生き方の重心を意識する
人間には、我々が感知・感得できるおおよそ全てのものが内在されている。
瞑想はその内在されているのもを感知・感得する作業かもしれない。
人は感知・感得できないものをそもそも認知できないし、脳はそれをスルーしてあたかもその人の人生にはその事柄は存在しなかったかのごとく振る舞うだろう。
その人の能力を開発するとは、外界の刺激や触媒を利用して、その人に内在している可能性を発現させていくことに他ならない。
特に私が最近、危惧していることがある。
自分自身にとっても社会にとっても、良い能力ならばどんどん開花させればいいようなものだが、世の中はどうもそんなに簡単ではないらしい。
世の中に大いなる恵みをもたらすものは、同時に大きな災いをもたらす可能性がある。
そして厄介なことにそれは宿命的なものなのだ。
何かを成すことができるというのは、ある性質のエネルギーを手に入れた(開花させた)ということだが、そのエネルギーの発現の方向性の違いによって、私の場合でいうと命の尊厳を守れたり、命を傷つけたりという結果をもたらしているだけなのだ。
もっとかみ砕いた例を挙げると、人の命を救うことができる医療技術は人を殺すことも、助けることもどちらもできるということで、単にその目的によって結果が変わるが、その本質は同じで、それを操る者はそのレベル(エネルギー)の可能性を開発させているということなのだと思う。
だからこそ1番大切なことは、どこに重心を置いた生き方をしているか? ということなのだと思う。
私は時にとても他人に寛容になれるが、時に同程度に酷く他人に怒りを覚えて責める事がある。
私は人の命を大切にしてとても敏感に対応するが、自分に危害を加えようとする人間や動物や昆虫には全く無慈悲に対応し、血を吸いに来る蚊は叩き潰し、その命を平気で奪っても何ら良心の呵責には苛まれない。
私は自分の好む臭いにはとても心地よさを感じるが、苦手な臭いの場所には全く近づきたくない。
これが私なのだ。
そしてこれは私だけではない。
人間はこんなものだ。
日米戦争で日本への原爆投下を計画して、毎日の様に多くの都市を爆撃し一般人の婦女子を殺しまくる指示を出していたアメリカ大統領のルーズベルトは、飼っている犬をとても可愛がって大切にしていた。彼にとっては人間の命よりも近くにいるその犬の方が、何倍も大切で尊いものだった。彼にとって日本人の命など、虫けら以下にしか感じなかったのだ。
ルーズベルトだけでない。
人間はこんなものだ。
自分の成果は誇り褒められたいくせに、他人の成果は否定し、足を引っ張る。
自分と同じ意見は過剰に評価するくせに、違う意見は叩き潰そうとする。
人間、自己の可能性を開発するということは、実は大きなリスクを伴っているゆえに、自己のコントロールを上手く効かせなければならない。
その可能性を大きく手に入れれば入れる程に、逆の形で世の中に発現させてしまうと大変なことになる。
だからこそ先ほど述べた生き方の重心が大切なのだ。
能力を開発した者は、してしまった者は、必ず意識して重心を世の中の為になる方向にもっていかねばならない。
なぜなら、自分が出したそのエネルギーの反作用を自分が受けることになるだろうから。
そのエネルギーを外部に放出したくない場合、残念ながら方法は一つしかない。自分のエネルギーレベルを全体的に下げること。その代わり、全体的にエネルギーレベルを落とすと生きる力が弱まる。
結果、気力が萎え、精気を失っていく。
水はやり過ぎても、やらなさ過ぎても植物は枯れてしまう。
人間も同じ。
自分の中にエネルギーを溜めすぎれば、人も腐ってしまう。
だから、外にエネルギーを循環させねばならない。
世の中の為に何かを成すのは自分の為でもある。
開花させた能力を世の中の為に使うのは、自分の為でもあるのだ。
そういう重心に日常を置いておく意識を常にもっておかなけばいけないのだと考えている。
とにかく、常に。
緩めば重心は知らぬ間に移動しているから。