神社にいくと子どものころは「何を拝んでいるのだろか?」と思っていた。
仏教のイメージも相まって仏像の様なものが置いてあるのだろうと何となく想像していた。
神社は不思議なもので、石を奉っているところもあるし、刀を奉っているところもある。
しかし一番多いのは鏡なのだろう。
何故、鏡を奉っているのか?
しばらく意味が分からなかった。
昔は鏡というものが高価なもので、なかなか手に入れることが困難な宝物だったからかもしれないな、などと考えていた。
でも最近は人生少しばかり長く過ごしてきたこともあってか、なるほどそういうことね!と分かるようになってきた。
最近不思議と人生の様々な事柄の意味を言語化できるようになり、言語化できるようになると更に深くその意味を理解できるようになってきているような気がする。
人間は元々、宇宙に存在している意識体みたいなものだ。宇宙は本当は真っ暗闇だから私には私のことが全く分からない。
ただ、「我思う、ゆえに我あり」で、考えている自分がいるのだから、自分は存在していることだけは理解している。
しかし、どんな手足を持ち、どんな容姿で、綺麗なのか醜いのか、そもそも肉体を持っているのかすら分からない。
本来は。
しかし、宇宙には星がある。星の光が存在する。
その光が私を照らす。真っ暗闇の中に映し出された私の手足。私の皮膚。
私は自分が肉体を持っている存在であることを知る。
私たち人間には光が必要なのだ。光がなければ私たちは自分のことが何もわからない。
私たちにとっての光は、自分を取り巻く世の中のことだ。
自分の周りにいる人々のことであり、この世界全てのことだ。
私たちは人と交わり様々な感情を抱く。交わった時に初めて自分がそういう感情を持っていると知ることになる。
どんな感情が私の中にあるのか自分では全く分からない。
人を好きになって初めて自分にそういう感情が内在されていたことを知る。
世の中は私の全てを映し出す鏡なのだ。
鏡がなければ自分の顔を見ることができないように、世の中に映し出さなければ私たちは自分の何も知ることはできない。
神社にある鏡はそのことを私たちに教えている。
そして、もう一つ大切な意味がある。
私たちが世の中に当てて自覚したその全てのものは元々、私たちの中に内在されていたものなのだ。
人を愛おしむ感情も醜い感情も、全て。
多分、私たちは私たちに必要なものは全てはじめから持っている。
更に言えば、自分に元々内在されていないものはどんなに望んでも手に入らない。
人は何かを外から付けると思っているが、それは誤解だと思う。
外から能力は付かない。
自分に元々内在されていた能力が開花しただけなのだ。
何か努力する。
勉強でも、スポーツでも、何でもいい。
それは刺激であって、その結果として自分の中にあるものが目覚めているに過ぎない。
数学が解けるのも、100mを9秒台で走れるのも、全部その人の中に生まれた時から内在されていたものなのだ。
内在されていないものはどんなに努力しても、望んでも達成されない。
人間が空を自分で飛べないように。
何かを欲して私たちの多くは神社に行きそこで手を合わせる。
そこにあるのは、鏡。
そこに映し出されているのは、おそらく手を合わせる自分自身。
多くの神社は自分で自分を拝む場所なのだ。
だから、願いごとをしているのは、実は自分自身にお願いをしていることになる。
日本人は遠い昔からそのことを理解していたのだろう。
自分を拝み、自分にお願いすることが最も効果のある力を生み出すこと。
そこに鎮座するその神様たちはそれを多分、静かに見て笑っている。
そういう場所が神社なのだと思う。
人や組織に頼ってはいけない。頼るのは自分自身なのだ!といにしえの昔から教えてくれている日本の知恵なのだ。