楽だった。

と、そう思った。


 そのときはじめて、自分がいかに多くの人間に支えられて医者をできていたのかと、後れ馳せながら悟ったのだ。

いかに自分が、医者として、医療人として傲慢で何も見えていなかったのかを思い知らされた。




 医者や看護師は医療をすれば患者に感謝もされ、ほめられもする。それをモチベーションに医療を続けていくこともできる。しかし病院には、患者に感謝もされず、ほめられもせず、直接関わることもなく働いている人たちが、たくさんたくさんいることを知らねばならない。

 

 彼らは毎日、汚れたトイレを掃除し、暑い厨房で患者や働く医療者のために食事を作ってくれている。

 看護師でも機器を滅菌する中材(中央材料室)の人たちは、患者に接することはない。しかしその看護師がそこにいなければ、病院は回らない。病棟や外来で直接患者と接している誰かが、代わりにその役割を務めなければならない。絶対になくてはならない役割なのだ。


その先への感謝_e0046467_17472384.jpg

 

 ところが、トイレを掃除している人が患者に感謝の言葉をもらうことはほとんどない。

暑い厨房の奥で食事を作ってくれている人が患者にお礼を言われることもほとんどない。

病院の事務所で働く人たちが患者からほめられることもほとんどない。


 でもね、こういう人たちがいてくれないと病院は機能しない。機能しなければ、いくら優秀な医者がいても何の役にも立たない。


わかってくれるかな?


 だからせめて、患者やその家族から感謝や評価をもらえる人たちや病院の管理職の人たちは、こういう人たちを大切にして、こういう人たちにいつも感謝の気持ちを持つべきだと思う!

 

トイレ掃除をしてくれているスタッフがいたら、お疲れ様と、ありがとうと声を掛けようか?

患者が今日はこの料理が美味しかったと言っていたら、直ぐに厨房に電話して知らせてあげようか?

すれ違う病院の縁の下の力持ちたちに深々と頭を下げ、お疲れ様と感謝を込めて言ってみようか?


 そうすれば病院が生き返る。

 誰もが働くことが楽しく誇りに思える場所になる。

 感謝が円を描いてスタッフの間を繋げていく。


 


 こんな話を聞いたことがある。

 アメリカのNASA航空宇宙局がまだ前身の組織であったある日、所長が赴任した。

廊下を歩いているとき、そこを掃除する老人に何をしているのか?と聞いたそうだ。

その清掃夫の老人はこう答えたそうだ。


「宇宙にロケットを飛ばす仕事をしています。」




 病院で働く全てのスタッフがあなたの仕事は?と聞かれたとき


「患者を助ける仕事のお手伝いをしています!」


その先への感謝_e0046467_09064005.jpg


と答えられるような、そんな病院にできたらどんなに素晴らしいことだろうか。











 


# by japanheart | 2018-03-31 00:15 | 医者の本音 | Comments(0)

サボテンの花

その子はもう長い間、神経芽細胞腫という小児がんと共にあった。

5歳で発症し、現在17歳。何度も再発を繰り返し今も病床にあった。

なんと人生の3分の2がこの病気との闘いだった。


学校にもなかなか行けない彼は、病床で図鑑を見ていることが多かった。

中でもサボテンに興味を持ち、それは彼の友達の代わりだったのかもしれない。

やがて彼は、サボテン博士になってしまった。

彼には特にお気に入りのサボテンがあった。名はキンシャチというサボテンだった。

そのキンシャチの日本で最も大きなものが、伊豆シャボテン動物公園にあった。


それにずっと会いたかった、、、。

しかし、病気の調子も悪く、その夢はなかなか叶わずにいた。


多くの人は十代の頃、好きな人ができたり、友達といろいろ出かけたりを当たり前にする。

彼はその当たり前のようなことを、少しだけでもできたのだろうか?

もしかすると、普通の十代がするそれらを全てひとつにまとめたものが、彼にとってはそのサボテンだったのではないかと思うのは、少し違うかな?


