「執念」という感覚
2012年 08月 16日
「執念」なんていうと、おぞましいい感じがするこの時代。
先日、山本寛斎さんと2時間くらいお話したときに、あるビデオの中で彼が言っていた言葉だった。
それは、寛斎さんはロンドン・ニューヨークで開花したとそのビデオの中では説明されていたが、唯一、後悔している時代があるらしかった。
それがパリ時代。
その時代に自分に足りなかった物は、何かと?
あの時代自分が上手くいかなかったのは、自分には「執念」がなかったからだと、インタビューに答えていた。
この言葉が,その日の私に一番響いた言葉だった。
一番響いた言葉は,多分、私に一番必要な言葉。
まさに、万象を師とすると決めている私にとっては,天の声ということになる。
「執念」という、おおよそスマートとはほど遠い感覚。
しかし、想いが「執念」まで高まらないと,ことは成らないのかも知れない。
私は、この感覚をしばし頼りに物事を進めたい。
執念を持つには、絶対的に自分のやろうとしていう事柄に信頼がなくてはならない。
まず、これを持てるかどうか?
なぜ、自分がその行動を取るのか?
それをすれば何が起こり,どういう風に自分自身が納得できるのか?
とことん、思い考えなくてはならないだろう。
しかしながら、多分、執念を形にするその過程で,きっとそのことは答えが出るのだろう。
しかし、つくづく、「執念」という言葉には、いい響きがある。