いい看護師を作るのではない、いい人間を作るのだいい看護師を育てようと頑張ってきた。
時には厳しく、時には寛容に、そして時には無関心という態度を取りながら、どうすれば最も患者のために、そして現場を繁栄させる看護師を作ることができるのだろうと悩み続けてきた。
医師や看護師の人生などというものは、これから人生100年の時代にはその長さはわずか40%の比重に過ぎない。人はその渦中にいるときはそれを全てだと勘違いしているが、定年を迎えた後は更にその長さと同じく40%の人生が残っている。
この中間の期間を中途半端でいいかげんな、あるいは横柄な態度で過ごすことは、残りの人生を台なしにしてしまうという事を容易に想像させる。特に後半の人生が寂しく惨めなものであれば、若い頃にどれ程輝いてみせても死ぬときに必ず後悔することになる。
いい看護師とは果たしてどのような看護師を指すのだろうか?
いい看護師であったことが、そうでなかった看護師たちよりも、その後の長い人生の中で役に立たないということがあってはならないだろう。
技術力が高い看護師がいい看護師なのだろうか?
もちろん、それはそうだろう。
しかし、技術力があったことがその後の人生でどれだけ役に立つのだろうか?
その後の人生とたいした連続性も持たず、役にも立たないような事を手に入れる事に相当な時間とエネルギーを投下することは、果たして自分の人生を幸せにしているのだろうか?
知識も同じだろう。もちろんそれは持たねばならないし、医療者にとっては必須のものだ。しかし、医療の知識などというものがその後の人生にとってどれ程再利用できるのだろうか?
人生にとっては結果よりもそのプロセスが影響を及ぼす度合いが高い。
私という人生では、高い技術を持っていたことよりも、高い技術を持とうと日々一生懸命努力したことに強い影響を受ける。
多くの知識を持っていることよりも、より多くの知識を身につけようと日々たゆまなく努力したことが強い影響を及ぼす。
確かに高い技術や知識を持っている看護師はいい看護師といえるのかもしれない。では、それらを十分に持ち合わせていながら患者の境遇や気持ちを理解できない看護師はどうなのだろうか?
高い技術も知識もいい看護師である為の必要条件でしかない。
高い技術や知識はどこでどう訓練すれば身につくのか? 大方の人はよく分かっていると思う。しかし、それらは医療という幅広い分野の中で、自分が現在いる領域でしか力は発揮できず、分野が少し変わればまた同様の努力を繰り返さなければならない。しかもこれらの能力は比較的短期間で習得可能な能力でもあるのだ。
一方、患者の境遇や気持ちを理解できる力とか、患者やその家族の不安や状況を察知できる能力、いつも清潔な環境を目指す能力、同僚やチームとバランスを取りながらコミュニケーションを高度に達成する能力、患者や仲間との約束を守る能力など、これらはいい看護師に必要な能力だが、決して短時間で簡単に作れる能力ではない。
むしろこれらの能力こそ、いい看護師になるためのしっかりしたトレーニングの機会が必要なものではないのか。
その次元では、医療行為も、掃除も、料理も、ミーティングも同様に同等に大切なものになる。そのどれもがその人の人生には同等に大切な要素だから。
人間はすぐに言い訳し、自分を守り、逃げ出す。そして、逃げた罪悪感や敗北感を背負わなくてもいいように他人や環境を責め、自分を正当化する。
これを繰り返していてそれらの能力が十分につくのか?
そんな弱い自分だからこそ、踏ん張って逃げ出さずに自分と向き合える状況や環境に身を置かねばならない。
その場こそ、私がジャパンハートを作る前から主宰していた長期の看護師ボランティア研修(現・国際看護師研修)だった。
既に300人以上の看護師たちがそこを通過している。
長い間、私なりに悩みながらやってきて、上手くいったときもあれば、正直、失敗したときもあった。
しかしようやく一つの結論に達しつつある。
それはこの看護師研修は、いい看護師を作ることだけの為に行われるものではなく、いい人間を作る為にこそ行われる。
本当にいい人間こそがいい看護を行える。
本当にいい人間であれば看護師という時期を終えても幸せになれる。
今は看護師というその人の人生そのものを幸せにする。
その幸せな看護師が周りの患者やその家族たちを幸せにしていく。
そして今、私が思う看護師たちの為の研修は、一言にすると以下のようになる。
私(ジャパンハート)が行う長期の看護師ボランティア研修は、
いい人間を育てること
を目標にしている、のだと。