ジャパンハートの代表。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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カテゴリ:医者の本音( 101 )

我が美しき景色

我が美しき景色

 私にはどうしても死ぬときに見ていたい光景がある。
 かつて何度か同じ景色を見て、「ああ、人生あってよかった!」と思ったことがある。

 いくつもすばらしい光景や美しい光景を見てきたが、私にはそれを越える光景はなかった。

 私の第二の故郷、大分で学生時代を過ごしていた頃、いつも授業をサボって夕方近くになると
 近くの温泉に出かけた。
 
 当時、多分今も、大分は温泉の宝庫。
 ただの温泉もまだまだたくさんあると思う。
 私はいつも、大分市の外れ、狭間町にあった、ある温泉に出かけていた。
 1回100円、薄い黄色のとても良い香りのする温泉だった。
 
 秋の夕暮れ、いつも温泉から山道を、ドライブして帰った。
 秋の風は気持ちよく、村々の夕暮れも心地よかった。

 その帰り、いつも多くの田んぼがあった。
 秋の夕方、たわわに実った稲たちが、夕暮れの太陽を浴びて、金色に輝き、風を受け少し揺れていた。
 私は何度かその光景に出会った。
 いつもこころ奪われ、しばし車を止め、日が暮れるまでそこにいた。

 日本にはこんなに美しい景色があるのだと思った。
 お米は不思議な食物だ。
 

 是非この光景を見ながら死にたいといつも思っている。
 だから、多分私が死ぬ季節は、秋かな。
 美しさの中で死ねるなどということは、何と日本人の心を揺さぶるのだろうか?

 そんな光景や場所をみんな持っているのだろうか?
 
 人間、明日死ぬのだと思えば、殆どの欲がはげ落ちてゆくが、その後、何が残るのだろう?

 欲は人のエネルギーだと最近、つくずく良く分かる。
 私は、それほど欲深くないので、何事も、まあこれくらいだってすぐ思ってしまう。
 自分が結構、淡泊なのだと、最近よく分かる。

 若い人たちを見ていると、全く美しくはないけれど、様々な欲望のために邁進しているのを見ると、
 少しうらやましくなる。

 美を備えた人間になるには今何をすればいいのだろうか?
 
 
by japanheart | 2011-10-09 11:31 | 医者の本音 | Comments(2)
俺って、”しつこい”っていったよね

 このブログでも、様々なところでも、何度も宣言している通り、
俺って、”しつこい”!!!


 子どもの頃から、よく母親には、巳年の8月12日生まれのお前は、真夏のヘビだから、どうしようもなく、しつこいと言われた。何の根拠があってと、今でも思うが、それでも多分、何かにつけ、執念深かったのかもしれない。

 その私は、やっぱり、しつこいことを今回もやってみた。

 今年の4月29日ブログでも書いた通り、石巻の渡波地区に開設したジャパンハートの小児診療所が取り壊しにあった。
 びっくりするけど取り壊し
 仕方なく、近くの避難所の渡波小学校に場所を移し、診療を続けた経緯がある。

 今回、石巻で小児を中心とした診療施設を開設する全回のブログで書いたが、何とこの渡波地区に開設することにしている。
 渡波地区は、小児の診療施設が今までも全くなく、石巻でも医療が手薄な地区だ。

 でもこれだったら、ちょっと”しつこい”程度でしょ?
 まあ、「こだわるねっー」てところだ。

 ここから真夏の巳年の私、その取り壊された診療施設のまさにその場所そのものを今回手に入れようとしている。あの奪われた土地を、取り返したってこと。あそこの場所は、アクセスが良かったんで、来る人たちもきっと助かると思うからだけど。

 東北支援のために集めたお金は、こうやって使うことにした。
 そしたらお金もそれを出してくれた人たちも喜ぶってもんだ。
 この冬に、衛生状態も悪くなっている、しかも小児の施設がない、この地区で、何とか小児の健康を確保する。ここを拠点に、南三陸、気仙沼までをにらんで、小児そして仮設住宅で孤独になってしまったお年寄りや住民たちの健康確保に回ることにした。

 あとは医師会や地元との調整がいる。
 この辺が、少し厄介かも。

 しかしきっと困っている住民は支持してくれると思う。
 またそうでなければならない。

 今年の冬が本格化し、インフルエンザやひどい下痢症が流行る、その前までになんとか、開設を間に合わせるから。

  
by japanheart | 2011-09-25 10:30 | 医者の本音 | Comments(5)
ジャパンハート 東北への支援 2011年 秋

東北震災復興支援活動、、、。
多くの団体や個人。
東北を襲ったあまりのスケールの違いに上は国から下は子どもまで、
誰もがこの支援に、復興に長く関わらないといけないと誓った。

中には一生、東北に関わるのだと誓った人や団体もある。

6ヶ月経って、現実はどうなったであろうか?

