アジアの途上国で乳がんを診る
2018年 04月 30日
「人間の命というのはお金で左右される」
これは当たり前のことだ。しかし何となく理解はできても、到底納得できるものではないという日本人は多い。
医療というのが、損得なしの福祉の一部だという建前は別として、完全
そして恐ろしいのは、誰もがそれに気づかず、
アジアの途上国には、いまだに税金を上手く取る仕組みもない。最近までの傾向では、取れるほどの人々が少なかったと言うべきだろうか。そのような中で、入っていくる以上の還元ができるわけがない。
25年前、ミャンマーの人口は日本の約半分弱、GDPは日本の
患者たちは針一本、綿1つから自己負担を強いられる。
そこへ放り込まれた私は、日本人が掲げる理想とは明らかに異なる現実と向き合わなければならなかった。
あれから25年、現実はそれほどには改善していない。
昨日はカンボジアでも2件乳がんの手術を行った。
乳房を全摘出し、リンパ節を郭清する。
本来はこれに、化学療法やホルモン療法を加えながら治療することに
しかし、治療はこれで終了する。
ここでは手術は無料で提供できるが、薬は提供できていない。
彼女らは高価な薬を、自力でどこかで購入しなければならない。
もちろん、多くの人々にはその力はない。
だから近い将来、そのほとんどは死んでいくこととなる。
乳がんは放置しておくと皮膚を突き破る。がん細胞は乳管や小葉の中で”ザクロの実”のように増殖し、やがて外へ向かって噴火する。
昔は日本でもよく見かけたはずだ。
大体このくらいに、
予後は悪い。
ここに来た時には、既に何も出来ないような人もいる。
乳がんが見つかった場合、その事実を家族へ伝える。
そのような時、患者の中には、病院から梃子でも動かない人がいる。
彼女らは最後の望みを託してここにきているのだ。
ここから何もせずに帰ることは、
スタッフが時間を割き、ゆっくり患者の訴えを聞きながら、
そんな患者たちを何人も何人も手術してきた。
せめて手術だけでもしてほしいと懇願される。
だから、手術をする。
もう長くはないかもしれない彼女らの人生に、
それがたとえ小さな灯火でも、人生、ないよりはあったほうがいい。
死のその瞬間まで、少しだけ、
だから手術をするのだ。
日本でも毎年多くの女性が亡くなるこの乳がんという病は、
ひとつだけ慰められることがあるとすれば、彼女らは最期、きれいに死んでいくのだ。
抗がん剤を打てない彼女らは、
髪の毛も抜けず、下痢もせず、感染もほとんど起こさない。
弱った体に高カロリー栄養の点滴もされることはない。
ただ病気が進行し、弱り、
家族も長い闘病に付き合わされることもなく、
家族も必要以上に苦しまず、本人の苦しみの期間は明らかに短い。
その死に様はきれいなものだ。
この姿を見ると、最期まで鞭を打たれて死んでいかなければならな
神様は、せめて彼女らの最期が、安らかで美しいものであるという尊厳
明日はミャンマーに移動する。
やはり乳がんの患者は待っている。
命を救えない手術をすることもある。
救えないと分かりながらする手術もある。
それでも彼女らは私の到着を待ってくれている。
明日も彼女らの心に少しでも明かりを灯せるだろうか?
たとえ体は救えなくても、少しくらい心は救えるだろうか?