人生観の形相 -その3-アジア的という人生感覚
2011年 06月 08日
小学生の高学年の頃、買ってもらった地球儀を前にして、日本の位置を確認した。
次に、私が住んでいる大阪府を確認し、そして吹田市をとやって場所が特定できなくなった。
「おいおい、どんなけ日本は小さいねん!」と吉岡少年はつぶやきながら、遠くから離れて地球儀を見た。工場をやっていた自宅の1階の隅っこから反対側においた地球儀を見て、またつぶやく。
「小さ!日本一体どこやねん??自分は一体どこら辺におるんやろうか?」
残念に思った吉岡少年は、部屋に帰ってノートを開き、ノートの見開きの中20分の1ほどの大きさの地球を書いた。その中に日本を小さく書き込み、その中の大阪府吹田市辺りに赤点をポイントした。そして、その赤点にどんどん上書きをしていった。赤点は、どんどん周辺を浸食し、広がっていった。やっているうちにその赤点は赤丸になり、やがて日本をその下に飲み込んでしまった。
再び、ノートの白紙のぺーじをめくり、再び小さく地球を書き込んだ。そして自分のいる辺りに強く赤丸を書き込み、続けて「私はここだ!!」と書いた。
そしてつぶやく。「こんな小さい存在で終わってたまるか。」
そして、想像した。
地球を取り巻く星々のなかで、私のいる辺りがらんらんと輝いている。
遠くの、遠くの銀河の彼方から、地球のある辺りを眺めると、なぜか私のいる辺り(地球)がきらきらしていて、そこに私がいると分かる。この広大な宇宙の中ですら、私のいる場所はよく分かった。
アジア型の人生観の中で、生きていると心地よい。多分、いろいろなものとつながりを感じるからだと思う。これに、吉岡少年の視点があればもっと幸せになれる。
私は宇宙の中にあるたった一つの星かもしれないが、でも他にはないすごい輝きを持ち、私だけは宇宙のどこから見てもその光のありかを確認できる。それほど特別な、他にはない存在なんだ。
その存在を失った宇宙は一体、どれほど寂しく、無味乾燥な星々の集まりになってしまうのだろうか。
この大宇宙にとって、かけがえのない大切な存在が私という人間なのだ。
私を失っても宇宙も地球も明日も必ずそこにあると思う。
上手く続いていることだろう。しかし、まあ、そこは以前ほどの、良さはない。何せ、私がいなくなってしまったのだから。
自分のいのちや人生を大切にするなら、私が存在しなければこの世は無きの如し、意味なき如しと考える欧米型の生き方も良いけど、小学生の少年が観た視点も悪くない。
宇宙の星の一つが、個を主張するという在り方。
個の主張とはすなわち、個性の開花を意味する。
私というのは一体、どんな才能に恵まれ、何をするのがもっとも能力を発揮することになるのかを生涯、考え続けて行動し生きてゆく。
もしあなたが今、自殺しようとしていたとしよう。
今自殺しようとしているあなたなど、輝きを放っているはずもないが、あなたはあなたの才能のありかを見つけることができず、その天賦の才を発揮できないでいたということになる。
もし、それを見つけ、それを発揮していたならば、今こうして死ぬことなど考えていないからだ。
だから、せめてそれを見つけるまで、それを持って人生を勝負するまで死を待っても遅くはない。
本当の勝負はこれからということになる。
野球でいうと、せっかく、大逆転劇があると予想される後半戦を放棄するようなものだ。
どんなにピンチの時でも、必ず勝利することを結果として知っていたら、誰だって最後まで戦うだろう。人生はまず、最終結果を、合格点にするところから全てを逆算しなければならない。
めらめらといのちの炎を燃やしてみる。宇宙に輝く、あなたという一つの星のありかを全宇宙に向け宣言してみる。
どうだろうか?
欧米人たちの立つ視点は、私は宇宙の中心という視点。
日本人は、宇宙の中の一つの星という視点。
ここまできて気付いたろうか?
欧米人たちは、自分が自分の目で宇宙を見上げている。
日本人たちは、ひとつの星である自分をもう一人の自分が遠くから眺めている。
多くの星の中にある自分という星を見ている。(だから、自分が死んだ後も宇宙はそのままだと分かっている)
この遠くから観ている視点の在処って神の目線?のようなものだろう。
これからの日本や地球にとってこの神の目線が必要なんじゃないか?
自分個人がどうだという視点だけじゃなく、もっと大きな世界からみた視点が。
日本人たちよ、自殺している場合じゃない。これからこそ、私たちにはやらなければならないことが山積みなのに。
この神の視点を持てるものは、個の視点に向かって猛烈に収縮したときに、存在価値を見失い消滅を選ぶ。
光りまくって、それを宇宙から眺める。
才能を見いだし生きる。そして、星としての光りを増す。私はここにいるぞと、ここにあるぞと宇宙に木霊を投げかける。それを宇宙から確認する。
私は、どっぷりアジア型の人生観に浸り、生きながらいのちを決して軽んじたりはしない。
せめて自分の人生やいのちだけでも大切に生きたいものだ。