ジャパンハートの代表。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

カテゴリ:医者の本音( 101 )

お前は私を超えることができるか?


 若い世代の人たちに話す際によく言うことがある。

私は私なりに自分の人生で良いことも悪いことも経験してきたし、普通の人たちよりもおそらくたくさんの失敗をしてきたと思う。それゆえに、そこからまあ、いろいろな事を悟りもし、自分の中に沈めてきた考えや知恵もある。



e0046467_1033830.jpg


 今私が若い世代に語りかけるその知恵は、私が若いころには手に入れることができなかったものだ。

だから苦労をして、その結果、なんとか手に入れ今に至る。

私が若い頃にも当然、、世の中にはそのような知恵を持つものはたくさんいた。

しかし、その知恵をついに私は聞くことはできなかった。

それはなぜか?

私には若い頃にそれを聞ける才能がなかったからだ。

才能がない私は自分で失敗をしながら時間をかけ痛い目にあいながら、ようやくその知恵を手に入れることになった。

もしも若い頃に私がそのような知恵を手に入れる才能があれば、、、。

きっと、もっとすばらしい、エキサイティングな人生になっていたような気がする。


もし20代や10代で私の話を聞き、その知恵を手に入れることができたのならば、それは少なくとも同じ年頃の私よりはるかに才能に恵まれているということだ。

あなた方は間違いなく私より才能に恵まれている。

それでもなお、私以下の成果しか人生に残せないとしたら、それは自分の才能を裏切ったことになると自覚しなければならない。

人の目線や、常識、お金や待遇、名誉、それら全ては自分の才能を奪う可能性が高い性質のものだ。

これらをどうコントロールできるかで人生は大きく変わる。




私がいつもお世話になっている松下政経塾 元塾頭の上甲さんはある日、松下幸之助翁からこう聞かれたそうだ。

「お前は私を超えることができるか?」

恐縮して、上甲さんはそんな大それたことは考えられないと応えたそうだ。

しかし、翁は「なぜだ?」「超えれるはずだ!」と言う。

応えに窮していると、続けてこういう内容を言ったらしい。

「あなたは私のことをずっとそばで見て知っている。何を行い、何をどう考え、どのように失敗したかもだ。」

「だからあなたは私を取り入れることができる。」

「それに自分を足すのだから、超えれないわけはないだろう」と。


多くの人は自分には大した才能がないと思い、世の中を変えるようなことができないと思う。

でも本当は、世の中を変えるというのは、なにも政治家や企業家の専売特許ではない。

誰でもできるし、その可能性はある。

時間・場所・タイミング・やり方・考え方、これらを上手く組み合わせればありえることだ。

それを拒むものがあるとしたら、その人の意識や考え方、それから欲やエゴが邪魔するからだ。


病院で働く、いち看護師だって世の中を変えれる側に立てる可能性がある。

しかし、病院にお金で飼いならされ、マスコミや銀行に不安や欲望をあおられ右往左往している間は、まず無理だ。

生涯、不安を持ってあたふた生きるあなたになる。


勇気というのは翼のようなものだ。

少しの勇気を持って世の中に変化を与える側に立ってみる。

押さなければ跳ね返りがないように、世の中に変化を与える人間には世の中からいろんな反応が返ってくる。



e0046467_1033487.jpg


そして人生が動き始める。

同じ場所で右往左往していても世の中は何も変わらない。だから自分の人生にも変化は起こらない。

世の中はすごく単純にできている。


与える変化の大きさは問題ではない。それは個人の個性によって変わってくるだけだ。

それより自分の人生にいかなる変化が起こったか?それが全て。


今日も、明日も、その次も、そして10年後も、、、。

同じ毎日を同じように過ごしたいかどうか?


同じ毎日でもたった一つだけ違うことが起こる。

それは人は歳を取っていくということだ。

同じような毎日でも気がつけば、髪は抜け、皺は増え、そして内臓は弱る。


機械で編んだ布は狂いがなくて均一でしっかりしている。

しかしその中に宇宙は感じない。

調和していそうで、調和などない。ある種の緊張があるだけだ。

しかし、人の手によって高度に編まれた布は、一糸一糸まったく同じでないが、全体が調和してそこには宇宙の縮図があるような気がする。


人生の時間も同じだ。

人生をかけてどんな布を編みたいのか。今一度、惰性で生きている若い世代に詮索したいのだ。








by japanheart | 2017-01-30 16:45 | 医者の本音 | Comments(0)

ものごと上達の秘訣

ものごと上達の秘訣

先日ない時間をぬって小学生の二人の息子たちに質問をした。
「スポーツや習い事での上達の秘訣は何だと思う?」
長男曰く、「心の持ち方が大事」
次男曰く、「たくさん練習すること」
共に正解である。
今や世界の一流のアスリートでも、はじめの頃は小さな集団の中でそこそこ目立っていても、だんだんとレベルの高い集団に属し始めるとすごいレベルの人たちが周りにたくさんいて、その中から突き抜けてしまった現在の世界一流の姿は想像できなかったと思う。
世界一流になる!と心では威勢を吐いても、はじめの頃、現実には半信半疑の状態だったろう。
それでも自分を日夜信じ、人一倍の「たくさんの練習」を行い自ら一流になるのだという「心を持ち続ける」ことは大切だと思う。もちろんそれなくしては今の姿はなかっただろう。それは必要条件だったのだ。

もちろんスポーツなるものは生まれつきの体格や運動神経などが大きく影響する。
勉強や習い事の類にもそれは当てはまるだろう。

おそらく今、世界トップレベルの人と同じ才能に恵まれた人間はおそらく世界に数多くいるだろう。
勉強も鍛えれば東大にいける人間は、それこそ万の単位になるだろう。
では、そのトップレベルとそうでない人との間には一体、どんな違いがあったのだろう?

