幸せの本質に迫りたければ”そぎ落とし”しかない。
幸せと感じているものを一つずつそぎ落としていく。
どうしてもゆずれない本質的なもの以外はそぎ落としていく。
本当に食べれることの有り難さを体感智するためには、断食しかない。
しかも一カ月程度の断食が必要かもしれない。
あなたが食べれば幸せと感じている、寿司やステーキやお菓子やケーキなどの食から順に断っていく。
次に当たり前のお米や卵や野菜や諸々を断つ。
コーヒーやお茶を断ち、やがて水のみの生活にする。
そしてさらに、水の量の制限に至る。
これを全て意識的にやってのけてみる。
既にこの頃には空腹感からは開放されている。渇きのみが肉体に自覚されているだろう。
ほとんど全てのものをそぎ落としたこの時に、かつては全く認知できていなかった、当たり前にあった水の甘みやうま味を体感智できる。
これを有り難き幸せの状態という。
健康も同じだろう。
筋肉を付けるとか、早く走るとか、マラソンやトライアスロンに出場するとか入賞するとか、山に登れるとか……。
全て大病をすれば捨て去る事になる。
きっと死を間近に意識した時、人は当たり前に日々、食べ、歩き、寝て起きて、笑い、泣く。そんな当たり前の日常の尊さを体感智する。
本質的な幸せの自覚は日常の密度を大きく変えていく。
我が子の事も同じなのだ。
ジャパンハートがやっているSmileSmileProject(がんの子どもたちの旅行のサポート)などを経験してると、最後に親が子どもに望む事は、いい子でいることでも、勉強ができる事でも、いい学校や就職先を得ることでも何でもない。ただ、そこで生きて存在してくれていれば、それ以上何も望まないのだ。
親にとって子どもに望むことは、そぎ落としていくと、ただ生きていてくれることだと分かる。そして、それこそが本質的幸せであり、それ以外は贅沢な幸せなのだと分かるのだ。
だから昔、一休上人はこう詠んだのだ。
「親が死に、子が死に、孫が死ぬ。この上の幸せはなし。」
だから幸せには二つの方向性があることが理解できる。
一つは付ける幸せ。いつもあなたが求めているものだ。
もう一つ、そしてより本質的な幸せ。そぎ落としのその先にある幸せ。
そしてとても個人的な見解なのだが、そぎ落としの方向の豊かさや幸せを得なければ、本当には人生は豊かにはならない。それは空気や水の有り難さを自覚できることに似ている。
豊かさは積み上げるだけではなく掘り下げる事もできるのだ。
別の角度からの例えとしては、かつてある武道家は無数の技を身に付け本当に取り込んだ時には、技を捨て去ることになると表現した。
その時、無敵となると。
そして、海外医療も実は同じなのではないのか。
敢えて詳しくは語らないが、そぎ落として、そぎ落として、その結果。
全ては自分自身の為にやっている行為だと悟ることになる。
他人のためにやっているという人は、その入口にいるに過ぎない。
そういう人間は常に主体としての自分と客体としての患者を意識する。
だから心が常に動揺する。
しかし、全ては自分の為なのだと体感智すれば、医療という相対的な行為から客体が消え去り、主体としての私だけが存在する世界観になる。病人や病気を相手にしながら、常に我が人生との対話を積み重ねていく。
つまり、病というものを通して我が人生と向き合っているというそれだけの状態がそこにある。
大した病気や危険を目前に置き、避ける事も逃げる事も自由。
誰も私を責めることはなく、逃げてしまえば責任など発生しようもない。
リスクを取らなくても臆病とは言われず、自らに理性的な判断なのだと、言い聞かせる事もできる。
未来は多層的に広がっているだろうが、その中で選べる未来はたった一つ。
それ以外の未来はそれこそ未来永劫、この世から消え伏せる。
その決断がよかったかも悪かったかも分からぬまま時間は進んでいく。
どんな時もそこにいるのは、満たされた私でもなく、満たされない私でもなく、他人の為に頑張っている私でもない。
ただひたすらに心の声に従ってやらねばならぬことを為している自分が存在している。
すでに求道の道のただ中にいる。
誰かが口にする理屈は既に遠い風の音のようになっているだろう。
その時、私はボロを纏っているのか、暖かい立派すぎるコートを着ているのか、藁を噛んでいるのか、贅沢な食を噛み締めているのか。
どちらでも構わないのだ。
心の目はそんなところを見てはいない。
表面的な豊かさや貧しさなど、私を何も縛りはしない。
水の美味しさを知っている人間には、それ以外は誤差に過ぎない。
私の人生にとって最も大切なものは何かを知ることは、まさに水の美味さを知る事なのだ。
あなたも自分自身の人生と対話してほしい。
他人の意見や目線などの世界から離れて。
リスクをとって未来を開く方がいい未来が訪れると信じているのか?
それともそんな信心は採用していないのか?
あなたはどちらの人生を信じているのだろうか?
あなたは、あなたが誰かの事を思い祈りを捧げるその行為に、あるいは誰かへの思いはきっと届くと信じている、その在り方を採用するだろうか?
もしあなたが、私と同じくそれを信じているのならば、きっと今日助けられなかった同じ病に苦しむ人を、あなたも10年後はきっと救えていることだろう。
あなたが1番好きなことは目の前のそれか?
あなたがそんな風に生きたかったのか?
あなたは誰かの為の犠牲だと言うけれど、ホントにそうすることがその誰かを最も幸せにする保証はどこにある?
いつもいつも自分と対話してみることだ。