医者になったことーー2
2009年 02月 12日
1年目の浪人の医学部を目指したいと宣言した時、多くの友人が反対した。
大きなお世話だが、ある友人は私に「国立の医学部というのは東大とか京大へ行く人が医者になるといってゆくところで、君みたいな成績のものが行くところでない。ましてや、君は理系ではなく文系ではないか。」と丁寧に嫌味と忠告をくれた。
あの時、私は彼らの言うことを尤もだと思って聞いていた。
あの時、私を含む誰もがそのは無理だと思っていた。
しかし、私には一つだけ心に引っかかったことがあった。
誰もが私の無謀さを、そして可能性を疑うのは理解できる。しかし、なぜ、私自身が自分の可能性を信じれないのか。この10代の終わりに私は私の可能性を信じれなかったり、疑ったりしたら、これから先の長い人生どれほど、私は絶望を感じながら生きつづけなければならないのだろうか?
私は私の可能性を信じてあげねば、自分が浮かばれなかった。
2年目の浪人生活が始まった。
1年目まで文系のクラスにいたのに、国語・数学・英語すべて、偏差値は30代だった。
やはり去年と相変わらずみんなを元気ずける存在だった。
しかも今年は初めて勉強する理科まで加わって、本当に泥沼にはまり込んだ心境だった。
やはり成績は低空を飛び続け、10月の終わりまでさして希望は持てない状況が続いた。
このまま私はどうなった行くのかと不安から夜も眠れない日がたびたびだった。
その眠れない夜はいつも天に語りかけた。
そして、私は神仏と取引をした。
どうか私を医者にして欲しい。
私は生涯、恵まれない人のために働くからと。
信心する心の薄い私にはもちろん神仏は何も答えてはくれない。
せめてもと毎日仏壇の水は代えた。
神仏は下賎な取引などしないのだ。今なら分かる。若いころの苦い思い出だ。
11月ころから、不思議なことに成績が急上昇し始めた。
なぜかしら12月ころには、偏差値で60はゆうに超えていた。
医学部が射程圏内に入ったのだ。
私は高校時代から一度も満点に縁のない男だった。
それがこの年の本番の共通一時(今のセンター試験)で満点を取った。
そして2次試験。
当時、国立大学は全て同じ日に一度だけ試験を行った。
だから、学生たちは皆、一発勝負だった。たった1校しか受験できなかったのだ。
決して出来は良くなかったが、合格していた。
情けないオトコに神仏が情けをかけてくれたのだ。
ただ感謝した。特定の神仏の信仰など私には無かったが、あらゆる存在に感謝した。
だから、今もその下賎な取引の約束を果たしている。
若気のいたりで、時々後悔している。