トップレベル近くにいる母集団の人間たちと、トップの人間と何によって差が出てしまったのだろうか?
東大の合否境界の上と下、天国と地獄を分けたものは一体どういう経過によってなされたのだろう?

私が子どもたちに指示したことは、たった一つ。
「いつも考えること」だった。
これが、私が考える抜き出るための秘訣なのだ。

千回野球の素振りをする。
千本サッカーでシュートの練習をする。

ただ、千回必死にバットを振る。
ただ、千本ゴールにめがけてシュートを放つ。

その人間と、
一振り一振りにテーマを儲け、何かを確認しながら素振りを1000回行う、
あのゴールの角にこの角度でシュートを入れるためにはどうすればいいのか、を考えながら毎回シュートを放つ、
そういう人間の差は同じ才能があったとしても時間の経過と共に大きな成果の違いを生み出す。

近代随一の武道の天才、佐川義幸氏は弟子たちにこう言ったそうだ。
「考えろ、考えろ。私にとっての正解が、あなたにとっての正解とは限らない。」

医療の現場にいても同じことを感じる。
人の指示に従う癖がついている人間は自分で考える習慣がない。
だからいつまでたっても医療のレベルが上がってこない。

e0046467_14471444.jpg


10年やっても20年やってもほとんどそのレベルは変わらないのだ。
ただ経験と習慣だけで動く。それはなれれば早く動けるようにはなる。しかし、場所や条件が変われば途端にフリーズしてしまう。そして何も自分で答えを生み出せない。その姿は最近、医療者になったのか?と思ってしまうほどのレベルなのだ。
しかし、実はそれがその人の真実のレベルだと思うのだ。慣れとごまかしで日々何とかなっていただけなのだ。
自分で考えないということは、ホントは相当、恐ろしいことなのだ。

より深く考えるためにはできるだけ現状の正確な認識が必要だ。
ある事柄についてどれほど知らないのか。どこが分かっていないのか。何がおかしいと考えられるのか。
ここでごまかす人間は成長しない。
間違ったままの状態でいくら練習しても癖が増長されるだけで決して高いレベルには達することはできない。

本番以外の試験は全てその正確な現状把握のための材料であり、自己修正のための情報だ。
他人の競技や試合、そして自分のビデオを見るのも全て、自己修正のための手段だ。
他人の動きから自己の動きを認知、分析し、自分の修正に使う。
これは全ての事柄に当てはまり、医療も全く同じだと思う。

そしていつも考えるのだ。
この動きの修正はどうすればいいのか?ああでもない、こうでもないとやってみる。
この問題が解けないのは、どこが分かっていないのか?ここはどうか、あそこはどうかと考えてみる。
そういうことを四六時中、癖になるまでやる習慣がつくと必ず大きな上達が起こる。
やがて大きな気付きが起こるのだ。

私たちが知っている一流の人間たちは皆、
いつも自分の心で未来と現在を何とかコントロールしようとし、誰よりも多くの練習をこなし、一番、悩んで考え続けている人間だと思う。

今日、次男が妻に「俺、今日考えてサッカーしたよ」と言っていたそうだ。
ここからの継続が大事なんだけどね。

ライフワークにしたいものは、とにかくいつも現状を正確に把握しようとし、修正発展させるためにいつも考える習慣をつけたほうがいい。


e0046467_14464491.jpg







by japanheart | 2016-04-28 02:21 | 医者の本音 | Comments(0)

これから20年の国際貢献のゆくえ~途上国医療のこれから


 時の流れは速いものだ。

 20年なんてあっという間。

 しかし20年あれば十分、時代は大きく動いている。


 1980年代中頃、医師を目指して医学部に入学した。医師を目指した理由はたった一つ。絶対に医療を受けることができない人々に医療を届けたいと思ったからだ。

 そして30歳のとき日本で数年間医師としての勉強を終了し、途上国へ向かう。

 そしてミャンマーを訪れた。

 私が医師を目指したとき外国で働くというのは、北米や欧州で勉強や研究に行くこととほぼ同義だった。医師として途上国で働くなどということはもちろんほとんど有りえない選択肢だった。

 もちろん、日本政府や国際協力事業団(JICA)からの派遣として幾ばくかの期間、技術協力・指導などの目的でその土地に赴くことは選択肢として与えられていた。しかし、それはしっかりとしたステイタスと高額のサラリーが保証された特別な分野であった。


 そんな時代に、日本政府の後押しもなく、途上国医療を目指し、実際に途上国の医療現場に赴く人間は完全に標準の±2S.D.(標準偏差)外、しかもマイナス2S.D.のはるか彼方に存在するまさにoutlierであり、それは否定の対象にすらならず、無視あるいは黙殺する特異な存在であった。


 それから20年。

 私のやっていることは20年前とほとんど変わらない。

 しかし、時代は確かにしっかりと動いていた。

 