医療だけでも、多くの団体は立ち去ってしまった。

現地の医療に関わる人々もまた、現実はともかく、
いつまでいるか頼りにならないような人々に依存するのは危険だという考えを持つ人々もいる。
または、元々足らない状態が恒常化していたのだからそれで良しとする考えもある。
または、外部の人間に必要以上にかき回されたくはないのだという思いの人もいる。

県や市、市井レベル、それぞれで考えに少しづつずれがあるのは確か。

私たちはどうか?
気合いや精神的な側面で支援に関わるのだというのは、あるかもしれないが、私たちは医療の組織なので
、実際に医療で、現実的に関わる。

私は、実利主義、実効主義な人間なので、精神論は必要以上には持ち込まないし、それを賛美する傾向がある日本人たちとも、
一線を画したいと思っている。

私たちは長期的視点で関わると誓った。
だから本当にそうする。
ただそれだけだ。

医療の側面から見て、それが現実に必要だと分析している。
だからそれを解決するように、現実に動く。
実際に効果があるように行動する。

私が、県や市の長ならば、今回の災害を逆手に取るだろう。
三陸地方は、元々、ひどい医療過疎の状態にある。

それを解決するためにに、今回の災害を逆手に取り、長く外の医療者を呼び込み、チャンスがあれば、
医療者の定住や長期就職を、画策すると思う。
そのための仕組みを用意し、実際にアプローチすると思う。

本当にあれほど多くの医療者が、訪れたのだから、一時的な支援に終わらせてはいけない。
どうすれば、長期的な支援に切り替えさせることができるのか、知恵の絞りどころだ。

そのひとつのアプローチを、今年、秋からジャパンハートが始めて見たい。
小児を中心とした診療所を宮城県に開く準備にかかっている。
実際に効果ある医療というのは、診療活動をしないと生まれないと考えている。


ここに全国の医療者を呼び込むためのアイデアを練っている。
今時の若い世代は、結構、やってくると思う。

あとは、お楽しみ。
上手くいくかもしれない、いかないかもしれない。

でも、許可を出してくれたら、宮城県には後悔はさせないつもりだ。

自分のことだけを考えているような人以外、誰も損はしないから、国にも協力をしてもらいたいと思っている。
by japanheart | 2011-09-24 10:29 | 医者の本音 | Comments(2)

嫉妬

嫉妬

以前、書いたブログにミャンマー人をもっともよく理解するキーワードは
 嫉妬、すなわち ”ジェラシー”だと書いたことがある。

 人間、一体どういうものが嫉妬という感情なのかを理解するには、難しいかもしれないが、
これはもしかしたら人が上昇してゆくためのモティベーションになるかもしれない。ただし、マイナスのエネルギーが張り付いてはいる感情だ。
 人は、時にマイナスの感情を上手く利用して、上昇しなければならない。
 プラスの感情利用だけでは、不十分だ。
 
 あの人の人気に嫉妬する。
 あの人の技術に嫉妬する。

 だからがんばって自分もそんな風になろうと努力する。
 それが人の、自然な在り方かもしれない。
 
 ミャンマー人だけでなく、人は皆同じか、、、。

 ところが最近、ここに嫉妬の感情を喪失してしまった人間がいる。
 そう、何を隠そう、この私。

 最近、もう人がどうでも良くなってしまった感じがする。
 前から、後進の医師たちには、私をどうぞ抜いていってくださいという風に思っているが、
 これが良いか悪いか、いろんなところに広がってきてしまった。
 まあいいや、まあいいや、で私のこころはとんでもない状態になっている。

 先日書いたブログ、「人生50年論」のように、本当に後4年をどう生ききるかを自問自答している。
 もう、他人になんか嫉妬していられない。
 嫉妬は、比較から生まれる。
 他人と比較する段階から、自分しかできないことを生み出さねばならない段階にさしかかっているからだ。
 比較するものがあるとすれば、それは他人ではなくて、昨日の自分だろ。
 
 私は、今や嫉妬という感情をかなり弱めながら、何を求めていくべきなのか、悶々としている。
 先日、今年までジャパンハートで働いていた石田先生とやりとりしていたら、いつも前向きで良いですねといわれた。
 自分では、最近、意気消沈している感じがあるが、他人から見たらギラギラ感、丸出しらしい。
 46で、ギラギラしていて何が悪い?と独り言。

 最終的に、何を求めますか?という問。
 さあ、何だろう?

