特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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日本の医療のゆくえ

日本の医療のゆくえ

途上国にいて当たり前に感じるのは日本の医療はサービス業になってしまったのだということだ。

私たちの行っている途上国の医療現場は完全に福祉事業である。

やればやるほどに赤字になっていく。



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日本では、いつから患者のことを、患者様というようになったのだろう?

私が医者になった頃は、患者さんといい、患者たちのことを、吉岡さんと、さん付けで呼んでいた。

今では、きっと吉岡様なんだろう。


その頃は、患者たちは強制的に病院を移し代えられる事は多くはなかった。

今では、救急期が過ぎれば何だかんだと理由をつけ、慢性期の病院に簡単に転院させられてしまう。


いつからこんなにも経営をうるさく言うようになったのだろう?

確かに、日本の病院経営は杜撰だった。

医者が院長でなくてはならないというきまりで、昨日まで患者を長年見ていた医師が60歳くらいになって初めて年功序列で今日から経営をしてる有り様は、通常のビジネスの世界ではありえないことかもしれない。

物品は自然に沸いてくるという感覚で、今からすると異常と思えるほどにいくらでも無駄使いが許されていた。

だって物品は使えば使うほど保険請求できたのだ。


やがて日本経済がゆっくり停滞し始めたとき、少しづつ、保険行政が変化し始める。

徐々に締め付けられた仕組みは、現在に至り、患者さんを患者様に変えてしまった。


あの頃の医師たちは、自分たちが従事しているのが、サービス業だと理解していなかっただろう。

自分たちは福祉や社会保障の分野の一員だと理解していた。

だからサービス残業は当たり前だった。

24時間働き続けてもがんばることが出来た。

患者のためという、御旗があればどんな激務でもこなさなければならないのだと理解していた。

大都市の私立大学病院の研修医たちは、時間無制限の激務をこなしていても給料はなかったとこも多い。わずかに「何とか費」という名目でひと月に23万円程度のお金をもらっていたのだ。

この国は社会主義の完成形かと思われるほどだ。

ちなみに今でもこれをやっている大学病院があるらしい。それは法律に触れることをそろそろ政府も指導したほうがよろしいと思う。

一般人が聞けば、驚くかもしれないが、おそらくいまだに医師の給与は卒業年で分野に関係なく同じ給与が払われている。皮膚科であろうが内科であろうが、外科であろうが、平成4年卒業した医師の基本給は同じなのだ。(やっぱり社会主義国家だ!需要と供給の経済的関係など全く無視している)


でも、しかし、である。

それは医師たちが、社会福祉、社会保障の戦士だと信じ、自らを慰めていたからこそ成立したのだと思う。病院は経営下手で慢性赤字、誰も労働に対して十分な給与などもらえていないからこそなんとなく成立していた異常なシステムだったのだと思う。


しかし、患者さんが患者様になった現在、医療は福祉事業からサービス業になってしまった。

ところが、患者たちは相変わらず医療者に、福祉事業の戦士であることが当たり前だと思い、そういう視線で見ている。

医療者もなんとなくおかしいんじゃないかと思いながら、サービス業者になりきれず、給与も増えることもなく相変わらず福祉の戦士の発想で医療を行っている。

家族の時間を大切にしたいから、今日は早引きしますなどと口が裂けてもいえない。

福祉の戦士にワークライフバランスなど、あってはならないのだ。

患者の命のためならば、お金は無尽蔵に使っても仕方ないと思っている。

感染率を1%落とすために、たとえ数千万お金がかかってもそれは当たり前で、別に議論すべき話題だとも考えていない。

患者に入れる点滴が上手く入らず何度も失敗をしても気にしているのは無駄にしてしまった何本もの針のコストよりも患者の目線や自分の勤務スケジュールの狂いだったりする。

たとえ針や物品に値段が書いてあっても、誰も本気で気にしている人間などいない。


政治家や官僚の無駄使いを否定し、大企業の救済への税金投入にこれほど否定的な人々は、30兆以上の税金を使い成立している医療現場では、その意識もなく、税金の垂れ流し状態である。相変わらず福祉の戦士の医療者は経営感覚は乏しいのだ。患者様のためという御旗があれば、すべては仕方ない必要経費なのだ。


医療をどのように位置づけてやっていくかは、私たち国民の運命に直接影響する問題だろう。

医療者に福祉の戦士であり続けてもらうには、税金の更なる投入が必要になるだろう。

なにせ、近年の医療物品は特許だらけで信じられないくらい高い。福祉の戦士たちは、それらを患者さんのために惜しげもなく死のその瞬間まで大量消費してくれることだろう。

一方、サービス業と割り切って接してもらうと、もっと給料を払わなくていけないだろう。もっといいサービスしてほしければ、もっとお金を出さないと。


いずれにしてもお金を払わされる運命のようだ。



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もう医療は今の国民が払う税金程度のお金ではまわらなくなっているのだ。


私の予想では、きっと日本は二重保険制度が主流になる。

皆保険の適応範囲は限定され、それ以外は任意保険にてカバーする仕組みに変わっていくだろう。

車でいう、自賠責が皆保険に相当する感じになるだろう。

それゆえ新薬や最新治療は皆保険ではカバーされず全て自費負担になるだろう。

それを目当てに海外の保険会社が乗り込んで来る日も近い。


だれもが、最新の治療を感謝もせず、当たり前に受けれる時代は終わろうとしているのかもしれない。


これから私たちは医療分野で、福祉の戦士が討ち死にしていく光景を目の当たりにすることだろう。






# by japanheart | 2015-09-03 06:41 | 活動記録 | Comments(0)

私の子育て論

私の子育て論


 今年の夏はひと月以上の期間、10歳の長男と行動を共にした。

 夏休みになったその日に日本を飛び出し、夏休みの終了するその日に日本に帰国する。

 この間、医療活動にもずっと同行させていた。



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 日本から北京経由で、タイのバンコクに入りラオスには陸路で国境を越える。

 それから中国とラオスの国境地帯の医療活動に同行させた。

 ラオスから始まった医療活動は、その後、カンボジア-ミャンマー-カンボジア-ミャンマーと巡り、その間に、タイやマレーシア、シンガポールと移動を重ね日本帰国までに21回のフライトを私と行ったことになる。


 実は私と長男は40歳も年齢が離れており、おそらく長男が私の歳になったときには私はこの世にいないだろう。

 こんな生き方なのでどうせ物質的な財産は残せないと確信しているのでせめて、無形の財産をわが子には残して逝きたいと思っている。


 なぜ、この機会にわが子を連れ立ったかというと、実は私なりの理屈がある。




 人間には第一次反抗期という大体、3歳くらいまでの子どもが通る反抗期がある。

 この時期までに、子どもにはしっかりと母性を伝えなくてはいけない時期だと思っている。

 母性とは絶対的安心であり、無条件の受容であり、子どもの脳幹深くに沈み、人生を決定的に左右する大切なチカラである。

 母性を受け取ることが上手くいかなかった子どもは脳の奥深くに欠乏感を宿し、成人しても愛情を求めて彷徨うことになる。

 お金や物質でその脳幹の欠乏感を埋めようとするが、決して埋まらない。

 愛情は物質ではないからだ。精神的欠乏は物質的満足では一時的にしか埋めることができないということも分からないままに、それを無意識に求め続けてしまう。

 だからこそ母親の役割は大きい。

 

 そして第二次反抗期がやってくる。これは中学生頃に遭遇することが多い。

 この時期からは、親の言葉が子どもに入っていかなくなってしまう。

 昔はこの時期は、元服の歳で、それから後は一人前の大人として扱われていたのは偶然ではない。この時期を通過すれば、もう一人前の大人になるのだ。

 すなわち、第二次反抗期は人間が親離れ、子離れのするための生理的通過点なのだ。


 この第一次反抗期と第二次反抗期の間の時期は、また大切な時期で、この時期は子どもに父性を伝える時期でもある。

 父性を伝え損ねると、あるいは父性が弱くなってしまうと、子どもは生きる力を失う。

 父性の弱い家庭で育った子どもは、ひきこもりを起こすようになることも多い。



  核家族化が進み、父性を与えるのは主に父親の役目かもしれないが、昨今の父親の弱体化は子どもの生きる力に影響をしていると思っておいたほうがいい。

 


 私の2冊目の著書の「死にゆく子どもを救え!」を出した冨山房インターナショナル社からは、聖路加国際大学の日野原先生が「10歳の君へ」という本を出している。この本を出している動機は、日野原先生自身が人間にとって10歳という年齢が最も意味のある、しかもキーになる年齢であると考えているようだ。

 そういえば、私たちの記憶も10歳を境に大きく増えているような気がする。


 そして私自身もその10歳の時間を大切に考えている。

 なぜならば、この後、子どもは反抗期に入り私たちの言葉を受け取らなくなってしまう可能性が高いからだ。

 この10歳をスタートに12歳頃までの間に、わが子に私の持っている知恵や経験を伝えておこうと思ったのだ。


 だからこの夏の同行期間は毎晩、子どもと色々なことを話した。

 時間について、お金について、努力について、才能について、世界はどうなるか?人とはどう付き合っていくか?などなど幾夜も話込んだ。

 それから、私の生き方もそばで見せた。

 一切、飾らず、良いことも悪いことも、ごく自然に振舞ったつもりだ。


 途上国に暮らす多くの人々の暮らしや病気の人たちの大変さも知ったに違いない。

 多くの人たちの情けも知り、日本との違いも経験したことだろう。

 



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 目的はたった一つ。

 どんな時代になっても、たとえ何が起こっても、生き残る能力を与えること。

 サバイブさせる能力を与えることこそ、親の最大の役目なのかもしれない。


 この後はどうなるか?

 この種が何をわが子に与えるかは時間を待つより仕方ない。


 今回、10歳のときに本当に私のすべてを伝えたかったが、やはり理解力には限界があったので、まだ2年ほどかけてかなり補強しなくてはならないと思った。


 近い将来、私なりの生きる知恵を世の中の子どもたちに伝えるために1冊の本にしてみるつもりでいる。

 

 とにかくこれから日本は大変な時代に入るし、海外の子どもたちも私の持つ東洋的な思想に触れておくことは悪いことでもないと思うから。


 どの親も子どもに願うことは、生きていてもらうことだから、とにかく母性と父性を上手く子どもに示し、的確な時期に大切なことを伝えていかねばならないと思う。

 

 ただそれは、生まれてすぐからはじまり、思ったより早く訪れ、そして早く終了してしまうのだ。


 


 


 

 


# by japanheart | 2015-08-22 05:14 | 基本 | Comments(0)
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今、ミャンマーが大変なことになっている。
ミャンマーの国土は日本の約1.8倍。おそらく日本でいうといくつかの県が水没した状態になっている。
あまり報道もなされていないために伝わっていないが、大変な状態である。

2008年のサイクロンによる大津波で、14万人くらいが亡くなったといわれているが、その時のミャンマー政府発表でもかなり少なく死者は発表されていた。
今回の大洪水でも、把握できていないと思われるが、かなり少ない死者の発表になっていると思う。

私たちが医療活動をしている管区でも甚大な被害があり、すでに医療チームを派遣している。
医療のみならず、水や食料や衣類などが必要なのだろう。

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第一陣が救援活動から引き上げてきたが、この雨季の状態では雨が続くので一旦、水が引いても再び町の水没が始まる可能性がある。
このため、水害の状況によって活動場所を適時変化させていかなければならない。
雨がひどく降る場所が移動するし、そのため水害がひどい地域が変化するからだ。
私たちの第二陣は場所を北から西の地域に変える。

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車で6時間、ぬかるんだ道を走る。
そこから小舟で人や物資を積み替えて、水没被災地域にアクセスすることになる。

ミャンマーの人たちは普段から水害には慣れていて、川が氾濫するのは毎年ことであり、氾濫すると徐々に自分たちの居住地域が水没してくる。
そうすると人や家畜は川べりに上がってきて、即席小屋を建てて生活し、水が引くとまたもとのところへ帰っていく。
そんな彼らが今年は、あっという間の水位の上昇で一気にやられてしまった。

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家畜も人も流されてしまったのだ。
川の上流から一気に流れ込み氾濫した水が、平気で5メートルや6メートルの高さに達し、村や町ごと短時間に飲み込んでしまった。

これから数日が勝負だと思っている。
日本人とミャンマー人の混成医療チームが今朝もこの病院を物資を満載して出発した。

多くの人々にも、その現実を知ってもらいたい。

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# by japanheart | 2015-08-06 16:13 | Comments(0)
途上国で医療を発展させる