 日本の権威ある医学学会、シンポジウムなどから声がかかるようになった。

 かつては厳格な医局制度の中で、途上国などで医療をするという馬鹿げた?行為を徹底的に否定してきた人々が、私の話に耳を傾けるようになったのだ。

 若い世代の医師たちだけでなく、大学教授や大病院の部長などの人々が、途上国医療に興味を示してくれるようになったのだ。

 今年も5月には日本小児外科学会総会で講演する予定になっている。


 そして今や現実に海外の私の元には年間に600名程度の医療者がその活動を支えるためにやってくるようになった。そして今後、その流れはますます加速する。

 これは時代の流れだから、おそらく誰にも止めることはできない流れになると実感している。


 さて、この延長線上で次の時代を私なりに予想している。

 これから15~20年で、時代は再び大きく変わる。

 人工知能の発展が医療そのものの姿を変えてしまうだろう。

 人々の病気は予防医学の劇的な進歩によって治療という医療の重要な役割の比重を大きく下げることになる。

 アジアは大きく経済発展し、都市部での医療レベルは東京でもバンコクでもマニラでも北京でもおそらく変わらなくなるだろう。

 今は日本の医療界も医師や看護師が足らないと必死になっているが、あと2030年もすれば医師や看護師は大きくその役割を変え、今ほど人数は不要になる。今は数こそ力だと一生懸命に人を集めている学会や医局にも人数制限が設けられ、簡単にはそこに入れてもらえなくなると思う。


 医療レベルの差は都市部で変わらない一方、非都市部では各国の経済レベル、政治レベルの差によって発展度や達成度に差が生まれ、政治や経済が上手く機能していない国ではしばらくの間、日本などの先進国の人々ほど時代の恩恵を受けることはできないだろう。しかし、それも時間の問題で解決されていくに違いない。

 それほどに医療は、医療者が知らないところで大きく地殻変動を起こしつつある。


 今後、この時代ギャップによって医療を享受できない途上国の人々に医療を届けるのがジャパンハートの役目になると考えている。


 とりあえず15年、今の延長線上でしっかりと途上国の貧困層に医療を届ける。

 それからさらに15年は、時代の恩恵から取り残されている人々に医療を届ける。


 その後のことは私にも今は全く分からない。


 


 



by japanheart | 2016-02-18 00:59 | 医者の本音 | Comments(0)

上を見るな!下を見ろ!

上を見るな!下を見ろ!


世の中にはすごい人間は五万といる。
私も若い世代には特にチャレンジしなけりゃ将来やばいよ的な話もよくする。
マジで日本社会ほどぬるい社会は最近私はあまり見ていないような気がする。
良くぞここまでこういう社会を作り上げることができたなとむしろ感心する。

私がいるミャンマーでは雨季になると数年に一度は川が氾濫し家も土地も全てが川のそこに消えてしまう。
そうすると農民たちは何かが川から這い出してきたように水かさの上昇に合わせて上に上にと
高いところに家畜と共に簡易の住処を移動させながら高い土手の斜面に小屋を構え、飯を炊き、
挙句には、商売を始めそれはもうたくましく生きている。
e0046467_1917585.jpg


政府からの助けなど端から期待していない。だからそういう環境であっても笑いが絶えず、嘆いている人はほとんどいない。
一方、ある時、ある日本の地方が洪水になり地方の体育館で過ごす、第二次世界大戦を経験した大変な時期を過ごしたはずの日本のお年寄りがインタビューに答えて曰く「もう丸1日もテレビも移らないので不安で仕方ないです。」
日本はこの70年、何て安全ないい国をつくってきたんだろうと感心してしまう。
そして今や、こんなにもぬるい世の中を実現してしまった。
まあ、日本以外のアジアの国々との比較だけれども。もちろんアメリカももっと厳しいでしょ。

そんなぬるい社会で若者に向かってがんばれ!上を目指せ!といってもなんとなく暖簾に腕押しになってしまう。
ホントはがんばらないと日本の失速と共に自分の相対的な位置も落ち始めて果てはどんどん色んな意味で貧しくなっていくのだが。
日本人はある東アジアや東南アジアの国の人間を指して素行が悪い、行儀が悪いと馬鹿にするが、
その人たちのほうが将来、収入も地位も上になってしまう。そうするとどちらが社会から重宝されるのか考えてみるとなんとなく情けなくならないのかな?

そんな若者に私からアドバイスをしてみたい。
そんな若者にあえてこう言おう!
「上を見るな!下を見ろ!!」

そう、すごいやつなんて目標にしたらいつまでたっても動けない。だろ?
すごいやつはいつの日か射程に捕らえるとして、今は敢えて、「下のやつを見ろ!」と言いたい。

人間誰でもこいつにできるんだったら自分にもできるんじゃないかと思う他人がいるはずだ。
こんなしょぼい人間にこんなことができて自分にできないはずはない、と思える人間を探してみてはどう?
本当はそいつは、かつてのそいつではなくて今やすごい人間かもしれないが、あなたが見るべきはかつてのしょぼかったそいつのイメージだ。
こいつにできて自分にできないわけがないと、自分に言い聞かせとにかくその人間と同じレベルくらいのことにチャレンジしてしまう。
現実は厳しく、そんなに人生甘くはないが、そのチャレンジのうち1つ、上手くいくだけで人生が動き始める。
とにかくきっかけだ。
人生はきっかけが全てなのだ。

とにかく人生にフックを掛けろ!