 冒険家の植村直己は、いつまでも冒険をやめず、そして斃れた。
 革命家のチェ・ゲバラは政治家にはならず、最期まで革命家としてゲリラを指揮して、処刑された。

 彼らはなぜ、どこかで線引きをできなかったのだろうか?
 最近、彼らのこころがよく分かるようになった。

 彼らは死に場所を探していたのかもしれない。
 
 今、ちょうど「13人の刺客」という時代劇映画がやっている。
 この映画の中で、とても無理そうなミッションを上から仰せつかった、役所広司が次のような台詞を言う。
 「この平和な時代、武士としての”死に場所”を探しておりました。」
 そしてそのミッションを、死を賭け、喜んで引き受けた。

 私も、もしかしたら斃れる場所を、探しはじめたのかもしれない。
 どこまでも続くであろうこの道の先、最期は、ただただ、前のめり倒れよう。
by japanheart | 2011-08-03 02:46 | 医者の本音 | Comments(3)

人生50年という在り方

人生50年という在り方

 第二次世界大戦末期、神風特攻隊が飛び立った鹿児島県知覧にある記念館には、若き特攻隊員たちの遺書が残されている。
 その多くは、戦時下、人の命は人生20年と認識されている。
 25才の若者は、人生20年の時代に5年も多く、時を重ねてしまったと書き遺す。

 信長は人生50年といい、今では平均寿命80年程度、人は知らぬ間にどこまでも人生続くのだと錯覚して生きている節がある。

 寿命が延びれは、幸せなわけではない。
 人生がいつまでもづづくのだと、錯覚していると濃度は、必ず落ちる。 
 齢50を越え、情けない姿をした人や、醜態をさらして生きている人たちを見るのは別に特別なことではない。

 やはり寿命が長すぎるのだ。
 人生50年、このくらいがいいのかもしれない。
 昭和の初め頃の、日本人の平均寿命は男44才、女47才程度、子供がたくさん死んでいた。

 私は46才だから、あと4年で寿命ということになる。 
 もし、本当に50才で死ななければならないとしたら、もうこのくらいで富を蓄えたり、名声を欲したりするのはやめにするだろう。
 ここから数年しかない人生、出し惜しみ無く、蓄えたものを出し切って死のうとする。
 汲々として、名声や地位を求めて、残り少ない人生の時間を無駄にもすることはない。

 人生50年、若き特攻隊員たちが言い遺したように、50を過ぎれば、それは余分な人生と考える。
 すなわち”余”生なのだ、と認識して生きる。
 これがいい。

 50までは、地位を求めようが、お金を求めようが、それはいい。損得で生きてもいいかもしれない。
 本人がそれで良ければ。
 そして、人は50で、一度死んだと考える。

 そこからは生まれ変わった気になって、損得ではなく、善悪を生きる基準に置く。
 どうせいつ死んでも、どんなに損をしても、既に死んでいる人生、大きな障害はないのだと考える。
 もし多くの壮年・老齢の人たちが、善悪を基準に生きてくれたら、どんなにか社会が豊かになるだろう。
 若者たちが、どんなにか救われるだろう。
 何を信じていいのか分からない若者たちが、50を過ぎればあんな風に生きれるのだと知ることは、どんなにか価値があるだろう。

 私の1度目の寿命があと数年で尽きようとしている。
 
 
by japanheart | 2011-07-18 07:19 | 医者の本音 | Comments(0)

人生、防御力の磨き方

人生、防御力の磨き方

 お知らせがまず2点。
 
 (1)先日、お知らせした学生対象のセミナー8月8日(月) OR 9日(火)のどちらかになりそう。
 場所は今回は東京都内。参加費は1000円(昼食代込み)。朝10時くらいから夕方5時前までを予定。
 募集人数は15名程度。今回は、学生ならば誰でもOKということで。中高生でもOKです。
 追って、JHのホームページとこのブログでお知らせします。

