狂気を宿す−その1
先日、アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師はかつて自身の息子を脳腫瘍で亡くしている。
その息子が危篤の途にある時にも、日本への帰国を現地の人々が勧める中でも、「ここで帰国すれば自身のこれまでの発言が嘘になる」と頑なに拒否したそうだ。
しかしながら、多分、彼は息子の死に際には傍にいてくれたのだと思う。
脳腫瘍の息子の死をみおくったその三カ月後、彼はある決意を宣言する。
飢えと渇きで既に亡くなってしまった、同じような幼い我が子を抱いたアフガニスタンの母親の姿を思い、息子の弔い合戦だと命を懸けてあることを決意したのだ。
今のアフガニスタンに最も必要なもの。
水と、彼らが生活できる場所、そして人々の生活の糧。
彼は医療を捨てて巨大な用水路の建設に乗り出す。
一切、そのための知識も経験もなかった。全て一からのスタートだった。
しかし、彼には一つだけ誰にもないものがあったのだ。
息子の命と引き換えに手に入れた"狂気"。
それから何年もかけて用水路は完成し、数十万人のアフガニスタンの人々の命と人生を救う事になる。
しかし、もう少し、もっと彼が生きていたらその数は何倍にもなったことだろう。
もっと多くの人々が彼の存在を知り、支援できていたら、もっと多くの人々が既に救われていたことだろう。
もう一人。
日本最大の民間病院群「徳洲会」を作り上げた徳田虎雄医師。彼は戦前、鹿児島県奄美諸島徳之島で子だくさんの家庭の長男に生まれる。彼が10歳の時、彼の幼い弟(三男)が激しい嘔吐下痢になる。嘔吐が止まらず、夜間母親は暗闇の中、山を越えて医者を呼びにいく。しかし、医者は貧乏人の農家の倅のためになどは来てくれなかった。そして、母親の報告を受けた10歳の虎雄はたった一人、夜中に山を越えて別の医者を呼びに行く。
しかし、その医者が三男のために虎雄の元を訪れたのは翌日の昼過ぎのことだった。既に、弟は息を引き取っていた。
この時、虎雄はこう思ったそうだ。
「今まで自分は医者というのは神様の次に偉い存在だと思ってきた。しかし、それは間違いだった!」
この弟の死が彼に"狂気"を与えたと、後年、彼は語っている。
徳洲会の年中無休、貧乏人からはお金を取らない、などの理念のオリジンは彼のこの原体験に根差して生まれたものなのだ。
自分自身に生命保険を賭けて、自分の命を担保に、彼はどんどんお金を借り入れ病院を増やし続ける。こんな"狂気"の元はかけがえのない弟を死なせてしまったその無念さと怒りだったのだと思う。
そして、この二人、中村哲医師と徳田虎雄医師にとっての大切な身内の死が、やがて彼らをして多くの人々の命を救い、やがてその身内二人の無念の死が昇華されその死の意味付けを変えて行く。
幼い息子と弟の可哀相な死があったからこそ、たくさんの命が救われたのだ。
彼らの死は決して無駄でもなく、意味のないものでもなく、多く命を救った尊い犠牲であったのだとこの医師二人は命を懸けで証明したのだ。