私はよく子どもの頃を思い出せばいいという。
例えば、今、医者でも世間でもてはやされている人間たちの子どもの頃を、一度みんなでのぞきに行きたいものだ。
きっと今は結構、威張っているが子どもの頃は、運動ができなかったり、気が弱かったり、影が薄かった人間が結構いると思う。
その人間たちがなぜ今や、こんなに自信に満ち、威張っているのかを考えてみたらどうだろう。
彼らにもきっとしょぼかった自分から今の自分へのターニングポイントがあるはずだ。
そのポイントはほとんどの場合、ちょっとしたきっかけなのだ。
少しほめられたとか、たまたま上手くいったとか、その程度のものだ。
生まれてからずっとすごい人間なんて一体、何パーセントいると思う。
たいていの人間は、何かのきっかけでのし上がってきているだけでしょ。

だとすると今の自分を変えるのはきっかけをどうゲットできるかにかかっている。

高い山を登るには方法は二つある。
1つは、低い山を乗り越えて体力を徐々に付けて高い山に挑んでいくやり方。
2つ目は、いきなり高い山に登り、挫折して、己を知って、そしてそこを目標に日日努力して行くやり方。

私は2つ目のやり方を好むが、それをできない人は、1つ目のやり方で行くしかない。

まずは低い山を選べ。
とにかく低い山を失敗しても、次から次へと登っていくやり方がいい。

e0046467_19175345.jpg

やがて人生にフックがかかる瞬間が訪れる。
その瞬間に、2つ目のやり方に切り替えてみるのもいい。

ところで、もうひとつアドバイスがある。
それは人生は目標を目指してそれを手に入れるよりも、失敗しようが成功しようが、もしかしたらその過程で手に入れるものの方がもしかしたら価値がある、
ということだ。
これを私は、副作用の法則と呼んでいる。

プロ野球の選手を目指して努力する(目標=主作用)。結果、プロ野球の選手になれなかったとする。即ち失敗だ。
しかし、その過程で得たもの(=副作用)はなんだろう?
努力する価値。人並み以上の体力と忍耐力。挫折を味わった人生観。すばらしい仲間たち。
野球のすばらしさの理解。得たものは、その他数え切れないほどあるに違いない。
実はこちらのほうが長い人生にとって価値があるかもしれないのだ。

そう、チャレンジするということは副作用の宝庫へのアクセスなのだ。






by japanheart | 2015-12-27 00:49 | 医者の本音 | Comments(0)

努力を発露させる

努力を発露させる


努力というものについて私見を述べてみたい。

前回の私のブログの才能の話は、「継続的努力は先天的才能を凌駕する」だった。

特に先天的な才能にはピークがあり、必ず時間の経過と共に衰弱していく性質がある。

後天的な努力によって目覚める才能はピークアウトせずに生涯成長する可能性がある。

だから継続的な努力によって時間をかけていけば、多くは生まれつきの才能の弱さなど克服できるのだ。

という話を書いた。


こういう書き方をすると、必ず、努力するのも才能がいるでしょ!という意見がある。

世の中には”ああ言えば、こう言う”タイプの人が多いが、結論からいうとこうだ。

努力に才能が必要と考えている人は、生涯、浮かばれない。


人間は呼吸が苦しくなれば、自然に呼吸数を増やす。

空腹になれば、これまた本気で食料を捜し求める。

人を好きになれば、その人の気を引くために必死になり、いつも意識を向けている。


自分さえその気になれば、いつでも努力は発露される。

そのための才能はほとんど全てに人に与えられている。

だから才能はほとんど関係ない。

努力をするために人間に必要なのは、体力、知力、そして感情のコントロール。

これらの才能は多かれ少なかれ全ての人に与えられている。

知力・体力が自分は少ないというならば、幼児は努力はできないことになる。

しかし、立派に努力する幼児たちを私たちはすぐに目撃できる。


その目的にあった体力や知力を少しづつ付けていけばいいのだ。

私は手術を24時間でもやることがある。

一方、いくら体力があるプロのアスリート、たとえば野球の選手が手術を24時間やれば疲れてぐったりする。

それ専門の体力を持っていないからだ。その逆も真なり。

知力・体力は積み重ねの延長線上に増強されてくる。


外科医として出来上がった私を見て、多くの人は私には才能があった。

医者という職業に私がいつも魅了され、外科医の手術にいつも情熱をもって向き合っていた。

だから続けることができたと考えるだろう。

その結果、今があるのだと。

しかし、それは誤解である。

私ははじめの頃、外科の手術に興味はなかったし、毎日深夜まで付き合わされる手術現場にウンザリしていた。

早く手術が終わらないだろうかといつも思っていた。

内科の研修をしているときも、その終了の日を指折り数えて待っていた。


そんな人間でも、いつも何とか自分の感情に折り合いをつけ、現状に妥協しながら来る日も来る日も医療現場に立ち続けた。

そして、今がある。


日日を振り返ると一生懸命にやった時期もある。

そんな時は、努力しているなどとは少しも思わなかった。子どもの様に、医療していることがただ楽しかった。そしておそらくそんな時期が一番医療者としても能力が伸びた時期だった。

大きくスランプに陥り、あるいは、やる気が全く失せ、とても人様に見せることができないような時期もあった。

こんな時期は、努力というに相応しい努力などできるはずもなく。惨めなものだった。


私の医者としての能力を認め、私は外科医としての才能に恵まれたのだと評価してくれる人々がたくさんいる。

絶え間ない努力を積み重ね、今の次元に立てたのだと思ってくれている。

しかし、正直な答えは”ノー”なのだ。


私はいつも、怠け者で手を抜きたがり、すぐに休みたがる。

自分に甘く、すぐに現状に妥協する。

そんな自分に何とか折り合いをつけながら、励ましながら、前に進み、継続してきたに過ぎない。


これを努力というのか?

こんなに妥協だらけの私に天は努力という才能を人より与えてくれいているか?


