ジャパンハートの代表。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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患者たちの様子

患者たちの様子

 最近気になることは、今更ながら患者たちの雰囲気なのだ。

 おかげさまで、子どもたちには無料で医療を提供できるようになった。

 こちらもある意味、期限も気にしないで、治療計画を立てている。
 できる限り医療のセオリーに忠実にやっている。セオリーというのは治療目標に対して、なされる計画だが、もちろんこれは日本のそれが基準になる。

 日本では最近経営がうるさく言われ、少しでも早く患者を帰そうとする。経営が医療を変形させている側面がある。
 現地にはそれが少ない分日本よりもしかすると、医療らしい医療がなされているかもしれない。

 入院が長くなっている子どもたちがいる。
 子どもたちはともかく、親のストレスはかなりあるかもしれない。

 いつまでも入院できるという環境があれば当然、医療者に油断が生まれ、治療計画に無駄ができる。
 だからいつも治療計画を細かくチェックしなければいけない。

 私は最近、子どもたちの親の言動、特に私と接したときの表情に気をつけている。
 ミャンマー人が、一番上の医者と接した時に笑顔がなければ、かなりの不安と何らかのストレスを抱えている。

 これを上手くコントロールするのも医療だと思う。


 患者の家族のこころも体のケアーも治療行為の一部かもしれない。
by japanheart | 2010-02-28 23:28 | 活動記録 | Comments(0)

テレビ放送

テレビ放送

この半年の活動を1時間にしたドギュメンタリーが放送されます。
関西地区の方はご覧ください。録画してみるかな?
私はカンボジアにいます。

日時:3月7日(日) 深夜0時50分~1時50分

番組:「魂のメス 一万人のいのちを救った小児外科医」
     毎日放送(関西地域限定)
by japanheart | 2010-02-20 10:26 | リンク集 | Comments(7)
自分のことでないことなどあるのだろうか?ーその2

 前回の話には続きがある。
 
 たとえば好きで飛び込んだ世界でいつしか囚われの身になり、あるいはそれに近いような状況、戦争やビジネスの世界などよくある話だが、誰かに無理矢理、何かをを押しつけられたとしよう。

 そこでは、どんな自分のためがあるのかというと、戦争ではそれを聞かなければ殺されるか、それ以上にヒドイ目にあわされる、ビジネスでは命までは取られることはないかもしれないが、確実にひどい目にはある。
 そこに働く深層心理は、挫折する自分を認めたくない、他人に評価されない事実を受け入れたくない等々の心理が働くから、敢えて嫌々でも働き続ける。
 そう考えれば、無理矢理とはいうものの自分のために、自分の身や心を守るためにという打算が働いていることになる。
 突き詰めれば、誰のためでもなく自分のためにということになる。

 子どもが飢える。
 母親が自分の食料を分け与え死んでゆく。
 それすら母親が望んだことだから、彼女自身の大切な子どものために自己犠牲を背負ったよろこびの行為であるとすれば、すなわち自分のためだといえる。

 しかし、上の2つの例は、それを行う人間の満足度に大きな差がある。
 いったい何か?

 何が同じ自分の行為として発せられたものなのに、こんなにも大きくその満足度をわけているのだろうか?

  行為の因が自らの意志で発せられたか、否か。
  これがすべてだと思う。


  私が、人は何かをするとき自らの意志で一歩を踏み出さないといけないという故である。

 誰かに強制されてやり始めるなど自分の人生にあってはならないことだと誰もが認識している。
 私もそう思う。

 しかし、恐ろしいのは、知らない間にそう思い込まされ強制されていることは多いのだと気づく必要がある。

 いい大学を出たら幸せになれる。
 本当か?
 いい大学とはどんな大学なのだ?
 まさか偏差値が高い大学ではあるまい。
 有名な出身者が多いことではあるまい。それとあなたが有名になることは何も関係ない。
 もし出ても幸せになれる保証がどこにある?
 お金が人より多く稼げれば幸せだと誰が決めた?
 少しのお金でも幸せに暮らしている人はごまんといる。その逆も数え切れない。

 政府系組織や公務員は安定している?
 何が安定というのだ?
 毎日決まった仕事をすることか?
 首を切られないことか?
 つぶれないことか?
 それを幸せと誰が決めたのか?
 そこに働くことにステータスを持つことは勝手だが、ステータスなど社会が無理矢理はめ込んだ鎖だと理解すべきだ。

 多くの人間が尊敬してやまない坂本龍馬や西郷隆盛や織田信長は、安定の中に生きた人だったか?
 毎日同じ仕事をすることを望んでいたのか?

