特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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海外での活動のバードル

海外で正式に団体として活動する場合、現地政府と正式な契約が必要になる。
カンボジア、ミャンマーもそれは同じ。
それがないと、何かと不便な点もある。

たとえば、日本政府や郵貯の補助金などは、この現地政府との正式な契約を前提とすることが多い。
要は、それがないとお金は出しませんよということになる。

この契約を、たとえばジャパンハートとある政府が結ぶわけだが、それを正式には
 MEMORANDUM OF UNDERSTANDING(MOU)という。

 翻訳すると、覚書という訳になるかもしれない。

これがなかなか大変な国と、結構簡単な国がある。
カンボジアは、NGO天国。だからそんなに難しくないらしい。
ミャンマーは、大変。そう簡単には信用がないと契約してくれない。

 今回はミャンマーの首都、ネビドーで現地政府の要人たちと会い、その話し合いをした。
 
医者の仕事だけしていたらいいわけじゃない。
ということが、嬉しくもあり、悲しくもある。

しかし、最近は東北の震災支援もやっているので、なんだか行政の人たちと話し合う機会が結構増えて、医者の仕事が減っている。

いまは、ミャンマーにいて毎日手術なんだけど、患者の治療に専念できるのは幸せなことだとつくづく思う。

人間、自分の思い通りにはなかなかいかない。
最近、どうもいけてない。
そう愚痴っていたら、世間は先生のことを、結構いけていると思っていますよって言われた。

世間からはどう見えようと、本人がいけていないと言うのだから、間違いない。
私は、最近結構、いけてない気がする。

もっとがんばらねば!

 
by japanheart | 2011-06-27 02:54 | 活動記録 | Comments(1)

氷室京介とBOØWY

氷室京介とBOØWY

 震災から3ヶ月目のある日、東京ドームに数万人の観客が集まり東北地方のために、そして日本のために、祈りを捧げた。

  私はこの記念すべき光景をドームの2階席で観ていた。正確にはその祈りに参加者のひとりとしてそこにいた。

 アーティスト 氷室京介が今回の震災を受け、急遽、ニュースZEROのテーマソングの歌詞を書き換えたこと聞いたとき、一体、彼の中に何が起こり、何が生まれたのだろうと私は考えた。

 そして決定されたBOØWYの曲のみを歌うという選択。
 その意味は一体、何なのだろうと?
 コンサートの発表以来、私はずっと考えていた。

 どうして、敢えて、BOØWYなのだろうかと?

 私の意見では、人は様々な選択肢の中で無意識にそれを選ぶかもしれないが、必ずこころの隠れた欲求がある。
 氷室京介のこころの欲求とは一体?

 1980年代から1990年代初め、私は医学生で、日本は豊かで幸せな時代だった。
 自分たちはおそらく世界で一番豊かな生活をしているという自覚さえ普通にあった。
 その時期に、BOØWYはある意味、時代を支配しているようなバンドだった。
 おおよそロックとは無縁であった私の耳や目に、いつもその姿は飛び込んできた。
 そして、そのバンドは伝説となった。

 だけど、なぜ今?BOØWYなんだ?
 アーティスト氷室京介はBOØWYの歌を歌うという決定に何の意味を込めたのだ?
 6月11日の夜、彼の歌のエネルギーに包まれながら、私はその意味をずっと確かめていた。

 良き日本。 
 豊かだった日本。
 自殺者がこんなには多くはなかった日本。
 多分、本格的に価値が変わってしまった頃の日本。
 物質的な価値が、社会的地位や高い学歴が豊かさなのだと、決定されたていた頃の日本。
 愚直に働くことが美しいことではなくなってしまった日本。
 慎ましく生きることは幸せなことなのだと、分からなくなってしまった頃の日本。
 戦後、日本が追い求めてきた物質的豊かさがピークを迎え、そして下降し始めていた頃の日本。
 、、、、、、、、。
 、、、、、、。
 、、、、。
 、、、。
 、、。


 私の中では、BOØWYはその頃とつながっている。

 コンサート会場の揺れるようなエネルギーに漂いながら、私のこころはそんなかつての日本にいた。

 しかし、やがて、、、
 そこからもう少し前の少し貧しい日本が見えはじめた。
 でも、そこは美しかった。
 人々は親切だった。
 自然もたくさんあった。
 大人たちは額に汗を流しながら一生懸命、愚直に働いていた。
 でもそこはやはり美しかった。

