特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

<   2014年 12月 ( 5 )   > この月の画像一覧

どうしたものかと思う

どうしたものかと思う

 どこの国にいても助けられない子どもたちはいる。
 ジャパンハートではスマイル・すまいるプロジェクトというがんの子どもたちを対象とした企画をやっているんだけど、いくつもの依頼がやってくる。中には生命の危険水域に入ってしまった子どもたちもいて、これはもう厳しいかも?と親なり主治医なりが判断して連絡が来ることが多い。
 なんとも無力感にさいなまれるのは親も医療者も同じだろう。
 日本にいてもこんな感じだから、途上国ではもっと厳しく、戦う前から勝負あったという感じの子どもたちに会うことになる。

 先日ラオスから10歳の背中の腫瘍の子どもの連絡が来て、自分で診るまでそりゃはっきり分からないけど、下半身は麻痺に陥っているらしい。
 ラオスの大きな病院で手術を受けてから、麻痺になったようだ。
 次に、ベトナムまで連れて行き検査入院。生検して、しこたまお金取られて何も説明されず返ってきた。
 麻痺はどうも、腫瘍の浸潤によるものらしい。
 この時点で、既にあきらめの心境になる。
 中途半端な抗がん剤だの、大掛かりな手術などはかえって命をちじめるだけなので、近い将来そっとこのまま看取ることになりそうな気がする。

 こうやって何度もこのような子どもたちに会ってきた。
 日本で医者やているときは、がんで子どもを亡くすと散々殴り合って負けた感があった。
 こちらでは、戦う前から負ける試合に挑むような虚無的な感がある。

 こういう子どもたちをもう少し救えるようにならないかとがんばっているが、どこまで行っても全ての子どもたちを救うことはできないのだろうということも何となくわかっている。

 どうして子どもが死ぬことはこんなに悲しいのだろうか?
 人間付き合いが長ければ長いほど本当は情が移って悲しくなるはずなのに、幼いというだけでたくさんの時間を共有していなくても悲しくなるのはなぜ?

 きっと遺伝子の中に何かその理由が刻まれているのかもしれない。
 

 今年よりは少しだけでも世の中の病気の子どもたちのためになるような2015年にしたい。

 
by japanheart | 2014-12-30 08:12 | 活動記録 | Comments(0)
学校教育は本当に役に立った??

 吉田松陰は講孟箚記のなかで、勉学というのは官職を得るためにやるべきではなく、おおよそ人の道として学ぶべしと言っている。

 先日の学校教育は必要かという記事が転載され、おおよそ批判的なコメントが寄せられていたが、それでも私の意見は変らない。
 小学校・中学校までの教育はまだしも、高校教育は今の形で全ての人には必要ないと考える。
 自分は役に立ったという人はいるかもしれないが、10%くらいの人にしか直接は役に立っていないと思う。
何度もいうが、直接、役に立っていないということ。

 そもそも、、何で学校で勉強するんですか?
 何で塾に通わせるんですか??
 
 学生に聞いてみてほしい。
 松蔭のように、人として必要だからという子どもがどのくらいいますか??
 松蔭が嘆いたように、いい学校に入るため、いい就職をするため、いい会社に入るため。
 そう応える子どもが多いでしょ。
 根本がおかしくない?
 それって手段じゃん。
 
 もっと勉強しておけばよかったという人の本意は何ですか?
 人として、それが大切だからですか?それとももっといい学校へ入るためですか?
 本当に大切で役に立ったという、あるいは役にたつというならば、なぜ今からでもはじめないのですか?
 なぜ、役に立つことを分かっていながら今も継続していないのですか??
 大人たちがそんな調子だから、子どもたちに見透かされているんだと思う。
 それを役立てているような大人の数が少なすぎて、自分には関係ないと思われている。
 本当は役に立っていないでしょ!って。

 私は役に立ちますかと聞かれて、ほとんど直接には役に立ちませんと答えたけど、勉強しないでいいとはいっていないんだよね。
 今ある教育の形が、正しいなんて思っていること自体が違和感を感じるわけで。
 学校で学べないような大切な事柄はいくらでも外で学べるし、学びたくもない、携帯したり、寝ていたり、ゲームしたりしているような子どもをどうするのっていう話で。そんな子どもを中高大合わせて10年も机の前に座らせますか??っていう話ですよ。

 そんなことに10年も使ってるくらいであればもっと違う形の教育方法を考えたほうがいいと思う。
ほとんどの人が平方根とか素数とか知って、自分の人生が豊かになるかな?
小中の教育のうちに勉強に興味があるのか、数学に興味があるのか、歴史に興味があるのか見極めて、あれば続けてやればいいし、嫌ならばやめるという選択肢も与えるべきで、その代わりになにをするかという選択しだけど。

 人生は無駄なことはないから、そりゃ今の教育でも何がしかの学びはあるけど、それを別に今の教育の内容に全ての人が一律に求めなくてもいいのじゃない。
 そういう学びは違う形で得ることはできないのかな??