 (2)ブログの書籍紹介の下に、ミャンマーの子どもたちが作った手作り石けんの紹介をしました。自然派石けんなので興味ある方はぜひ。収益は子どもたちの自立支援に使われるようです。


 さて、今日の本題。
 防御力の磨き方について。

 とにかく人生、攻め続けようと決心した私だが、防御は今更ながらしないと決めた。
 「攻撃は最大の防御」とはいうものの、最近この考えの違った側面を感じている。

 柔道で最初に学ぶのは、”受け身”といういわば、保険のような考えに元ずく体裁き。
 自分より強い相手と対戦したときに、その衝撃を最小限にくい止める方法。
 これは日本人にはよく分かるし、防御大好きの日本人にはしっくりくる。
 私も祖父に、そのように教えられた。
 受け身こそ、最も大切な柔道の考え方なのだと。

 まあ、しかし、自分の経験に照らしていくと、本物の防御力とは、攻撃の中から生まれてくる。
 はじめから負けることが前提の練習などは、いらない負け癖がつくとしか、今では考えられない。
 
 誰でもそうだが、攻撃力がつくと、遅れて防御の力がついてくる。
 不思議と防御の練習ばかりしていても、防御は上達しない。
 テニスや卓球、格闘技を、あるいは集団スポーツをした人間なら心当たりがあるはずだ。
 武術も人生も同じではないのか?
 防御は如何に完璧でも、いつかは破られる。人生は数十年の長期戦。
 あなたは防御だけで、持ちこたえる自信があるか?
 一度、防御がやられると、ダムが決壊するように、途中からは一気に崩れてゆく。

 ”攻撃の中に、防御を忍ばせる” あるいは ”防御力とは攻撃力の一部であると認識する”
 これが私が、人生から得た極意の一つだ。

 もしあなたが人生のはかなさを感じ、脱サラして何かをしようとする。
 その時、家族のこと、生活のこと、将来のこと等々、頭に浮かび、前に進めない。
 
 ある少年が、野球選手になりたくて、悩んでいる。
 親はしっかり勉強して、いい大学に進み、公務員にでもなった方が、いいのだと考えていることも知っている。

 もし、このような人たちが、自分の気持ちを裏切って、様々ないわゆる常識的な考え通りの行動をしたならば、それはまず防御をしたということだ。
 防御から始まる、体術には勝利はない。どんなに完璧に防御しても引き分け。でも多分いつかは、防御は決壊する。
 人生は自分自身との戦い。しかも、未来の自分、今よりちょっとレベルの高い自分との戦いになる。
 武道には、後の先を取るという考え方もあるが、多くの人にそのようなテクニックはできないし、必要もない。
 
 まず攻めろ!が合い言葉だ。
 攻撃、まず前に進み相手を打ちのめす。初手で難しければ、次手で捕らえる。
 続けざまに打ち出される攻撃の中に、防御を忍ばせよ。
 相手の攻撃がやってきたならば後ろに下がらず、前に出て攻撃を弱めよ。
 押し込まれた状態から返される攻撃の軌道は、読みやすい。
 
 もしも手痛く打ちのめされたら、次回はそれを防御の知恵とせよ。
 
 後ろへ下がるものに、はじめから受けの形を取るものに、勝利はない。
 自己の人生は、常に自分との勝負。
 さらにいえば、僅差の力関係にある未来の自分との勝負となる。
 僅差の力の差しか無きところに、余裕をかました受けの姿勢など、正気の沙汰ではない。

  少しでも長期戦になれば、すなわち一瞬で決まる勝負以外は、全て何らかの防御を必要とする。人生はこの型の勝負ばかりだ。

 「攻撃は最大の防御」は、攻撃していれば相手からたいした攻撃されることはい、という意味ではなく、攻撃と防御は一体化され、相手からの攻撃に対しては上手く防御がなされ、攻撃状態が続く、ということだと理解している。

 人生は逃げてはいけない。
 背中を向けては、また今日と同じ明日が続く。

 防御力の磨き方は、至ってシンプルだ。
 ただ、攻め続けることだけを考えて日々、行動する。
 
 息を吐くのと吸うことが一連の作業のように、自然と一本化が始まる。
 すなわち、攻撃力強化によって自然と防御力が磨かれてゆく。

 世界一防御力が強い国は、どこだ?
 アメリカだろ、多分。
 世界一野球が強いチームはどこだ?
 多分、いちばんいい投手陣を抱えているチームだろう。

 
 
by japanheart | 2011-07-13 16:33 | 医者の本音 | Comments(1)
人生の形相 -その4-初恋の法則

人生は一度きり、こころゆくまで生ききらねばならない。
ここからはさらに、自分の人生は、本当に一度きりしかないことを納得してもらうために、多分、人生の大切な形相の一部を述べる。