私はそんな怠け者の自分を能動的に動かせないから、他人に動かしてもらおうと、いつもそういう環境に自分を移してやってきた。




やる気がおきない。

すぐに飽きる。

長く続かない。

挙句に、才能がないからできない、続かない。


「では、そこで一生、停滞していて下さい。」としか私には言えない。


 

 

自分が理屈をつけて今いる場所から一向に動かないから知らぬ間に目に見えない糸が自分を取り巻く空間にも、時間軸にも張り付いて人生が時空に固定されていく。

 そしてその動けなくなった自分が評論家のうような顔をしてこう呟くのだ。

 「努力するのにも才能が必要だ。」


 飢餓になれば、人は必死に食べ物を求める。朝から晩まで探し続ける。

 クタクタになり一日を終わることだろう。

 そして次の日も、その次の日も、食べ物を探す。飽きもせず生きている限りはずっと探すことだろう。

 それを努力しているというか?

 才能がないから、探せないといって動かずにそこで死ねるのか?

本気の努力とは本来そんなものだ。理屈でするものではないのだ。

 だから、理屈で、才能だの、やる気だのと自分の安全圏から言っている間は永遠に発露しない。

 

 こんなぬるい社会にいて、安全な場所に存在しているからそういう思考になる。


 今後この社会がもっと殺伐とし、やがて自分が安全な場所にはいないと悟ったときに、その人たちの努力は自然に始まるだろう。

 自分の存在が、何らかの形で脅かされたときに、”努力を!”などと意識せずともアタリマエにそう行動しているだろう。

 それまで、今いる場所で糸に絡まれながらじっとしていればいい。


 でも、もし、あなたが少しでもその糸を緩めたいと思うならば、あなたは取るべき行動は明確だ。

 外敵がいる場所に移動すればいい。

 あなたにとって居心地が少しは悪い場所に移ればいい。

 経験したこともない場所に移動すればいい。

 

 少なくとも私はそうして、いやでも他人に私の中の生きる気力を刺激してもらってやってきた。

 やる気がなれば、文句を言われる。

 長続きしなければ、怒られる。

 それでもなかなか逃げられない場所に自分を自らの手で持ていくしかない。


 あとは私のようにのらりくらりと何とか自分と折り合いを付けながら、時間をかけて継続した先にきっとあなたの陽のあたる場所がある。



e0046467_15115873.jpg

 


 











by japanheart | 2015-12-05 05:26 | 医者の本音 | Comments(0)

日本女性に告ぐ!

日本女性に告ぐ!


 「っていうか、あなたたちは!」と心の中で何度つぶやいたことだろう?

 そう!日本人女性たちに私はひとこと言いたいのだ。


 海外で医療をやっていても本当にたくさんの人達が私を訪ねてきたり、医療活動にボランティアに訪れてくる。

 1年に医師と看護師だけでその数は600名を超える。

 それ以外に一般人や学生、その他の人たちを合わせるとどのくらいになるのだろう?

 そしてそのうちおそらく7割以上は女性である。

 10代の学生から50代くらいの女性までいる。

 

 現地では私はさまざまなことを彼らと話すのだが、女性はどうも、恋話が大好きなようなので、私も何かにつけて、たとえコジツケでも、恋愛にたとえて話をすることにしている。

 その例え、いまいち分かりませんといわれるが、女性は恋愛の話がすきなのだと私は思い込んでいるので、あまり気にせずに続けている。


 ところで、たくさんの女性たちと話をしていてると彼らから飛び出す最も多い台詞の上位3つは、

 

 1、いい出会いがない

 2、いい男性が私の周りにいない

 3、私は結婚できないかもしれない


 という感じになる。




e0046467_1631580.jpg


 私に言わせれば全て間違っている。

 いい男性など元々、日本にはそんなにいなかったと思う。

 戦前の日本人女性は性格はともかく、はっきり言ってすごかった。

 朝の早くから、夜遅くまで、あらゆる仕事をこなし、子育てもして、そして十代のうちから結婚して休むことなく生きていたのだ。

 その女性と日本人男性が結婚して、まあ何とか上手くやっていたということは、いかに日本人男性がいい加減でもやっていけたのかという、今の私たちから見るとそれはうらやましい限りの時代だったのだ。

 だから当然、戦前の日本人男性は甘やかされている。

 だからきっと今の女性が戦前の日本人男性をみても、きっと惹かれはしないと思う。

 きっと「少しくらい家事しろよ!」と怒鳴るに決まっている。

 

 私が思うに日本人女性にいい出会いがない最大の理由は、女性のメンタリティーにあるのではないかと疑っている。

 それは、現在の日本人女性たちの結婚や恋愛に対するメンタリティーが時代にマッチしていないということだ。


 戦前までは、日本人女性たちは職業も持てず収入もなかったために、男性に経済的に頼らざるを得なかった。だから、どうしようもない男であっても、どんなに不釣合いに劣っている男性であっても、何とか自分に言い聞かせて納得してやってきたのだ。

 時に男があまりに酷いときは、その男ではなく、私はその家と結婚したのだと慰めながら、子どもに未来を託し、生きてこなければならなかったのだ。

 ところが、現在は女性はたちは、自分で収入を持つことができ自分ひとりくらい何とかやっていける、生きていける収入は既に獲得できる時代になっているのだ。

 しかも、日本人は既に飢えの恐怖から開放されており、男にいまさら頼らなくても女性一人でも生きていける時代なのだ。

 

 だから何が言いたいのかというと、そんな時代になっているのに、肝心の女性のほうが前代的なメンタリティーのまま現在も男性との関係性を位置付けているということだ。

 だから、現在は既に女性が男性を選ぶ時代になっているにもかかわらず、まだ女性が男性に選んでもらうというメンタリティーから抜け出せていない。

 男性からのアプローチを待っていたり、なかなかいい人が現れないと嘆いている。


 違うのだと言いたい。

 男性から選んでもらおうとするな!女性が選ぶのだ。そう!あなたが選ぶ側なのだ。女性こそアプローチをできる立場であり、あなたがなかなかいい人が現れない男性の前に現れてやるのだ。