 数学に少しは興味ある人間は、それをやり続けれる環境は大切だけども。
 ホント多くの人は、研究者になるわけでも、大企業に勤めるわけでもない。
 主婦であったり、レジを打っていたり、町工場で働いていたり。
 そんなに高等の学問を、無理やり詰め込む必要あるかな。

 ちなみに大学入試をこの世から消してみたらいい。
 どのくらいの子どもたちが本気で今ほどに勉強し、その親がどのくらい子どもの教育に投資するか?
 本当に大切だと思っているんだったら、大人たちが説得し、今と同じだけ子どもにお金を使い塾に通わせてみるかな?

 教師たちも気の毒に思う。
 受験のための教育だと思えば、そりゃ力は入らないわ、、。
 
 化学元素記号全て忘れたな。
 数学のsin/cosってあったな、、。
 ドップラー効果ってあったな。
 政経や倫理やったな、ほとんど忘れたけど。
 信長が楽市楽座を始めたな。中身忘れたけど。
 
 でも、まあ、いいか。
 
 ウキペディア(Wikipedia)みれば書いてあるから。
 数秒で分かるからね。
 

 
 
by japanheart | 2014-12-24 10:42 | 基本 | Comments(0)

学校教育は役に立つ?

学校教育は役に立つ?


 「学校教育は役に立つ?んですか?」という質問を先日の高校での講演会のとき、ある生徒から受けた。
 うちの妻もその時にたまたま一緒にいて、そのときの私の回答をFACEBOOKに投稿したところ、コメントが結構、あったらしい。

 そこでこの件につき、改めて私見を述べてみたい。

 私の回答はなんだったかというと、
  「はい、ほとんどの人にとっては役に立ちません!」
 というものだった。

 少なくとも、中学・高校の勉強に関しては私はこう考えているということだ。

 妻のFBのコメントを見る限り、色々な考え方はあるにしても、ここが大切なんだけど、
 
 1)直接的には役に立たない。
 2)それを嫌嫌何年もやっているよりはもっと学んだほうがいいことは世の中にはたくさんある。

 間接的には学問に興味を持ったとか、学ぶ面白さを知ったとか、根性がついたとか、まあいろいろあるけど、しかし、
 使わないでしょ!物理や化学使います?
 数学の公式使います?
 一生のうちに、2度、直角三角形の面積の公式使って、それって元取ってるかな?
 物体の摩擦係数とか、落下加速度とか、興味あるかな、普通の会社員が。
 せいぜい、語学や国語は大切だとしても、そのほとんどはね。
 やっぱり役に立たないよね、直接は。
 ああいう高等学問が、国力の上昇させるという目的を結果として本当に反映しているんだろうか?
 せいぜい、小学生の頃の勉強で間に合うように思うんだけど。

 確かに、いつでも学びたくなったときに何でも学べる環境は必要だけど、食べたくもないものを口あけて食べさせるような
 明治の富国強兵目的に始まった現在の教育システムは、既におかしいのじゃないかな?
 それを、全ての先進国でやっているわけで、そういうシステムを引きずっている限り、まあ、日本は欧米のコンプレックスからは抜け出せないな。
 今の学問のほとんどは、彼らの文化から出ているわけだから、今だに彼らが有利じゃない???
 