いつも活動をしていて思うのは私たちがやっている活動というのは何かしら型がきまっているような気がしてならない。
それは誰かから織り込まれたものではなかろうか?という不安感である。
国際医療活動というのはこういうものだという織り込み。
国際的な医療協力をすると必ずぶつかる壁がある。
それは、医療活動、すなわち患者を治療すること自体がこの世に存在していない、あるいはそれに近い状況にあるという現実だ。
大災害などの緊急救援を除いてはということであるが。
アメリカの医者が勝手に日本で医療を出来ないように、日本の医者が勝手に他国では医者が出来ないようになっている。
だからそこに如何に困っている他国の患者たちがいても、勝手に乗り込んで行って医療を施すことなどできない。
だから私たちもNGOとして活動国ではちゃんと登録し現地政府とこういうルールに則って医療活動をこういう形で行いますと
契約をしてから医療活動を行っている。
話を戻すと、一般的に日本にある医療系団体を名乗るところが他国で行っているのは患者を治療する医療活動ではない。
一般の人たちは医療活動というと、患者を治すということを思い浮かべるが、現実はそうではないのだ。
多くの団体が行っているのは、公衆衛生といわれる分野の、予防活動や啓蒙活動になる。
多くの医療者が、学生の頃、夢見ているのは海外の貧しい人たちに医療を行う自分自身の姿であるし、
そういう活動を志し、医療の道に入ったものも少なからずいる。
ところが、すでに学生のうちにそういう世界がほとんどないという現実のを知り、ここで彼らは医療活動を諦め、あるいは方向転換して公衆衛生を語り始め、目指すことになる。
その行き着く先が、WHOなどの国際機関なのかもしれない。
医療活動を出来ないことを悟った人間が自分の進むべき道がはじめからこのすばらしく価値のある分野しかなかったかのような、あるいはそこに進むのが必然だったような自己肯定を始めるのだ。
私からすれば、何事も経験なくして本当の良さも悪さも実感できないと自分の人生が教えてくれているのだが。

学生たちに、如何に公衆衛生が途上国では必要で、意義があるのかを何度も聞かされてきたが、私に言わせれば、医療のほうがもっと必要だろう!と現実を知っているだけに思ってしまう。
10年や20年かけてやらないといけないことがあるのは当たり前で、今すぐにやらないといけないことのほうが当たり前に多いのが途上国の現実だと思う。
どっちが必要だという話ではないが、私が20年以上の途上国医療から得た知見では、公衆衛生だけ発展させようとしても成果はあまり期待できないということだ。
医療や衛生というのは本質的には何によって発展するかという思考を飛び越えてしまうと、方法論やアプローチが変わってくる。
私は医療を発展させる最も大きな絶対的因子は何かといわれれば、自信を持ってこう答えるだろう。
「医療や衛生を発展させたければ、経済を発展させるのが最も効果的・効率的である!」
要するに、経済が発展しなければ医療は発展しにくく、衛生観念も発展しにくいということだ。

だから、その国の医療を発展させるのは医療界の仕事というより経済界の仕事であり、政治はそれを妨害しないようにしなければならない。
ミャンマー・カンボジア・ラオスの田舎の人が医療にかかるには、まず、雨季にはぬかるんで進めない泥の道を5時間も進んでこなけれなならない。
自分で歩けない患者だと、牛車や車の荷台に乗せられて数時間かけてようやく田舎の幹線道路に出る。そこでまたいつくるか分からない車やバスに乗り換えて数時間ガタガタ道を走る。
医療を届けたければ、そういうインフラの整備が必要になる。これは、国の仕事、経済が悪い国ではその整備が遅れるのだ。
折角、病院にたどり着いても医者もいなければ薬もろくにない。病院を作るにも医者を育てるにもお金がかかるのだ。
流通が成り立っていないのだ。
今日なくなった薬は、次はいつ補充されるかは分からない。

経済的に満たされ始めると、人は健康に意識が向かい始める。
健康になるために自発的に栄養に気を配り、衛生的な水を飲み、手を洗うようになる。
私的にはこの当りが衛生活動の最もいいタイミングだと思ってはいるのだが。

何でこんなに公衆衛生分野が大切なのだと、大声で騒がれるのかというとやっぱりそれに関与している人間が多いからかもしれない。
学生たちもその影響をまともに受けてオウム返しのように同じように理屈を述べる。
実はこの分野は大量のお金が流れ込む分野なのだという側面を見逃してはいけない。
数千万、数億の規模の政府や国連機関のプロジェクトがウヨウヨあるのだ。
ここに多くの団体が群がっているのが現状だ。
ほとんどこの補助金のみで運営している団体もあるほどだ。
国際機関や政府の関連機関で働く人間の待遇や給与を一般人が聞いたら、びっくりすると思う。

一方、私たちが行っているような患者を直接治療するという行為には通常、このようなお金は用意されることがない。
そのためほとんどは、独自に寄付を集めそれを財源とするしかないのだ。

よく大きな機関と医療活動の支援の話になったときに言われることがある。
「だって、医療活動は患者が死ぬでしょ?責任問題がね、、、。」

医療は患者が死ぬ分野ですよね?と聞き返すわけでもないが、公衆衛生をやっている人たちがもしその辺の意識が欠落していればかなり危険だというしかない。
自分たちが多くの人のいのちを一気に扱っている自覚なく行われた活動でもしやり方がまずく1000人が余計に亡くなっても、気付きもせず、その自覚もないということが当たり前に起こるのだ。

責任問題を恐れる人は、医療には向いていない。
人のいのちを預かっている自覚に欠ける人は、公衆衛生にも進むべきでない。

医療というのはいずれにしろ、人のいのちを預かっているという当たり前の自覚を要求される仕事なのだ。


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# by japanheart | 2015-07-24 01:37 | 活動記録 | Comments(1)

私たちが出来る医療とは

  
 最近思うところがあって、現場で数十人の日本人や現地人の医療スタッフたちを前に、こう言った。

「私たちよりお金を持っている人間なんて腐るほどいる。その人間たちが優秀な医療者たちを雇い医療を展開したとき、果たして自分たちの今やっている医療は本当に意義を保っていられるだろうか?」
「どうすれば、お金では買えない医療が出来るのだろう?」
「いい技術やいい器具、いい資材はお金で買える。優しい言葉や清潔さもお金をかければ買えるだろう。」
「私はお金で買えない価値を持った医療をやりたい。その医療はあなた方のこころの中にある。」
「こころからの同情ややさしさ、患者の人生に寄り添う医療、家族の苦しみを理解しようとするマインド」

  などなど。
  それがチームで成し遂げられたときに、私たちの行う医療はその存在価値を持つのだと思う。

 世の中には、お金の力で私たちよりも多くの人を救える人は確かにいるだろう。

 私は今までやってきてある真実に気づいたのだ。それは医療というのは、患者の人生とそれを行う医療者自身の人生を救う行為だということだ。
 医療者たちは自己のたった一度しかない人生の大切な40年という時間を、医療という仕事に捧げる。この間に、たくさんの患者たちが彼らの元を訪れ、患者も医療者も自らの人生を救うために必死に生きる。
自らのためにだ。
 医療者たちは、その患者たちのために人生の一部を使い、必死に働く。この時間が濃ければ濃いほどに自分の人生の密度、すなわち価値も上がっている。
 その時間を中途半端に、それこそお金のためだけに、たとえそれはどれほど技術的な事柄が充実していても、密度はそんなに上がらない。
 通常、医療というのは人を相手にする行為であり、肉体の接触だけでは、半分しか密度ある時間を刻めない。
 そう、こころとこころが摩擦していく中で、密度も上がりそれが可能になる。
 そして人生の後半は、このこころとこころの摩擦こそが人生の密度を刻む大半を占めるようになっていく。

 たくさんのお金を持っていれば確かに患者たちのいのちは救えるだろう。
 しかし果たして医療者の人生はどれほど救えるのだろうか?
 人のいのちを単に数量だけでみて、多いほうがすばらしいと割り切ってしまうのは一面的な考え方のような気がする。
 患者のいのちや人生しかみない医療は、片手落ちである。
 自らの人生を消耗してしまうような医療では、こころある医療者たちは疲れてしまい、それは患者自身の治療にも影響するだろう。
 すべての患者が治療で救われるわけではない。
 多くの人が治療の甲斐なく死んでいくのだ。
 そんな人たちに疲れきった医療者が果たして何を与えることが出来るだろう?

 私はいつもスタッフに言っていることがある。
 「まず、あなた方が最も救わなければならない人生とは患者たちの人生ではない。
 
それは、あなた自身の人生なのだ。
 あなたにとって最も大切なのは数万人、数百万人の患者たちの人生ではない。
 たった一つの”究極の一”
 あなた自身の人生なのだ。

 自らの人生を救うために優しい言葉を患者にかけよう。
 それは、あなた自身にかけている言葉でもある。
 患者のつらい人生に最大限の同情を示そう。
 それはつらいあなた自身の人生に示している同情なのだ。
 家族の悲しみに、患者たちの家族を思う気持ちを理解しよう。
 それは、あなた自身の家族を理解する行為でもあるのだ。

 自らの人生を大切にしたければ他人の人生を大切にしよう。
 自らの人生を他人に理解してほしければ、まずあなたが他人に理解を示すのが大切なのだ。
 
 私はこのことを深く理解し実行する医療者の集団をつくりたい。
 なぜ医者になったのか?
 なぜ看護師になったのか?
 それは自らの人生をかけてでも手に入れたかったものを手にするためではなかったのか?
 医者や看護師など、そのための単なる手段でしかなかったはずだ。

 あなたが手に入れたかったものは何だったのか?
 あなたの人生で最も大切にしているものは何なのか?
 
 それがお金ならばお金で動かされればいい。
 それで”究極の一”が救われるのならば、たった一度の人生そうすればいい。」

 私はとうの昔、そのリターンのほとんどない賭けから降りたのだ。
 
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# by japanheart | 2015-07-13 13:37 | 医者の本音 | Comments(0)

いのちの価値と本音

今もラオスにいて手術をしている。
 先日、「あごの下に塊がある」と来た男の子の検査の結果は、悪性リンパ腫だった。
 この国でも、まともな子どものがん治療は出来ない状況にある。
 少しでも早く、がん治療を出来る病院を作らねばならないが、現実は日本政府のように右から左にお金を自由に動かせるようなふところ事情ではない。 

実際、私たち人間は、本心では他人のいのちはどうなってもいいと思っているのではないか、と思う事がある。
 人間とは戦場の兵士や特殊な異常性を持つ人をさしているのではない。

 昔、日本人が乗った航空機がハイジャックされ、それを救ったときの首相は、「人間の命は地球より重い」と言ったそうだ。しかしそれは、彼の頭で考えたリップサービスや人気取りを大いに加味した正解であっても、本心ではないだろう。

 本当に人のいのちは、地球よりも重いのだろうか?
 いやいや、教育現場でも「子どもたちに命よりも大切なものはない!」と教えているのではないか。
 しかし、政治家たちが命がけでやると宣言している戦争反対のシュプレヒコールは、本当にいのちが大切だからやっている行動なのか?

 今、本当に他人の命が失われることに心を痛め、行動している人間がどれほどいるだろうか?今もきっと、世界のどこかでバッタバッタと多くの子どもたちがマラリアなどで死んでいる。
 時に、わが子の命を救おうと募金を募り、アメリカあたりまで心臓移植を受けに行く子どもの親に協力する人間は、その募金箱の前を通り過ぎる人間の、何パーセントになるのだろうか?
 
教育現場では「いのちが何よりも大切だ」と戦後からずっと、今も教え続けているのに、どうして企業は、いのちを救うプロジェクトに賛同をせず、建物を建てたり、木を植えたり、職業訓練やレクリエーションに支援をするのだろう?

