一日一生
2010年 02月 04日
いつも現地で私の部屋といっても、狭く囲いがあり、木で組み立てたベッドがおいてあるだけのスペースを私が現地に滞在中、掃除を自主的にしてくれている日本人の看護師がいる。
でも、ちょっと彼女の生活にはムラがあって、夜寝るのが遅い。食生活にもムラがあるし、精神的にも時々ひどく落ち込むときもある。
そんな彼女が、やはり時々、その掃除をサボることがある。
とても忙しいとき。
疲れて大変なとき。
先日はそれでほとんどサボった。
そして最終日に私は怒った。
もちろん彼女が私の部屋を掃除することなど義務でもないし、強制したわけでもない。
だからやりたくなければやらなくてもいい。
でも、自分で始めたことだ。
それでも私は彼女を怒った。
私たちの人生には時間がない。
日々のわずかな在り方や小さな達成を積み重ねて私たちは少しずつ成長してゆく。
そしてその成長は強制ではなく、自己の意思で行われればさらに大きくなる。
たぶん、少しの障害やストレスで自己弁護を重ねて、彼女は今まで何でもあきらめてきたに違いない人なのだ。だからここへ参加し、自分の人生を変えたいと思っている。
調子のいいときは誰でも他人に親切にできる。でも自分が大変なときでもそれができることが重要なのだ。
自分の状況がどうあろうと、同じレベルで物事を達成しようという姿勢が。もちろん医療者にとっては。
やると決めたら、きっとやり遂げようとすること。
たとえ些細なことでも。
もちろんこれは誰にでも言えることだ。
誰でもできないでいることなど山のように抱えている。
しかし、敢えてそう言うのだ。
「一日一生」という言葉がある。
もしこの掃除が自分がこの人のためにできる最後の掃除だったら?
もしこの食事が家族とできる最後の食事だったら?
もしこの会話が、この友との生涯最後の会話だったら?
この手術が私の生涯最後の手術だったら?
、、、、、、、、、、、?
もし最後の、、、?
たぶん私たちはこころを込め、一つ一つ確かめるようにそれを行うだろう。
真心を生み出すのは、常に自分のこころ。
人間生まれてきて何を達成できるかどうかはわからない。
そして、達成したことが成功の全てではない。
たとえ途中で人生折れても、終わっても、その方向にこころのベクトルが向いていることこそ、成功と呼べる。
成功、不成功は他人が達成に対して与える規準に過ぎない。
その人にとっての、人生の真実はその過程にこそある。
だから、こころを込め一日一生、行為を時間の中につむぎ出してゆく。