 誰にでもあるだろう、初恋。
 
 運命的な出会い。
 前世から巡り合わせ。
 
 この事についてまず考えてみたい。
 運命的な出会いとは一体何だろうか?
 これについて普通は深く考えることはない。大体、運命的なという言葉で、何かしら、因縁のあるという風な意味合いがある。因縁というのは、原因と結果の因果関係をいうから、運命的な出会いには、その原因がなければならない。
初恋でも、一目惚れについて、考えるとわかりやすいので、これを例にとる。
 初めてあったその日から、恋の花咲く、、、、というように、初めてということは、この一目惚れの相手には、ファースト・コンタクトであり、原因なるものはお互いの間に存在しない。
 でも、なぜ惚れてしまうのだろうか?
もしかして、前世なるものがあり、それが因になっているのだろうか?

 輪廻転生に関する私見については次回述べることにする。

 そこで、本当に前世があったのだろうか?あるのならば、そうかもしれない。
 しかし、前世など無ければ、どう説明すればいいんだ?
 一体、この初恋の原因は、なんだろうか?

 私は、これを脳の折り込みと理解している。
 私たちは、美しいと一般的に感じる女性は、私の幼い頃から、繰り返し繰り返し、テレビや映画で流されてきた、ハリウッド映画に出ているような女優たちがひな形になっている。

 私の初恋は、中学1年生だったが、別の小学校から一緒になったはじめの数日で、ほとんど話もしていないのに、惚れてしまった。
 なぜだろう?
 その同じ時期に、それも別の小学校から一緒になって初めて出あった2人の男の生徒のことをどうも初めてあった気がしなく、どこかであったことある、あるいは以前から知っているような気がして仕方なかった。それでその二人に、私を知っているか?今まであったことがあるか聞いてみたが、答えはいずれも、ない!ということだった。
 これは一体どういうことなのだ?
 まさに前世の因縁か??

 同時期に起こった上の2つの出来事。
 今では深く関係していたことに気付く。

 私の答えは、今では明確だ。
 答えは脳の折り込み現象。
 私は生まれてからそのときまで、特にある程度記憶が明確になる前が、特に重要かもしれないが、その頃に、この私が恋心を抱いた女の子や同級生になった2人の男の子と、何らかの類似点がある人に私は出会っている。しかも、とても自然で心地よい記憶として脳のある場所にその記憶は保存されている。そのため初めての出会いの時ですら、非常に懐かしかったり、とても好意的になったり、求めたり、本能的な欲求としてその人を脳が受け入れてしまう。
 これが私が理解している初恋の仕組みで、運命的な出会いの因なのだ。
まさに、トラウマの記憶と真逆の作用なのだ。

 すなわち、その人、そのものに会っているわけではないが、その人と何らかの類似点がある人と幼い頃に出会っいる、しかも非常に心地よい出会いをしている。
 それが因になり、その後に出会った、似た人を好きになってしまう。
本人にはその記憶が、全くないため、まさに運命的、前世からの巡り合わせのように感じてしまう。
しかし、そんなことは決してない、と考えている。ロマンは無いけど。
 その記憶を与えたのは、幼いとき、抱き上げて微笑んでくれた近所のおばさんかもしれない。
あるいは、幼い日、お菓子を手に持たしてくれた駄菓子屋のお姉さんかもしれない。
 その人に何らかの類似点がある人を、出会った初めての瞬間に、脳がキャッチし、ある信号を送り、惚れてしまうのだ。

 どうだろうか?
そう理解すると、もしかしたら目の前にいる幼い子どもたちに、良い記憶をどんどん持たせると、あなたのような人を初恋の相手や、恋人、結婚相手に選ぶかもしれない。
 しかも、本当にこころが求めているのは、出会ったその相手ではなく、幼き日、親切にしてくれたあなたなのだ。ひな形は、あなたなのだ。
これって、すごくないだろうか?
あなたがある子どもの人生や運命を左右している。
何と罪深くもロマンがあるのだろうか?