 それはそれでもいいのかもしれない。

 それならば、教育現場で「人命よりも大切なものはない」などとうそぶくのはやめてほしい。
 「世の中には人命と同じくらい大切なものがいくつもあります」といえばいいだけだ。
 そういう心の底では信じていないのにする教えは、さまざまな弊害をもたらす。
 
 「人間とは自己の延長線上で他者を認識する」は、大切な定理になる。

 この自己の延長線をどこまで拡大できるかが、人間も企業も本当に大切になる。
 自分の子が愛おしいと思い、自分の命に代えても助けたいと願う状態は、わが子が自分の一部になった状態ということになる。
 仏教の悟りの境地は、自己の意識の拡大にあるとすると、自分が他者や自然とつながる状態。
 他者も自然も自己の一部と感じるくらいにつながった自己拡大を起こした状態とすると、
 そしてそれが私たち人間が目指すあり方だとすると、
その人間が集まって出来ている企業が目指すところも究極はその辺りにあるのかもしれない、、、。

 企業理念はきっとどこも無意識にもその辺りから生まれてきている可能性もある。
 企業理念がたとえ立派でも、中身がついていかない、あるいはそこで働く人々やお客たちが、うそ臭く感じたり、違和感を持ってしまうのは、
 結局のところ、企業活動の内容やあり方が、個人でいうところの意識の拡大、すなわち企業の利益と社会の利益の共有、企業の存在が社会の一部として100%有効に働いていない状態だと思う。
 すばらしい企業理念、すなわち多くの企業が掲げているあれは、ある意味、悟りを得ている人間に近い状態のあり方である。しかし、現実は悟りを得ていない人間が、悟ったことを吹いているようなもので、
 多くの人々が企業に感じる違和感やうそ臭さはどうもそのあたりを感じ取っていると思う。

 ではどうすれば、人の命を大切に扱えるのだろうか?
 どうすれば、社会を大切にした企業になれるのだろうか?
 どうすれば、うそ臭い人間だ、企業だといわれないのだろうか?

 まずは行動してみることだと思う。
 小さな行動をしてみることに尽きる。
 そのためには現実を如何に自分事に引き寄せれるかにかかっている。
 心臓移植の子どものために10円を募金箱に入れる。それでいい。大きな金額は必要ない。
 企業のCSRの責任者たちは、自分の子どもががんになったらどのような行動をとるのだろう?
 国民皆保険で支えられ、医療を受ける事の出来る日本という国で生きていない人間たちの、その不安と不幸に少しだけ寄り添う、そんな人たちがCSRの担当者であれば何人の人間が救われるだろう?
 本当に人の命が大切というならば、そう行動することだ。
 自らそう信じ行動できない嘘を、子どもたちに堂々と教えてはいけない。
 この国には相変わらず嘘が多すぎる。

 個人も企業も、どこまで自己拡大できるか。ズウタイだけの拡大は不健康な状態だ。
 人間も企業も、その意識を拡大できたとき、進化したという、健康状態に至る。
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# by japanheart | 2015-06-25 19:11 | いのちの重み | Comments(0)
ハフィントンポストにインタビュー記事

 あと数時間以内でしょうが、ハフィントンポスト(The Huffington Post)トップページにインタビュー記事が出ています。
 よろしければ、どうぞご覧ください。

  苦境で耳を傾けた「感性の声」

 
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# by japanheart | 2015-06-07 18:57 | 活動記録 | Comments(0)

自分を相対化すること

自分を相対化すること

 これも世の流れかと感じるが、この2年で円安が40%以上も進み、海外で円をドルに替え持ち出し支援を続ける団体にとってはとたんの苦しみを味わっている。
現地政府と交わす契約はすべてドルベースで500万ドルという契約でサインをした3年前は4億円という計算だった。
ところが日本政府が一気に円安を進めたせいで、それが今では6億円になる。なんと、1.5倍の円を払わなければ契約を履行できなくなっている。
かといって日本政府が支援のお金をわれわれのために回してくれるわけもなくさまざまな自助努力でこれを解消しなければならなくなっている。
私たちにとってははっきりいってこの円安誘導の金融介入は迷惑なだけだった。
アジアの経済勃興を肌身で感じているこの身にとっては、日本のこれからの失速はもうどうしょうもないのではないかと思ってしまう。
人口は毎年1%減り、少子高齢化も進み、中国をはじめとしてアジア各国はさまざまな分野で追い上げ、日本のフィールドを脅かしている。
さらにはアメリカやヨーロッパの国々の企業だってどんどん経済発展するアジアに食い込んできている。
医療分野だって20年前はアジア各国、どこの病院に行っても日本製品をたくさん見たが、今ではドイツだのフランスだの中国だのという製品ばかりで日本製品すっかり見なくなった。
気がつけば、日本の頼みの綱、車だってそうなっているかもしれない。
日本人は、この島国にの中で閉じこもり、長い間デフレを貪っていたのでいまだに気づかないかもしれない。
かつてオーストラリアなど物価が安くて、日本人たちはバンバン、旅行や留学に行っていた。
今、オーストラリアではラーメン1杯が2000円するということが日本人には理解できているだろうか?
一杯380円の牛丼が本当は、日本レベルのサービスも含めると1000円の値打ちがあると理解できているだろうか?
石油価格の暴落に修飾されてまだピンと来ていないのかもしれないが、今のままではやがて物価はどんどん上がり始めると思う。
世界レベルの視点で考えたときに、すでに円の価値は40%以上もこの2年で吹っ飛んだのだ。
銀行で1%にも満たない利子を受け取り喜んでいる間に、100万円は実質60万円になったのだ。
これから世界経済がさらに激しく混ざり合い、人々が流動していく。
本当に日本人たちはその準備が出来ているのか?

大阪都構想が否定されたようだが、それは決してシルバー世代の無料地下鉄代などをアピールして票集めるようなことをするものではなかったはずだ。
首都機能の分散と地盤沈下しもう何も有効な手立てを打てていない関西経済をいったいどうするつもりなのか?
昭和のはじめか、大正の頃は大阪は日本で最大の人口を抱え、最大の都市だった。
それは今ではこの様で、若い世代は生活にアップアップしている。
本当は大阪都構想は大阪市民だけの問題ではない。
大阪府民全体の問題であり、私の実家がある大阪市のすぐ上の吹田市にとっても将来、死活問題になるかもしれないのだ。
都構想の何が良い、何が悪い。言い分は全くそれぞれにあるが、今のままでは大阪は緩やかな自殺状態にあり、現状を変えなければいけないことだけは確かなのだ。

日本の国内だけを見ていては正解は得られなくなっていると思う。
アジアを見て、世界を見て、それで今どういう決断をすべきかを考えなければ、きっと将来大きな代償を払うことになる。

日本が韓国のように経済が悪化し、大学を卒業しても就職が厳しい状態になることは、決して悪いことでもないのかもしれない。
韓国人のように、生きるために韓国を飛び出し、世界に散ってゆく。
日本人も世界に散って、多くのビジネスを成功させれば、それは将来すごいネットワークとしてファンクションするに違いない。

日本は70年前、戦争に負けて、そして世界は日本語ではなく英語になってしまったのだから。
その時代に、外国人が日本で働くためには日本語試験なるものをパスしなくては働けないような縛りがある分野も多い。
今の時代にこれってどうなの?と思う。
日本も英語を小学生から導入し、もっともっと英語化をと国策としていっているくせに、これってどうなの?
もう世界で、アジアでそんなことをやっている国はあるのかな?
優秀な人が英語ではなく、日本語を優先して覚えて、日本を選択して来てくれると考えているのだろうか?
私がアジア人の親ならば子どもに将来のために、英語か中国語を習えと言うに決まっている。

若い人には一度は必ず海外に出ることを勧める。
日本という国と、自分という人間を世界の中で相対化しないと、きっと時代に振り回され自分の理想とか夢とかなんて実現できなくなってしまうから。

だから、、、

とにかく出ろ!
若いうちに出ろ!
何度も出ろ!
そして、アジアを感じ、中国を感じ、世界をその身、その若い感性で感じてつかみ取れ!

日本国内の、状況に右往左往せず、世界から日本を見て生きていけ!


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# by japanheart | 2015-06-04 04:16 | 活動記録 | Comments(0)

現在の価値を知る

現在の価値を知る

医者になって二十数年が経ち、もうすぐ50歳になる。
思えば、研修医の頃が懐かしくなる。
早く一人前になりたくて、いつも焦っていた。
中身はともかく、長い時間働いていた気がする。いつもチャンスがあれば寝る機会を伺っていた。
働き出してふと見上げた空に星がたくさん輝いていた。空はもう肌寒い秋の空だった。働き出して6ヶ月も空を見ていないことにそのときはじめて気づいた。
30歳になれば少しはましな医者になると思っていた。なってみたら全くもって大した医者にはなっているとは思えなかった。
そして100万円を握り締めて軍事政権下のミャンマーに単身乗り込んだ。本当は軍事政権だとは知らなかった。
30歳の頃の私は十分な医療をミャンマーの人々に施すことは出来なかった。いつもすまない気持ちでいっぱいだった。
30台で小児外科を学び、NGOも創設した。40台で少しはましな医者になっているかと思えば、満足できるレベルには達していない。
今から思えば、上を目指して毎日、毎日、とにかく体力にものを言わせることが出来ていた研修医の頃が一番幸せだった気がする。
能力も技術もなかったが、希望だけはあった気がする。

うちの父親は74歳で亡くなり、祖父は73歳だった。
もう一度、医師になってからの時間をすごしたときに、私はもうこの世に存在していないかもしれない。
ついこの前、医者になった、研修医をしていたと感じるのに。

時間とは無常なものだ。

どんなに努力し、優れた技量や強さを身に着けても、その存在と共にこの世から消えてなくなってしまう。

毎日、毎日、惰性を貪っていた過去が悔しくて仕方ない。
今も、毎日、失敗しても良いから若かったあの頃のように、体力のその限界まで自分と向かい合ってみたい。
夢などなくてもいい。
人にはもしかしたら理解してもらえないかもしれない。それでもいいのだ。


きっと今やらなくては、未来の70歳の私が後悔する。

時間は私の人生そのものだ。
今もこの瞬間も磨り減って消えてゆく。

今、この瞬間は過去の自分が夢見て希望していた通りの私であるだろうか?
今、この瞬間を私はしっかり味わい、そして恍惚の中で生きているのだろうか?
さくらの散る美しさを私は十分感じたこの春だったろうか?
五月雨をこの身に受け、毛穴を開き、その地球のしぶきをわが身わが心で歓喜と共に受け止めることができたろうか?
夏の熱い太陽の日差しを受け、この身に吹き出す玉の汗を喜びをもって、送り出すことが出来ていただろうか?

未来の目標や希望は私たちに力を与え、生きてゆくエネルギーになるかもしれない。
でも、そんなことより、今、この瞬間を心から味わい感じ、辛ければ心から苦しみももがき、うれしければ心から喜び笑う。
それ以上の幸せなどない。

1000年後、この世に今の誰もなく、今みんなが不満を抱いていることもこの世になく、すべては宇宙の闇に帰る。

うちの父親が死んだとき、病室で10時間その亡骸と二人きりだった。
私から見ても決していい人生でなかった親父から、「俺は後悔ないよ」という言霊がびんびん伝わってきた。
「お前もそういう人生を生きろよ」というのが親父の最期の教えだった。

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# by japanheart | 2015-05-26 06:25 | 随想 | Comments(0)

伝えるべきもの

伝えるべきもの

 私の子どもの頃の同級生に有名なミュージシャンがいるのだが、先日彼の所属会社にお邪魔した。
 
 そのとき社長も一緒に同席されて、しばらく話をした。

 そのとき、社長が私に言っていたのは、それそろいい年になりつつあるからもっと体を労わっていかないといけないということと、人の持つメッセージ性というものだった。

 このメッセージ性は多くの人のあり方のヒントになるかもしれないので今日はそれをshareしたい。

大体かいつまんで言うと以下のようになる。

 1) 歌が上手いだけでは売れない。
 2) ルックスだけで売れることもないので、今はそういう人を求めてはいない。
 3) 売れる人には必ずメッセージ性というものが備わっている。
 4) 伝えたいメッセージが音楽を通じて、お互いの魂で感応して、伝わっていく。

 これは多分、音楽だけでない。
 きっと、人は何をするにしてもメッセージ性を持っていなければ、広がらないのだと思う。
 自分に備わるメッセージ性とは何か?
 自分は何を伝えたくて今、この仕事に就いているのだろうか?
 
