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ジャパンハートの代表。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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上を見るな!下を見ろ!

上を見るな!下を見ろ!


世の中にはすごい人間は五万といる。
私も若い世代には特にチャレンジしなけりゃ将来やばいよ的な話もよくする。
マジで日本社会ほどぬるい社会は最近私はあまり見ていないような気がする。
良くぞここまでこういう社会を作り上げることができたなとむしろ感心する。

私がいるミャンマーでは雨季になると数年に一度は川が氾濫し家も土地も全てが川のそこに消えてしまう。
そうすると農民たちは何かが川から這い出してきたように水かさの上昇に合わせて上に上にと
高いところに家畜と共に簡易の住処を移動させながら高い土手の斜面に小屋を構え、飯を炊き、
挙句には、商売を始めそれはもうたくましく生きている。
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政府からの助けなど端から期待していない。だからそういう環境であっても笑いが絶えず、嘆いている人はほとんどいない。
一方、ある時、ある日本の地方が洪水になり地方の体育館で過ごす、第二次世界大戦を経験した大変な時期を過ごしたはずの日本のお年寄りがインタビューに答えて曰く「もう丸1日もテレビも移らないので不安で仕方ないです。」
日本はこの70年、何て安全ないい国をつくってきたんだろうと感心してしまう。
そして今や、こんなにもぬるい世の中を実現してしまった。
まあ、日本以外のアジアの国々との比較だけれども。もちろんアメリカももっと厳しいでしょ。

そんなぬるい社会で若者に向かってがんばれ!上を目指せ!といってもなんとなく暖簾に腕押しになってしまう。
ホントはがんばらないと日本の失速と共に自分の相対的な位置も落ち始めて果てはどんどん色んな意味で貧しくなっていくのだが。
日本人はある東アジアや東南アジアの国の人間を指して素行が悪い、行儀が悪いと馬鹿にするが、
その人たちのほうが将来、収入も地位も上になってしまう。そうするとどちらが社会から重宝されるのか考えてみるとなんとなく情けなくならないのかな?

そんな若者に私からアドバイスをしてみたい。
そんな若者にあえてこう言おう!
「上を見るな!下を見ろ!!」

そう、すごいやつなんて目標にしたらいつまでたっても動けない。だろ?
すごいやつはいつの日か射程に捕らえるとして、今は敢えて、「下のやつを見ろ!」と言いたい。

人間誰でもこいつにできるんだったら自分にもできるんじゃないかと思う他人がいるはずだ。
こんなしょぼい人間にこんなことができて自分にできないはずはない、と思える人間を探してみてはどう?
本当はそいつは、かつてのそいつではなくて今やすごい人間かもしれないが、あなたが見るべきはかつてのしょぼかったそいつのイメージだ。
こいつにできて自分にできないわけがないと、自分に言い聞かせとにかくその人間と同じレベルくらいのことにチャレンジしてしまう。
現実は厳しく、そんなに人生甘くはないが、そのチャレンジのうち1つ、上手くいくだけで人生が動き始める。
とにかくきっかけだ。
人生はきっかけが全てなのだ。

とにかく人生にフックを掛けろ!

私はよく子どもの頃を思い出せばいいという。
例えば、今、医者でも世間でもてはやされている人間たちの子どもの頃を、一度みんなでのぞきに行きたいものだ。
きっと今は結構、威張っているが子どもの頃は、運動ができなかったり、気が弱かったり、影が薄かった人間が結構いると思う。
その人間たちがなぜ今や、こんなに自信に満ち、威張っているのかを考えてみたらどうだろう。
彼らにもきっとしょぼかった自分から今の自分へのターニングポイントがあるはずだ。
そのポイントはほとんどの場合、ちょっとしたきっかけなのだ。
少しほめられたとか、たまたま上手くいったとか、その程度のものだ。
生まれてからずっとすごい人間なんて一体、何パーセントいると思う。
たいていの人間は、何かのきっかけでのし上がってきているだけでしょ。

だとすると今の自分を変えるのはきっかけをどうゲットできるかにかかっている。

高い山を登るには方法は二つある。
1つは、低い山を乗り越えて体力を徐々に付けて高い山に挑んでいくやり方。
2つ目は、いきなり高い山に登り、挫折して、己を知って、そしてそこを目標に日日努力して行くやり方。

私は2つ目のやり方を好むが、それをできない人は、1つ目のやり方で行くしかない。

まずは低い山を選べ。
とにかく低い山を失敗しても、次から次へと登っていくやり方がいい。

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やがて人生にフックがかかる瞬間が訪れる。
その瞬間に、2つ目のやり方に切り替えてみるのもいい。

ところで、もうひとつアドバイスがある。
それは人生は目標を目指してそれを手に入れるよりも、失敗しようが成功しようが、もしかしたらその過程で手に入れるものの方がもしかしたら価値がある、
ということだ。
これを私は、副作用の法則と呼んでいる。

プロ野球の選手を目指して努力する(目標=主作用)。結果、プロ野球の選手になれなかったとする。即ち失敗だ。
しかし、その過程で得たもの(=副作用)はなんだろう?
努力する価値。人並み以上の体力と忍耐力。挫折を味わった人生観。すばらしい仲間たち。
野球のすばらしさの理解。得たものは、その他数え切れないほどあるに違いない。
実はこちらのほうが長い人生にとって価値があるかもしれないのだ。

そう、チャレンジするということは副作用の宝庫へのアクセスなのだ。






by japanheart | 2015-12-27 00:49 | 医者の本音 | Comments(0)