 どこで働いてもいい。
 嫌々でなく、強制されるわけでもなく、自らの意志でいつも一歩出て働くことが人生の質を変える。
 政府系の組織にいようがそうでなかろうが、お金をたくさんもらおうがそうでなかろうが、関係ない。
 
 すべてが自分のための行動なのだ。
 だからもし他人に強制されて始まった行動だとしたら、意識していようが、無意識にそうしていようが人生乗っ取られてしまっているということだ。
 戦争捕虜のように。
 奴隷のように。
 それを気持ちいいとか、安定していると感じていることを、奴隷根性が染みついたという。
 
 私がアドバイスあることがあるとしたら、まずすべては自分のためにやっていると認めること。
 そして安定したり、安心したり、世間の評価にあわせて組織を見たりしたら、危ないと認識することだ。
 私は本当はどう思っているのだろうか?こんな安定を得て、それで何がしたいのだと考え続けることだ。

 鎖を解き放ってこそ、本当に自分のために生きてゆける。
by japanheart | 2010-02-17 00:09 | 基本 | Comments(12)
自分のためでないことなどあるだろうか?

 私は自分に正直に生きていたいといつの頃か思った。
 だから自分に対しては嘘はつかないように心がけている。

 私たちが人生を進む中で、自分のためでないことなどあるのだろうか?
 
 こういう世界、いま私がしているような援助の世界でも、現地の人のためになっているのか、それでは自己満足ではないのかなどなど、いろいろ意見がある。
 だからテレビの中でも私は敢えて言ったのだ。
 自分のためにやっています、と。
 偽らざる心境だ。
 
 昔ある企業家が、敗戦のショックある日本で子どもたちにまともな未来を、と一生懸命がんばって自分の会社を大きくし、日本復興のの一翼を担った。そして次の目標を立て、家庭生活を豊かにした、また将来の日本を担う若者たちの養成もした。
 ずっと社会のためにがんばって生きた。そして世の中も彼を称えた。

 でも敢えて私は言う。
 彼は自分がそうしたかったからそうしただけだ。
 社会がそれを彼に強く要求したわけではない。
 自分の使命と欲求に突き動かされ、そうしたのだ。
 苦しむ国民を見て、何とかしたいと思ったのもすべて自分の欲求なのだ。社会からの欲求ではない。

 だから、それを社会のためにしましたと言ってはいけない。
 それが最初でない。自分がその現状に我慢できなくて、動き出したのが始まりだ。結果として、過程として、それを目指したのだ。
 
 海外で困っている人がいるから、医療活動をやらねばならないは嘘だ。
 正解は、海外で困っている人がいる現状を私は見過ごすことができないので、医療活動をやりますだ。もっといえば、やりたい。
 私がやりたいのだ。

 常に私の意思が最初なのだ。海外の人たちの現状や要求が最初ではない。

 私たちのあらゆる行動は、何らかの意味で自己実現になっている。
 だから、本質的には自分のために始めた行動ばかりだ。
 突き詰めれば、自分のためにやっているのだ。
 どんな行動も。

 それを理解していないと、自己肥大を起こす。
 自己肥大は、膨化した醜いエゴを表している。

 私のために生きています。
 私のためにやっています。
 それが世のため人のためになっています。

 そう答えられなくてはならない。
 そう答えることができる人の言うことは信用できる。

 どんなに声高に、立派な業績を並べても、自分のためにやっているといえない人間の言うことなど私は信用しない。

 
by japanheart | 2010-02-15 00:42 | 基本 | Comments(3)

常識にとらわれない

常識にとらわれない

 私が大切にしている考えの一つに、医療者たるもの患者の人生を忘れてはいけない。という当たり前のこと。

 一般の人からは、意外に感じるかもしれないが、私のしている活動というより行動に関しては、批判的な人達がいる。

 実際の医療活動より予防医学や保健活動を行うほうが効果的であり、なおかつ現地の秩序を乱さない。
 医療をするならば、人材育成や技術移転を優先すべきである。
 などなど。

 まあ、耳にたこができるほど聞きあきた感がある。

 私は好きにする。
 人材育成はしているし、技術移転もやぶさかではないが。

 病人には、その人の人生がある。
 家族もいて、その病ゆえに苦しんでいる。

 それを忘れていたり、目をつむったりできるか?
 医者の私にできるか?
 それが出来るようなら、医者は辞めている。
 予防医学も結構、保健活動も結構、それを否定はしない。
 そこにやりがいを感じたり、意味を見出したりする人はそれでいいのだ。
 
 しかしそれを私がして、目の前の患者たちをほおっておく事は私には出来ない。
 私が知っている実際の医療を否定する人達は、必ず自分は保険・保健制度に守られ安全な場所にいる人たちだ。
 病気をしてもかかる場所もない、お金もない人たちの境遇など理解すべくもない。
 だから、その境遇を理解しているその国籍の人たちからは、現地にいても、日本で会っても、他の国で話をしても、感謝の言葉しか聞いたことがない。
 その国の人々はどこにいても自分の国の医療状況の不足にはこころを痛めている。

 自分が、自分の子どもが死の淵に立った時、どんな人が一番必要なのか、どんな支援が必要なのかが分かる。
 保健活動と、医療活動は車の両輪だ。
 途上国では、ともに不足している。
 だから、どっちをやってもいいのだと思う。
 あとはそれをする人間の、哲学と生きざまの問題だ。

 私は医療が主。
 保健活動が従。

 そう決めている。
 
by japanheart | 2010-02-12 03:31 | 医者の本音 | Comments(1)

