道を開くということ
2013年 04月 10日
道を開くということの大きな意味を考えねばならない。
その開かれた道の上をこれから数百人、数万人が通っていくかもしれない。
だから道を開くものたちは、その事柄の大きさに真剣に取り組まなければならない。
いい加減な思考やいい加減な態度で、簡単に道を作ろうとしている人間が多すぎる。
昔、公衆衛生や保健をやっている人間達がミャンマーで、大上段に振りかざしたプロジェクトでその後、現地の人たちが困惑し、迷惑し、苦労する姿を幾度となく見てきた。
それをコントロールしているものたちは、大都市ヤンゴンで大いに恵まれた生活を送り、別にその結果責任が、その当人に問われることもない。
こんなことで本当に、数万人の運命をもしかしたら決めるかもしれないプロジェクトが成功するだろうか?
私には、今でも、到底、そうは思えない。
自分が、適当に引いたレールの上を力もなく、純粋で、弱い立場の人たちが歩いていく。
その行き着く先が、滝つぼであってはいけないはずだ。
しかも道を開いた本人は決して落ちない滝つぼなのだ。
道を開くものは、悩め。
苦しめ。考えよ。
寝るな。食うな。
そして、考えよ。
これが私の戒めだ。
政治の世界を見て欲しい。
どうやらTPPに参加するらしい。
これを決めた人たちは、吐くほど考え抜いたのだろうか?
政治家の人たちはよく自分達の立場を、仕組みをつくる人間だと表現するが、その上を、これから億単位の人たちが歩んでいくという自覚と恐怖があるのだろうか?
知識をいくらためても未来は見えない。
いくら過去の戦争を研究しても、将来、全ての戦闘で勝利することは出来ない。
いくら本を読んでも、それが必ず未来の幸福を約束してくれるるわけではない。
未来を達観するセンスと才能を持っている人間が必要になる。
これは才能だ。
だから、学習では習得できない能力だ。
先天のものだ。
そういう人間を、政治家は抱えているだろうか?
大学の、あるいは研究機関の偉い人たちだけの意見を聞くと、必ず、いつかは大きな失敗を起こす。
政治家だけではない。
道を示す全ての人たちは、心して道を開く必要がある。
もしろくでもない道を開いてしまったら、そこに将来、投入される人々の時間、エネルギーがいかに無駄になることか。
その責任の重さをしかと自覚されたし。