 東北の壊された街々とその美しい日本が交差した。
 
 氷室京介はBOØWYの曲を歌いながら、その日本に私たちを導いているのだと感じた。
 彼は過去に私たちを導いている。
 もっとがんばってこんな未来を創れといわずに、過去を、過去に私たちを誘導している。

 そこは決して豊かではないが、確かに人々が信頼し合い、電気も暗いが、街には人々の生活があり、子どもたちの目は、今のアジアの子どもたちのように輝いていた。


  彼は私たちをこんな日本を創ればいいのさといっているように思えた。
  ものなんてそんなに溢れるほど無くてもいいだろう?
  電気もガスも今のように溢れすぎるほど無くてもいいだろう?
  それでお前ら幸せか?と。
  
  あの頃の、まだ少しだけ貧しかった頃の日本に、良き日本人の原点に、良き日本の原点に還れ!とメッセージをBOØWY歌に乗せて送りつけてきた。
  愚直に働く日本人になれと、そして地に足をしっかりつけ立ち上がれと、日本人ならできるだろうと。

  ここからは私たちひとりひとりの出番だ。
 彼の命がけのメッセージに応えなければならない。
 私は、ジャパンハートは、確かに偉大なアーティスト氷室京介の命がけのメッセージを受け取った。

 命がけの依頼には、命をかけて応える。
 誰もやらなくても、私はやる。
 それが日本の流儀だから。

 さあ、日本を創る。

 
 
 
 
  
by japanheart | 2011-06-20 02:06 | 随想 | Comments(8)
7月3日 講演会のお知らせ


 7月3日大阪で講演会をします。
 講演は、対談形式によって進められます。

 対談のお相手は バイオリニストとして著名な枝並千花さんです。
 数々の賞を若くしてとっている人で、すごいらしいですが、
 またまた私は、クラシック知らずで、お恥ずかしい限り。



 さて詳細ですが、以下のようになります。

 東日本震災復興チャリティライブ 吉岡秀人 大阪講演開催


「  
日時 2011年月7月3日
    13:30 開場
    14:00 開始  
    17:00 終了
場所 東大阪市立市民会館 (大阪府東大阪市永和2-1-1)
主催 エンジェル布施
構成 2部構成

   <1部14:00~15:30 予定>
   開演 14:00
   講演 吉岡秀人&枝並千花 トークショー
   (社)ガールスカウト日本連盟大阪府支部の子供たちとのQ&A
   演奏 枝並千花バイオリンコンサート
   枝並千花オフィシャルサイト

    <2部15:45~17:00 予定>

   開演 15:45予定
   ダンスF.D.S"PON-PON"(八尾ダンス協会)キッズダンス
   音楽 Destiny Cloud
   ダンス・音楽 Re:D
   ミュージカル ECO&粉もんファミリー(エコミュージカル)
   音楽・歌 椿 彩綺
   トーク&歌  久本 朋子
   音楽    全体合唱
       (順不同・他参加者)
   
       
入場料   特別席 5000円
      A席 3000円
      B席 2000円  (当日席あり)
     
チケットはお振り込みとなります。振り込み手数料はご負担下さい。
なお、チケット代金は全て支援金となります。

振込先
エンジェル布施チャリティークラブ 野中みやこ
三菱東京UFJ銀行 小阪支店(415)
口座番号 0035362


場所 東大阪市立市民会館 (大阪府東大阪市)


問い合わせ
エンジェル布施チャリティークラブ
椿(つばき) 09083683850

または
ジャパンハート東京事務局

                       」
by japanheart | 2011-06-16 00:53 | 講演会 | Comments(0)
人生の形相 -その4-初恋の法則

人生は一度きり、こころゆくまで生ききらねばならない。
ここからはさらに、自分の人生は、本当に一度きりしかないことを納得してもらうために、多分、人生の大切な形相の一部を述べる。

 誰にでもあるだろう、初恋。
 
 運命的な出会い。
 前世から巡り合わせ。
 
 この事についてまず考えてみたい。
 運命的な出会いとは一体何だろうか?
 これについて普通は深く考えることはない。大体、運命的なという言葉で、何かしら、因縁のあるという風な意味合いがある。因縁というのは、原因と結果の因果関係をいうから、運命的な出会いには、その原因がなければならない。
初恋でも、一目惚れについて、考えるとわかりやすいので、これを例にとる。
 初めてあったその日から、恋の花咲く、、、、というように、初めてということは、この一目惚れの相手には、ファースト・コンタクトであり、原因なるものはお互いの間に存在しない。
 でも、なぜ惚れてしまうのだろうか?
もしかして、前世なるものがあり、それが因になっているのだろうか?

