お金に代えられないもの
2010年 03月 12日
私たちはもしかしたら知らない間に織り込まれているのかもしれない。
織り込んだ人たちは果たしてだれなのか?
私たちは労働をするとき必ずその対価を受け取るべきだと考える。
私は1か月間、働いたからこれだけのお金をもらって当然だと。
私は純粋に思うのだ。
なぜ、労働の対価がお金でないといけないと人は思わなければならないのだろう。
自分の労働や奉仕の対価が、いい経験やいい出会い、技術の習得、いい時間でもいいはずなのに。
ある人は言う、アメリカでは自分の労働や価値を安売りしてはいけない、働いた分、しっかりその対価をもらうべきだ。もちろん対価とはお金のことだ。
決して対価をもらわないような態度はとるべきでない。もしそうするならば、自分を安売りしたことになる、と。
本当にそうなのか疑っている。
労働や奉仕の対価を、お金でもらわなければ自分を安売りすることになるのか?
母親がわが子のために行うあらゆる行為は、自分を安売りすることなのか?
根本的にと敢えて言うが、お金が労働の対価であるというのはだれかがいつのころからか広めた、考えではないのか?
それは少なくとも、労働をするものたちのことを考えての思想ではない。
お金がないと暮らしていけませんよ。
病気したらどうするのですか?
家はもちたくありませんか?
将来、大丈夫ですか?
不安をうまく煽っているよううな気がする。
うまく乗せられているような気がする。
こんな世の中だから、私はあえて言う。
私はここに来る人たちのために、その人たちの労働や奉仕の対価としてお金でなく別のものを与えたい。
つい、数十年前まで多くの日本人たちはお金など十分に持っていなかった。それでも何千年もこの国は続いてきた。
いま、この国で、飢えている人間を世の中の誰一人として興味を示さず、助けず、そのまま見殺しにする社会ではないはずだ。多くの人たちが動いてくれる。
行政だって皆がそれを希望すれば動いてくれる。
だから究極のところでは安心していいのだと、私は思っている。
だから、若い人にお金では代えられない価値あるものを、私たちが示していかないといけない。
労働=お金、だけでないことを示したい。