 昔は都会では寺子屋で基礎学問を教え、商人や職人として生きた人も多かったからね。学問レベルは低くてもそれはそれで十分成立していたと思う。
 いい大学を出なくては、高い給料をもらえなくするから、逆説的にほとんどの人には役に立たない学問の価値が上がっている。
  
 尺度なんだよね。
 学問する本人のためではなく、社会が選択するために、国がある基準で選択するために、ものすごいお金を使って競争をさせている感じは否めないよね。
 勝ち残った人は記憶力も思考体系も忍耐力もまあ、優秀な人ということで。
 それはそれである程度正解なんだけど。
 
 ところが社会に出て分かったことは、人間というのは”きっかけ”なんだということなんだ。
 ちょっとした”きっかけ”で、もちろん自分に興味あるとか得意分野であるとかという環境が必要である場合も多いけど、あっという間に記憶力や忍耐力をはじめ
 すごい能力を発揮するするのをこう何度も見せつけられると、学問だけで優劣をつけるのはいかがなものかと思うようになる。
 
 ところが、この人はそれくらいの能力を示しているのでまた何がしかの学問的な課題を与えると、これが全く勉強もせず、元の学生時代のようなレベルになってしまう。
 
 学問で人間力を測るというのは、一つの尺度に過ぎないから、もっと多くの切り口を社会は用意する必要が絶対にある。
 これは日本が生き残っていくために最も大切な多様性を獲得するということだ。
 色々な能力を評価する社会にいち早く移行できた先進国だけが次の時代にのし上がる。
 アメリカはどうだろうか??
 あそこは良さそうでダメだと思う。
 戦争に負けてない悲劇がそういう形で出てくると思う。
 人種問題、銃の問題、独占の問題、超学歴社会、、、。
 まあ、アメリカの時代は既に遠い昔になる。

 そういう意味では、日本は楽しみなんだけど、学校の学問なんかなんの役に立つんですか?
 と、子どもたちに質問されて、ああだ!こうだ!と色々、もっともらしい、大人らしいことを言う大人たちがたくさんいるうちは、変らないだろうな。

 その講演会で、最後に私はこう付け加えました。
 「しかし、これは社会が決めたルールだ。参加者にルールは変えられない。だから役に立たないからこそ、つべこべ言わずに、一気に集中してこんなものいち早くやり遂げて、なるべく早い時間でこんな期間終わらせるべきなんだ。」


 

 
by japanheart | 2014-12-14 11:43 | 基本 | Comments(0)

チャンスを生かす

チャンスを生かす

 今日も大阪の中学・高校生相手に講演をしたんだけど、 
私がいつも厄介だと思うのは学校での講演会。
 特に中学・高校はいつも厄介だと感じる。

 理由は明白で、自らの意思で聞きに行く普通の講演会とは違い、半強制的に椅子に座らされ聞かされる。
 今時の学生は与えられることになれていて、与えられるのが当たり前で、しかも受け取りたがらないからだ。
 子どもたちは、おそらくお腹一杯なのだと思う。
 生まれたときから親や世の中が至れり尽くせりで、そんなお腹一杯の子供たちに、何かを食べさせようとしても、食べようとしないし、食べてもおいしくない。

 だけど大人たち、教師たちは、子どもたちの将来のためにそれを食べておけという。

 ここで白羽の矢が運悪く私にたち、講演会で話すことになる。

 どこの大学の授業でも同じなのかもしれないが、全く世の中や異性のこと以外に興味を示さない人たちもいる。だから、寝ていたり、別のことをしていたりする学生も多い。

 これいつも言うんだけど、はっきり言って、私は聞いていなくても寝ていてもどうでもいい。
 聞きたくない人は聞かなくてもいいと、本気で思う。

 だから若い頃から人生に冷めてそこで寝ていろ!と思っている。
 どうせ自分がやってしまった責任は自分でとらされることになる。
 いい出会いや経験を拒否しておいて、まさか将来、自分がほしいときだけそれが訪れると思っているわけはないだろう??
 神様がそんな人間にいい出会いをくれると思う?

 しかしながらいつも思うのは、だからといって、別の場所に行けばいつもいつも自分の都合のいい場所や時間があるわけではないということだ。
 どこに行っても、目の前にある時間こそが、自分の人生であり、かけがえのない自分の時間なのだ。

 2時間そこにいやいや存在しているだけで、2時間自分の人生を失ったことになる。
 おめでとう!
 時間は何よりも大切だとやがて分かることだろう。

 人生とはこういう時間の連続でしかない。
 
 1000メートルの山に登ると考えてほしい。
 同じ1000メートルの山を登るのに、誰かに無理やり登らされてみてほしい。
 おそらく彼方は、登り続けている間中、その人間を恨み、文句をいい、景色なんぞ目に入らず、鳥のさえずりも、川のせせらぎも、心地よい風ですら、感じることができないだろう、きっと。