 男は、母親にどこか似ている恋人や奥さんを選び、あるいはその真逆の人を選ぶ。
 女は、父親にどこか似ている恋人や夫を選び、あるいはその真逆の人を選ぶ。
 それは親が、その記憶をつくるチャンスが一番多いからだろう。

 人生の出来事は、前世からの因縁ではなく、全て今生での因果関係にある。
 もし生まれ変わりがあったとしても、全ては、生まれてからの記憶によってコントロールされるのだ。
 人生は何があろうと、一度きり。
 人は一度きりの人生の中で、全て完結する。
 脳細胞は、実在物質でその中に記憶がある。だから、細胞をダメージすると、記憶が失われる。だから、たとえ、生まれ変わったとしても、前世からの脳細胞を今生に持ち越さない限り、記憶は継承などされない。
だから生まれ変わりがほんとにあったとしても、記憶など継承されない。
 苦しくて自殺などしたら、全てはパー。死ぬときとき、何かが継承されると思っているかもしれないが、何も継承されることはない。
 だから、もったいなくて、そんなことしてられない。
 良いも悪いも、全てここにある自分の人生の中の出来事。
 しかも、今、たとえ不遇でも、新しく良い因を生み出せる。
 いくらでも。
 かつて、あなたはもしかすると今の悪い結果を生み出すために過去に因を積み上げてきた。
 将来、良い結果を生み出すために、あなたがやるべきことは、そのための因を今生み出すこと。
 欲に駆られて、悪因をつくってきた人間ならば、欲をかかずに生きているだけで、すなわち良い人生が訪れる。
 傲慢さ故に、今窮地にあるならば、傲慢さを人生から無くなすように生きているだけで、きっと良い人生が訪れる。
 今のあなたの状態が悪ければ悪いほど、問題点は明確だ。
 それを意識して、省くだけで、人生が好転し始める。

 最高の自分の才能のありかを見つけ、今、新たなる良因をどんどんつくる。
 きっと1年後は少しは良くなっているはず。
by japanheart | 2011-06-12 06:18 | 医者の本音 | Comments(2)
人生観の形相 -その3-アジア的という人生感覚



小学生の高学年の頃、買ってもらった地球儀を前にして、日本の位置を確認した。
次に、私が住んでいる大阪府を確認し、そして吹田市をとやって場所が特定できなくなった。
「おいおい、どんなけ日本は小さいねん!」と吉岡少年はつぶやきながら、遠くから離れて地球儀を見た。工場をやっていた自宅の1階の隅っこから反対側においた地球儀を見て、またつぶやく。
「小さ!日本一体どこやねん??自分は一体どこら辺におるんやろうか?」

 残念に思った吉岡少年は、部屋に帰ってノートを開き、ノートの見開きの中20分の1ほどの大きさの地球を書いた。その中に日本を小さく書き込み、その中の大阪府吹田市辺りに赤点をポイントした。そして、その赤点にどんどん上書きをしていった。赤点は、どんどん周辺を浸食し、広がっていった。やっているうちにその赤点は赤丸になり、やがて日本をその下に飲み込んでしまった。

 再び、ノートの白紙のぺーじをめくり、再び小さく地球を書き込んだ。そして自分のいる辺りに強く赤丸を書き込み、続けて「私はここだ!!」と書いた。
そしてつぶやく。「こんな小さい存在で終わってたまるか。」
そして、想像した。
地球を取り巻く星々のなかで、私のいる辺りがらんらんと輝いている。
遠くの、遠くの銀河の彼方から、地球のある辺りを眺めると、なぜか私のいる辺り(地球)がきらきらしていて、そこに私がいると分かる。この広大な宇宙の中ですら、私のいる場所はよく分かった。

 アジア型の人生観の中で、生きていると心地よい。多分、いろいろなものとつながりを感じるからだと思う。これに、吉岡少年の視点があればもっと幸せになれる。
 私は宇宙の中にあるたった一つの星かもしれないが、でも他にはないすごい輝きを持ち、私だけは宇宙のどこから見てもその光のありかを確認できる。それほど特別な、他にはない存在なんだ。
その存在を失った宇宙は一体、どれほど寂しく、無味乾燥な星々の集まりになってしまうのだろうか。
 この大宇宙にとって、かけがえのない大切な存在が私という人間なのだ。

 私を失っても宇宙も地球も明日も必ずそこにあると思う。
上手く続いていることだろう。しかし、まあ、そこは以前ほどの、良さはない。何せ、私がいなくなってしまったのだから。