 そういうものを今一度点検してみてはどうだろう。
 表面的な理由ではなく、ずっとずっと自分の心の本音の部分に切り込んでいきながら、確認してみては。

 ちなみに、その同級生は、今ある自分のあり方を、私と同じだと言っていた。

 自分は自分のために、音楽をやっている。
 自分がやりたいから音楽をやっているのだと。
 何のために音楽をやっているのかわからなくなった時期を経て苦しみながら、その結論に達したようだ。
 自分のために生きるのだと悟った人間は強い。
 なぜならば、迷いがなくなるからだ。

 これからの彼にもっと期待をしたい。
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# by japanheart | 2015-05-20 00:33 | 活動記録 | Comments(0)

命のつながり

命のつながり

普通、海外で医療活動をやっていると生死にかかわる患者ばかりがやってくるわけではない。
多くは日本でもいるような患者たちであり、子どもになる。
私は外科を主にやっている関係上、手術が必要な子どもが多くなるが、近々、生死にかかわらない。
私はこのような患者たちの流れを、実は大切にしている。

このような患者たちをしっかりしかもたくさん治療していることが、生死にかかわるような重症の子どもを引き寄せる基礎的な土台だと思っている。

日本でも重症の患者だけを診たい欲求に刈られている医療者は多い。
効率よく自分の人生の時間を使いたい、あるいは医者としての能力を上げたいと思っているのだろうが、そんなに上手くいく人生などない。
医師人生もない。

これは小口の取引を拒否して、大口取引だけし、大きく儲けたいと思っているようなビジネスモデルと同じだ。
これを普通の人間がやることは難しい。出来る人もいるが。
ミャンマーでは過去何度も、政府が流通通貨を一夜にして無効にした歴史がある。
いきなり今日から、今まで苦労してためたお金が紙切れになったのだ。
だからミャンマー人は基本、自国の通貨に対する信用は低く、外貨で持ちたがるし、不動産やその他の現物に変えることが多い。
なぜそんな風にする必要があったのか?
ひとつの理由に、中国人やインド人に大部分ビジネスを握られ、ビルマ族の人たちがお金をもてなくなっていたからだ。
ビルマ人と中国人のビジネスに対する大きな印象違いは、中国人は小さなビジネスを大切にし、流れを作り、やがて大きなお金を持っていく。
一方、ビルマ人は、一発、大きなお金を稼いでやろうと、小さなビジネスチャンスを大切にしない。だから大きなビジネスチャンスもやってくることはない。
そして気が付けば、すべて中国人とインド人にビジネスを持っていかれる。
そして政府がお金を無効にする。

この話から得れる教訓は、小さな流れを大切にすることだ。流れも出来ていないのに大きな収穫を狙ってはいけない。
コツコツした小さな努力の積み重ねが、大きなチャンスを呼び込む。
何気ない小さな成果がいくつも寄せ集まってやがてしっかりとした土台となり、その上にすべては載せられていく。

かつてある看護師に、このような比較的軽症な患者たちをこんなにいっぱい手術してどれほどの意味があるのかといわれたことがある。
そのときも、さっきの理屈を話したが、本当に助けたい人を見つけたければ、この流れを生み出すしかない。
そのときは、分かっていたかいなかったが、わからないけど。

先日、最近、ラオスでは腎臓がんの1歳の子ども、悪性リンパ腫の子ども、胆道拡張症の1歳の子ども、カンボジアで6歳の腎臓がんの男の子などなど。
全部、やってきてくれそれを治療できたのだ。

それはすべて特には命にかかわらない疾患で治療を受けた人たちが支えていた命ということになる。
そういう縁で結ばれた患者たちなのだと思う。

自分の命は知らないところで人の命とつながっている。

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# by japanheart | 2015-05-08 14:26 | いのちの重み | Comments(0)

自滅という考え方

自滅という考え方


 長くやっているやっている仕事や活動などが時々行き詰まるとき、いつも原点帰りというか、そもそも、何でこれを始めたのか、今まにこれを行っている理由は何なのか、という問いかけを自分に投げかけてみるのは大切だと思う。

 そのほとんどの勝負事は、それは人生に時折、訪れる勝負も同じであるが、負けるときというのはそのほとんどは自滅に違いない。
 個人的な課題、たとえば若い人の大学受験や資格試験にいたるまで、これは自滅によって失敗する。普段からの自己管理や理解や課題の先延ばしなど、すべてしっかりと普段から取り組んでいればきっと上手くいったはずなのに、結局は相手があってのことでも、私から見れば自滅というに等しい負け方である。
 それがたとえ国家的課題、たとえば戦争であっても、同じく自滅によって失敗、敗戦へと導かれる。戦後アメリカの情報操作によって、アメリカとはじめから日本は負ける戦いをしたという話になっているが、真実は日本の低レベルの戦略による自滅行為の連続の結果であると思う。
 この手の失敗は戦後の日中外交や日韓外交おいてもみられるわけで、日本国内調整の失敗による自滅行為の結果なのだ。

 人生は、国家的課題と同じで負けなければ良い。要するに、引き分けに持ち込めばいいわけ。
受験も自分が何とか納得できる範囲のところへ滑り込めば良いし、資格もしかり。戦争もアメリカに勝つ必要はない。上手く講和に持ち込んだり休戦に持ち込めば良かったということだ。

 小さな失敗を繰り返しながら、それを糧に大きな失敗を回避していくというやり方は非常に理にかなっているように思える。
 人間は失敗は不可避なので、相手がある場合は、どちらが決定的な失敗をおこさないで終わりを迎えることが出来るのかが肝要だと思う。
 その失敗が結果に影響を大きく及ぼすような場合を、自滅行為というのかもしれない。
わかりやすい例を挙げると、模擬試験である問題を解けず、ただ点数だけを見て、一喜一憂し、自分が間違った問題の復習も理解もせず、あるいはそこが解っていなかった所だとすら自覚せず、そのままやり過ごす。
 結局、本番の入試で同じポイントを衝かれる問題を出され解けずに、不合格になってしまう。
 このようなことだ。このようなことを自滅という。
 小さな失敗は模擬試験で間違うことだ。
 大きな失敗は、そのまま理解していない状況を放置することだ。
 入試の不合格は、単なる結果だ。
 なぜならば、入試を受ける前にすでによほどの幸運がない限り不合格は決まっているからだ。

 ここでの教訓は、小さな失敗はとても大切でそれをどう利用できるかだ。
 それを利用できない場合、それを自滅という。

 これは人生すべてに詰まった教訓であり、日日の小さな失敗を嫌う人間は結局自己の欠点に気づかず、あるいは発見できず、大きな失敗を犯してしまう。
 ということは、日日の小さな失敗を恐れる人間は、大きな失敗を犯す予備軍ということだ。
 日日、失敗を恐れて行動をおこせない人間は多いが、この人たちは失敗をせずに大きなことを成そうとしているということで、なかなか難しい課題に取り組んでいることになる。
 
 自滅していく個人や会社や国家の特徴は、

 1、小さな失敗をおこせない個人や社会
 2、小さな失敗から学べない個人や社会

 こういう個人や会社や国家は自滅していく。
 
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# by japanheart | 2015-04-27 20:21 | 活動記録 | Comments(0)
ラオスの子ども助かった、、、と思う

 先般からお伝えしていたラオスの胆道拡張症の1歳の女の子は無事に手術を終え、回復に向かっていることを伝えたい。

 岡山や広島から行っていただいた小児外科の先生方や、ミャンマーから帰国前にわざわざ行っていただいた遠藤先生にも感謝をしたい。

 ラオススタッフも皆さん平山を中心にがんばって関わってくれた。
 資金的サポートをしていただいたJSファウンデーションやこの子のために寄付を頂いた方々にも感謝します。

 一人の子どもためにいったいどれほどのエネルギーを裂くことが出来るのかというのは大した課題だが、一人の人間を助けるのはそれほど大変なことだとも教えてくれる。
 この世の中はどうも総論と各論のバランスが取れないことが多い。
 なるべく少ないお金でなるべく効率よく人を助けたいと思ってはいても、今回のように大したお金をかけないと助けられないこともある。
 かつて、アメリカにいって心臓移植のための治療は1億は必要だった。
 そのお金をマラリヤの薬に代え、アフリカやアジアにばら撒けば数万人の命を救える可能性だってある。
 よく学生たちに質問されることに、そんなタイプの質問が多い。

 もっと効率よく多くの人を救いたい、救うべきではないかと語ってくれる学生も多いが、昨今の世界情勢の中で、いろいろな人たちがそう考えてさまざまな試みをしているが、果たして結果はどうだろう。
 結局、私の人生という各論では、一人ひとりちまちま確実に救ってきたこの長い年月のほうが、結果ははるかに良かっただろう。若い頃に理想に燃えて大風呂敷を広げ、多くの人々を一度に救おうと張り切ってやってこなくて良かったと思う。きっと上手くいっていなかったから。
 
 世界中でさまざまな難問に大きな希望を抱いて取り組んでいる人も多いが、果たして上手くいっているのかな?
 地球温暖化の問題は解決しそうなのかな?
 感染症のブレイクアウトや、核廃絶の問題はどうなっているのだろう?

 先般読んでいた書物の中に、1980年代アメリカの異常な殺人や薬物中毒、レイプやその他のをはじめとするさまざまな犯罪発生は、行政や専門家たちのさまざまな希望に燃えた試みによっても、一向に鎮火しなかった。多くの専門家は1990年代はさらに悲惨な状況になると予想していた。ところが、すべての人の予想に反して1990年代からアメリカの犯罪は減少の一途をたどる。
 それはさまざまな勇敢な試みの成果ではなく、実は、全米の多くの州で中絶を認めたからだったそうだ。
 貧困層の子どもたちは大きな犯罪予備軍だった。
 その予備軍になるべき子どもたちがこの世に生まれず中絶によって、命を奪われていったということがその犯罪の減少の一番の理由だったそうだ。

 まあ、人間の知恵などというものはその程度なのかもしれないが、それならば確実に助けたほうが時間さえかけれればきっと成果も上がる。小さな成果なのかもしれないが。

 今回もその試みをしてみたわけだ。
 何とか上手くいきそうだと思う。
 
 今はこんなに元気になっている。

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# by japanheart | 2015-04-21 00:45 | 子どものこと | Comments(0)

お知らせ

ジャパンハートでは学生・社会人のインターンも受け入れを行なっている。

先月までミャンマーで半年間のインターンを行なっていた学生が医療と教育を組み合わせた新しいプロジェクトを企画しているので紹介する。この企画はジャパンハート学生インターンの山口君と教育が届かないところに教育を届けるNPO法人e-Educationの東大院生、林さんが実行しようとしているものだ。

ワッチェ慈善病院には貧しくても日本人医師からの治療を受けられるという口コミが広がり、現在ではミャンマー全土から年間、外来12,000人、手術入院患者が2,000人いる。上記の学生2人はこの2,000人の入院患者に笑顔を届けようとしているのだ。

長期入院患者の精神的・金銭的負担を軽減するために彼らは3つの方法を考えた。
1.入院中にベッドの上でアクセサリーを作って販売できる仕組みの構築
2.入院中の時間を活用した、ベッドの上で学べるIT教育DVDの作成
3.退院後の健康も考え、HIVなど感染症の正しい知識を伝える保健教育DVDの作成

詳しくは以下のサイトに紹介されている。
https://moon-shot.org/projects/75

このような学生が発起人のプロジェクトがどこまで上手くいくかは分からないが、それを応援するのが自分たちの役割でもある。クラウドファンディング終了まであと3日間。興味がある方はプロジェクトサイトをのぞいてみてください。
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# by japanheart | 2015-04-17 17:37 | 事務局からのお知らせ | Comments(0)

講演会のお知らせ

講演会のお知らせ

 いきなりで申し訳ないですが、今日、講演会します。
 六本木ヒルズで。

 以下を参照ください。

時間ある方は是非!

