日本は変われるのか?
最近、”いのちの授業”を小学校ではじめた。
私には、これをしなければならない理由があるからだ。
単に、子どもたちに私の人生を伝えるためではない。
運命か?
この授業がスタートした場所は、佐世保の公立小学校で、10~20%の生徒がアメリカ人の子どもだった。
日本は1941年、戦争に突入した。第二次世界大戦、すなわち大東亜戦争(この名称はGHQによって禁止され、太平洋戦争と変えられる)。
ミャンマーでは30万人の日本人が戦争に参加し、20万人程が亡くなった。
日本全国で約300万人が亡くなったのだ。
国内外で、日本人たちに求められたのは、生きて捕虜にならないという考えだった。
中国という国際法という認識すら無かった人々を相手に戦っていたせいかもしれない。
つかまって、串刺しにされたり、足を裂かれたりして殺された話は、たくさんあるから、自分で死んだほうがいいと思ったのかもしれない。
ミャンマーでも、無謀な玉砕が繰り返される。
刀で、イギリスの戦車隊に切り込む話は何度か現地の年寄りから聞いた。
最後は、死ぬ。
机上や希望的観測で無謀な作戦が立案され、そして飢えと病気で多く死に、戦闘で玉砕する。
何で死なないといけなかったのか?
といつも、考える。
生きようとしたらだめだったのか?
生きて、再起をかけ、もう一度、敵に挑んではいけなかったのか?
戦争は、戦闘だけではない。
多くの若者が生きていれば、きっと戦後もっと日本は早く復興したに違いない。
次世代があれほど、生きる道を迷わずにすんだかもしれない。
しかし、命令は、生きて帰るな!だった。
命令を下した人たちは、早めに逃げ、そして責任も取らなかった。
今でも、日本でもよくある光景だ。
あれだけ、たくさんの若者を殺しておいて、職を辞したり、階級を下げる程度で済ませていいのだろうか?
日本政府も、官僚も、どこかの電力会社も、同じじゃないか? 今でもきっと。
何が間違っているんだろう?
いや、何を日本はあの戦争から学び、何を変える必要があるのだろうか?
それを私たちがしなければ、戦争で無くなった300万人は浮かばれない。
ミャンマーの大地に無くならなければならなかった20万人の慟哭が聞こえる。
私はミャンマーで使命を背負った。
いのちや一人ひとりの人生の大切さを、亡くなった20万人から受け取りそれを日本に伝え、そしてその文化を創っていくという。
だから、はじめた”いのちの授業”なのだ。
日本人には、あなたの人生やいのちは大切だから、いのちは粗末にするな、何が何でも生き延びよと、教えなければならない。
私は、今、日本政府と交渉している。
ミャンマーの心臓病の子どもを救うための交渉を。
100人の1人の子どもが、心臓病で生まれ、そのほとんどが幼くして死んでいく。
子どもの心臓外科医が一人もいないからだ。
しかし、厳しそうだ。
彼らは言う。
命に直接かかわる場合、もし患者が死亡すれば、国と国との問題になると。
しかし、私は言いたい。
そんな問題にならない!と。
なぜならば、この子達は、手術をしなければどうせ死んでしまうからだ。
どうせならば、治療を受けれて死んだほうがまだましだ。
海外の人々の命を助けることは、日本人の命を助けることにつながるのだ。
なぜならば、こういう活動を通じて、私たちは命というものはかけがえなのないものだという文化や概念を、自らの国の中に創っていくことができるからだ。
そしてそれはやがて、戦争や災害のような危急のときに大いに発揮され、それにしたがって人々は行動するようになる。
だから、いのちを救う作業は、日本人のためにやっている作業でもあるのだ。
その日本人とは、自分たちよりもむしろ私たちの子孫のことだ。
また、上の人間がそれをできないと言ってのけるのならば、この国はやはり、あの戦争からもっとも大切なことを学んでいないということだ。
悲しい国だ。
まだ、学んでいない。
でも、私は、せめて私だけでも、それをやりたいと思う。
あの戦争でなくなった300万人の人に、申し訳ないから。
あの世に行ったときに、顔向けができない。
講演会のときに小学生たちにこう言ったんだ。
首相に手紙を書いて!
私の話は届かないかもしれないが、君たちの手紙ならば届くかもしれないからと。
なぜならば、君たちは私たちの”未来そのもの”なんだ。
だれでも”未来”からのメッセージには耳を傾ける。
未来からのメッセージを政治家や役人が無視したら、もうこの国は終わりだと思う。