 自分のいのちや人生を大切にするなら、私が存在しなければこの世は無きの如し、意味なき如しと考える欧米型の生き方も良いけど、小学生の少年が観た視点も悪くない。

宇宙の星の一つが、個を主張するという在り方。
個の主張とはすなわち、個性の開花を意味する。
私というのは一体、どんな才能に恵まれ、何をするのがもっとも能力を発揮することになるのかを生涯、考え続けて行動し生きてゆく。

 もしあなたが今、自殺しようとしていたとしよう。
今自殺しようとしているあなたなど、輝きを放っているはずもないが、あなたはあなたの才能のありかを見つけることができず、その天賦の才を発揮できないでいたということになる。
もし、それを見つけ、それを発揮していたならば、今こうして死ぬことなど考えていないからだ。
 だから、せめてそれを見つけるまで、それを持って人生を勝負するまで死を待っても遅くはない。
本当の勝負はこれからということになる。
 野球でいうと、せっかく、大逆転劇があると予想される後半戦を放棄するようなものだ。
どんなにピンチの時でも、必ず勝利することを結果として知っていたら、誰だって最後まで戦うだろう。人生はまず、最終結果を、合格点にするところから全てを逆算しなければならない。
 
 めらめらといのちの炎を燃やしてみる。宇宙に輝く、あなたという一つの星のありかを全宇宙に向け宣言してみる。
 どうだろうか?

 
 欧米人たちの立つ視点は、私は宇宙の中心という視点。
 日本人は、宇宙の中の一つの星という視点。
 ここまできて気付いたろうか?

 欧米人たちは、自分が自分の目で宇宙を見上げている。
 日本人たちは、ひとつの星である自分をもう一人の自分が遠くから眺めている。
 多くの星の中にある自分という星を見ている。(だから、自分が死んだ後も宇宙はそのままだと分かっている)

 この遠くから観ている視点の在処って神の目線?のようなものだろう。

 これからの日本や地球にとってこの神の目線が必要なんじゃないか?
 自分個人がどうだという視点だけじゃなく、もっと大きな世界からみた視点が。
 
 日本人たちよ、自殺している場合じゃない。これからこそ、私たちにはやらなければならないことが山積みなのに。
 この神の視点を持てるものは、個の視点に向かって猛烈に収縮したときに、存在価値を見失い消滅を選ぶ。
 光りまくって、それを宇宙から眺める。
 才能を見いだし生きる。そして、星としての光りを増す。私はここにいるぞと、ここにあるぞと宇宙に木霊を投げかける。それを宇宙から確認する。


 私は、どっぷりアジア型の人生観に浸り、生きながらいのちを決して軽んじたりはしない。
 せめて自分の人生やいのちだけでも大切に生きたいものだ。

 
 
 
by japanheart | 2011-06-08 03:40 | 医者の本音 | Comments(1)
人生観の形相 -その2-アジア的という人生感覚

 アジア的な人生観、特に日本人の人生観を考える上でどうしても分かり安く理解するヒントは、欧米の人生観を理解することにある。
 私が高校の頃の社会や大学時代の倫理の時間でこういう大切なことを教えてくれる人文社会の先生に出会えなかったが、これは本当に大切なことなので敢えてここで、書いておくのもいいかもしれない。(やっぱり中学や高校の教師たちはもっと勉強し、いつも本を読むべし!)

 デカルトという人がいた。1600年代のフランスの思想家で、近代合理主義の父と言われる人だけど、この人が
 「我思う,ゆえに我あり」と答えた。
高校の教師たちは皆そう教えた。教えたというか、そう言った、という方が正しいかもしれない。
近代思想が、何とか何とかと言いながら、、、。
そう言って、あっという間に次に進んでいった。
この言葉の本当の重要性に気付いていた教師はおそらく誰一人いなかった。少なくとも私の周りには。

これはそのものでは理解しにくいが、アジア的な人生観を理解するとよく分かる。
日本人は、自分を宇宙の星の中の一つと考えている。だから、もしその自分が寿命を尽きて、この世から消滅しても、宇宙はそのまま続く、と考える。
考える故に、自分一人の生き様や生死すら、世の中には大きな影響など与えはしないのだと考えてしまう。
だから、自殺者が、多いのかもしれない。あるいは、戦争中は、玉砕や特攻などという考えが正当化されたのかもしれない。自分たちは死ぬけど、きっと日本はそのまま継続され、きっと戦争に勝ち子孫は繁栄していると考えたのはそんなに瓢箪から駒の逸脱した考えでもない。
日本やアジアで輪廻転生が、大切に保存される所以もここらあたりにある。