【4/10(金)19時@六本木】日本元気塾セミナーに登壇 

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# by japanheart | 2015-04-10 01:17 | 講演会 | Comments(1)

変化する安定

変化する安定


 人は上手く自分を誘導しなければ努力などしない。
 世のほとんどの人間は、大体、怠け者に生まれついている。
 たとえばかつてブログに書いたマイノリティーマインドを持つように環境設定するのは有効な方法だと思う。
 とにかく外国に行かなければ自分がマイノリティーになれないわけではない。
 国内でも、学校でもそれはコンセプト次第で可能となる。
 医師や看護師にも、若いうちは2年長くても3年くらいで職場を変わるように勧めている。
 人間3年も同じ場所にいると慣れてしまって、ついつい初心を忘れ怠惰に時間を生きるようになる。

 こういう変化を嫌ったり、恐れる理由は安定の喪失にある。
 しかし、今日と明日同じでありたいと願う。
 明日と明後日同じでありたいと願う。来る日も来る日も同じでありたいと願うが、それは不可能だと知っている。
 人の世は自己の肉体のように遷ろう。
 というか、肉体もこの世の定めのひとつに過ぎない。
 同じであると思っていた今日は、昨日とは違う。明日とも違う。
 人に肉体が、日日朽ちていくように、形あるものはそれが完成したときから崩壊へ向かう。
 私たちが願う安定は、その状態がずっと継続してほしいという願いは、この世に存在しないものを欲していることだと知らねばならない。
 もしそれがあるならばそれは、死かもしれない

 安定とは、常に変化するある秩序をもった状態のようなものだ。
 コップに入った水は、激しく分子がぶつかり動き回る。しかし、静かの表面の水面をたたえている。

 すべてものは変化する中に安定を形成する。
 だからこそ変化を恐れてはいけないのだ。
 変化を恐れることは、死を求めることだ。
 
 常に変化しようと心に意識している状態は、常に生命力を開花しようとしていることと同じことだ。
 変化を恐れない。
 変化を求める。
 変化の中の安定を知る。
 
 それが、そういう状態そのものが、生きているということなのだ。
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# by japanheart | 2015-03-31 19:45 | 活動記録 | Comments(1)
ラオスで1歳の総胆管のう腫ー【ジャパンハート総医療局】

 先日ラオスで手術ミッションを行ったときに、1歳のお腹の腫瘍の子どもを診察した。

 現地では確定診断は付いておらず、治療が出来ないということでやってきた。

 診察すると、どうも肝臓から腸へ消化液を流している胆管系の生まれつきの異状(いわゆる奇形)による胆管閉鎖がおこり、膵炎を起こしたり、感染を起こしたり、お腹に大きな腫瘍(胆汁が詰まった)を発生したりして致死的になることもある。

 もちろん治療が出来なければ早晩、そうなるに違いない。

どのくらい余裕があるかはケースバイケースなので、何とも言えないが、どうも最近この子の状態が思わしくなくなりつつあるという連絡が入る。

 ラオスではパスポートを取得に数週間、そして日本行きのためのビザの取得にも少しは時間がいる。
 ぐずぐずしていたら間に合わない。
 今日本は、メディカルツーリズムなるものを推進しているが、日本で医療を受ける場合はこれのルールに合わせなくてはいけなくなり、かえって時間がかかる羽目になった。
 これは日本が医療で儲けようとするスキームなのだが、私たちのものとは本来、コンセプトが違う。
しかし、この辺は硬いことが好きな日本政府、きっちりそのスキームでやらせようとする。

 そこで今回は、日本から小児外科医2名を派遣することにした。
 
 こういう形を将来拡大していきたいと思っている。
 すなわち、現地のニーズに応じて医師や看護師を選択し、ピンポイントで派遣していく医療支援の形。
 事前に、データはすでにそろえてあり、執刀医たちはそれを日本でWeb経由で見ている。
 そして、現地には必要な指示を与え、手術を行い、日本に帰ってくる。
 そして別のチームが術後管理に当たる。

 そうすれば2泊3日も時間があれば多くの患者も救えることになる。
 あとは費用をどこまで削減できるかだ。

 今回も間に合うことを祈っている。
 数日後には私がいったん入る。
 そして救命処置が必要ならば、とりあえずそれで時間を稼ぎ、本番の手術の日を待ちたい。
 
 こういう医者や看護師他、医療者のpoolingシステム、すなわち、ジャパンハート総医療局を造り、その中に患者の情報を流し、そこに所属する日本中の医療者が手を上げて現地に行ってもらう仕組みをもっと加速して作りたい。もちろん、緊急救援のときもそこに召集をかける。

 ぜひ、多くの医療者の参加を望む。

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# by japanheart | 2015-03-24 10:54 | 活動記録 | Comments(0)
どんな医療が必要とされるのか?

 今後、アジアの途上国ではどんな医療が必要とされるのか?
 よくされる質問の一つだ。

 結論は、日本のような医療かな、、、。

 アジアは急速に経済発展し、近代化が加速する。
 電話線のない生活は、電話線のようなインフラを引くことを飛び越え、携帯電話の普及が先に来た。
 カンボジアでもミャンマーでもラオスでも、田舎のそれこそ農家の人たちが、スマホを日日の生活に当たり前に所有している。
 先日、ラオスの田舎から日本につれてきて治療した1歳の腎臓がんの子ども。
 ある時、ラオス首都ビエンチェン郊外で手術をしていたら、ラオス人スタッフが私にハイ!とスマホを渡した。
 するとそのスマホの画面の中でその子が笑って手を振っている!
 えー!この子、すごい田舎の子と聞いていたのに。そして、この親も普通にスマホもって生活しているわけ?

 私が活動するミャンマーの中部ワッチェ村の慈善病院。
 なんと、最近は入院患者がほとんどスマホを覗き込んでいる。
 こ、こんな田舎でも!しかも3G,,,,,。

 国が閉ざされていた頃、手術は特に私たちが最もお金をかけないでやれる方法を選択することは正当だった。
 日本では簡単なヘルニア程度の手術でも、腹腔鏡というカメラを使った手術をいちいち大金をかけて行っている。時間もかかるし、お金もかかる、おまけに全身麻酔が必要になる。
 でも、たぶん今ではそれがスタンダードになりつつあるのかもしれない。

 私たちは、そうはしていない。
 局所麻酔ですむし、お金もほとんどかからない。

 でも、もしかしたら、とふと思う。
 今後、この治療法を行うことは、遅れた治療を行うことだと、例の医師たちがまた揶揄してくるかもしれない。
 だから、もしかすると患者には良いか悪いかは別として、日本と同じような治療法を選択しなくてはならなくなるときが来るような気がする。
 お金もかかるだろう。

 もしそうしなければ、日本人たちは遅れた治療をしているということになるかもしれない。
 というのも、経済発展は都市部の富裕層に日本と同じ型の同じ価値観の医療を提供するようになるからだ。
 そしてそれが標準になり、それが正しい治療法だということになるかもしれない。

 医療は発展という名目のもとで、当たり前に産業化され、当たり前に高額化し、人々は貧しかろうが豊かであろうが、今までよりもたとえ効果は同じでも確実にたくさんの金銭的な要求をされることになる。
 これは果たして多くの人たちを幸せにする仕組みなのか?
 
 特に国民皆保険制度のないアジアの国々では患者負担は大したものになるだろう。

 
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# by japanheart | 2015-03-20 02:02 | 活動記録 | Comments(0)
子どもひとりの命ーいくらなら払う?


 アジア各地で医療をしてきて、日本人からするとわずかなお金が払えなくて子どもの命が亡くなってしまった話は枚挙に暇がない。

 かたや日本では心臓移植をするために海外に旅立つ子どももいる。1億円は最低必要だろう。

 私はジャパンハート組織してからすでに10人くらいは日本へ子どもを搬送し治療をしてきた。
 現在も2名の子どもが日本で治療を受けている。

 1名は産経新聞の心臓病専門の基金を利用し、東京女子医大で心疾患の治療を受けている。
 もう一人は首にできた巨大な腫瘍で昨日、手術を20時間もかけて岡山の国立医療センターで受けることができた。

 海外から子どもをひとり連れて来て治療を行うのは決して簡単なことではない。
 1度や2度は出来ても、10度、繰り返すのはなかなかの仕事になる。
 
 手術や治療というのは最後の山場ではあるが、それまでにはさまざまな苦労がある。
 まずは1月以上の期間、医療用語のわかる通訳の手配とその宿泊先の確保、また患者とその家族の搬送、
日本サイドでは、長期間海外の病院という閉鎖的な環境で生活をしなければならない家族や外国人通訳に対するメンタルケアーというフォローも必要になる。

 そしてお金の問題もある。
 
 まともに日本で保険外の治療をしたらあっという間に1000万円くらいは請求される気がする。
 
 初めて日本に患者を連れてきたとき、そのくらいのお金は覚悟をしていた。
 そんなお金を一度に、しかもたったひとりに投入するなどということは、ちょっとどうなの?と多くの人に揶揄された。
 ほかにもたくさんそんな患者がいるでしょ??という感じだった。
 私はそうは考えなかったから日本に連れてきたが、そういう人は1億円もかけて世間から寄付を集めて心臓移植を受けようという日本人のことをいったいどうかんがえるのだろうか?

 まあしかし、航空券代やもろもろの費用はどうしようもないが、治療費か目玉が飛び出るくらいに国立病院機構の岡山医療センターは安くしてくれている。
 だから何度もそこで治療を行えるのだ。
 ありがたい事に。

 わが子であれば、いったいいくら払う?
 親友の子どもだったら?

 私たち医療者は、自分の家族のつもりで患者を診るという心構えがある。
 自分の子どものつもりで治療する。

 ならばいくら払えるのか?
 他人の子どもに、いくら払えるのか?

 人として、医師として、いつもこの理想と現実の間で苦悶することになる。

 現地で医療をやっていてもそれは日常的に当たり前に突きつけられる課題なのだ。

 そういう子どもを現地で治療できるようになると経費はかなり削減されるが、ゼロになるわけでもなく、それでも結構、大きな金額になると思う。治療を現地人の医師がやろうと日本人がやろうと関係ない。日本人の医師たちは無償でやっているのでむしろコストはかかっていない。


 現地人たちで出来るようにと声を大きくして言う人間も多いが、患者から見ると助けてくれれば、別に現地人の医師でなくてもいい。
 しかし、現地人たちだけですべて回ることがそれほどすばらしいことか??
 本当にそれが自立などというのか?
 その考えはおかしくないか?
 私が、現地人たちで回るようになったほうがいいなと考える理由は、単に効率の問題で、それ以上でもそれ以下でもない。不規則な日本人医療者の流れだけでは、医療が安定しないからだ。
 
 世界中で人が入り乱れて、国境をまたぎ、産業界は外国人が無数に外国で働いているが、なぜ医療界は外国人が多く混ざっていたら自立できていないというのだろう?
 大体、今年からアセアン各国は医師免許が統一されどこでも働けるようになる。
 ヨーロッパでもそうじゃないのか?
 そのうち日本もアセアンと免許の統一がなされないと誰が言える?

 だから古い枠組みの考えに汚染されて、簡単に上から目線で自立などということを言わないほうがいい。

  さて、今回連れてきた子は首の腫瘍の13歳の男の子。
 ミャンマーでは2度、組織を調べたが悪性ではなかった。
 だから連れてきて手術をしてもらったが、今回もし日本の検査結果で悪性の所見が出れば、傷が治ればすぐにつれて村に返し、死ぬまで静かに家族で過ごしてもらおうと思う。
  日本の子どもにするように無理な治療はしない。
  
 長年、ミャンマーの人々と付き合ってきて、今はそういう形が一番いい医療だと思っている。
  

興味ある人は以下をのぞいてください。
  頸部腫瘍ミャンマーの男の子「ピョーくん基金」
 
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# by japanheart | 2015-03-13 02:17 | 活動記録 | Comments(0)

負ける戦いはしない

負ける戦いはしない

 この10年はずっとミャンマーの医師たち、特に自分が偉いと思っている医師たちによってずっと活動が邪魔されてきた。
 そういう問題と取り組み続けた10年間であったともいえる。

 今でもそうだが、この手術はするなとかあの手術はするなとか多くの注文をつけてくる。
 それをのらりくらりとかわしながら、じわじわと自分の思うところを実現していく戦法をとってきた。
 なぜならば、私たちはミャンマーやカンボジアでは外国人たちであり、マイノリティーな存在であり、力がない存在だからだ。

 我慢できなくなって、切れてしまったらおそらくそこで終わりになってしまう。
 我慢、我慢の日日。
 海外でその国の人間と裁判をしたり、揉め事を起こして勝つことはまずない。
 どんなにこちらに正義があっても、結果は負けることになる。
 
 それはもう常識として意識しておかねばならない。
 アメリカでなぜ、黒人がいまだに白人警官からリンチにあって殺されても、白人は無罪になるかというと、アメリカというのは白人の国だからだ。

 前に、ブログに書いた女の子で腸閉塞で危うく死にかけた子は、人工肛門を救命するために造った。
 ちょうど腸が一塊になって腐って、全身状態いも悪かったので空腸という場所に人工肛門を造ったのだ。
 通常の場所とは少し違うが、状況からとにかくそうした。

 やがて子どもは元気になるが、この子は遺伝病で、消化管にポリープが多発するのだ。今回も、それが原因で腸が閉塞し、腐ってしまったのだ。
 胃や十二指腸は胃カメラで見ることができ、大腸は大腸カメラで見れるが、小腸はカメラで見ることは難しい。
 そこで、小腸の人工肛門から検査をし小腸にポリープがあれば人工肛門を閉じるときにそれを一緒に取って、また今回のようになることを避けようと考えた。そこで、活動地から近いマンダレーという都市の大きな政府の病院で検査をしてもらう依頼をしたところ、、、、。

