特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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責任を取るということ

責任を取るということ

 人には責任を取るということができないでいる人が多い。
 
 自覚できない、自覚したくない。
 忘れる。
 転嫁する。

 どれも惨めなものだと思う。


 ある患者が死ぬ。
 最後の引き金は何かわからないが、その一部にでも自分が関われば、それは全て自分のせいかもしれないと自覚しなければならない。
 もしその過程に、自分の行為がなければ、おそらくその時間、そのタイミングで患者の死は、起こりはしない。
 すなわち自分の行為も、患者の死の”縁”となっている。

 当然自分の代わりに誰かが同じことをしても、同じ結果にはならない。
それが縁起というものだ。

 だから患者の死の責任は、全て自分のせいと言い換えることもできる。
 そう考えてもいいのだ。

 そんなことを言っていたら何もできないが、そう考える、そう受け止める勇気はいる。
 
 今いるスタッフ、やめていったスタッフの多くは、悲しい現地での患者の死を経験しているはずだ。
 防げる可能性のあった死である。

 しかし、その患者たちの運命は、もうどうしょうもないのだ。死は固定されている。
 せめて、ほかの現地の人たちのためにその経験を生かし、何かをなし続けるしかない。
 それが唯一、その死に報いる方法だと思う。

 しかし現実はどうだ?

 辞めていった人たちはどうだ?
 自分が、自分がと、そればかりではないか。
 今いる人たちもどうだ?
 自分のことばかりではないか?

 自分の人生すら、上手くコントロールできないのに、どうして組織や他人を自分の思いどうりにできようか。

 自分が、自分が言う前に、あの亡くなっていった患者たちへの責任はどうなった?

 少しくらいつらくても、苦しくてもその人たちのためにがんばり続けることが、責任の果たし方ということではないのか?

 責任など自覚せず、自分が関わった患者の死もひとつの過去の出来事にして、他人のせいにしている人たちには、何を言っても無駄なのだろう。


責任も取れない人が、それすら自覚できない人が、他人を批判したり、吟味したりすることはばかげている。
責任のとり方も知らない人に、いい人生など高嶺の花だ。

人生もまた然り。
責任に見合った報酬が与えられる。





 


 
by japanheart | 2008-10-14 01:53 | 基本