 でも、その1000メートルは絶対にあなたの義務なのだ。
 嫌でも登らないといけない。
 だったら、人に登らされず、自らの意思で登り始めることだ。
 自らの意思で登れば、誰も恨まず、文句も言わず、景色を楽しみ、風を感じることもできる。

 どちらを選ぶかはあなた次第だ。

 講演会の時間だって、同じなんだ。
 どうせ2時間以上、そこに座ってないといけない。
 だったら聞かされるのではなく、聞くのだ。
 自らの意思で、聞こうとするのだ。
 そういう時間を過ごすことを、時間を大切にするという。

 人生はこの連続だから。

 冷めた生き方の人間に自らの人生は微笑んではくれない。
 あなたたちがその冷めた目で見ているその景色は、あなたの人生そのものだと気付くことだ。
 他人を冷めた目で見ているのではない、見えているのは自分の人生そのものなのだと自覚することだ。

 私が小学校の6年の頃,音楽の授業で、打楽器の指導があった。
全員が椅子に座り取り囲む輪の中で、誰かが代表で弾いていた。
 教師が注意し指導する。このように叩き、このように弾くのだと。
 そのとき、数人が席を立ちそばにより、それをみていた。
 私を含め多くの生徒は席に座ったまま、遠くからその景色を眺めていた。
 その時、教師がこう言ったのだ。
 そこに座って眺めている人間は、絶対に上手くなどならない!

 何でも冷めて眺めてはいけない。反発してもいい。しかし冷めてはいけない。
 自分から関わるのだ。
 自分の人生に自分から関わるのだ。

 自分の人生はどこにある?

 人生とはあなたの今、目の前にあるそれのことだ。
 
by japanheart | 2014-12-10 02:10 | 講演会 | Comments(0)

アジアの中の日本へ

アジアの中の日本へ

 医療支援をするときにも、災害救援をするときでも、たとえ戦争をするときでさえ地政学上の優位性という概念を欠落させていると、組織の命運を失ってしまう。

 アフリカはヨーロッパから近く、南米はアメリカから近い、しかし日本からははるか遠くに位置する地域になる。
 だからおそらく日本からアフリカや南米を支援しようとすると、アジアに比べて何倍もの資金を必要とし、成果も思うように残せなくなってしまう。
 逆に、ヨーロッパの国々はアフリカを支援しやすく、アメリカは南米を支援しやすい。
 緊急支援ですらアジアならば翌日には支援を届けることができるが同じ資金を用意してもアフリカにはどのくらいに日数を必要とし、しかも到達できる援助どのくらいに目減りしてしまうのだろう?

 
 第二次大戦時、真珠湾攻撃を敢行した日本海軍は全く地政学上の常識を無視したものだったと思う。
 はじめからサイパンやフィリピンでアメリカ海軍を迎え撃っておけば日本はあんな惨めな結末はなかったと思う。

 戦争も支援も距離に比例して兵站は伸びきることになる。
 これは現在でもまだまだ変らない現実だと思う。

 だからアフリカや南米で支援を行っている組織の苦労は想像に余りあるし、本当にがんばってほしいと思う。
 逆に、アジアを拠点に支援をしている私たちは当たり前に、もっと多くの成果を残さなければ努力が足りないということにもなる。

 この夏も、秋も、そして冬を迎える今も日本からの医療スタッフはたくさん訪れミャンマーでは医療活動を50人体制で行うことができている。
 これがアフリカならば参加人数は10分の1 程度になる可能性が高い。

私の考えでは、日本はやはりアジアでしっかりと成果を残さなければならないのではないかと思う。
日本政府にはされども、アフリカや南米でがんばる日本人たちにもう少しサポートをお願いしたいと思う。

 国単位でみれば、アフリカや南米は将来は日本にとっては大切なパートナーになる国々が多くあり、将来の投資になるので。そんなことは政府の人間も分かりきっていると思うけど。

 今後も日本の誇りとなるような活動をさらに発展させていきたいと思っている。
 僕がやるんじゃなくて、これからもたくさんやって来るであろう日本の次世代の人たちが中心でやってもらいたい。

 私もいつまでもこんな激しい生活ができるわけないので、よろしくお願いします。
e0046467_15214131.jpg

 (日本から参加したボランティア医師・看護師たちと 2014年11月)
by japanheart | 2014-12-01 15:27 | 活動記録 | Comments(0)