 特に日本は女性の親権も強いのだから、たとえ離婚しても余程のことがない限り、子どもは女性の元に引き取られる。

 いい国ではないか。


 これから時代は人の労働形態は、ひとつの職場、ひとつの職業という過去の形ではなくなる。

 おそらく結婚の形も多様化する。

 バツイチ同士の結婚なんて当たり前すぎる時代になる。

 同性同士の結婚。

 未婚のシングルマザーとして子育てする。

 数度の離婚暦。

 それを違和感があると感じている人は既に、時代から遅れ始めている。

 これからは個人の時代。

 社会に合わせる自分ではなく、自分らしく生きるを追求する時代なのだ。

 多様性の時代なのだ。


 過去の決まりきった形にとらわれず、自由に柔軟に時代を生きていける。

 そういう流れの中で、徐々に日本人女性たちは様々な状況から解放されていくだろう。

 その向こうに無理やりでない自然な女性の登用もある。



e0046467_16341573.jpg



 実はこの男性社会、すなわち旧型の仕組みを維持する最大の勢力は、私はマスコミだと思う。

だってこんな時代に何で女性たちが、昔の思考回路を維持しているかというと、誰かが子どもの頃から織り込んでいるからだ。テレビも何もかもそういう女の人イメージばりりで埋め尽くされ、そんな女がとても健気でかわいらしい、すばらしいのだと、知らぬ間にあなたたちは理想のひな形を押し付けられている。
 バカバカしい!
世の女性は男性の所有物ではない。
男性の願望のひな形に押し込まれている時代を卒業するべきだ。
 自分がどうありたいか、どんな女性でありたいかは自分で決めるべきだ。

 女性に関する啓蒙は、3割の力でアクセルを踏み、7割の力でブレーキを踏んでいるようだ。


 全ての日本人女性にいいたいのは、結婚だって、恋愛だって、あなたたちが主人公で、あなたたちこそ選択できる立場なのだと、早く気付くこと。

 

 そして、古い社会の仕組みに振り回されずに、どうぞ自分らしく生きてくださいということだ。

  

 この時代、多様性の時代は、一生懸命生きていればどんな形の人生だって恥ずかしいものなんてない。

 離婚したって、少々歳をとっても、後ろめたさなど持たずに、堂々と次の恋に向かって進んでもらいたい。


 そういう時代だと分かっている私から見れば、女性がうらやましいよ。


by japanheart | 2015-10-20 03:12 | 医者の本音 | Comments(0)
1995年秋。医者になって数年目の私は、たったひとり、軍事政権下のミャンマーへお金を握り締めて旅立った。

その頃のミャンマーは、それまでの経済の失策とアメリカを中心とする経済封鎖にあい、惨憺たる有り様だった。
インフラの整備もほとんどなされておらず、医療や福祉は完全に忘れ去られた国家事業だった。

医療をこの国の貧しい人々届けようと粘り強くミャンマー政府と交渉した私はおそらく、
外国人で唯一、継続的に医療行為を許された人間になった。
押し寄せる患者たちと毎日格闘し、治療は、朝の5時から深夜12時まで毎日休むこともなく続けられた。
そして、医師として十分な経験も技術もなかった私にとって、その毎日は現実との格闘になった。


その現実のひとつに口唇裂という先天異常(アノマリー)があった。

このアノマリーは、日本では一部の形成外科医たち(口腔外科医の場合もある)が主にほとんどの手術を行っており、私にはもちろんその経験もなかった。
この口唇裂の人たちも、日本と途上国では患者の満足度は違うのだ。
医療で最も優先されるのは、もちろん医師の満足度ではなく、患者の満足度だと思う。
その点でからすると、もちろんミャンマーと日本の医療のゴールはおのずと違うことになる。

  
e0046467_1642192.jpg


少しでも長く生かすのが日本のゴールだとすると、ミャンマーのゴールは時間の長さよりも家族や生まれた村との物理的な距離なのだ。

日本では、患者たちは医療を受けれることだけでは、今や満足しない。おそらく、結果を伴って満足に至る。
ミャンマーやラオスでは、医療を受けれる時点で患者たちは満足を得る。


そのことが日本の医師の間でも誤解されていると思う。もちろん途上国であれ、上のレベルであることに過ぎたるはなしであるが、患者さえ満足できれば医療としては既に成立している。

当時、軍事政権のミャンマーという壁を突破して医療をすることが許された、ほとんどたった一人の医師として、私はこのアノマリーの手術にも挑んでいくことになる。
このときの私の技術や行動を批判する医師たちもいたが、私への批判では患者の人生は変わらない。
そういう立派な主張をする医師たちが、私の代わりに全ての難題を突破し、私のように医療活動を現地で許されたなら、喜んでその仕事を譲ったことだろう。なにしろ、私にはいくらでもやることがあったのだ。


しかし、最近のSNSというのは有り難いツールだと思う。

ロシア在住のラオス人から、私たちのFacebookに「この子どもを何とかしてほしい」と連絡が入る時代なのだ。こんなことがラオスだけではなく、ミャンマーでもカンボジアでも当たり前になっている。