 デカルトは言う、「我思う、故に我あり。」

 彼は言う、どんなにすばらしい宇宙もどんなに美しい花々も、私が存在しているからこそ意味を持つのだと。
 私のいなくなった宇宙や美しい花々など、どうでもいいものなのだと。
それは主を失った家のごとく、魂の抜けた肉体のごとくであり、存在していても、存在していないのと同じであり、価値などないのだ。意味などないのだ。


突き詰めてゆけば、戦争で、私が死ねば、祖国が残ろうがそうでなかろうが、家族が残ろうがそうでなかろうが、どうでもいいのだろうとう、いうことにすらなる。私が存在しない世界など、どうでもいい。

 これこそが、デカルトの主張であり、今の欧米人たちの生き様の根本にあるものだと理解している。

 個人の権利などはこれによって裏付けられている。この世に生きてこそ、私が存在してこそ、全てが初めて意味をなす。

 一体どっちを元に生きる方が我々は幸せなのだろうか?単純にそう思かもしれない。

ちなみに私はかなり強く、アジア的人生観に基づいて生きている。
美しい花はたとえ私が死んでも、その美しさは変わらず意味のあるものだと信じている。
しかし、人命を軽るんじたりはしなくなっている。

仏教で言うところの悟りは、おそらくデカルトの思想の延長線上では生まれにくい。
悟りの境地はおそらく想像するに、意識の拡大を意味するものだろうから、宇宙から地球を見下ろす視点がなければ、なかなか難しいからだ。
 アジア的視点の延長線上にこそ、悟りはあると考える。

アメリカ人やヨーロッパ人たちが一見、自己主張の塊のように私たちが感じる根幹には、このデカルトの思想がある。だって、自分が宇宙の中心にいるわけだから。

 そして今時の日本人は、どっちつかずで、迷走し、一番損な生き方をしているように感じる。
何せ、多分だけど、自殺するときすら、後は野となれ山となれ、で死んでいるんだから。
未来の永続性も信じれず、過去は否定し、現在に斃れるという感じ。それって絶対的絶望じゃない?
アメリカ人やヨーロッパ人ならば、せめて、自殺するときも、過去は良かったって少しくらい考えるはず。
 
 そこで次回は、じゃ、どう生きれば良いんだということについて私見を述べたい。
by japanheart | 2011-06-06 06:55 | 医者の本音 | Comments(1)
-人生観の形相ーその1ーアジア的という人生感覚

 欧米と違って、アジア人は、日本人はかなり、自分という存在を、多くの星なかのの一つの星にすぎないような感覚がある。

 だから自分が消滅しても、その後、宇宙は何わりなく継続されるような感覚。

 ここからおそらくいのちの軽薄さや死生観を身につけているのだろう。
 私のいつもこの感覚にさいなまれる。

 何をしても、いったいそれがいかほどのことになるのかなどと、やがてどこからか声が聞こえてくる。
 何をなしても、多分、これがどれほどのことなのか?と、きっと思うに違いない。


 富を積み上げ続ける人を見るにつけ、虚しさを感じるのもそのせいなのだろう。
 あちこちにある大企業群の看板や広告を見てもそう思う。
 本当に窮屈な毎日を働きつづける東京の人々を見ていると悲しくなってくるのもそうなのだろう。

 人がこの感覚に強くさいなまれたときに、会社を辞めたり、田舎暮らしを始めたりという行動をとるのかもしれない。
 人生は、本当に星が瞬くように、その瞬間に、存在の意味や喜びを見いだしたいと思う。

 それがせめてもの自己存在の意義ということになるのかもしれない。

 子どもが時の経つのも忘れて砂場で何かを造っている。
 たった一人で、何とかごっこをして遊んでいる。
 大人の人生もこれと、いったい何が違うというのだろうか?

 持ち金ややり遂げた仕事を誇るのは、子どもが砂で造った何かを誇るのに似ている。
 神様から見れば、さぞかし微笑ましいことだろう。
 きっと、「よくできたね」と、親が子に言うように、言ってくれていることだろう。

 
 
 
by japanheart | 2011-06-01 07:27 | 医者の本音 | Comments(0)