一度目の気力
2013年 05月 12日
激しい医療環境の状態があるのは認める。
昔からそうだった。
私がいるミャンマーのサガインの病院は私がここで始めたときから戦地のような環境の中でやってきた。
わずかな資金とわずかな医療資材や設備、そして人員しかいなかった。
みんなで歯を食いしばって気力だけで、いつもいつも乗り切ってきた。
環境が悪い、設備が貧弱だ、薬や資材の期限が過ぎている、何度もいわれてきた。
でもないよりはマシだった。
そんな医療でもなければ患者たちは救われなかった。
そして私たちのかわりも、また誰もいなかった。
そんな批判を真に受けても、不満を言った人たちが長くここに留まり私達の代わりになってくれることはなかった。
この世に、自分の人生と全ての貯金をはたき、貧しい患者たちのために医療をやり続けてくれる医者など、誰も現れない。
お金は、使えばなくなる。
そして、寄付者など誰もいなかった。
だから、みんなで節約し、古い薬でも、古い糸でも出来る限り、見極めながら使った。
ミャンマー人の医者達も、同様にみなそうしていた。
そうやって一人でも多くの人に医療を届けたいと思ってきた。
ここに来る看護師たちを離島に派遣し始めた。
もちろん離島の人材不足を助けたかったからだ。
しかし彼らの給与を取り上げた。
そして、ほぼ全額、現地に投入した。
一部の看護師たちから不満が起こった。
私たちが働いて稼いだおい金をなぜ、寄付しなければならないのかと。
私の答えは明確だ。
「お金が欲しければここではなく別の組織に行ってくれ。」
ここは、誰もがお金を払ってボランティアに参加する組織なのだ。
患者や貧しい人たちのために、現地で働きたいと思っていた看護師たち。
そしてそれを実現した看護師たち。
そして、連続するスキームの中で離島に行った看護師たち。
だから離島の婦長クラスの看護師たちは気の毒がって、皆親切にしてくれた。
でも、とうとう、お金を払わずにとんずらする看護師たちが数名現れた。
正直者が馬鹿を見る。
だから、看護師たちの給与を取り上げるのをやめた。
せいぜい、その稼いだお金で贅沢をしてくれと思っている。
どんなときでも気力というのは大切だ。
気力は、体力から出る。
体力がないものは、気力も減る。
歳が行くほどに、お金を出すにも気力を振り絞らなければならない。
だから、若い人より歳をとった人間ほど、お金に執着し、色々文句を言ってくる。
自分の人生に、全力で人生向い合いたいと多くの人は志望動機に書いてくる。
全力とは、知力も体力も、気力も、財力もということだと思った。
私の全力という内部基準ではそうだから。
でもどうやら違ったらしい。
忙しい環境になるともう限界ですとすぐに言う。
やらないでいることを指摘されると、出来ませんとすぐに開き直る。
気力がなえれば、もうだめなんだ。
こころがマイナスに開き直ったらもうそこから前には進まない。
どんなことがあろうと全ては自分の内部との、調整になる。
高い山を登るとき、高い山ほど、上ばかり見ていたらもう登れなくなる。
たくさんの患者が現れたら、患者の数ばかり見ていたら、もうみれないとさじを投げることになる。
山が高いときは、足元を見ながら、一歩、一歩と数えて歩く。
確かな一歩を感じながら歩く。
患者が多きときは、一人、一人また一人、としっかり患者と向い続ける。
続けさえすればやがて時間が全てを解決する。
人間には時間を投入しても解決できないような問題は、そう多くはない。
ひたすら全力で。
全力とは、自分の全てをそのために出し惜しみしないこと。
社会から大切にしてもらいたい、評価してもらいたい、そう思うんだったら、まず社会のために自分の方からもっているものを差し出す。
それが当たり前と思っていた。
2割残せば、その分、受け取るものは目減りする。
半分残せば、もっと目減りする。
人生にはイチかバチか攻めないといけない時が、一度や二度はある。
そのときに、余力をもって攻めたり、逆に守りに重点を置いた戦いならば、勝ち目はないと思う。
ここへ来る多くの医療者は、ここを人生の分岐点とは思っていないらしい。
せめて1年、せめて1月。
自分が関わる時間は、出し惜しみするな。
自分に小さな利益を誘導しようとするな。
愚痴るな。
弱音を吐くな。
甘えるな。
小さなことに拘るな。
全部終わったある日、全部まとめて天はあなたに感謝の意を示してくれる。