ラオス人から連絡があった子どもは、口唇裂がさらひどい型の「顔裂」という状態の一歳の子ども。
簡単に言うと、顔が半分、裂けているということ。


e0046467_1648350.jpg


実は、今までこの症例の患者にはアジアで数度で会い、3度手術した経験がある。
日本では、おそらくどんな専門家でも人生のうち1度か2度しか出会わないかもしれない。

今回4度の目の手術をこの手でやろう、と思った。
しかし、この20年以上をアジアの途上国で医療をしてきた私は、もう時代は変わったのではないかと、ふと、思ったのだ。
もっと専門性の高い人たちがこの子どもを治療すべき時にきたのではないかと。

この子どもは一歳のラオスの女の子。お父さん、お兄ちゃんと暮らしている。

母親はこの子を生んだ後に行方不明になったらしい。
父親は、がんばって働いているが毎日仕事はなく、家族は貧しい。
当然、子どもの治療費もなく、張りぼてのような家でひっそりと暮らしていた。

e0046467_16491064.jpg


このままでは成長しても、学校へは行けない。そうして教育の機会からも遠ざかっていく。

この家族のために、この子どものために、ちょっと本気でかんばってみたいと思った。

興味ある方は、是非、ホームページをみてほしい。     
http://www.japanheart.org/laos/report/cat278/

私が主催するNPOジャパンハートは、長崎県の僻地離島医療を管理監督している長崎県病院企業団(米倉正大理事長)と提携し、長崎県の五島列島と対馬に毎年、年間30名ほどの看護師たちを送り、僻地に人的貢献をしながら地域医療を学んでもらっている。
この企業団の仲介によって、国立病院機構 長崎医療センター(江崎宏典 院長)の形成外科で、この子の手術を行う運びとなった。

手術は7時間ほどかかるといわれている。

アジアの途上国にいて、ここは昔の日本の現実がある場所だなと、いつも思う。

戦前、日本はこの病気が治せなくて、多くの子どもたちが世間から隠れひっそりと生き、ひっそりと死んでいった。本人も親も兄弟も、みなつらい時間を過ごしたとこだろう。
だから、こういう現実を癒すことは、過去の日本を、過去の日本人たちの苦しみや悲しみを癒す作業でもあるのだといつも感じる。


それからもう一つ。

これからは、日本は激しくアジアと混ざっていくことになる。もうアジア人は遠い海の向こうの人たちではない。私たちのすぐ隣の住人なのだ。
日本の医療者が自分の技術をこの国に閉じ込めておく時代も、終わりだ。
世の中に有益なものは、日本だけでなく世界の人々と分かち合う時代になったのだ。


日本国内のことは大事だ。
しかし日本のことだけが大事なのではない。

人間は理想が大きければ大きいほど、現実は重い責任を背負う。
人のいのちは平等だと言ってしまえば、そこに日本人も外国人も無くなってしまう。
同じように扱い、同じように救っていかねばならない。

日本人はどこまでの理想を背負えるのか?

これから私たち日本人は結果で問われることになる。
by japanheart | 2015-09-16 17:34 | 医者の本音 | Comments(0)

私たちが出来る医療とは

  
 最近思うところがあって、現場で数十人の日本人や現地人の医療スタッフたちを前に、こう言った。

「私たちよりお金を持っている人間なんて腐るほどいる。その人間たちが優秀な医療者たちを雇い医療を展開したとき、果たして自分たちの今やっている医療は本当に意義を保っていられるだろうか?」
「どうすれば、お金では買えない医療が出来るのだろう?」
「いい技術やいい器具、いい資材はお金で買える。優しい言葉や清潔さもお金をかければ買えるだろう。」
「私はお金で買えない価値を持った医療をやりたい。その医療はあなた方のこころの中にある。」
「こころからの同情ややさしさ、患者の人生に寄り添う医療、家族の苦しみを理解しようとするマインド」

  などなど。
  それがチームで成し遂げられたときに、私たちの行う医療はその存在価値を持つのだと思う。

 世の中には、お金の力で私たちよりも多くの人を救える人は確かにいるだろう。

 私は今までやってきてある真実に気づいたのだ。それは医療というのは、患者の人生とそれを行う医療者自身の人生を救う行為だということだ。
 医療者たちは自己のたった一度しかない人生の大切な40年という時間を、医療という仕事に捧げる。この間に、たくさんの患者たちが彼らの元を訪れ、患者も医療者も自らの人生を救うために必死に生きる。
自らのためにだ。
 医療者たちは、その患者たちのために人生の一部を使い、必死に働く。この時間が濃ければ濃いほどに自分の人生の密度、すなわち価値も上がっている。
 その時間を中途半端に、それこそお金のためだけに、たとえそれはどれほど技術的な事柄が充実していても、密度はそんなに上がらない。
 通常、医療というのは人を相手にする行為であり、肉体の接触だけでは、半分しか密度ある時間を刻めない。
 そう、こころとこころが摩擦していく中で、密度も上がりそれが可能になる。
 そして人生の後半は、このこころとこころの摩擦こそが人生の密度を刻む大半を占めるようになっていく。

 たくさんのお金を持っていれば確かに患者たちのいのちは救えるだろう。
 しかし果たして医療者の人生はどれほど救えるのだろうか?
 人のいのちを単に数量だけでみて、多いほうがすばらしいと割り切ってしまうのは一面的な考え方のような気がする。
 患者のいのちや人生しかみない医療は、片手落ちである。
 自らの人生を消耗してしまうような医療では、こころある医療者たちは疲れてしまい、それは患者自身の治療にも影響するだろう。
 すべての患者が治療で救われるわけではない。
 多くの人が治療の甲斐なく死んでいくのだ。
 そんな人たちに疲れきった医療者が果たして何を与えることが出来るだろう?