 輪廻転生に関する私見については次回述べることにする。

 そこで、本当に前世があったのだろうか?あるのならば、そうかもしれない。
 しかし、前世など無ければ、どう説明すればいいんだ?
 一体、この初恋の原因は、なんだろうか?

 私は、これを脳の折り込みと理解している。
 私たちは、美しいと一般的に感じる女性は、私の幼い頃から、繰り返し繰り返し、テレビや映画で流されてきた、ハリウッド映画に出ているような女優たちがひな形になっている。

 私の初恋は、中学1年生だったが、別の小学校から一緒になったはじめの数日で、ほとんど話もしていないのに、惚れてしまった。
 なぜだろう?
 その同じ時期に、それも別の小学校から一緒になって初めて出あった2人の男の生徒のことをどうも初めてあった気がしなく、どこかであったことある、あるいは以前から知っているような気がして仕方なかった。それでその二人に、私を知っているか?今まであったことがあるか聞いてみたが、答えはいずれも、ない!ということだった。
 これは一体どういうことなのだ?
 まさに前世の因縁か??

 同時期に起こった上の2つの出来事。
 今では深く関係していたことに気付く。

 私の答えは、今では明確だ。
 答えは脳の折り込み現象。
 私は生まれてからそのときまで、特にある程度記憶が明確になる前が、特に重要かもしれないが、その頃に、この私が恋心を抱いた女の子や同級生になった2人の男の子と、何らかの類似点がある人に私は出会っている。しかも、とても自然で心地よい記憶として脳のある場所にその記憶は保存されている。そのため初めての出会いの時ですら、非常に懐かしかったり、とても好意的になったり、求めたり、本能的な欲求としてその人を脳が受け入れてしまう。
 これが私が理解している初恋の仕組みで、運命的な出会いの因なのだ。
まさに、トラウマの記憶と真逆の作用なのだ。

 すなわち、その人、そのものに会っているわけではないが、その人と何らかの類似点がある人と幼い頃に出会っいる、しかも非常に心地よい出会いをしている。
 それが因になり、その後に出会った、似た人を好きになってしまう。
本人にはその記憶が、全くないため、まさに運命的、前世からの巡り合わせのように感じてしまう。
しかし、そんなことは決してない、と考えている。ロマンは無いけど。
 その記憶を与えたのは、幼いとき、抱き上げて微笑んでくれた近所のおばさんかもしれない。
あるいは、幼い日、お菓子を手に持たしてくれた駄菓子屋のお姉さんかもしれない。
 その人に何らかの類似点がある人を、出会った初めての瞬間に、脳がキャッチし、ある信号を送り、惚れてしまうのだ。

 どうだろうか?
そう理解すると、もしかしたら目の前にいる幼い子どもたちに、良い記憶をどんどん持たせると、あなたのような人を初恋の相手や、恋人、結婚相手に選ぶかもしれない。
 しかも、本当にこころが求めているのは、出会ったその相手ではなく、幼き日、親切にしてくれたあなたなのだ。ひな形は、あなたなのだ。
これって、すごくないだろうか?
あなたがある子どもの人生や運命を左右している。
何と罪深くもロマンがあるのだろうか?

