日本の戦い方
2016年 07月 23日
一体いつからこのような考え方が蔓延ってしまったのだろう?
どのような過程でこうなってしまったのだろう?
日本では全ての予算が単年度で決済される。
政府の予算などはその傾向が強い。
私たちが関係するODAなどはその傾向が顕著で、その年に決めた予算を何が何でも消化しなければ次年度は予算が減らされるという。
今年は予算をセーブして余ったお金を次年度にもっと投入をなどとやってしまったら、余ったお金は返金させられて、もちろん次年度の予算は全く足らなくなってしまう。
NGOとしてある途上国で病院を作り、現地の医療者を育成しそこにある程度の運営システムを一から構築しようとする。
これを日本政府の予算を使って行おうとすると単年度予算X3年でそれを成せと要求される。
こんなこと不可能に決まっている。
相手は医師も看護師も日本の十分の一程度しか存在しない国で、目を覆いたくなるような医療状況の国であるからこそ、病院をつくる価値があるにもかかわらず。
この話を色んなところで日本の医学部の大学教授たちにしてみると、皆、失笑する。
日本の医者たちが一体どれくらいの時間とエネルギーを使い、技術を磨き医療を遂行しているかを理解しているからだ。
しかも3年でシステムすら構築しなければならないとしたら、普通は不可能に決まっている。
建物はお金さえあれば建つ。
しかし建物ではなく、その中身をつくるのが大切だし、それこそが日本政府がODAで失敗に失敗を重ね学んだ教訓だったにもかかわらずだ。
しかし、そんな現実はお構いなしに相変わらず日本政府は自分たちの形を押し付けてくる。
「本当の成果を上げたい」のか、それとも「やったという形だけ示したい」のか?
その辺もわからなくなってくる。
それを管理する役人たちは決められたルールをひたすら守る権限しかない。
だから実現可能かどうかではなく、そのルールを守ることに全てのエネルギーを割くし、強要する。
一体このあり方のせいでどれくらいの人間の労力が無駄になり、どれくらいの私たちの税金が無駄になってきただろうか?
と考えると恐ろしいものがある。
何事も早いに越したことはないかもしれないが、時間をかけてみないと判らない事も沢山ある。
3年で正解であったものが、10年後には、不正解のことだってある。
物事は長い期間かけて見なければわからないのだ。
せめて10年スパンで物事を判断できないものか。
それくらいの期間、それに関わる意思がない人間や組織に大きな税金を投入する必要はない。
ところでブラジリアン柔術の400戦無敗の男、ヒクソングレイシーは面白いことを語っていた。
最近、日本人たちが格闘技の国際試合でなぜ勝てないのかという理由についてだ。
彼曰く、「日本人たちの本来の戦い方は長期戦で戦い、相手のミスを誘発し、そこに付け入るカタチで自分のペースに引き込み最後に勝利するという戦い方なのに、今の格闘技は短い時間制で瞬発力のみ必要とされ日本人の戦い方ができないでいる」というものだった。
戦前の柔道の日本選手権などは30分以上戦ったという。
その中で勝敗を決めたらしい。
今のように5分で全て決めなければならないなどという無理な戦い方を要求されない。
このような戦い方は欧米人のように筋肉量を重視する瞬発力を命とする人々には向いている。
肉を沢山食べ、瞬発力を増やす。
既に国際試合は欧米人たちによって都合がいいように知らぬ間にルールが変えられている。
戦前の日本人たちはほとんど肉を食べなかったが強靭な持久力の持ち主たちだった。
戦争中の3日間不休不眠の行軍などということは当たり前に成されていた。
今の日本人たちでは絶対できない所業だ。
既に敗戦によって食生活を変えられてしまい、知らぬ間に持久力を奪われていることに日本人たちは気付いていない。
第二次世界大戦だって日本はアメリカに対して短期決戦前提で臨んでいる。
こんな戦い方は日本の戦い方ではなかったはずだ。
日本が、長い歴史のある国であると豪語するならば、長い歴史を感じさせる、その知恵を用いた戦い方をすべきだったのだ。
100年の戦争という視点で戦うべき国なのに、1年や2年の戦いしか想定できないとは愚かなのだ。
既に戦いを始める前のこの時点で戦争に負けていたのだ。
ない資源の中でどのように戦略・戦術を立てれば100年戦えたのかという発想が必要だった。
その中で相手のミスを誘発しながら、負けない戦いが可能だったかもしれない。
だから、ぶちぎれて真珠湾攻撃などという馬鹿な作戦などありえなかった。
話を戻すと、こういう視点は今なを大いに意味を持つ。
私たちは日本人には単年度予算は合わない。
職人の国で、なんで即席に物事を完結しようとする発想になるのか?
時間をかけた熟成・発酵という発想を当たり前に生み出した国がなぜ1年や3年で全てを成さねばならないという発想に陥ったのか?
この文化と政治や行政の不整合性には何かしら歴史的にも人為的なゆがんだ意思を感じるのだ。
日本の国際支援は欧米ではできないような長期的視点で成されるべきではないのか?
たくさん数をするというのも大切だが、長期視点の支援もたくさん投入すべきだ。
様々な海外支援が日本政府が真に日本の利益のためになされるとしたら、もっと長期的視点に立った支援を投入したほうがいい。
単に政治家のリップサービスのためにあちこちに短い支援を散らすべきではない。
長期的展望に立った、欧米の組織では気付かないような、あるいはできないような支援とはどういうものなのか?という視点に今一度たってみる必要がある。
日本人たちが気付かなかった世界一の格闘家が教えてくれている視点は、単に格闘技のみではなく、もっと視点を広げればこれからの日本の国際貢献のスタンスに十分利用できるものだと思う。