 子どもの付き添っているミャンマー人スタッフ2名がその大学病院の教授と医師たちにこっぴどく怒られたらしく、びびりまくって助け求めてきた。
 「この子の腸は日本人の医者によってめちゃめちゃにされた!」
 「その日本人の医者は、本当に外科医なのか??」
 「その医者をここに連れて来い!」
 から始まりまあずっとやられたらしい。

 こういうときはいつもむかつくが、冷静に対応する。
 
 いつものことだが、かなり冷静に対応する。
 決して怒ってはだめだ。
 話が大ききなればなるほどこちらが不利になる。
 ここは日本ではない。

 そこで、ミャンマー人の責任者と私がいつも阿吽の呼吸で対応する。
 私は決して表に出ない。
 ミャンマー人同士で解決させる。
 ここはミャンマーなのだ。
 
 決して怒らないように指示を出し、そしてしっかりと彼らが嫌がる、あるいはびびる資料を用意する。

 彼らはあくまでも公務員だから、政府の一員としてルールを守らねばならない。
 
 ジャパンハートはミャンマー政府と正式に契約し医療活動をしている契約書。
 これは保健大臣と交わした契約書になる。
 保健省から医師会を経由して、正式に発行された私の医師免許。
 内務省からの許諾書。
 そして私の経歴や経験。
 その他、もろもろ。

 もしこれにケチをつければ彼は政府や内務省(今は情報省の機能もある)の許可にクレームをつけたことになる。
 もちろん私の今までの手術や治療の経験値は、彼らのそれよりも大きく上回っている。

 そうして今回も、騒ぎは静かに収まった。
 
 ミャンマー人責任者に教授はさっと資料を見た後こういったそうだ。
 「日本の先生は、忙しいのに子どものためにがんばってくれましたね!」

 その一部始終を横で見ていた怒られた二人のミャンマー人スタッフは、その後こう言ったそうだ。
 「あまりの態度の違いに、びっくりしました!!」

 長年やっているといろいろある。
 ひとつずつ、ひとつずつ乗り切って10年たった。
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# by japanheart | 2015-03-03 04:59 | 活動記録 | Comments(0)

いろいろ告知

いろいろ告知

1) このブログをはじめてから、このブログ経由で私に意見を求めてくる人も多いのだが、このあたりで一言。
 ブログでのコメントはしないことにしている。
 正確にはできなかった。
 ミャンマーではネットに全く接続できなかったし、最近まで私のブログやジャパンハートサイトは検閲の対象だった。都市部でもメールにアクセスするのが精一杯だったのだ。
 URLを開くなどというのは最近できるようになったといってもいい。
 
 それと、このブログは私のブログだが個人的な相談を受け付ける場所とは思っていないので、もしも聞きたいことがある人は、FACEBOOKの私のページにアクセスし、そこからメールを送ってもらいたい。今後は。
 個人的なメールの送れるはず。また、私がアクセスしにくい場合は、ジャパンハート事務局から可能な範囲で連絡をするようにしているし。

2)今年も3月に学生対象のフェリーツアーをまたやりますよ。
 中学・高校・大学と学生ならば誰でも参加可能。
 神戸港から大分港までフェリーに乗りながら夜中までディスカッション、翌日は温泉付き個室の、ホテルに泊まり、すべて行程食事つき2泊3日で(20000円+消費税程度)になっている。
  交通費もフリー代込みですね。
 関西や中国・関東から参加しやすいかな??
 LCCが成田、関空から大分まで乗り入れているので、帰りはLCCでお帰りください。
 九州を数日旅行して帰るのもいいかもね。
 九州各地からLCCは飛んでますよ。
 早めに申し込みを。先着順らしい。

 http://www.japanheart.org/event/2015/post-28.php

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3)あと、ジャパンハートの学生部会HEART’sのイベント案内。

 認定NPO法人ジャパンハート学生組織HEART's主催
チャリティーバブルサッカー大会


北欧で誕生し、今話題のバブルサッカー。
サッカー未経験者であっても、誰でも楽しく参加できる大会です!
当日は、あのトゥギャザーで有名なスペシャルゲストも来てトゥギャザーして下さります!
皆様、奮ってご参加ください!


【開催目的】
ジャパンハートがミャンマーに設立した養育施設である「Dream Train」では、サッカーが大人気です。
私たちは、子どもたちにプロサッカー選手という夢の選択肢を一つ増やしたいと考えています。

「Dream Train」からプロサッカー選手が輩出され、それを目の当たりにした子どもたちが希望を抱き、
ひいてはそのループが継続される環境を作りたいという思いを抱いています。

その実現に向けた、「Dream Train」への寄付、サッカーを行うための環境の整備、
それに付随した現地・国内での活動に充てる資金を集めたいと考えています。
また、ジャパンハート、HEART'sの活動を多くの人に知ってもらう機会になればと考えております。
https://www.facebook.com/events/908610852513137/

【日時】
2015年3月22日(日)
14:00-18:00

【場所】
Fisco Futsal arena としまえん
都営大江戸線「新宿から直通20分」豊島園駅下車
西武池袋線「池袋から直通14分」豊島園駅下車
西武有楽町線練馬駅乗り換え豊島園駅下車
http://www.fisco-co.com/

【参加対象者】
誰でもご参加頂ます。サッカー未経験者も大歓迎です。
チームは18チーム募集致します。また、メンバーが5人以上集まらない場合は個人(または数名)でも参加頂けます。個人で参加される場合はできる限り、個人参加者同士、お友達同士でチームを組めるよう配慮致します。

【参加費】
チーム参加:30,000円/1チーム(5~10名)
個人での参加:3,500円/1人
尚、収益は全て、「Dream Train」への寄付、サッカーを行うための環境の整備、それに付随した現地・国内での活動に充てる資金と致します。

【申込方法】
申込は先着順となります。下記のURLよりお早めにお申込ください。
http://urx2.nu/gi6k
記入後、メールにて振込先をご連絡致します。
振込が確認出来次第、申込完了となります。
振込は1週間以内にお願い致します。

【大会ルール】
・バブル(正式名称:Bumper)を着用し、フットサルとほぼ同じルール形式で開催。
・審判は主催者側で行います。
・5対5でチームメイトと交代でローテーションしながらご出場頂きます。その内1名はバブルキーパー(しかし、バブルを被っているので手は使用できません)
・試合は2コートにて行います。
・43試合(1コート2試合)
予選(40試合)…総当たりのリーグ戦で行います。(5チーム×4リーグ)
決勝(3試合)…トーナメント戦
・優勝チームには賞品を用意しております。また、他にも各種表彰がございます。
・競技ルール:バブルサッカー(バブルフットボール)の公式サイト参照
 http://bubble-football.jp/about
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# by japanheart | 2015-02-22 00:47 | 活動記録 | Comments(1)

ルーチンワーク

ルーチンワーク

 日日の細かいルーチンワークを大切にすることを現場ではよくスタッフたちに言っている。

 ルーチンワークは日日の土台を作り、その土台の上にあらゆる成果をのっけいていく事になる。
 土台がよく崩れていたり、形が変わってしまうと成果が積みあがらない。

 朝起きたら歯を磨く、顔を洗う、宿題をする、ご飯を食べる、、、、。
 こういうものがあなたのルーチンワークならこれらをきっちりやることをお勧めする。
 週に一回、あるいは月に一回これをする、あれをする、年に数回これをするあれをする。
 これもルーチンワークならばそれも忘れずにしなければならない。
 これらができていないで新しい試みやチャレンジ、改善などしても成果など目減りするばかりだ。
 
 人は大きな成果ばかりに目を奪われ、小さな積み重ねが大きな成果につながっていることを忘れがち。
 私たちの体がひとつひとつの細胞から出来上がっていることを意識して生きるのと同じ。
 これを忘れているとある日ある時、大きな落とし穴に陥ることもある。
 たとえば、大病を患う。それをいきなり病気になったような錯覚に陥る。
 しかし、人間の体とていきなり大きな病気発生しない。体の中で少しづつ病気が進行していく。
 この進行の具合を、いつ感じることができるのかといくことになる。
 早ければ早いほど、命への影響は少なくなる。
 
 人生というのはリズムが大切だから、このリズムを取るというのも日日のルーチンワークにかかっている。
 私たちが日日生きていく中で、自分の中から外界へ表出されるあらゆる事柄は、自身の感度さえよければある程度自分で感じたり気づいたたりできるのではないかと私は思っている。
 それを具体的には、こういう感じであるとか、どこが悪いとか、そういうことはできないかもしれないが、違和感としては感じることができるのではないか。
 その違和感というのは、いわゆる自身の安定するリズムの乱れ、リズムからの乖離ではないのか。

 日日のルーチンワークをしっかり確立して、自身のリズムを知ることは必要だ。
 心地いいリズム、安定的なリズム、狂いはじめのリズム、大きく逸脱する直前のリズム、、。

 そういえば昔々、今から40年前。私は人間には個々人のバイリズムといういうものがあることを知った。
 それがどれほど正しいのかはわからないが、自分のリズムは必ずあると思う。なんせ人間の細胞も振動しているのだから。

 大きな個人のバイオリズムは運命みたいなものかもしれないから変えようはない。
 しかし、リズムを知れば、人生のパターンみたいなものは知ることはできる。
 人間はそのパターンから逃げることはできないが、それを知れば、準備はできる。
 人間が弱いのは、不意打ちに弱いのだ。
 不意打ちでなければ、構えや防御をとれれば、ある程度の衝撃は緩和される。
 だからどうせ避けることができない不運のリズムも、そのパターンを知っているかどうかによって、不意打ちにもなるし、そうならせないこともできる。
 大きなリズムの変化は小さなリズムの乱れから予測する。
 特に大きく逸脱する直前のタイミングを知れば、準備に入れる。

 日日のルーチンワークはそのすべての源になる。
 まずはそれをしっかりとやることだ。
 日日のいいいい加減さが、未来の大失敗の主因となる。
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# by japanheart | 2015-02-16 00:27 | 活動記録 | Comments(1)

患者が患者を連れてくる

患者が患者を連れてくる

 どこの病院でもそうかもしれないが、どうしても外科をやっているとその多くは命には早晩関係ない疾患も多くなる。
 特に、途上国の現場ではいまだに胃がんや肝臓がんの根治手術はできないでいる。
 その後の抗がん剤治療もないので、どうせ完璧な救命はできないからという理由もある。

 こういう、いわゆるがんの治療をしないでいると、なんか人を助けていないような気に陥るスタッフもいる。
 いのちに近々は危険がないような病気の手術をたくさんしていても仕方ないのではないか?
 という感じになる。
 私はかねがね言っているが、医療はその患者やその周りの家族の人生の質の改善こそが使命だと認識している。いのちを救う作業はその一部に過ぎない。

 しかし、どんな人の質をもっとも改善してあげたいか?と聞かれれば、死にそうな子どもたちやその家族の人生の質の改善が一番に頭に浮かぶ。

 いわゆる途上国では助からないようながんのような病気で、しかも超強力な治療をしなくても助かるようなレベルのもの。あるいは、1時間以内の手術で取り急ぎ救命できるできるものなどなど。

 ところが難題があってこういうレベルのものは、実はその国中に散ってしか発生しない。
 ということは、このような病気は患者側からこちらに向かって来てもらわなくてはならない。

 ではどうすればこういう病気がタイミングよくやってきてくれるのか?

 答えは、いのちには危険が早晩ない患者たちをどんどん治療するという方法しかない。
 そこに行けば医療があると多くに人々に認識してもらい、そしてそこで治療を受けた患者たちが自らその話をしてうわさが広がり、徐々に徐々に、患者たちがそこを目指すようになる。

 たいしたことがない病気だと患者を拒否したりしてはいけない。
 1円の大切さを認識できない人間は、1万円を得ることは難しい。
 たいしたこともないと思える多くの患者たちこそが、大きな川の流れを作り、その流れに乗って重症の患者たちがやってくる。

 3日前、ラオスでお腹がパンパンになった1歳の子どもがやってきた。
 昨年、ラオスの1歳の腎臓がんを日本で治療を行ったが、そのことうわさを聞いたそうだ。
 どうやら、胆管か卵巣か?しっかり検査するまで、はっきりわからないがしっかりとした治療が必要になる。

 毎月、ラオスで続けている巡回診療。そして手術ミッション。
 その延長線上に、腎臓がんの子どもがいて、そのまた先にこの子どもがいた。
 この子以外にも、もう一人右目の周辺が大きく腫大した1歳の子どももやってきた。

 人生も同じかもしれない。
 日々の些細なことをしっかりこなすことが、大きな成果を生み出すのだと思う。
 そういう意味では、毎日の一つ一つの事柄を大切に扱っていく心がけは必要だと思う。
# by japanheart | 2015-02-08 13:17 | 活動記録 | Comments(0)

子どもの前で

子どもの前で

 先日面白い記事をどこかで読んだ。
 子どもを部屋に入れて、ひとつ飴を箱から取らせる実験。
 子どもには1つだけ取っていいというルールにしておく。

 その部屋の子どもの前に鏡を置いた場合と、そのまま何も置かなかった場合。どのような差が生まれるか?

