自分のことでないことなどあるのだろうか?ーその2
2010年 02月 17日
前回の話には続きがある。
たとえば好きで飛び込んだ世界でいつしか囚われの身になり、あるいはそれに近いような状況、戦争やビジネスの世界などよくある話だが、誰かに無理矢理、何かをを押しつけられたとしよう。
そこでは、どんな自分のためがあるのかというと、戦争ではそれを聞かなければ殺されるか、それ以上にヒドイ目にあわされる、ビジネスでは命までは取られることはないかもしれないが、確実にひどい目にはある。
そこに働く深層心理は、挫折する自分を認めたくない、他人に評価されない事実を受け入れたくない等々の心理が働くから、敢えて嫌々でも働き続ける。
そう考えれば、無理矢理とはいうものの自分のために、自分の身や心を守るためにという打算が働いていることになる。
突き詰めれば、誰のためでもなく自分のためにということになる。
子どもが飢える。
母親が自分の食料を分け与え死んでゆく。
それすら母親が望んだことだから、彼女自身の大切な子どものために自己犠牲を背負ったよろこびの行為であるとすれば、すなわち自分のためだといえる。
しかし、上の2つの例は、それを行う人間の満足度に大きな差がある。
いったい何か?
何が同じ自分の行為として発せられたものなのに、こんなにも大きくその満足度をわけているのだろうか?
行為の因が自らの意志で発せられたか、否か。
これがすべてだと思う。
私が、人は何かをするとき自らの意志で一歩を踏み出さないといけないという故である。
誰かに強制されてやり始めるなど自分の人生にあってはならないことだと誰もが認識している。
私もそう思う。
しかし、恐ろしいのは、知らない間にそう思い込まされ強制されていることは多いのだと気づく必要がある。
いい大学を出たら幸せになれる。
本当か?
いい大学とはどんな大学なのだ?
まさか偏差値が高い大学ではあるまい。
有名な出身者が多いことではあるまい。それとあなたが有名になることは何も関係ない。
もし出ても幸せになれる保証がどこにある?
お金が人より多く稼げれば幸せだと誰が決めた?
少しのお金でも幸せに暮らしている人はごまんといる。その逆も数え切れない。
政府系組織や公務員は安定している?
何が安定というのだ?
毎日決まった仕事をすることか?
首を切られないことか?
つぶれないことか?
それを幸せと誰が決めたのか?
そこに働くことにステータスを持つことは勝手だが、ステータスなど社会が無理矢理はめ込んだ鎖だと理解すべきだ。
多くの人間が尊敬してやまない坂本龍馬や西郷隆盛や織田信長は、安定の中に生きた人だったか?
毎日同じ仕事をすることを望んでいたのか?
どこで働いてもいい。
嫌々でなく、強制されるわけでもなく、自らの意志でいつも一歩出て働くことが人生の質を変える。
政府系の組織にいようがそうでなかろうが、お金をたくさんもらおうがそうでなかろうが、関係ない。
すべてが自分のための行動なのだ。
だからもし他人に強制されて始まった行動だとしたら、意識していようが、無意識にそうしていようが人生乗っ取られてしまっているということだ。
戦争捕虜のように。
奴隷のように。
それを気持ちいいとか、安定していると感じていることを、奴隷根性が染みついたという。
私がアドバイスあることがあるとしたら、まずすべては自分のためにやっていると認めること。
そして安定したり、安心したり、世間の評価にあわせて組織を見たりしたら、危ないと認識することだ。
私は本当はどう思っているのだろうか?こんな安定を得て、それで何がしたいのだと考え続けることだ。
鎖を解き放ってこそ、本当に自分のために生きてゆける。