ジャパンハートの代表。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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浜田省吾さんのコンサートに想う

 浜田さんがあまり宣伝もせず、ずっと続けていることがある。
 JSファウンデーションという財団。
 ここの代表が佐藤さん。とてもいい人だが、口は悪い。
 こんな人が昨今少なくなってきているので、貴重な存在であることには変わりない。

 その財団の財源はもちろんコンサート会場で寄付されるファンからの募金が主なものだ。
 はっきり言って、浜田省吾というミュージシャンは私の子どもの頃から活躍していた人だ。
 私が彼を知ったのは30年以上前のカップヌードルのコマーシャルの挿入歌からだが、中学生の頃、11PMという当時としては少し進んだ夜の番組があったがそこで司会のかわいい女の子が、「私、浜田省吾さんのファンで、、、」といったのをなぜか今でも記憶している。
  まあ、どうでもいい記憶だが。

 今回、初めてコンサートにお邪魔して驚いた。
 だって、声が昔と同じでまったくあのままだったからだ。
 30年前のあのままの声が聞こえるのだ。
 私の大学の頃は、彼の歌をよくカラオケでみんな歌っていた。
 隣の部屋の同級生の部屋からは、いつも浜田省吾の歌がスピーカーから聞こえていた。
 
 コンサート会場で、ファンのみんなに感謝を伝えるメッセージが彼から送られる。
 その声のトーンとリズムから、本当にこころから、この人はファンに感謝している、周りのスタッフにも感謝していると感じた。
 
 なぜそう感じたんだろうか?
 多分、私はミャンマーみたいな今の日本人にとってはまったくなじみのなかった、いわゆる地の果てで、誰からも知られることもなく細々と医療を自分の貯金だけではじめた。
 このお金が尽きるとき自分の行う医療も尽きる。
 しかし、私のことなどは誰も知らなければ、多分このまま世界から忘れ去られていくことだろうと何となく感じながら医療を行っていた。
 運命は、しかし、少しずつ私に微笑みかけてくれた。
 支援する人が、少しずつ現れてくれたのだ。
 初めのころ私を本気で支援してくれた人たちのことは決して忘れない。
 一人、一人と、本当に私と向き合ってくれた支援者やスタッフは、浜田さんのファンやスタッフと同じなのかもしれない。

 どんなミュージシャンだって、無名の時代もある。
 苦しい時期もある。
 それを乗り越えて今がある。
 それを乗り越えてこれたのは決して自分だけの力じゃないと彼はわかっていると思ったのだ。
 だからこその心からの感謝だった。

 JSファンデーションはジャパンハートをずっと支援してくれている。
 ありがたいことに。
 それでどれほどの子ども達が恩恵を受けたことだろう。既に数千人は恩恵を受けている。

 浜田さんの歌を本気で聞いているとき、横から百戦錬磨の佐藤さんが、聞こえにくい歓声の中でも私に向かってこう言った。
 「こうやって彼が体にいくつになっても鞭打って歌ってくれる。それでJSファンデーションがあるし、そのお金で多くの子供たちが助かっている!」

 う~ん、さすがに佐藤さん!
 しっかり押さえるところは押さえてくる。
 こういうプレッシャーを時々もらわないとお金のありがたみを失うから、私にもジャパンハートにも必要なことだ。

 コンサート後、楽屋でビールをどうぞと勧められて一緒に飲みながら、浜田さんと少し話をした。
 とてもいい感じの人だったな、、。
 少しして、スタッフがファンが出口で待っていますと言って来た。
 じゃ、ファンが待っていますので行きますと。やっぱりファンが最優先の人なのだ。
 
 硬い握手をして別れた。

 また、がんばって子ども達と向かい合わないといけなくなった。

 

 
 


 
 
by japanheart | 2013-07-24 23:40 | 医者の本音 | Comments(2)

寿命の話

寿命の話

 日本人の寿命は、この80年で約2倍になっている。
 昭和の10年頃の日本人の平均年齢は男子45歳、女子47歳程度だった。
 子どもがたくさん死んでいたに違いない。

 戦後の焼け野原から登場した戦後日本を再生してきた経営者達の多くは死ぬまで一筋、自ら興した会社の経営と発展に生涯を捧げたのだ。
 あの頃は、人生50~60年が平均。ましてや、戦争でいつ死ぬかという時代を生き抜いた人たちにとっては、そんな時代とても人生が80年も続く前提の生き様など存在しなかった。

