流れ
2008年 03月 20日
自分たちがやっている世界にも流れがある。
分りやすく大げさに例を挙げてしまえば、江戸時代開国の頃の日本。帝国主義の外国を追っ払らうことに命を賭けた人たちがいたが、ほとんど討ち死にした。生き残った人たちは、ほとんどイギリスやアメリカとうまくやってゆくと決め動いた人たちだった。
そこで考えてみた。果たして日本がまとまれば、外国を追っ払い、鎖国を再び決め込むことが出来たかどうか?
あるいは独自の独立を成し遂げることが出来たかどうか?
私の答えは、無理。
当時の西洋と日本の力の違いは何桁も違っていた。
当時日本が、植民地にされなかった主要な要素はいくつかあるが、西洋諸国のパワーバランスの中でそうなったように感じる。彼らは幾度も内政不干渉の条約を取り決めけん制しあっている。
開国、西洋化、イギリス・フランス・ロシア・アメリカの帝国主義が当時の大きな流れであったと思う。
そのうちどの国の流れに属するかという選択だった。日本独自の選択など、夢のまた夢だったと思う。
第二次世界大戦にしても、田中角栄のロッキードにしても、独自の選択をしようとした瞬間に、いつも葬られている。
それが現実だと思う。
その流れの中で許される日本独自の生きる道を、見つけていくという選択だけがある。
翻って、私たち国際協力の世界もそうだと思う。
この世界は、キリスト教の考えをベースに援助の意識、方法、形態がつくられやってきた。その際たるものが国連だと思う。
おそらく、私たち自身は独立自尊でやれば、ある程度の大きさになったところで、この世から消えてなくなる運命だと思う。消し去られるだろう。
国連を表立って批判した人は大抵、馬鹿のレッテルを貼られるだろう。
なぜなら、知らない間に日本人も含めて多くの人は、国連のやり方を基準に全てを考えている。
それを知らず知らずに受け入れている。
そのような大きな組織はいいことも悪いことも全て大きく併せ持っている。
そこは、大きな無駄と大きな欺瞞があるかもしれないが、それがこの世界の流れなのだ。
江戸末期の日本と同じ選択を私たちもまた迫られている。
大きな無駄と大きな欺瞞を抱えて国際協力をやってゆくしか選択肢はない。日本に開国しかなかったように。
それが嫌ならば誰にも気付かれない様な小さな規模で我慢するしかない。そして、自分が止めたら、後はこの世から消えてなくなる。
どこの組織も、少し大きくなれば無駄や欺瞞を抱える。
しかし私は思う。
それでも、その中で人間としての美しさを示してみたい。日本の素晴らしさを示してみたい。
それらの考えや大きな流れに心まで飲み込まれることは、断固拒否しようと思う。