 私はいつもスタッフに言っていることがある。
 「まず、あなた方が最も救わなければならない人生とは患者たちの人生ではない。
 
それは、あなた自身の人生なのだ。
 あなたにとって最も大切なのは数万人、数百万人の患者たちの人生ではない。
 たった一つの”究極の一”
 あなた自身の人生なのだ。

 自らの人生を救うために優しい言葉を患者にかけよう。
 それは、あなた自身にかけている言葉でもある。
 患者のつらい人生に最大限の同情を示そう。
 それはつらいあなた自身の人生に示している同情なのだ。
 家族の悲しみに、患者たちの家族を思う気持ちを理解しよう。
 それは、あなた自身の家族を理解する行為でもあるのだ。

 自らの人生を大切にしたければ他人の人生を大切にしよう。
 自らの人生を他人に理解してほしければ、まずあなたが他人に理解を示すのが大切なのだ。
 
 私はこのことを深く理解し実行する医療者の集団をつくりたい。
 なぜ医者になったのか?
 なぜ看護師になったのか?
 それは自らの人生をかけてでも手に入れたかったものを手にするためではなかったのか?
 医者や看護師など、そのための単なる手段でしかなかったはずだ。

 あなたが手に入れたかったものは何だったのか?
 あなたの人生で最も大切にしているものは何なのか?
 
 それがお金ならばお金で動かされればいい。
 それで”究極の一”が救われるのならば、たった一度の人生そうすればいい。」

 私はとうの昔、そのリターンのほとんどない賭けから降りたのだ。
 
e0046467_13303939.jpg

by japanheart | 2015-07-13 13:37 | 医者の本音 | Comments(0)

今時の若者を恐れる

今時の若者を恐れる

 よくよく昔から、否定的なニュアンスで「今時の若者は、、、、、!」というフレーズが使われる。
 実は私も最近は若者でなくなったのでこのフレーズをよく使う。
 しかしながら、その後の言葉が少し違うのだ。
 しかもこの若者というのもただ目の前にいる若者たちをさしているのではない。
 世界中の目に見えない、得体の知れない若者たちたちをも指している。

 私はこう言うのだ。
 
「今時の若者の中に、油断ならないやつが紛れ込んでいる!」

 1980年代を境に若者はおとなしくなり、少年犯罪も減少の一途をたどる。
 海外にひとりでやってくる若者でさえ、昔の若者のように大人びた人は少なく、何となく幼さを残す。
 意見を求めると、中学生のようなことをいう大学生も多いのが現状だ。
 かつて日本人たちは海外へ出たくて仕方なかった。
 戦争に負けて、中国や朝鮮半島、台湾やアジアから引き上げその後、長らく海外へ行く選択肢はなかったのだ。
 パスポートを持つことさえままならない時代が続き、ようやく最近は多くの人が自由に海外に行ける時代になったのだ。
 こんなにいい時代なのに、ビビッて出ないやつが多いし、頭も心も幼稚になっているので私もこの世代をなめていた。

 ところが、ところがである。
 この日本人の閉鎖性に時代が風穴を開けつつある。
 多くの若者の才能が、その触媒を得て、目覚めようとしている。
 
 世界を一瞬にして情報が駆け巡り、SNSを通じて簡単に情報をやり取りする世代が、あっという間に大人たちが造った世界観、価値観を塗り替えていく様を、見せつけられている。
 
 国際協力、国際医療の世界だって私たちが日々、コツコツと積み上げているにこんな若者が、思いつきで、何気なく、いとも簡単に、明日世界観を塗り替えてしまうかもしれない!という恐怖感に日々さいなまれる。

 世界には侮れない若者がたくさんいることを、私は知っている。
 
 上の世代が造ったものに挑戦するのは気持ちいいし、こころも晴れる。
 しかし、下からの追い上げよりもこころを焦らせることはない。

 これからは上も下も気にしながら生きていかなくてはならない。
 
 大変なことになった。

 
 

by japanheart | 2014-09-17 13:00 | 医者の本音 | Comments(0)

力を抜いてね

力を抜いてね

私は今まで少し力んでいたような気がする。
エネルギーもあったし、欲もあったし、見栄もあったし、意地もあった。

しかしながら私の人生には幼い頃より、なぜか厭世観があって、もう一人の自分がなぜかいつも忠告してくる。
「そんなに組織を大きくすることは意味あるの?」
「そんなにお金を稼いででどうする?」
「そんなに名前を知ってもらって何がうれしいのだ?」

いつもいいところになると、この忠告というか警告というか、内部の声に私は何がしかに理由をつけて応えねばならなかった。
そして、その応えた結果が、現在の有り方の質の上昇を結果的に生み出してきた感がある。

それはそれで自己を見つめる作業であったし、大いに意味があった。

でも最近は、人生もっと力を抜いてみたら、どうなるのだろうと思うようになった。
きっと全て最終的には上手くいく様な気がするが、なかなか勇気もいることだ。

そう悩み考えているうちに、やっぱし今後、自分のやるべき大きな仕事は教育じゃないかと思い出した。
単に、医者を教育するとか医療者をというだけでなく、大きく日本の若者や子どもたち、そしてその向こうのアジアの若者たちに、何か人として大切なことを伝えていくことなんじゃないかと。

彼らががんばってくれれば、私が成し遂げた仕事の数万倍の成果をこの世に提供してくれる。
幸いに、医療を私の代わりにやってくれる人たちがかなり多く活動を助けてくれるようになった。

だったら、やっぱりここからは人間教育でしょ!
ということで、今後また何かいいアイデアを考えて発信するつもり。

by japanheart | 2014-08-15 10:17 | 医者の本音 | Comments(0)