 男は、母親にどこか似ている恋人や奥さんを選び、あるいはその真逆の人を選ぶ。
 女は、父親にどこか似ている恋人や夫を選び、あるいはその真逆の人を選ぶ。
 それは親が、その記憶をつくるチャンスが一番多いからだろう。

 人生の出来事は、前世からの因縁ではなく、全て今生での因果関係にある。
 もし生まれ変わりがあったとしても、全ては、生まれてからの記憶によってコントロールされるのだ。
 人生は何があろうと、一度きり。
 人は一度きりの人生の中で、全て完結する。
 脳細胞は、実在物質でその中に記憶がある。だから、細胞をダメージすると、記憶が失われる。だから、たとえ、生まれ変わったとしても、前世からの脳細胞を今生に持ち越さない限り、記憶は継承などされない。
だから生まれ変わりがほんとにあったとしても、記憶など継承されない。
 苦しくて自殺などしたら、全てはパー。死ぬときとき、何かが継承されると思っているかもしれないが、何も継承されることはない。
 だから、もったいなくて、そんなことしてられない。
 良いも悪いも、全てここにある自分の人生の中の出来事。
 しかも、今、たとえ不遇でも、新しく良い因を生み出せる。
 いくらでも。
 かつて、あなたはもしかすると今の悪い結果を生み出すために過去に因を積み上げてきた。
 将来、良い結果を生み出すために、あなたがやるべきことは、そのための因を今生み出すこと。
 欲に駆られて、悪因をつくってきた人間ならば、欲をかかずに生きているだけで、すなわち良い人生が訪れる。
 傲慢さ故に、今窮地にあるならば、傲慢さを人生から無くなすように生きているだけで、きっと良い人生が訪れる。
 今のあなたの状態が悪ければ悪いほど、問題点は明確だ。
 それを意識して、省くだけで、人生が好転し始める。

 最高の自分の才能のありかを見つけ、今、新たなる良因をどんどんつくる。
 きっと1年後は少しは良くなっているはず。
by japanheart | 2011-06-12 06:18 | 医者の本音 | Comments(2)
人生観の形相 -その3-アジア的という人生感覚



小学生の高学年の頃、買ってもらった地球儀を前にして、日本の位置を確認した。
次に、私が住んでいる大阪府を確認し、そして吹田市をとやって場所が特定できなくなった。
「おいおい、どんなけ日本は小さいねん!」と吉岡少年はつぶやきながら、遠くから離れて地球儀を見た。工場をやっていた自宅の1階の隅っこから反対側においた地球儀を見て、またつぶやく。
「小さ!日本一体どこやねん??自分は一体どこら辺におるんやろうか?」

 残念に思った吉岡少年は、部屋に帰ってノートを開き、ノートの見開きの中20分の1ほどの大きさの地球を書いた。その中に日本を小さく書き込み、その中の大阪府吹田市辺りに赤点をポイントした。そして、その赤点にどんどん上書きをしていった。赤点は、どんどん周辺を浸食し、広がっていった。やっているうちにその赤点は赤丸になり、やがて日本をその下に飲み込んでしまった。

 再び、ノートの白紙のぺーじをめくり、再び小さく地球を書き込んだ。そして自分のいる辺りに強く赤丸を書き込み、続けて「私はここだ!!」と書いた。
そしてつぶやく。「こんな小さい存在で終わってたまるか。」
そして、想像した。
地球を取り巻く星々のなかで、私のいる辺りがらんらんと輝いている。
遠くの、遠くの銀河の彼方から、地球のある辺りを眺めると、なぜか私のいる辺り(地球)がきらきらしていて、そこに私がいると分かる。この広大な宇宙の中ですら、私のいる場所はよく分かった。

 アジア型の人生観の中で、生きていると心地よい。多分、いろいろなものとつながりを感じるからだと思う。これに、吉岡少年の視点があればもっと幸せになれる。
 私は宇宙の中にあるたった一つの星かもしれないが、でも他にはないすごい輝きを持ち、私だけは宇宙のどこから見てもその光のありかを確認できる。それほど特別な、他にはない存在なんだ。
その存在を失った宇宙は一体、どれほど寂しく、無味乾燥な星々の集まりになってしまうのだろうか。
 この大宇宙にとって、かけがえのない大切な存在が私という人間なのだ。

 私を失っても宇宙も地球も明日も必ずそこにあると思う。
上手く続いていることだろう。しかし、まあ、そこは以前ほどの、良さはない。何せ、私がいなくなってしまったのだから。

 自分のいのちや人生を大切にするなら、私が存在しなければこの世は無きの如し、意味なき如しと考える欧米型の生き方も良いけど、小学生の少年が観た視点も悪くない。

宇宙の星の一つが、個を主張するという在り方。
個の主張とはすなわち、個性の開花を意味する。
私というのは一体、どんな才能に恵まれ、何をするのがもっとも能力を発揮することになるのかを生涯、考え続けて行動し生きてゆく。

