自分のためでないことなどあるだろうか?
2010年 02月 15日
私は自分に正直に生きていたいといつの頃か思った。
だから自分に対しては嘘はつかないように心がけている。
私たちが人生を進む中で、自分のためでないことなどあるのだろうか?
こういう世界、いま私がしているような援助の世界でも、現地の人のためになっているのか、それでは自己満足ではないのかなどなど、いろいろ意見がある。
だからテレビの中でも私は敢えて言ったのだ。
自分のためにやっています、と。
偽らざる心境だ。
昔ある企業家が、敗戦のショックある日本で子どもたちにまともな未来を、と一生懸命がんばって自分の会社を大きくし、日本復興のの一翼を担った。そして次の目標を立て、家庭生活を豊かにした、また将来の日本を担う若者たちの養成もした。
ずっと社会のためにがんばって生きた。そして世の中も彼を称えた。
でも敢えて私は言う。
彼は自分がそうしたかったからそうしただけだ。
社会がそれを彼に強く要求したわけではない。
自分の使命と欲求に突き動かされ、そうしたのだ。
苦しむ国民を見て、何とかしたいと思ったのもすべて自分の欲求なのだ。社会からの欲求ではない。
だから、それを社会のためにしましたと言ってはいけない。
それが最初でない。自分がその現状に我慢できなくて、動き出したのが始まりだ。結果として、過程として、それを目指したのだ。
海外で困っている人がいるから、医療活動をやらねばならないは嘘だ。
正解は、海外で困っている人がいる現状を私は見過ごすことができないので、医療活動をやりますだ。もっといえば、やりたい。
私がやりたいのだ。
常に私の意思が最初なのだ。海外の人たちの現状や要求が最初ではない。
私たちのあらゆる行動は、何らかの意味で自己実現になっている。
だから、本質的には自分のために始めた行動ばかりだ。
突き詰めれば、自分のためにやっているのだ。
どんな行動も。
それを理解していないと、自己肥大を起こす。
自己肥大は、膨化した醜いエゴを表している。
私のために生きています。
私のためにやっています。
それが世のため人のためになっています。
そう答えられなくてはならない。
そう答えることができる人の言うことは信用できる。
どんなに声高に、立派な業績を並べても、自分のためにやっているといえない人間の言うことなど私は信用しない。