信用というモティベーション
国際協力ということではなく、信頼してもらえるというのは私が医療者として生きてきてもっとも私を前に事を進める動機づけになった原動力だった。
まだ若く経験年数の少ない医師のときに、上司や患者たちに信頼してもらえるというのは、どんなに体が疲れていても私を踏み度とませる力となった。
ミャンマーで医療を始めた1995年。
ミャンマー中から集まり、未熟な私を無条件で信頼し、訪れてくれた人々の有難さは今でも忘れない。
大げさでも何でもなく、この信頼に応えるためにお金も時間も労働も、私の持っているものは何でも投入することに躊躇も疑問もなかった。
よくお金を出してまでボランティアをする気持ちが分からないという人がいるが、私はそういう活動を通じて人間が欲しいているものは、お金でなく、そういう信頼への喜びだと思う。
お金を出してそんな活動をというときの人間の頭の中は、明らかに信頼という概念は吹き飛んで、お金が信頼の上位に位置づけられている気がする。
人それぞれの価値とは言うが、少なくとも私にとってはお金よりも十分価値あるものだった。
子どものときに、もっとも幸福を感じたのはお小遣いをもらう経験だったか、親にほめられたり、認められたりした経験なったか?
それよりもさらに幼い日。
まだ、お金などというものを知らない頃、子どもたちの喜びは、親に喜んでもらったり、まなざしを向けてもらえるということだったのではないか?
今では、そのまなざしは、親から社会に広がったが、私たちの根本的な幸せは変わっていないと思うが、どうだろう?
人間は死ぬときに、お金を求めるだろうか?
それとも、信頼を求めるだろうか?
死がいつ訪れるか分からないから、人は本質を見失う。
明日の保証など何もないなら、今、生きている間にもっとも大切なものは何かを考え、感じ、そしてそれを求めるように生きていければと思う。
人生に必要な主軸を放棄し、それをアコモデートする副軸のお金を主軸と思い込めば、そりゃ、こころは満足しない。
満足しない心を満たそうと、さらにお金を求めても、満足などするわけはない。