氷室京介とBOØWY
2011年 06月 20日
震災から3ヶ月目のある日、東京ドームに数万人の観客が集まり東北地方のために、そして日本のために、祈りを捧げた。
私はこの記念すべき光景をドームの2階席で観ていた。正確にはその祈りに参加者のひとりとしてそこにいた。
アーティスト 氷室京介が今回の震災を受け、急遽、ニュースZEROのテーマソングの歌詞を書き換えたこと聞いたとき、一体、彼の中に何が起こり、何が生まれたのだろうと私は考えた。
そして決定されたBOØWYの曲のみを歌うという選択。
その意味は一体、何なのだろうと?
コンサートの発表以来、私はずっと考えていた。
どうして、敢えて、BOØWYなのだろうかと?
私の意見では、人は様々な選択肢の中で無意識にそれを選ぶかもしれないが、必ずこころの隠れた欲求がある。
氷室京介のこころの欲求とは一体?
1980年代から1990年代初め、私は医学生で、日本は豊かで幸せな時代だった。
自分たちはおそらく世界で一番豊かな生活をしているという自覚さえ普通にあった。
その時期に、BOØWYはある意味、時代を支配しているようなバンドだった。
おおよそロックとは無縁であった私の耳や目に、いつもその姿は飛び込んできた。
そして、そのバンドは伝説となった。
だけど、なぜ今?BOØWYなんだ?
アーティスト氷室京介はBOØWYの歌を歌うという決定に何の意味を込めたのだ?
6月11日の夜、彼の歌のエネルギーに包まれながら、私はその意味をずっと確かめていた。
良き日本。
豊かだった日本。
自殺者がこんなには多くはなかった日本。
多分、本格的に価値が変わってしまった頃の日本。
物質的な価値が、社会的地位や高い学歴が豊かさなのだと、決定されたていた頃の日本。
愚直に働くことが美しいことではなくなってしまった日本。
慎ましく生きることは幸せなことなのだと、分からなくなってしまった頃の日本。
戦後、日本が追い求めてきた物質的豊かさがピークを迎え、そして下降し始めていた頃の日本。
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私の中では、BOØWYはその頃とつながっている。
コンサート会場の揺れるようなエネルギーに漂いながら、私のこころはそんなかつての日本にいた。
しかし、やがて、、、
そこからもう少し前の少し貧しい日本が見えはじめた。
でも、そこは美しかった。
人々は親切だった。
自然もたくさんあった。
大人たちは額に汗を流しながら一生懸命、愚直に働いていた。
でもそこはやはり美しかった。
東北の壊された街々とその美しい日本が交差した。
氷室京介はBOØWYの曲を歌いながら、その日本に私たちを導いているのだと感じた。
彼は過去に私たちを導いている。
もっとがんばってこんな未来を創れといわずに、過去を、過去に私たちを誘導している。
そこは決して豊かではないが、確かに人々が信頼し合い、電気も暗いが、街には人々の生活があり、子どもたちの目は、今のアジアの子どもたちのように輝いていた。
彼は私たちをこんな日本を創ればいいのさといっているように思えた。
ものなんてそんなに溢れるほど無くてもいいだろう?
電気もガスも今のように溢れすぎるほど無くてもいいだろう?
それでお前ら幸せか?と。
あの頃の、まだ少しだけ貧しかった頃の日本に、良き日本人の原点に、良き日本の原点に還れ!とメッセージをBOØWY歌に乗せて送りつけてきた。
愚直に働く日本人になれと、そして地に足をしっかりつけ立ち上がれと、日本人ならできるだろうと。
ここからは私たちひとりひとりの出番だ。
彼の命がけのメッセージに応えなければならない。
私は、ジャパンハートは、確かに偉大なアーティスト氷室京介の命がけのメッセージを受け取った。
命がけの依頼には、命をかけて応える。
誰もやらなくても、私はやる。
それが日本の流儀だから。
さあ、日本を創る。