日本人に生まれてよかったと私が思う1番の理由は、労働に対する価値観にある。
人は、もしも働かなくてもよくなって、食べていける時代がやってきたらと想像する。
人工知能が劇的に進歩した時代、人々はそれを使うことが生活のメインとなり、何かと無理しなくても十分に生きていける、そんな時代。
無理に仕事などということをしなくても飢えることもなく、豊かに生きていける。
人生から、”収入を得るための仕事”という価値観は消滅する。
そんな時代。
人々は何をして時間を過ごしているのだろうか? 少なくとも健康寿命が劇的に伸び、平均寿命も100歳を優に超えてしまったその時代に。
人々は長い長い時間を何をして生きているのだろう?
その時代人々はどうやって心を成長させるのだろうか?
恋愛やスポーツから得れる苦労や
その結果、手に入れることができる心の成長、満たされる心のある側面は、確かにあると思う。
現在の人々の多くは出会いや別れ、葛藤や寛容という摩擦のなかで心を成長させていく。そしてそれを手に入れる場所や機会は、”仕事という場”を通してなされている。
その”場”を失ってしまった時に人々はそれをどのように補填するのだろうか?
労働が罰や罪の感覚と結び付き、賃金を得て生きる為のものという価値観を持つ多くの国と違って、日本人にとって働くということは、傍の人々を楽にするという意味合い通りに、周りの人々の為でありまた、自身の心の成長を得る手段として位置づけてきた。この日本の伝統はとても尊いと最近強く感じている。
掃除や料理が単に苦痛な労働としておとしめられていない意味合いをいまだに保持する人々がいるのはとても素晴らしいことだと思う。
掃除をして綺麗になった空間を獲得したとき、なぜか心が気持ち良くなる感覚は誰でも経験する。これは物理的な空間を単に綺麗にしている作業だけに留まらず、心の中を整理整頓している作業でもあると理解するといい。
目の前に展開する物事は脳の中に時系列に押し込まれていく。このばらばらに押し込まれた事象を整理し過去の情報と統合し意味付けするのは、睡眠や休養などの脱力作業中に起こるというのが私の経験からの答えだ。
掃除を無心に行うという状態は、私の中ではいわゆる動的瞑想の状態であり、実はとても有効な脳の活性化の時間と考えている。
別にお釈迦の言葉を借りるまでもなく、人々は苦行をしても悟りを得られることはないと思う。
ただこの言葉を私なりに正確に表現すると、悟りを得るためには苦行だけでは不十分だということになる。
苦行は悟りを得る為の必要条件でしかない。
逆に言うと、苦行をしていない人間には悟りはおとずれない。
先にも述べたように、人が成長するのは回復期なのだ。
肉体もストレスをかけている間は筋肉は付かない。
技術もそれをがむしゃらにやっている間は、技術力は付かない。
失恋も苦しんでいる間は、心は成長しない。
すべてそれを一旦終えて、休息状態に入ったときに能力、すなわち脳力は獲得されていく。
お釈迦は苦行の末、瞑想にはいる。
そして悟る。
このエピソードは緊張と弛緩、この両方が大切だと私たちに教えてる。
しかも、まずは緊張が先なのだと教えてくれている。
このエピソードの教えは子どもの教育にも使えるだろう。
技術や学業の成長にも使えるだろう。
そして心の教育にも使えるだろう。
次回はさらにここから労働という意義について掘り下げていきたい。
長くなるから、今日はここまで。