 鏡をおかずに取らせた場合は2つ以上の飴を黙って取った子どもたちが多かったそうだ。
 鏡を置いた場合は、10人に一人も多くは取らなかったとか。

 この記事を読んで私は、子どもにとっての鏡とはなんだろうかと考えてしまった。

 真っ先に、思い浮かんだのはやはり鏡とは親だということだ。
 親が、年寄りに席を譲ることを普通にできれば、子どももそれが普通になる。
 親が、汚いことをすれば子どももその価値を許容するようになる。
 難しいことにこの鏡は表と裏があって、たとえば、他人に冷淡な人間が親だとすると、子どもはほとんど同じような冷淡な人間になるか、その親を軽蔑して生きるがゆえに、過度に親切な人間になるか、どちらかだろう。
 いずれにしろ子は親の正と負というか、表と裏いうか、そんな感じに育ってゆく。
 それがまた、両親の影響が何割ずつ混ざり合うかによって微妙な感じになっていくと思う。

しかしながら、やはり親ができる方法というのはただひとつ正しい姿を見せるしかない。
親も人間だから、いつもそうする必要は全くない。子どもの前だけで十分だと思うが、立派な父親母親を演じる。演じる必要がある。さりげなく、さりげなく。

 人間は善はコントロールできても悪はコントロールできない。
 だから悪い親を演じて、子どもをよい人間にする方法を望まないほうがいい。
 なぜなら、その子どもはその過程で深く傷ついてしまうからだ。
 その傷ついた自分を癒すために、他人を癒すようになる。
 逆に、悪い親を持つ多くの子どもは、他人を傷つけることによって自分を守ろうとする。しかし、傷つけた他人はやがて自分を傷つけに来る。

 子どもがずるいことをしたり、うそをついたりしたら怒る前に、本当はしまった!と思わないとだめ。
 自分のそういう部分をそういう部分を子どもは拡大再生産しているだろうと思う。

そういえば先日、大学入試のセンター試験があったが、多くの親たちが子どもの成績がよくないとがっかりしている。
 大体、何になりたいかもはっきりしない高校生にあれになれこれになれと親が言うのはいかがなものかと。
 子どもが自分が勉強したいといったから中学から私立に行かした親も多いが、これは根本的に親が勘違いしていると思う。
 小学校の子どのどれくらいが本当に勉強が楽しく好きで進学を希望していると思っているのだろう?
 なぜ、子どもたちが勉強して進学を望むかといえば、理由は明白で、親が言うように将来のためなんかではない。大体、そんなこと実感を持って10歳そこそこの子どもが理解するわけがない。
 じゃ、何が子どもたちが進学を望んだ理由かというと、、、。
 親が喜ぶから。これに決まっている。
 子どもたちは親のために進学している。
 長い時間をかけて子どもは親の気持ちや志向を理解し、自らも知らず知らずのうちに親の期待に応えようとする。
 いじらしいじゃない。
 だから悪い点数をとっても、子どもを罵倒したり否定したりしてはいけない。
 私たち親のためにがんばってくれてありがとう!と言わなければ。

 やっぱり、親は子どもの鏡なんだ。
 だからこういう受験は鏡の中の自分(親)が先に笑って、それに合わせて実際の自分(子ども)が笑うような違和感がある。

 もうそろそろ既存の成功モデルが崩れていっているのだから、いろいろな希望を子どもとじっくり話し合って相談したらどうだろう?

 私も子育てしていて反省させられることも多いがなるべく立派な父親を演じようとしている。

 
 
# by japanheart | 2015-01-30 10:54 | 活動記録 | Comments(2)

ラオスの少女

ラオスの少女

 約5ヶ月の及ぶ小児腎臓がんの少女が岡山での治療を終え、先日帰国した。
 日本へ治療に来る前は、状態が悪く、もう間に合わないかも知れないと焦ったが、結果的に何とか間に合ってくれた。
 腎臓の腫瘍が大きくなり、消化管を圧迫し通過障害を起こし、ミルクや食物を食べれば吐くの繰り返し。
 親は状態があまり良くないとは理解はしていてもそれほど危機的は状態とは理解していない。
 明るい顔して笑顔も見れるが、こっちはいつ急変するかとヤキモキしている。

 当初の予定を前倒しして何とか日本へ駆け込んだ。
 
 国立病院機構の青山先生や中原先生に大変お世話になりながら、手術と抗がん剤治療、放射線治療を完結できた。
 国立病院の関係者各位には本当にいつも感謝している。
 
 青山先生は10年以上前に私が大学で講師をしていた頃の教授だったし、中原先生は同僚だった。
 今もってつくづく、人間関係の大切さを実感させられる。
 
 しかしながらいつも思うのは、この子どもを助けるために幾人の人間の協力を受けたことだろう。
 人間は知らない間に多くの人たちに助けられて生きている。
 しかしながら、そうやって受けた恩などにはつゆぞ思い至らず、自分が他人に対してしてやったことばかりを覚えていたり、自慢したりする。
 大体、おぎゃーと生まれたときから親をはじめどれほど他人に助けられたことか。
 こういう事実を忘れちゃいけない。
 
 医者の世界だって、技術を習う時間はたった数年かもしれないが、後進に教える期間は何十年とある。
 看護師だって同じ。
 どこの世界だって同じ。
 それくらい社会に対する恩返しにはかかるのだ。
 これは天の仕組みだ。
 受け取れば、きっちり利子を取られる。
 与えればきっちり利子を与えてくれる。
 後進に教えない人、めんどくさがる人がいるが、こういう人を恩知らずな人という。

 このラオスの少女もやがて誰に助けれらたか忘れるだろう。
 しかしそれはそれですばらしいことだ。
 この子を助けることに参加した人たちは、それぞれに皆幸せを何らかの形で受け取っている。

 この子に関わる中で私たちは、人というのはこのように多くの人に支えられ、助けられて生きている存在なのだと知り、日々感謝の心を失わないことを知るべきだ。
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      (ラオスへ帰国後の子ども)

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# by japanheart | 2015-01-23 06:09 | 活動記録 | Comments(0)
また死にかけたじゃないか


 クリスマスの頃、それはイブの夜だった。
 私は日本から素敵な恋人たちの大切な日に毎年空中移動をすることにしている。
 今年もまた、ミャンマーへ向かう。
 夜ようやくジャパンハートの宿舎けんオフィスに着くと、1人の子どもがジャパンハートの看護師に付き添われて待っていた。
 今日昼頃よりお腹が痛くて苦しんでいるという。

 お腹を触ると少し塊が振れる。
 医療機器がここにおいてあるわけではないので、触ることしかできないが、いくつかの病気を頭に思い浮かべながら子どもを診察し、一度、浣腸をしてみた。

 あまりよくならない。

 その後点滴を採り、経口のものは全て控え、朝まで様子を見た。
 あまりよくならない。
 
 子どもの唇を見ると色調の変化があり、ある疾患が思い浮かぶ。
 遺伝性の病気で腸にポリープができる病気だ。
 このせいで、腸閉塞に陥っているのではないかと考えた。
 私たちの医療活動地はそこから600KMは離れているので、はい、今すぐなどと簡単にそこまで運んで入院させるわけには行かない。

 朝になって私はそのまま手術のために活動地に飛行機で向かう。
子どもはそのままヤンゴン市内の病院で検査を受け、そのまま入院になるだろうなと予想をしながら受診指示をして出発した。

 その日の夕方、ヤンゴンから電話が入り、超音波で腸閉塞ですという診断ですという。
 予想通り、例の病気による腸閉塞。
 すぐに手術の準備に入っていると思いきや、入院はしなかったという。
 診断してそれだけだった、、、。

 やばいと思った。
 多分、早くしないとえらい事になる。死ぬかもしれないと。
 しかし、ミャンマーの病院では日本のように一大事、すなわち死にかけているような局面なら分からないが、そうでもない患者を緊急手術をしてくれるような病院はほとんどない。特に夜には絶望的だ。
 特に内臓の病気は画像診断が止まるので翌朝まで確実に待たされる。っていうか翌夕方までかな。
 最低、今運よくヤンゴン市内の病院に入院しても、手術はだいぶ待たされそうである。下手したら1日や2日は待たされる。

 とっさに、できればそのままバスのチケットを取って600キロ離れた活動病院まで12時間かかるが送ることは可能かと聞いた。
 何とかぎりぎりバスのチケットが確保できて、翌朝到着。

 既に腸は破れたようで、お腹はパンパンになっている。
 全身状態もよろしくない。。。
 遅かったか!と思いながらも緊急手術。腸管壊死・腹膜炎から、ショックになっている。
 とりあえず、長時間の手術に耐えうる余力もない感じなので、腐ったり血流不全になっている腸管を1メートル以上切除して、人工肛門を造って今は救命を図る。
 術後も一晩中、脈拍は160回/分という状態だった。

 運よくというか、本当に運よく、その後、徐々に回復していく。

 ヤンゴンにあのまま置いていたら死んでいた!と思うとぞっとする。

 この子は強運の持ち主かも。
 私が帰国するその日に腹痛を起こしたこと。1日でもずれていたら、多分ダメだった。
 すぐにバスで搬送をすると決断できたこと、そしてバスのチケットが手に入ったこと。
 
 今は少しづつ、食事も採れて落ち着き始めている。
 やれやれ。
 
 今年も、サンタ並みに忙しく、ありがたいクリスマスのその日を天は私に与えてくれた。
 その生きるか死ぬか分からない危機的な手術日に実は一つお願いしたというか、イメージしたことがあって、それは術後まる3日目のその日に、この子の笑顔を見てやろうと。

 で、3日後、部屋に見に行ったら一瞬ほんの少し笑った、、ような気がした、、多分。

 それはまるで神様に微笑まれた気がしないでもない。e0046467_15555756.jpg

 
 
 
 
 
 

 
# by japanheart | 2015-01-12 15:56 | 活動記録 | Comments(1)

どうしたものかと思う

どうしたものかと思う

 どこの国にいても助けられない子どもたちはいる。
 ジャパンハートではスマイル・すまいるプロジェクトというがんの子どもたちを対象とした企画をやっているんだけど、いくつもの依頼がやってくる。中には生命の危険水域に入ってしまった子どもたちもいて、これはもう厳しいかも?と親なり主治医なりが判断して連絡が来ることが多い。
 なんとも無力感にさいなまれるのは親も医療者も同じだろう。
 日本にいてもこんな感じだから、途上国ではもっと厳しく、戦う前から勝負あったという感じの子どもたちに会うことになる。

 先日ラオスから10歳の背中の腫瘍の子どもの連絡が来て、自分で診るまでそりゃはっきり分からないけど、下半身は麻痺に陥っているらしい。
 ラオスの大きな病院で手術を受けてから、麻痺になったようだ。
 次に、ベトナムまで連れて行き検査入院。生検して、しこたまお金取られて何も説明されず返ってきた。
 麻痺はどうも、腫瘍の浸潤によるものらしい。
 この時点で、既にあきらめの心境になる。
 中途半端な抗がん剤だの、大掛かりな手術などはかえって命をちじめるだけなので、近い将来そっとこのまま看取ることになりそうな気がする。

 こうやって何度もこのような子どもたちに会ってきた。
 日本で医者やているときは、がんで子どもを亡くすと散々殴り合って負けた感があった。
 こちらでは、戦う前から負ける試合に挑むような虚無的な感がある。

 こういう子どもたちをもう少し救えるようにならないかとがんばっているが、どこまで行っても全ての子どもたちを救うことはできないのだろうということも何となくわかっている。

 どうして子どもが死ぬことはこんなに悲しいのだろうか?
 人間付き合いが長ければ長いほど本当は情が移って悲しくなるはずなのに、幼いというだけでたくさんの時間を共有していなくても悲しくなるのはなぜ?