 だから、50歳を過ぎても、ひたすら同じ人生を継続することを選ぶようになる。
 だって、誰も自分が80歳まで生きるという前提で、考えていないから、近い将来しか見れなかったに違いない。

 しかし、今、寿命を考える前提が60歳ではなく、80歳になっている。
 あるいは85歳かもしれない。

 そうすると、今までの人たちと同じ時間軸で人生を考えてはいけない。
 50歳を過ぎても、もう一時代を築けるくらいの時間がある。
 そういう前提で生きていく。
 だとすると、、、。

 会社の発展や、その延長線上での栄達だけで人生で終わってしまっては勿体無い。

 50歳を過ぎれば、もっと何というか、自分の人生の質を本質的に高めてくれるような生き様に最後はシフトしていく方がいいと思う。私の人生は最高に個性的で、楽しく、しかも美しいというような感じか、、。
 
 会社を大きくしたり、名声を得たりという、そういうことだけで満足するには現代は人生は長すぎるのだ。

 今は、50歳からもうひとつの人生を頂いているんだから、昔の人たちよりもっといい夢が見れるはず。
 しかも、日本の以外のアジア人たちはまだまだ、物質的な豊かさを謳歌していないゆえに、生涯それを目指して終わって行く人たちがほとんどだ。
 いい夢見れるのは、日本人の特権だと自覚しなければならない。
 
 隠居して、毎日暇をもてあましていては勿体無い。
 これは若いときから意識して、どのように生きるかの準備を何となくでもはじめたほうがいい。

 50を過ぎれは、心構えはひとつ。

 ひたすら、”人生の質”を意識する。
by japanheart | 2013-07-16 09:00 | 活動記録 | Comments(0)
がんばったあなたへの感謝

 ラオスのミッションが終わった。
 手術はいつもながらの疾患が多かったが、何とか無事に終わってほっとしている。

 思えば、ラオスで新規プロジェクトをすると決断してから1年以上がかかった。
 看護師のHさんに、その全てをゆだねる形で企画が進められていく。
 
 何かといえば上手くいかない土地柄、思い通りにいくことはほとんどなかったに違いない。
 まるで自分の人生のようではないか。

 今回のような立ち上げ計画は、多分彼女には向いていなかった。
 私がはじめそうであったように、私はミャンマーで新規立ち上げをしたとき日本ではただの医者しかしたことがない自分が何でこんなことをしなければならないのだろうと思っていた。
 彼女も多分そう思ったに違いない。ただの看護師なんだと何度も言ったことだろう。

 途中で、何度も様々な人とぶつかった。
 本当に途中でやめるかもしれないと私も思ったし、辞めた方がいいかもしれないともおもった。

 それでも彼女には必要な経験だと私のこころのどこかで思っていた。
 彼女はこういう仕事には私以上に向いていない。
 それでもだ。
 なぜだろう?
 彼女の人生にとって今回の経験は、大きな意味を持つと感じている。
 きっとかつての私がそうであったように。

 多分、彼女が得たものはあまりないと見えるかもしれない。
 単に、ラオスを立ち上げ、プロジェクトを行っただけに思えるかもしれない。

 しかし、私は思うのだ。
 これで彼女は、生涯、自分を自分で信用できるようになった、と。
 正に、彼女の人生にまだまだ細いが一本の芯が通った。
 これから毎日の葛藤の中で、ますますそれが太くなっていくことだろう。
 おめでとう,と言いたい。
 苦しんだ人間には、神様はちゃんとご褒美を用意してくれている。

 彼女は、根っからの臨床家だから、医療そのものの世界に戻ってくる方がいい。
 コーディネートは、他の人に任せればいい。
 それが、一番の彼女の居場所になる。


 人を見守るという作業は、簡単ではない。
 すぐに手を出したくなる。
 親になればついついやってしまう。
 いつもこれとの葛藤だ。

 これでようやく私の満足いく医療者が一人また誕生した。
 
 苦労してすっかりやせ細ってしまった彼女を、褒めてあげて欲しい。

 今年も私の元へたくさんやってくる者達も、彼女に続いて欲しい。
 容赦はしないが、後悔はさせない。
 
by japanheart | 2013-07-07 01:23 | 活動記録 | Comments(3)