子どもの前で
2015年 01月 30日
先日面白い記事をどこかで読んだ。
子どもを部屋に入れて、ひとつ飴を箱から取らせる実験。
子どもには1つだけ取っていいというルールにしておく。
その部屋の子どもの前に鏡を置いた場合と、そのまま何も置かなかった場合。どのような差が生まれるか?
鏡をおかずに取らせた場合は2つ以上の飴を黙って取った子どもたちが多かったそうだ。
鏡を置いた場合は、10人に一人も多くは取らなかったとか。
この記事を読んで私は、子どもにとっての鏡とはなんだろうかと考えてしまった。
真っ先に、思い浮かんだのはやはり鏡とは親だということだ。
親が、年寄りに席を譲ることを普通にできれば、子どももそれが普通になる。
親が、汚いことをすれば子どももその価値を許容するようになる。
難しいことにこの鏡は表と裏があって、たとえば、他人に冷淡な人間が親だとすると、子どもはほとんど同じような冷淡な人間になるか、その親を軽蔑して生きるがゆえに、過度に親切な人間になるか、どちらかだろう。
いずれにしろ子は親の正と負というか、表と裏いうか、そんな感じに育ってゆく。
それがまた、両親の影響が何割ずつ混ざり合うかによって微妙な感じになっていくと思う。
しかしながら、やはり親ができる方法というのはただひとつ正しい姿を見せるしかない。
親も人間だから、いつもそうする必要は全くない。子どもの前だけで十分だと思うが、立派な父親母親を演じる。演じる必要がある。さりげなく、さりげなく。
人間は善はコントロールできても悪はコントロールできない。
だから悪い親を演じて、子どもをよい人間にする方法を望まないほうがいい。
なぜなら、その子どもはその過程で深く傷ついてしまうからだ。
その傷ついた自分を癒すために、他人を癒すようになる。
逆に、悪い親を持つ多くの子どもは、他人を傷つけることによって自分を守ろうとする。しかし、傷つけた他人はやがて自分を傷つけに来る。
子どもがずるいことをしたり、うそをついたりしたら怒る前に、本当はしまった!と思わないとだめ。
自分のそういう部分をそういう部分を子どもは拡大再生産しているだろうと思う。
そういえば先日、大学入試のセンター試験があったが、多くの親たちが子どもの成績がよくないとがっかりしている。
大体、何になりたいかもはっきりしない高校生にあれになれこれになれと親が言うのはいかがなものかと。
子どもが自分が勉強したいといったから中学から私立に行かした親も多いが、これは根本的に親が勘違いしていると思う。
小学校の子どのどれくらいが本当に勉強が楽しく好きで進学を希望していると思っているのだろう?
なぜ、子どもたちが勉強して進学を望むかといえば、理由は明白で、親が言うように将来のためなんかではない。大体、そんなこと実感を持って10歳そこそこの子どもが理解するわけがない。
じゃ、何が子どもたちが進学を望んだ理由かというと、、、。
親が喜ぶから。これに決まっている。
子どもたちは親のために進学している。
長い時間をかけて子どもは親の気持ちや志向を理解し、自らも知らず知らずのうちに親の期待に応えようとする。
いじらしいじゃない。
だから悪い点数をとっても、子どもを罵倒したり否定したりしてはいけない。
私たち親のためにがんばってくれてありがとう!と言わなければ。
やっぱり、親は子どもの鏡なんだ。
だからこういう受験は鏡の中の自分(親)が先に笑って、それに合わせて実際の自分(子ども)が笑うような違和感がある。
もうそろそろ既存の成功モデルが崩れていっているのだから、いろいろな希望を子どもとじっくり話し合って相談したらどうだろう?
私も子育てしていて反省させられることも多いがなるべく立派な父親を演じようとしている。