時間を大きくロスし、なおかつ何かを大きく犠牲にして何かを手に入れるという生き方は、将来、時代にマッチしなくなると思う。
最小限の犠牲で済ませ、何かを手に入れながら前に進む。
才能が一つしかないという意識がベースにある時代は、その才能を開花させるための大きな犠牲は時間をかけても許容される。
もちろん、その犠牲はその才能に全て転化される前提だし、そもそも健康寿命がかつては大変短かった。日本はつい最近まで社会的制限が多く、人間がいくつもの才能を開花させるには、ちと人生、時間が無さすぎたのだ。
私が子どもの頃の50年前は定年が50〜55歳程度で、肉体労働の人が多く彼らは50歳を過ぎれば体はガタガタだったと思う。私の子ども達の時代、平均寿命予想は100歳を超えているから、なんと、かつての定年退職年齢はまだ人生の半分くらいのところになる。
”人間にはいくつもの才能がある” と理解したこれからの時代は、時間がかかる大きな犠牲を払うことは、寿命が延び投資時間をたくさん持てるにもかかわらず逆に人生全体で見ると投資対効果の効率が低くなる。才能の開花は、一つの才能が次々と別の才能をいもズル式に引っ張り出すという表れ方をするからだ。
だから、最小限の犠牲で済ませながらどんどん効果を相乗的に生み出し、成果を出していく。引っ張り出された二つ目、三つ目の才能が逆向きに一つ目の才能を刺激して大きく成長させるようになる。一人の人間の中にある才能は互いに連動性をもっていると思う。だから、一つの才能の開花だけにあまり時間をかけすぎない方がいいと思う。
テストみたいなものだと思ってもらうといいかな?
一つ目の問題が難しく、それに時間を食われて余裕をなくすより、二つ目、三つ目の解ける問題からスタートして余裕をもって最後に一つ目の問題に戻るように、人生も限られた時間しかないのだから。
働いてお金を稼ぎ、そのお金を元に技術や知識を学び、それを使って更に新しいビジネスを創めお金を大きく生み出し機会を創出し、更に大きく稼いだお金で投資して、新しい生活を手に入れる。友達を増やし、世界の観光地をまわり、見識や記憶を増やし、、、というように、やっていく。
私は随分長い間、途上国のインフラの整わない貧相な設備でしかも不十分な金銭的財源と人的不足の中で医療をしなければならなかったので、手術は普通の日本人医師よりも早く、手際のよい手術をする。
しかし、外科手術はアートではないので、見た目にいくら手術が上手く見えても、バイオリンやスポーツのように評価されるのは少し違うと思っている。
例えば、野球は打てればどんな道具を使ってもいいわけではない。通常、木で作られたバットを使う。その条件下で成績を競う。バイオリンも良い音が出せればどんな人工素材を使ってやってもいいわけではない。その楽器は既にバイオリンとは呼ばないだろう。
ところが、戦争すら武器の制限があるのに、医療には制限がない。
素材も機器も、その他どんなテクノロジーも患者に対する利益・不利益の効率が良ければどんな手段でも普通は問題ないのだ。
学生時代、テストではカンニングは罰せられたのに、新しい機器が臨床現場で使用されるときはマニュアルを横に置き、それを見ながら、しかも横から機器メーカーの人間にアドバイスすら堂々ともらいながら手術が行われる。
極論すれば、どんな手段でもいいから患者を最も治せるものが正義なのだ。
別に、見た目のテクニックは本来どうでもいい。
だから、時代に照らし合わせれば、これからは時間をかけて見た目上の上手さを求めるのは正しいやり方にはならないと思っている。
それよりも最も患者の治療成績を上げられるテクニックとテクノロジーを取り入れ、時間をどんどん飛び越えていくのがいい。
徒弟制度のような医師の仕組みは早晩、壊れると私は見ている。
この制度はこれからますます投資対効果が薄くなるから。
これから医師は、医師だけで集まってやるのではなく、企業やできればベンチャーと組んで新しい価値を創出していったほうがいいと思う。
そうすれば、その医局には創造性に優れた優秀な医師がたくさん集まるだろう。
大学の医局には、出来上がった商品を売る人間だけではなく、新しい価値を共に創ろうとする多くのベンチャーが引っ切りなしに出入りしている未来でなくてはならないと思う。
話を戻す。
これからの人類、特に日本人は伝統的に「一つの事をやり込め」と教えられてきた人々なので、人間はいくつもの才能を持つ動物であると証明していかねばならない。
そのためにいい方法は、目的とプロセスを一致させてしまう事だ。
旅行に行くために、頑張ってお金を稼ぐのをやめる事だ。
旅行そのものが金銭的財源を生み出したり、お金を稼ぐ仕事が人生の学びや楽しみを十分満たしているように生きること。
”ボランティアに行くか、旅行に行くか” ではなく、その両方を満たすアイテムを探しあてる事。
そして、その体験を再び、人生に投下できるように位置づけて置くこと。
もちろんそこで出会った人々との新しいネットワークや繋がりもその一つだと思う。
単なる思い出つくりは、やめたほうがいい。
働くという行為とボランティアという行為の分離。
こういう発想は時代遅れになる。
それから全て頭で考えて理解してるような気になることは危険。
体験を重視した方がいい。
常に、理想や思い込は現実とズレるから。
将来、途上国で医療をしたいのだが今どんな事をやっておけばいい? とよく質問を受ける。
これに正解はない。
もしも正解があるとしたら、それは今すぐに途上国で医療すること以外考えられない。
体験してそこから自分に合った正解に向かって思考を進めるしかない。
私にはその人の正解などは到底、分かりようがないからだ。
体験してそれを次の自分に投下していく。
未来は行動した人間にのみ確実にその道を示し、微笑むようにできている。