 もしあなたが今、自殺しようとしていたとしよう。
今自殺しようとしているあなたなど、輝きを放っているはずもないが、あなたはあなたの才能のありかを見つけることができず、その天賦の才を発揮できないでいたということになる。
もし、それを見つけ、それを発揮していたならば、今こうして死ぬことなど考えていないからだ。
 だから、せめてそれを見つけるまで、それを持って人生を勝負するまで死を待っても遅くはない。
本当の勝負はこれからということになる。
 野球でいうと、せっかく、大逆転劇があると予想される後半戦を放棄するようなものだ。
どんなにピンチの時でも、必ず勝利することを結果として知っていたら、誰だって最後まで戦うだろう。人生はまず、最終結果を、合格点にするところから全てを逆算しなければならない。
 
 めらめらといのちの炎を燃やしてみる。宇宙に輝く、あなたという一つの星のありかを全宇宙に向け宣言してみる。
 どうだろうか?

 
 欧米人たちの立つ視点は、私は宇宙の中心という視点。
 日本人は、宇宙の中の一つの星という視点。
 ここまできて気付いたろうか?

 欧米人たちは、自分が自分の目で宇宙を見上げている。
 日本人たちは、ひとつの星である自分をもう一人の自分が遠くから眺めている。
 多くの星の中にある自分という星を見ている。(だから、自分が死んだ後も宇宙はそのままだと分かっている)

 この遠くから観ている視点の在処って神の目線?のようなものだろう。

 これからの日本や地球にとってこの神の目線が必要なんじゃないか?
 自分個人がどうだという視点だけじゃなく、もっと大きな世界からみた視点が。
 
 日本人たちよ、自殺している場合じゃない。これからこそ、私たちにはやらなければならないことが山積みなのに。
 この神の視点を持てるものは、個の視点に向かって猛烈に収縮したときに、存在価値を見失い消滅を選ぶ。
 光りまくって、それを宇宙から眺める。
 才能を見いだし生きる。そして、星としての光りを増す。私はここにいるぞと、ここにあるぞと宇宙に木霊を投げかける。それを宇宙から確認する。


 私は、どっぷりアジア型の人生観に浸り、生きながらいのちを決して軽んじたりはしない。
 せめて自分の人生やいのちだけでも大切に生きたいものだ。

 
 
 
by japanheart | 2011-06-08 03:40 | 医者の本音 | Comments(1)
人生観の形相 -その2-アジア的という人生感覚

 アジア的な人生観、特に日本人の人生観を考える上でどうしても分かり安く理解するヒントは、欧米の人生観を理解することにある。
 私が高校の頃の社会や大学時代の倫理の時間でこういう大切なことを教えてくれる人文社会の先生に出会えなかったが、これは本当に大切なことなので敢えてここで、書いておくのもいいかもしれない。(やっぱり中学や高校の教師たちはもっと勉強し、いつも本を読むべし!)

 デカルトという人がいた。1600年代のフランスの思想家で、近代合理主義の父と言われる人だけど、この人が
 「我思う,ゆえに我あり」と答えた。
高校の教師たちは皆そう教えた。教えたというか、そう言った、という方が正しいかもしれない。
近代思想が、何とか何とかと言いながら、、、。
そう言って、あっという間に次に進んでいった。
この言葉の本当の重要性に気付いていた教師はおそらく誰一人いなかった。少なくとも私の周りには。

これはそのものでは理解しにくいが、アジア的な人生観を理解するとよく分かる。
日本人は、自分を宇宙の星の中の一つと考えている。だから、もしその自分が寿命を尽きて、この世から消滅しても、宇宙はそのまま続く、と考える。
考える故に、自分一人の生き様や生死すら、世の中には大きな影響など与えはしないのだと考えてしまう。
だから、自殺者が、多いのかもしれない。あるいは、戦争中は、玉砕や特攻などという考えが正当化されたのかもしれない。自分たちは死ぬけど、きっと日本はそのまま継続され、きっと戦争に勝ち子孫は繁栄していると考えたのはそんなに瓢箪から駒の逸脱した考えでもない。
日本やアジアで輪廻転生が、大切に保存される所以もここらあたりにある。

