エイズの関して
2006年 08月 23日
アジアの国々ではエイズの問題は深刻だ。
この国でも、タイやインド、中国からエイズが流入してかなり患者がいると推測されている。私がここで活動を始めた95年当時は、それらしい患者を何人も治療したが、なかなか検査が出来ないために、確定は難しかった。
今はこの国でも比較的簡単に、血液検査ができるようになり、患者を特定できる。
2日前に、若い女の人が夫に連れられて発熱と呼吸困難でやって来た。
体を一通り診察し終えたあと、どうやらエイズだろうと考えた。結果はやはりそうだった。
私がいる仏教系の病院では、エイズの患者をコントロールできないという理由で入院を拒んでいる。
心情的には納得しがたいが、それも仕方ないのかもしれないとも思っている。
結核等の感染に罹りやすい患者の院内感染コントロールが出来ないのと、血液の処置が完全でないからだ。
明日、大きな町の感染病棟に患者を送る。
家族は気の毒だとおもう。患者も呼吸困難を押してそこまで数時間動かなくてはならない。お金もかかる。心から同情する。しかし、現実は重くのしかかる。
薬は買うことは出来ない。この国の人にとっては高すぎる。一月の薬代は家族の年収をはるかに超える。それを買えば家族は明日から路頭に迷う。見方によっては、この人は命を失うことで家族を救っているともいえる。
命ははかないものだ。
命に関して現実感もなく、いつも懐に抱え込んでいる日本人達には分かりにくいだろうが、人の命は、風に吹かれる木の葉のようにいつもふらふら舞っている。
今日の死を待つ患者は、明日の私かもしれない。
死は私にとって身近なものだ。本当は誰にとってもそのはずだと思うが。
死を見つめない生からは、鬼気迫るものは生まれにくい。一刃の下に人は究極の能力を発揮する。
私たちにはせいぜいたった数十年の生しかないという事実を、人は心地よく受け入れることが出来るだろうか?