いのちの授業
2013年 11月 03日
今年から小学生を対象に、”いのちの授業”を始める。
一クラス程度の少人数相手の授業にしたいと思っている。
小学生の講演会を全校生徒にといってよく頼まれるが、それが平等だと教師たちが勘違いしている節がある。
小学校の1年生と6年生に同じ話をしても、同じように理解はできない。
低学年には低学年の話し方があって、それをすると高学年は興味を失う。
しっかりいのちについて理解してもらいたいと思えば、どうしても高学年に焦点を与えることになる。
そうすると、低学年はきっとあまり分からないだろう。
相手の理解度も無視して、一部の人たちに理解できる内容をすれば、それこそ私は不平等だと思うがいかがだろうか?
たった60分程度の話のなかでは限界がある。
話を戻そう。
いのちの授業は、無料で行う。
交通費は負担してもらうが、講演費は無料。
子どもたちにいのちについて理解してほしければ、自分のいのちを相対化するような経験を持たさなければならない。
人は他人と比べて初めて、自分の立場を理解する。
安全で、解毒化された日本の子どもたちに、打ち込む予防接種みたいなものだ。
社会が、親が、面倒見すぎているのかもしれない。
大人から見て気の毒なことが、本当は子どもにとって必要なことだってたくさんある。
そういえば、ずいぶん前にミャンマーの子どもが亡くなるストリーを写真を少し入れて小学校かどこかで話したことがあった。
あとで校長に、あの話はちょっとまずいようなことをと言われた。
結末が不幸になるような話はしないでほしいと言う。
世界は、不幸で満ちている。
世の中には、残酷な世界もあるんだ。
それを知ることも大切な教育だと思う。
おとぎ話の世界だけを、子どもに押し付けてどうする?
人は死ぬ。
人は病気になる。
別に、不思議なことではない。
いのちの教育は、人が死ぬということから、教えていかなければならない。