 デカルトは言う、「我思う、故に我あり。」

 彼は言う、どんなにすばらしい宇宙もどんなに美しい花々も、私が存在しているからこそ意味を持つのだと。
 私のいなくなった宇宙や美しい花々など、どうでもいいものなのだと。
それは主を失った家のごとく、魂の抜けた肉体のごとくであり、存在していても、存在していないのと同じであり、価値などないのだ。意味などないのだ。


突き詰めてゆけば、戦争で、私が死ねば、祖国が残ろうがそうでなかろうが、家族が残ろうがそうでなかろうが、どうでもいいのだろうとう、いうことにすらなる。私が存在しない世界など、どうでもいい。

 これこそが、デカルトの主張であり、今の欧米人たちの生き様の根本にあるものだと理解している。

 個人の権利などはこれによって裏付けられている。この世に生きてこそ、私が存在してこそ、全てが初めて意味をなす。

 一体どっちを元に生きる方が我々は幸せなのだろうか?単純にそう思かもしれない。

ちなみに私はかなり強く、アジア的人生観に基づいて生きている。
美しい花はたとえ私が死んでも、その美しさは変わらず意味のあるものだと信じている。
しかし、人命を軽るんじたりはしなくなっている。

仏教で言うところの悟りは、おそらくデカルトの思想の延長線上では生まれにくい。
悟りの境地はおそらく想像するに、意識の拡大を意味するものだろうから、宇宙から地球を見下ろす視点がなければ、なかなか難しいからだ。
 アジア的視点の延長線上にこそ、悟りはあると考える。

アメリカ人やヨーロッパ人たちが一見、自己主張の塊のように私たちが感じる根幹には、このデカルトの思想がある。だって、自分が宇宙の中心にいるわけだから。

 そして今時の日本人は、どっちつかずで、迷走し、一番損な生き方をしているように感じる。
何せ、多分だけど、自殺するときすら、後は野となれ山となれ、で死んでいるんだから。
未来の永続性も信じれず、過去は否定し、現在に斃れるという感じ。それって絶対的絶望じゃない?
アメリカ人やヨーロッパ人ならば、せめて、自殺するときも、過去は良かったって少しくらい考えるはず。
 
 そこで次回は、じゃ、どう生きれば良いんだということについて私見を述べたい。
by japanheart | 2011-06-06 06:55 | 医者の本音 | Comments(1)
-人生観の形相ーその1ーアジア的という人生感覚

 欧米と違って、アジア人は、日本人はかなり、自分という存在を、多くの星なかのの一つの星にすぎないような感覚がある。

 だから自分が消滅しても、その後、宇宙は何わりなく継続されるような感覚。

 ここからおそらくいのちの軽薄さや死生観を身につけているのだろう。
 私のいつもこの感覚にさいなまれる。

 何をしても、いったいそれがいかほどのことになるのかなどと、やがてどこからか声が聞こえてくる。
 何をなしても、多分、これがどれほどのことなのか?と、きっと思うに違いない。


 富を積み上げ続ける人を見るにつけ、虚しさを感じるのもそのせいなのだろう。
 あちこちにある大企業群の看板や広告を見てもそう思う。
 本当に窮屈な毎日を働きつづける東京の人々を見ていると悲しくなってくるのもそうなのだろう。

 人がこの感覚に強くさいなまれたときに、会社を辞めたり、田舎暮らしを始めたりという行動をとるのかもしれない。
 人生は、本当に星が瞬くように、その瞬間に、存在の意味や喜びを見いだしたいと思う。

 それがせめてもの自己存在の意義ということになるのかもしれない。

 子どもが時の経つのも忘れて砂場で何かを造っている。
 たった一人で、何とかごっこをして遊んでいる。
 大人の人生もこれと、いったい何が違うというのだろうか?

 持ち金ややり遂げた仕事を誇るのは、子どもが砂で造った何かを誇るのに似ている。
 神様から見れば、さぞかし微笑ましいことだろう。
 きっと、「よくできたね」と、親が子に言うように、言ってくれていることだろう。

 
 
 
by japanheart | 2011-06-01 07:27 | 医者の本音 | Comments(0)