狂気を宿す−その2
果たして、 私にはそんな狂気を宿せているのだろうか?
想像しただけで人生からエネルギーを吸い取られてしまうような経験を経て来たのか?
時として最愛なる人を失うことは自分の命を失うよりも耐えがたいことがある。
我が身、我が人生を振り返った時、彼らの悲しみに匹敵するような苦難を私は経験してはいないと思う。
この身には、多分、彼らのような"狂気"など宿せてはいないだろう。
そんな"狂気"の力を得なければならないと、ひと月もの間、全く食事を絶ち、水のみで過ごしたこともある。
しかし、到底、彼らに匹敵するだけの"狂気"は我が身には宿せなかった。
人はつながる。
直接的なつながりもあれば、空間を超えてつながることもある。
しかし、人は時間も超えてつながることもできる。もしかしたら次元すら超えて。
数百年前の欠片が現代の誰かに何かを語ることもある。
数百年前の武道の極秘が忽然と現代の誰かにその本義を伝えることもある。
あなたの残した生き様や思いが子や孫の力になることもある。
100年前の書物の一節にあなたが悶絶し、そして生き方を変えることもある。
そしてそれは、直接的に伝わるものと、いくつもの事象に弾かれて時間をかけてバウンドしながら伝わって来るものがある。
私に"狂気"と呼べるものがあるとしたら、それが多分、確かに私が受け取った"狂気"だったと思う。
私が初めて渡ったミャンマーの地では、50年前の第二次世界大戦で30万人の日本人達が戦い、そして約三分の二の20万人が散っていった地獄のビルマ戦線が繰り広げられていた。
戦争の"狂気"。
彼らはどのように生き、そして死んでいったのか。
彼らの思い、無念。
家族の思い、寂しさ。
現地の人々の思い、悲しみ。
時間と次元をバウンドしながらそれらは私のところにたどり着いてしまった。
50年を経てたった一人、医療を行いながら、激戦により数万人が亡くなりいまだ2万人が埋まっていると言われている大地に、戦後初めての日本人として住み、戦争を経験した多くの年老いた現地の人々、生き残った日本人たちの涙や一人ひとりの人生ストーリー、壁にいまだに残る当時の弾痕、安置された日本軍の朽ちた装甲車、お寺の境内に残された錆びた鉄兜、古ぼけた兵士の写真や日本に残してきたその家族の写真、そして多くの位牌、破れた日の丸。
どれもこれもが戦争の゛狂気゛を悲しく私に伝えていた。
それらを私はシャワーのように浴びすぎたのだ。
電気もほとんどこない、安全な水も紙も手に入りにくく、たった一人で孤独だった私には自身の境遇ゆえ彼らとリンクしてしまったのかも知れない。
その時、彼らの、そしてあの大地で亡くなった人々の"狂気"を私は受け取ったのだと思う。
それらが私をここまで導いて来てきた気がする。
たった一人、現地で医療をはじめた1995年。
苦しかった時、もう諦めようと思った時、どこに行ってもいつも私の周りには、あの大地で亡くなった日本人たちの無数の慰霊碑が存在していた。
その慰霊碑はその前にたたずむ私に、
「どんなに辛くとも、戦って死ぬよりはいいだろう?」と語りかけてきた。
そう、死ぬよりはいい。
私は人を殺すためではなく、生かすためにここに来れている幸せをかみしめたのだ。
「戦って死ぬよりはいい。」この言葉を私は何度繰り返したことだろう?
だからもう一度、力を振り絞りいつも立ち上がることができたのだと思う。
1995年頃、世界中のNGOが軍政下のミャンマーで活動許可を得れずに何年も待たされていた時、「お前は日本人だから信じる!」と言ってミャンマー政府がたった数カ月で私に活動許可を与えてくれたのは、私の力ではないと今でも思っている。
そして、不思議にいつも苦しかった時、私を現地で助けてくれたのは戦争時代からの縁ある人ばかりだった。
私が失ったのは今血のつながりがある人ではなく、きっとこの日本の長い歴史のどこかで私の血とつながっている、50年以上前に散った日本人たちだったのだと思う。
私が生まれた1965年。それより20年も前に私は大切な仲間を失っていたのだ。
私に宿された"狂気"は、正確には、私を含む私の周りに宿された"狂気"であり、何か危機的な状況に陥った時、いつも得体の知れない"狂気"の力に護られているような気がする。
かつて傷ついた日本人達を救ってくれたのは、名もなきミャンマーの農民達だった。戦争末期、日本と共にイギリスを相手に戦ったミャンマー(ビルマ)政府は、敗戦国にならず自国の独立を勝ち取るために敗色濃厚になった日本に対して逆に宣戦布告し、戦闘状態に突入する。イギリス軍に追われ、ミャンマー軍にも追われた日本人達を救ってくれたのは、誰だったのか?
それは、名もなき農家や市井のミャンマー人たちだったのだ。
だから、私は学んだのだ。
本当の最後の砦、日本の最後の安全装置は、武器ではなく現地の市井の人々に信頼されること、大切に思ってもらえていることなのだと。
それは日本政府がしている援助では決して得ることができない、人と人の時間をかけたつながりから生み出された信頼や恩義のみが可能にする安全弁だと思う。
中村哲先生がいたことは、日本にとっては幸いである。
アフガニスタンで日本人に何かあっても、多くのアフガニスタン人がその人を助けてくれるだろう。
そして、ミャンマーでは、もし何かあったら私が25年かけて医療を施してきたその人たちやその家族が、75年前のようにあなたを助けてくれるはずだ。
75年以上前に生まれたその戦争の"狂気"を私は受け取ってしまった。
そしてその"狂気"は私をこの道に縛り付け決して死ぬまで離してはくれないだろう。
でも、それが私の人生ならば迷わず行くしかない。
その先に何があり、どんな未来になっているのか?
行けば分かる、行かねば分からぬ。
これからどんな時代になろうとも、私はこれからもきっと戦争から生み出されたその"狂気"に身を包みながら生きていくと思う。
私が倒れた時、その歩いてきた道には少しだけ平和という状態の花が咲いているのだと信じながら。
この道こそが私の信じる平和の行使だと思っている。