責任を取るということ
2008年 10月 14日
人には責任を取るということができないでいる人が多い。
自覚できない、自覚したくない。
忘れる。
転嫁する。
どれも惨めなものだと思う。
ある患者が死ぬ。
最後の引き金は何かわからないが、その一部にでも自分が関われば、それは全て自分のせいかもしれないと自覚しなければならない。
もしその過程に、自分の行為がなければ、おそらくその時間、そのタイミングで患者の死は、起こりはしない。
すなわち自分の行為も、患者の死の”縁”となっている。
当然自分の代わりに誰かが同じことをしても、同じ結果にはならない。
それが縁起というものだ。
だから患者の死の責任は、全て自分のせいと言い換えることもできる。
そう考えてもいいのだ。
そんなことを言っていたら何もできないが、そう考える、そう受け止める勇気はいる。
今いるスタッフ、やめていったスタッフの多くは、悲しい現地での患者の死を経験しているはずだ。
防げる可能性のあった死である。
しかし、その患者たちの運命は、もうどうしょうもないのだ。死は固定されている。
せめて、ほかの現地の人たちのためにその経験を生かし、何かをなし続けるしかない。
それが唯一、その死に報いる方法だと思う。
しかし現実はどうだ?
辞めていった人たちはどうだ?
自分が、自分がと、そればかりではないか。
今いる人たちもどうだ?
自分のことばかりではないか?
自分の人生すら、上手くコントロールできないのに、どうして組織や他人を自分の思いどうりにできようか。
自分が、自分が言う前に、あの亡くなっていった患者たちへの責任はどうなった?
少しくらいつらくても、苦しくてもその人たちのためにがんばり続けることが、責任の果たし方ということではないのか?
責任など自覚せず、自分が関わった患者の死もひとつの過去の出来事にして、他人のせいにしている人たちには、何を言っても無駄なのだろう。
責任も取れない人が、それすら自覚できない人が、他人を批判したり、吟味したりすることはばかげている。
責任のとり方も知らない人に、いい人生など高嶺の花だ。
人生もまた然り。
責任に見合った報酬が与えられる。