努力を発露させる

努力を発露させる


努力というものについて私見を述べてみたい。

前回の私のブログの才能の話は、「継続的努力は先天的才能を凌駕する」だった。

特に先天的な才能にはピークがあり、必ず時間の経過と共に衰弱していく性質がある。

後天的な努力によって目覚める才能はピークアウトせずに生涯成長する可能性がある。

だから継続的な努力によって時間をかけていけば、多くは生まれつきの才能の弱さなど克服できるのだ。

という話を書いた。


こういう書き方をすると、必ず、努力するのも才能がいるでしょ!という意見がある。

世の中には”ああ言えば、こう言う”タイプの人が多いが、結論からいうとこうだ。

努力に才能が必要と考えている人は、生涯、浮かばれない。


人間は呼吸が苦しくなれば、自然に呼吸数を増やす。

空腹になれば、これまた本気で食料を捜し求める。

人を好きになれば、その人の気を引くために必死になり、いつも意識を向けている。


自分さえその気になれば、いつでも努力は発露される。

そのための才能はほとんど全てに人に与えられている。

だから才能はほとんど関係ない。

努力をするために人間に必要なのは、体力、知力、そして感情のコントロール。

これらの才能は多かれ少なかれ全ての人に与えられている。

知力・体力が自分は少ないというならば、幼児は努力はできないことになる。

しかし、立派に努力する幼児たちを私たちはすぐに目撃できる。


その目的にあった体力や知力を少しづつ付けていけばいいのだ。

私は手術を24時間でもやることがある。

一方、いくら体力があるプロのアスリート、たとえば野球の選手が手術を24時間やれば疲れてぐったりする。

それ専門の体力を持っていないからだ。その逆も真なり。

知力・体力は積み重ねの延長線上に増強されてくる。


外科医として出来上がった私を見て、多くの人は私には才能があった。

医者という職業に私がいつも魅了され、外科医の手術にいつも情熱をもって向き合っていた。

だから続けることができたと考えるだろう。

その結果、今があるのだと。

しかし、それは誤解である。

私ははじめの頃、外科の手術に興味はなかったし、毎日深夜まで付き合わされる手術現場にウンザリしていた。

早く手術が終わらないだろうかといつも思っていた。

内科の研修をしているときも、その終了の日を指折り数えて待っていた。


そんな人間でも、いつも何とか自分の感情に折り合いをつけ、現状に妥協しながら来る日も来る日も医療現場に立ち続けた。

そして、今がある。


日日を振り返ると一生懸命にやった時期もある。

そんな時は、努力しているなどとは少しも思わなかった。子どもの様に、医療していることがただ楽しかった。そしておそらくそんな時期が一番医療者としても能力が伸びた時期だった。

大きくスランプに陥り、あるいは、やる気が全く失せ、とても人様に見せることができないような時期もあった。

こんな時期は、努力というに相応しい努力などできるはずもなく。惨めなものだった。


私の医者としての能力を認め、私は外科医としての才能に恵まれたのだと評価してくれる人々がたくさんいる。

絶え間ない努力を積み重ね、今の次元に立てたのだと思ってくれている。

しかし、正直な答えは”ノー”なのだ。


私はいつも、怠け者で手を抜きたがり、すぐに休みたがる。

自分に甘く、すぐに現状に妥協する。

そんな自分に何とか折り合いをつけながら、励ましながら、前に進み、継続してきたに過ぎない。


これを努力というのか?

こんなに妥協だらけの私に天は努力という才能を人より与えてくれいているか?


私はそんな怠け者の自分を能動的に動かせないから、他人に動かしてもらおうと、いつもそういう環境に自分を移してやってきた。




やる気がおきない。

すぐに飽きる。

長く続かない。

挙句に、才能がないからできない、続かない。


「では、そこで一生、停滞していて下さい。」としか私には言えない。


 

 

自分が理屈をつけて今いる場所から一向に動かないから知らぬ間に目に見えない糸が自分を取り巻く空間にも、時間軸にも張り付いて人生が時空に固定されていく。

 そしてその動けなくなった自分が評論家のうような顔をしてこう呟くのだ。

 「努力するのにも才能が必要だ。」


 飢餓になれば、人は必死に食べ物を求める。朝から晩まで探し続ける。

 クタクタになり一日を終わることだろう。

 そして次の日も、その次の日も、食べ物を探す。飽きもせず生きている限りはずっと探すことだろう。

 それを努力しているというか?

 才能がないから、探せないといって動かずにそこで死ねるのか?

本気の努力とは本来そんなものだ。理屈でするものではないのだ。

 だから、理屈で、才能だの、やる気だのと自分の安全圏から言っている間は永遠に発露しない。

 

 こんなぬるい社会にいて、安全な場所に存在しているからそういう思考になる。


 今後この社会がもっと殺伐とし、やがて自分が安全な場所にはいないと悟ったときに、その人たちの努力は自然に始まるだろう。

 自分の存在が、何らかの形で脅かされたときに、”努力を!”などと意識せずともアタリマエにそう行動しているだろう。

 それまで、今いる場所で糸に絡まれながらじっとしていればいい。


 でも、もし、あなたが少しでもその糸を緩めたいと思うならば、あなたは取るべき行動は明確だ。

 外敵がいる場所に移動すればいい。

 あなたにとって居心地が少しは悪い場所に移ればいい。

 経験したこともない場所に移動すればいい。

 

 少なくとも私はそうして、いやでも他人に私の中の生きる気力を刺激してもらってやってきた。

 やる気がなれば、文句を言われる。

 長続きしなければ、怒られる。

 それでもなかなか逃げられない場所に自分を自らの手で持ていくしかない。


 あとは私のようにのらりくらりと何とか自分と折り合いを付けながら、時間をかけて継続した先にきっとあなたの陽のあたる場所がある。



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by japanheart | 2015-12-05 05:26 | 医者の本音 | Comments(0)