もっと良い人生について
2011年 02月 03日
もっと良い人生ってなんだろうか?
いま、国境からエイズで両親が亡くなったり、貧困で人身売買の危険にさらされている子どもたちの施設
「Dream Train」をつくっている。
ここの子どもたちの人生について少し考えてみたい。
生まれてから貧困が当たり前、毎日食べるものにも事欠き、両親が苦労している姿をもの心ついてからずっと見てきた子どもたちのなかには、自ら売られてゆく子どもたちもいる。
それが彼らの美徳であり、悲しい幸せの形でもある。
ミャンマーだけでなく、タイや、昔の日本だって同じだった。
昭和の初め頃の恐慌で、東北地方の女の子たちは飢える家族のために、自らそうした行動を取った子どもたちもいた。
あるとき国境の町で、通訳が私に言った。
「このむき出しのレンガの家、決して立派ではないですけど、この程度の家と引き換えに、彼女たちはエイズになってみな死んでゆきます。」
家族のために外国に出て、体を売り、一時、このような家を建てるほどのお金を得て、つかの間の幸せと親孝行を味わう。そして、エイズになる。
エイズになって、このぼろ屋を家族に残して、死んでゆく。
親より先に死ぬ。
親にとってそれほどつらいことはない。
私は、もっといい人生があることを教えたい。
決して急には豊かにならなくても、エイズのような病気にかからず、勉強もして、仲間もできて、そして最終的には、自らの才能を生かした収入の道を得て、自分も家族も共に豊かになる道があることを教えたい。
時間はかかっても、その幸せのほうがいいのだと教えたい。
彼らが信じている美徳は、十分な幸せのあり方ではないのだと、知らせたい。
Dream Trainにきて、時間はかかるけれども、その幸せを知った子どもたちは、多分、刹那の豊かさや命の危険を冒した幸せの形など求めないと信じている。
100メートルの景色ではなく、1000メートルの景色を子どもたちに見せたい。
人は、自分の才能や能力が目覚めることをこころの底では、懇願している。
もし、起伏のない、何も起こらないような人生を望んでいるならば、すでに豊かさを失っている。
これくらいで良いというならば、自分の人生を大切にしていることにはならない。
「足るを知る」こころは自らの才能を殺すことではない。
せっかく生を受けたのだから、せめて自分の人生を大切に、そして信じて、可能性や才能を発揮させてあげたい。
才能は、努力によって開花する遺伝的な能力だ。
それが開花しはじめたとき本当のもっと良い人生が目の前に出現する。