 きっと遺伝子の中に何かその理由が刻まれているのかもしれない。
 

 今年よりは少しだけでも世の中の病気の子どもたちのためになるような2015年にしたい。

 
# by japanheart | 2014-12-30 08:12 | 活動記録 | Comments(0)
学校教育は本当に役に立った??

 吉田松陰は講孟箚記のなかで、勉学というのは官職を得るためにやるべきではなく、おおよそ人の道として学ぶべしと言っている。

 先日の学校教育は必要かという記事が転載され、おおよそ批判的なコメントが寄せられていたが、それでも私の意見は変らない。
 小学校・中学校までの教育はまだしも、高校教育は今の形で全ての人には必要ないと考える。
 自分は役に立ったという人はいるかもしれないが、10%くらいの人にしか直接は役に立っていないと思う。
何度もいうが、直接、役に立っていないということ。

 そもそも、、何で学校で勉強するんですか?
 何で塾に通わせるんですか??
 
 学生に聞いてみてほしい。
 松蔭のように、人として必要だからという子どもがどのくらいいますか??
 松蔭が嘆いたように、いい学校に入るため、いい就職をするため、いい会社に入るため。
 そう応える子どもが多いでしょ。
 根本がおかしくない?
 それって手段じゃん。
 
 もっと勉強しておけばよかったという人の本意は何ですか?
 人として、それが大切だからですか?それとももっといい学校へ入るためですか?
 本当に大切で役に立ったという、あるいは役にたつというならば、なぜ今からでもはじめないのですか?
 なぜ、役に立つことを分かっていながら今も継続していないのですか??
 大人たちがそんな調子だから、子どもたちに見透かされているんだと思う。
 それを役立てているような大人の数が少なすぎて、自分には関係ないと思われている。
 本当は役に立っていないでしょ!って。

 私は役に立ちますかと聞かれて、ほとんど直接には役に立ちませんと答えたけど、勉強しないでいいとはいっていないんだよね。
 今ある教育の形が、正しいなんて思っていること自体が違和感を感じるわけで。
 学校で学べないような大切な事柄はいくらでも外で学べるし、学びたくもない、携帯したり、寝ていたり、ゲームしたりしているような子どもをどうするのっていう話で。そんな子どもを中高大合わせて10年も机の前に座らせますか??っていう話ですよ。

 そんなことに10年も使ってるくらいであればもっと違う形の教育方法を考えたほうがいいと思う。
ほとんどの人が平方根とか素数とか知って、自分の人生が豊かになるかな?
小中の教育のうちに勉強に興味があるのか、数学に興味があるのか、歴史に興味があるのか見極めて、あれば続けてやればいいし、嫌ならばやめるという選択肢も与えるべきで、その代わりになにをするかという選択しだけど。

 人生は無駄なことはないから、そりゃ今の教育でも何がしかの学びはあるけど、それを別に今の教育の内容に全ての人が一律に求めなくてもいいのじゃない。
 そういう学びは違う形で得ることはできないのかな??

 数学に少しは興味ある人間は、それをやり続けれる環境は大切だけども。
 ホント多くの人は、研究者になるわけでも、大企業に勤めるわけでもない。
 主婦であったり、レジを打っていたり、町工場で働いていたり。
 そんなに高等の学問を、無理やり詰め込む必要あるかな。

 ちなみに大学入試をこの世から消してみたらいい。
 どのくらいの子どもたちが本気で今ほどに勉強し、その親がどのくらい子どもの教育に投資するか?
 本当に大切だと思っているんだったら、大人たちが説得し、今と同じだけ子どもにお金を使い塾に通わせてみるかな?

 教師たちも気の毒に思う。
 受験のための教育だと思えば、そりゃ力は入らないわ、、。
 
 化学元素記号全て忘れたな。
 数学のsin/cosってあったな、、。
 ドップラー効果ってあったな。
 政経や倫理やったな、ほとんど忘れたけど。
 信長が楽市楽座を始めたな。中身忘れたけど。
 
 でも、まあ、いいか。
 
 ウキペディア(Wikipedia)みれば書いてあるから。
 数秒で分かるからね。
 

 
 
# by japanheart | 2014-12-24 10:42 | 基本 | Comments(0)

学校教育は役に立つ?

学校教育は役に立つ?


 「学校教育は役に立つ?んですか?」という質問を先日の高校での講演会のとき、ある生徒から受けた。
 うちの妻もその時にたまたま一緒にいて、そのときの私の回答をFACEBOOKに投稿したところ、コメントが結構、あったらしい。

 そこでこの件につき、改めて私見を述べてみたい。

 私の回答はなんだったかというと、
  「はい、ほとんどの人にとっては役に立ちません!」
 というものだった。

 少なくとも、中学・高校の勉強に関しては私はこう考えているということだ。

 妻のFBのコメントを見る限り、色々な考え方はあるにしても、ここが大切なんだけど、
 
 1)直接的には役に立たない。
 2)それを嫌嫌何年もやっているよりはもっと学んだほうがいいことは世の中にはたくさんある。

 間接的には学問に興味を持ったとか、学ぶ面白さを知ったとか、根性がついたとか、まあいろいろあるけど、しかし、
 使わないでしょ!物理や化学使います?
 数学の公式使います?
 一生のうちに、2度、直角三角形の面積の公式使って、それって元取ってるかな?
 物体の摩擦係数とか、落下加速度とか、興味あるかな、普通の会社員が。
 せいぜい、語学や国語は大切だとしても、そのほとんどはね。
 やっぱり役に立たないよね、直接は。
 ああいう高等学問が、国力の上昇させるという目的を結果として本当に反映しているんだろうか?
 せいぜい、小学生の頃の勉強で間に合うように思うんだけど。

 確かに、いつでも学びたくなったときに何でも学べる環境は必要だけど、食べたくもないものを口あけて食べさせるような
 明治の富国強兵目的に始まった現在の教育システムは、既におかしいのじゃないかな?
 それを、全ての先進国でやっているわけで、そういうシステムを引きずっている限り、まあ、日本は欧米のコンプレックスからは抜け出せないな。
 今の学問のほとんどは、彼らの文化から出ているわけだから、今だに彼らが有利じゃない???
 
 昔は都会では寺子屋で基礎学問を教え、商人や職人として生きた人も多かったからね。学問レベルは低くてもそれはそれで十分成立していたと思う。
 いい大学を出なくては、高い給料をもらえなくするから、逆説的にほとんどの人には役に立たない学問の価値が上がっている。
  
 尺度なんだよね。
 学問する本人のためではなく、社会が選択するために、国がある基準で選択するために、ものすごいお金を使って競争をさせている感じは否めないよね。
 勝ち残った人は記憶力も思考体系も忍耐力もまあ、優秀な人ということで。
 それはそれである程度正解なんだけど。
 
 ところが社会に出て分かったことは、人間というのは”きっかけ”なんだということなんだ。
 ちょっとした”きっかけ”で、もちろん自分に興味あるとか得意分野であるとかという環境が必要である場合も多いけど、あっという間に記憶力や忍耐力をはじめ
 すごい能力を発揮するするのをこう何度も見せつけられると、学問だけで優劣をつけるのはいかがなものかと思うようになる。
 
 ところが、この人はそれくらいの能力を示しているのでまた何がしかの学問的な課題を与えると、これが全く勉強もせず、元の学生時代のようなレベルになってしまう。
 
 学問で人間力を測るというのは、一つの尺度に過ぎないから、もっと多くの切り口を社会は用意する必要が絶対にある。
 これは日本が生き残っていくために最も大切な多様性を獲得するということだ。
 色々な能力を評価する社会にいち早く移行できた先進国だけが次の時代にのし上がる。
 アメリカはどうだろうか??
 あそこは良さそうでダメだと思う。
 戦争に負けてない悲劇がそういう形で出てくると思う。
 人種問題、銃の問題、独占の問題、超学歴社会、、、。
 まあ、アメリカの時代は既に遠い昔になる。

 そういう意味では、日本は楽しみなんだけど、学校の学問なんかなんの役に立つんですか?
 と、子どもたちに質問されて、ああだ!こうだ!と色々、もっともらしい、大人らしいことを言う大人たちがたくさんいるうちは、変らないだろうな。

 その講演会で、最後に私はこう付け加えました。
 「しかし、これは社会が決めたルールだ。参加者にルールは変えられない。だから役に立たないからこそ、つべこべ言わずに、一気に集中してこんなものいち早くやり遂げて、なるべく早い時間でこんな期間終わらせるべきなんだ。」


 

 
# by japanheart | 2014-12-14 11:43 | 基本 | Comments(0)

チャンスを生かす

チャンスを生かす

 今日も大阪の中学・高校生相手に講演をしたんだけど、 
私がいつも厄介だと思うのは学校での講演会。
 特に中学・高校はいつも厄介だと感じる。

 理由は明白で、自らの意思で聞きに行く普通の講演会とは違い、半強制的に椅子に座らされ聞かされる。
 今時の学生は与えられることになれていて、与えられるのが当たり前で、しかも受け取りたがらないからだ。
 子どもたちは、おそらくお腹一杯なのだと思う。
 生まれたときから親や世の中が至れり尽くせりで、そんなお腹一杯の子供たちに、何かを食べさせようとしても、食べようとしないし、食べてもおいしくない。

 だけど大人たち、教師たちは、子どもたちの将来のためにそれを食べておけという。

 ここで白羽の矢が運悪く私にたち、講演会で話すことになる。

 どこの大学の授業でも同じなのかもしれないが、全く世の中や異性のこと以外に興味を示さない人たちもいる。だから、寝ていたり、別のことをしていたりする学生も多い。

 これいつも言うんだけど、はっきり言って、私は聞いていなくても寝ていてもどうでもいい。
 聞きたくない人は聞かなくてもいいと、本気で思う。

 だから若い頃から人生に冷めてそこで寝ていろ!と思っている。
 どうせ自分がやってしまった責任は自分でとらされることになる。
 いい出会いや経験を拒否しておいて、まさか将来、自分がほしいときだけそれが訪れると思っているわけはないだろう??
 神様がそんな人間にいい出会いをくれると思う?

 しかしながらいつも思うのは、だからといって、別の場所に行けばいつもいつも自分の都合のいい場所や時間があるわけではないということだ。
 どこに行っても、目の前にある時間こそが、自分の人生であり、かけがえのない自分の時間なのだ。

 2時間そこにいやいや存在しているだけで、2時間自分の人生を失ったことになる。
 おめでとう!
 時間は何よりも大切だとやがて分かることだろう。

 人生とはこういう時間の連続でしかない。
 
 1000メートルの山に登ると考えてほしい。
 同じ1000メートルの山を登るのに、誰かに無理やり登らされてみてほしい。
 おそらく彼方は、登り続けている間中、その人間を恨み、文句をいい、景色なんぞ目に入らず、鳥のさえずりも、川のせせらぎも、心地よい風ですら、感じることができないだろう、きっと。

 でも、その1000メートルは絶対にあなたの義務なのだ。
 嫌でも登らないといけない。
 だったら、人に登らされず、自らの意思で登り始めることだ。
 自らの意思で登れば、誰も恨まず、文句も言わず、景色を楽しみ、風を感じることもできる。

 どちらを選ぶかはあなた次第だ。

 講演会の時間だって、同じなんだ。
 どうせ2時間以上、そこに座ってないといけない。
 だったら聞かされるのではなく、聞くのだ。
 自らの意思で、聞こうとするのだ。
 そういう時間を過ごすことを、時間を大切にするという。

 人生はこの連続だから。

 冷めた生き方の人間に自らの人生は微笑んではくれない。
 あなたたちがその冷めた目で見ているその景色は、あなたの人生そのものだと気付くことだ。
 他人を冷めた目で見ているのではない、見えているのは自分の人生そのものなのだと自覚することだ。

 私が小学校の6年の頃,音楽の授業で、打楽器の指導があった。
全員が椅子に座り取り囲む輪の中で、誰かが代表で弾いていた。
 教師が注意し指導する。このように叩き、このように弾くのだと。
 そのとき、数人が席を立ちそばにより、それをみていた。
 私を含め多くの生徒は席に座ったまま、遠くからその景色を眺めていた。
 その時、教師がこう言ったのだ。
 そこに座って眺めている人間は、絶対に上手くなどならない!

 何でも冷めて眺めてはいけない。反発してもいい。しかし冷めてはいけない。
 自分から関わるのだ。
 自分の人生に自分から関わるのだ。

 自分の人生はどこにある?

 人生とはあなたの今、目の前にあるそれのことだ。
 
# by japanheart | 2014-12-10 02:10 | 講演会 | Comments(0)