彼のお父さんはお医者さんだ。小児科ではないけれど。

私は今まで何度も、医者の子どもが病で亡くなるのをみてきた。

きっと、自分には手が出せない無念さを今も抱えているのだろう。



ジャパンハートには”すまいるスマイル・プロジェクト”という企画がある。その企画は、今や多くの人たちに利用され、日本中の小児がん専門機関や医師たちの協力を仰げるようになった。

「好きなときに好きな場所へ」をコンセプトに、小児がんの子どもとその家族に生涯に残る思い出をつくってもらおうと始めた企画だ。ディズニーランド、キッザニアをはじめ、様々な場所に子どもたちを連れ出している。看護師や医師の付き添いはもちろんのこと、毎回多くのボランティアスタッフの献身的協力によってサポートされ、また、拠点病院とも必ず連携している。



このサボテン博士も、その企画に応募してきてくれたのだ。


病状がどんどん進んでいく中、遂に、伊豆のシャボテン動物公園でキンシャチとの出会いを果たせたのだ。


そのときの様子をボランティアスタッフから聞き、本当によかったと、幸せな気持ちになった。

お父さんは黙って子どもの車椅子を、ずっと押していたそうだ。

ただそれを聞いただけで、その父親の心が伝わってくるようだった。



サボテンの花_e0046467_13500401.jpg




帰る前、サボテン博士はお土産を買いに行った。

お母さんがある写真をみて、サボテン博士に「この花、素敵ねぇ!」と言ったサボテンの花があったらしい。

サボテン博士は今まで貯めてきたお小遣いを使って、そのサボテンをお母さんへのプレゼントとして買ったそうだ。

しかしサボテン博士の買ったサボテンには、お母さんが「素敵!」と言った花は咲いていなかった。

なぜか花の咲いていないサボテンを買ったそうだ。


それには彼の命をかけた願いがあったのだ。


”お母さん!このサボテンの花が咲く頃までは僕は生きているから!”



幸せな一日を過ごしたサボテン博士とその家族は、やがてもとの病院に帰っていった。




数日前、ミャンマーで手術していた時のことだった。

私はいつになく手術に難儀していた。診断名と違い、複雑でなかなか上手く前に進まなかった。うんざりした気持ちで、血だらけになった手術着を一旦着替えに戻ったとき、その知らせが届いた。


彼が亡くなったという、日本からの知らせだった。


私はその瞬間、自分が生きて今、こうして難儀できる幸せを感じ、思い知らされた。

私はなんと幸せなのだと、生きているだけでも十分幸せなのだと。


失いかけた自分のエネルギーが再び充電されていくのを感じた。




最近よく思うことがある。

こころや肉体はこの時空に閉じ込められているけれど、人の魂は時空を越えて存在するのではないかと。

彼の魂は、自分が亡くなる時期を知っていたのではないかと思う。

だからあのぎりぎりの時期に、あの場所を尋ねることができたのではないかと。

ある人が死んだ後も、あるいは生きている今も、どうしてあのタイミングであのことが起こったのだろうかと、不思議に思うことがある。偶然にしては出来すぎているし、偶然で起こる確率などありえないと。


だからきっと、それは偶然じゃないのだと。

私たちの魂は時空を越えてちゃんと知っているのだ。最近、そう信じるようになった。


きっと彼の魂も、お父さん、お母さん、そして二人の弟たちと最期にあそこを訪れるタイミングを決めていたんだと思う。

 

サボテン博士は二人のボランティアスタッフに、お土産にはこのサボテンがいい、と小さな鉢に入ったサボテンをすすめてくれた。

彼が亡くなったその日は天気がよく、すごく気持ちがいい日で、地方のボランティアスタッフは別々の場所で、同じ日に、偶然にもそのサボテンを初めて外に出し、太陽に当てたそうだ。


きっと彼が、今日は天気が良いからサボテンを太陽に当てたほうが良い、と伝えたのだろう。


サボテンの花_e0046467_13564450.jpg

そのサボテンは、花を咲かせ、今も彼の思い出と共に生きている。





     





# by japanheart | 2018-02-05 13:58 | いのちの重み | Comments(1)