発信する男になる
2012年 11月 26日
今日、活動地サガインからヤンゴンへ。
まったく浦島状態で、世界中の情報網から取り残され感がある。
ミャンマーのド田舎で、川風に吹かれながら過ごしていると、それはそれなりには気持ちいい。
私が発信する男になってから、もうどれくらい時間が過ぎたろう?
発信するというのは、まあそれぞれに目的があってやっていると思う。
現在はさまざまな、発信ソースがあって、世の中の人たちと少なからず繋がることはできる。
私の場合は、どうしても伝えたい衝動っていうのがあって、ブログを書いたり、書籍を出したりしている側面が強い。
私の映像や書籍を見て、前に進んでくれた人たちもきっと多いと信じている。
一方、まあ、明るさあれば暗闇ありのごとく、批判をする人たちもいる。
いちいち気にしていられないので、無視しているが、他人を批判するのは結構、簡単。
神様だって、よく批判されているのだから無理もない。
あなたも一度くらい、「神様、何でこんな目にあわせるんですか!」っていったことあるかもしれない。
文字は所詮文字だから、というと語弊があるが、まあ100%正確にはニュアンスは伝わらない。
書籍は、それの著者以外に、その編集者の意図というか、思いというか、癖も反映される。
これほど、本が売れない時代には、あえて挑戦的な表現や文体を使う編集者も多いので、なおさら、意味合いにずれが生じる。
まあ、仕方ないが。
しかし、結果的には、発信する男でありたい続けたいと思っている。
私の場合、発信するという行為には、影の部分よりも明らかに光の部分が多いと感じるからだ。
多くの人に自分の得た知恵を使ってもらいたい。
たとえば、”理性の声を聞く前に、動け!”っていう言葉もそう。
こんな感覚は、皆感じているはずだが、多くの人は、これを言語化できない。
だけども、それを聞いてはっ!とするのは、皆の中に同じ感覚があるからだ
こんなもの、私だけの専売特許であるはずがない。
でも本当の、私の感覚を理解してもらうとなると、やはり私と同じ境遇・状況にいてもらえると、ぴんとくると思う。
私の本を読んで、例えば、ボランティア賛美だとか、自分のためにこそやっている(と私は常々、言っている)ことは、ちょっとな??ていう人たちもいるから。
そういえば、私はボランティアっていう、表現は自分には使わない。
私の中でのボランティアっていう人たちは、あくまでも余力を使ってやっている人たちを指す。
私は、全身全霊で向かい合っているので、この仕事は、私のミッション、すなわち天職だと感じている。
私は現地に入ると、1週間でも2週間でも、固形物は取らない。
水分のみで過ごす。塩分も取らない。(かつては水だけのんでいたが、周りが結構白けていたので、最近は日に2度、紅茶を飲む。時々さし入れられたコーラも飲むこともある)
その間にも、手術は普通にする。寝るのはいつも明け方になる。
このような境遇を、一緒に過ごしてもらえれば、きっと私の言わんとすることが、狂いなく感覚として瞬時に伝わると思う。
しかしながら、