厳しくする責任

厳しくする責任

 私はいつも思う事がある。
 患者に何かあった時、何もなかったように元通りになれば幸いだが、もし死んでしまったりしたら、どんなに医者や看護師が責任を取るといっても、どう取ったらいいのか?
何をすれば患者や家族は納得できるのか皆目分からない。

 私は言い訳はしたくない。
 醜いだけだ。
 そして結果も変わらない。

 機械がない、電気が悪い、薬も悪い、あれもこれも十分でない。それでもやっている。
 それでもやると決めたからには、そのせいで何かが起こっても、自分のせいになる。
 はじめから納得済みの話だから。

 今まで数人の患者が死んだ。
 言い訳はいくつもできるが、要は力が足りなかった。
 言い訳なしない。
 私に力がなかった。

 大きな事故は、大きなミスは、小さな流れが集まって大きな川になるようにして起こるものだ。突然、起こりはしない。

 手術場の緩み、日ごろの怠慢さ、今日の体調の不調、スタッフ一人ひとりの心構え、、、、。
 すべてが一つ一つの流れを生み出す。
 そして患者が死ぬ。

 だから私は容赦しない。自分も他人も容赦はしない。
 誰に批判されようと、患者を死なしてしまうよりはましだと思っている。
 もうあのような悲しい光景の数々には生きている間には出会うのはまっぴら御免だと思っている。

 一度でも、たった一度でも自分の力のなさゆえに人を死なせてしまったら、誰でも私のようになるだろう。

 私は死んでいった患者たちの命にかけて、厳しくする。
 優しくしてもらう事が当たり前、手とり足とりが当たり前、なぐさめられて当たり前、怒られるのが不快で育ったいい子ちゃんたちには、分かってもらわなくてもいい。

 もし私の力がもっとあったら、時々、彼らの姿を寝ている時でさえ、思い出すのだ。

 
 
 
by japanheart | 2010-02-10 23:58 | 活動記録 | Comments(0)

緩めない

緩めない

 一度いい流れに乗ったら、緩めないことにしている。
 流れが止まるときは止まる。
 だから、乗っているときは流れに身を任せる。
 細かいことは気にしない。
 気をつけることは2点、逆らわないこと、そして欲を出さないこと。


 11月脳瘤の子ども日本に手術をするためにつれて来た。
 そして3月再び、別の病気の人を連れてくる。
 お金のことは今はあまり気にしない。

 もう少し流れに乗ってみたい。

                         
  
by japanheart | 2010-02-07 23:30 | 活動記録 | Comments(4)

一日一生

一日一生

 いつも現地で私の部屋といっても、狭く囲いがあり、木で組み立てたベッドがおいてあるだけのスペースを私が現地に滞在中、掃除を自主的にしてくれている日本人の看護師がいる。

 でも、ちょっと彼女の生活にはムラがあって、夜寝るのが遅い。食生活にもムラがあるし、精神的にも時々ひどく落ち込むときもある。

 そんな彼女が、やはり時々、その掃除をサボることがある。
 とても忙しいとき。
 疲れて大変なとき。

 先日はそれでほとんどサボった。
 そして最終日に私は怒った。
 もちろん彼女が私の部屋を掃除することなど義務でもないし、強制したわけでもない。
 だからやりたくなければやらなくてもいい。
 でも、自分で始めたことだ。

 それでも私は彼女を怒った。

 私たちの人生には時間がない。
 
 日々のわずかな在り方や小さな達成を積み重ねて私たちは少しずつ成長してゆく。
 そしてその成長は強制ではなく、自己の意思で行われればさらに大きくなる。

 たぶん、少しの障害やストレスで自己弁護を重ねて、彼女は今まで何でもあきらめてきたに違いない人なのだ。だからここへ参加し、自分の人生を変えたいと思っている。
 調子のいいときは誰でも他人に親切にできる。でも自分が大変なときでもそれができることが重要なのだ。
 自分の状況がどうあろうと、同じレベルで物事を達成しようという姿勢が。もちろん医療者にとっては。

 やると決めたら、きっとやり遂げようとすること。
 たとえ些細なことでも。
 もちろんこれは誰にでも言えることだ。
 誰でもできないでいることなど山のように抱えている。

 しかし、敢えてそう言うのだ。


 「一日一生」という言葉がある。

 もしこの掃除が自分がこの人のためにできる最後の掃除だったら?
 もしこの食事が家族とできる最後の食事だったら?
 もしこの会話が、この友との生涯最後の会話だったら?
 この手術が私の生涯最後の手術だったら?
 、、、、、、、、、、、?
 もし最後の、、、?



 たぶん私たちはこころを込め、一つ一つ確かめるようにそれを行うだろう。
 真心を生み出すのは、常に自分のこころ。


 人間生まれてきて何を達成できるかどうかはわからない。
 そして、達成したことが成功の全てではない。

 たとえ途中で人生折れても、終わっても、その方向にこころのベクトルが向いていることこそ、成功と呼べる。

 成功、不成功は他人が達成に対して与える規準に過ぎない。
 その人にとっての、人生の真実はその過程にこそある。


 だから、こころを込め一日一生、行為を時間の中につむぎ出してゆく。

 
by japanheart | 2010-02-04 23:35 | 基本 | Comments(4)