特定非営利活動法人ジャパンハート ファウンダー・最高顧問。1995年より国際協力医療活動をはじめ、ミャンマー・カンボジアなどで、これまで1万人以上の子どもたちに手術を行ってきた。


by japanheart
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カテゴリ:基本( 89 )

能力という弱点

特に最近、強く思うことがある。

私がもし医者でなかったら何をしていただろうか?

もし医者でない立場で途上国で何かをするならば、何をしていただろうか?



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私は医者であることにこだわり続けてきた。

いい加減な自分ではあるけれど、患者や医療者たちの前では医者であることを自覚し、行動し、誇りを持って生きれるようにと、いつも強く自分と向き合ってきた。


海外でたとえどんな逆境にあってときでも、自分がメスを握り、患者たちを救っていくイメージを常に心に留め置きながら前にすすんできた。


でも、もし、私が医者でなかったならば、あの悲惨だった人々の現状を見過ごして生きていただろうか?

それとも止むに止まれぬ心が動き出し、何かを為すために前にすすみ続けていただろうか?


プレイヤーに拘り、プレイヤーとして患者に向き合うことを当たり前に選び続けてきた。


統制の厳しかったミャンマーで綱渡りのように医療を続けてきた。

もし医者でなかったならばそれも不可能だったのだろうか?



人は武器をもつと武器に拘り、型をもつと型に拘る。

それが可能性を奪っているなどとも気付かずに。

それゆえ、武道の達人は、型に入り、型を捨て、やがて自由の境地に入る。


弱い自分が、もしも武器を持っていなければ、自分より強い相手に立ち向かわない。ゆえに殺されることもない。

もしも柔道などの型を知らなければ、その個人の秩序ない拳や蹴りの動きは相手には読めず当たることもある。

型を知っていれば、その防御の策は必ず準備される。


自分の強みだと思っていたことが、実は弱みだったと気付いた。


ある日ふと気付いたのだ。


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もし私が医者でなかったならば、たとえミャンマーのように、どのような困難な状況のときにあっても今頃、病院の一つや二つ建てきって、もっと多くの人々を救えていたに違いないと。

自分ではできないから、他人の力を借りる。

自分の力に必要以上に頼るより、人々の才能を信じて借りてくる。


50歳を過ぎ、そのことの威力を思い知ったのだ。

目が覚めて、世の中にはすごい才能の人間がごまんといることに今更ながら気付いた。

私がすべきだったのは、自分で刀を振り回すことではなく、この人たちの力を借りれる仕組みを作ることだった。



私は医者が得意だ。

手術も得意だ。


しかしそれこそが私の最大の弱点だったのだ。


人は一生涯を得意なことだけして、生きてはいけない。

医者の人生は、私の人生の一部でしかない。

人生はきっと医者をできなくなった後も何年も続くだろう。


だからこそ私の命が最も活きる道を見つけなければならない。


遅すぎるとしても今始めるしか道はない。



by japanheart | 2017-04-30 07:35 | 基本 | Comments(1)

苦労は買ってでもしろ?

将来の夢やビジョンはどうしたら生まれてくるのだろうか?
よく若い世代の人たちから受ける質問だ。

自分にはビジョンも夢もないから、という。
別に夢やビジョンがなくてはいけないわけではない。そんなものなくても十分幸せに生きていける。
夢やビジョンがなければ、日々の生活が充実していないわけでもない。
むしろ夢やビジョンはその人の人生を大きく変えてしまい、大きな災いを生み出す可能性もある。
言葉には、その言葉自体が持つイメージと裏腹に大きなマイナスをはらんでいる可能性があるのだ。
夢やビジョンという言葉は、まさにその一つだと思う。
愛という言葉も、そういう言葉の一つだろう。

人の一生は山あり谷あり。
一時よくても、全体を通して惨めな一生を送っている人間はたくさんいる。

人生はマラソン。
だから、42.195キロという人生を全体としてもっとも満足できる走りにしなくてはいけない。
中盤や前半の一部だけ、いい走り、満足できる走りをしても、最後にだらだらの状態になったり、途中棄権という人生では取り返しがつかない。

だから目の前の事態に対しては、当然全力で取り組むにしても、たとえ悲惨な状態であっても人生を投げたり諦めたりする必要もない。
人は小説や映画の中では、災難に見舞われ絶体絶命の主人公がそれを乗り切り、逆転の結末を迎えたとき、えらく感動し、涙を流しながら、自分の人生もそうありたいと心に誓う。
しかし、現実に自分の人生に同じような事態が訪れると途端に弱気になり、愚痴りはじめ、悪い結末を想像し、最後には現実に押しつぶされてしまう。

 しかし、人生はそこで諦めて走ることをやめなければ、必ずもう一度幸せになるチャンスは与えられている。

一方的にエネルギーを消費するマラソンと大きく違う点は、それを行っている人間のエネルギーを再び大きく高めることができるという点にある。
 だから途中棄権しないで走り続けなければならない。大きな失敗は、やがて大きな幸運を呼び込む糧になる。
特に若いうちに失敗や苦労から得た知恵や体感は、成功の母となる。
私がまだ子どもの頃、祖父に枕元に呼ばれ
「若いうちの苦労は買ってでもしろ!と昔の人は言った。現在はそういう時代ではなくなり、買ってでも苦労をしろとは言えないが、苦労をしておけば将来きっとためになる」と、何度か言われたことがある。
苦労という言葉に付きまとうイメージにも裏腹に、大きなプラスの可能性が秘められている。

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立ち止まっている人間には大きな苦労は訪れない。
しかも、立ち止まっている人間に訪れる苦労はやがて、薄められて効果も薄くなっていく。
人間は同じ苦労を経験しているとやがて適応し慣れ始めていくことができるからだ。

今世の中は、成功するのにもお金持ちになるにも、別に苦労しなくても良いではないか。という考え方がある。
それはそうかもしれない。お金儲けで別に苦労してする必要はない。
しかし、人生はそうではない。やはり苦労はしておいたほうがいい。
人生の幸せをその根で支えてくれるのは、まさにその人の苦労なのだと思う。
「苦労を買ってでもしろ」のその真意は、「行動しろ、そうすれば苦労が手に入る」ということだ。

大きな行動をすれば大きな苦労が手に入る。
大きな行動を起こすには、夢とビジョンが必要になる。
マラソンも走るコースが決まっているように、本来は、人生もすすむ方向が定まっている方がいい。
夢やビジョンはその方向性のあることだから、それがあれば、そちらへ向かってとりあえずすすむことができる。

日々の幸せとは、良いことで埋め尽くされているわけではない。
何もない日常で埋め尽くされるわけでもない。
人は適合し慣れが生まれ、同じ状態では不感症になっていく。
何も起こらない日常は平穏な日常ではなく、つまらない日常へと変わっていく。
そのつまらない日常もあなたが癌にでもなれば、再び、輝き始めるだろうが。

何でもない日常に幸せを感じたければ、良いことでデコレートしたいと思えば、必ず苦しみや悲しみという要素が必要になる。
 
夢やビジョンは動かない人には生まれない。
思考もエネルギー。
夢もビジョンもエネルギーだから、生まれても動かなければ、色あせ失われていく。

日々、目の前の変化に敏感になろう。
そして、その小さな変化へ自分から積極的に関わっていこう。
そして、その変化の振幅が大きくなっていくのを体感しよう。
やがて、そこから夢やビジョンを持てるようになる。
その過程で、必ず苦労を背負うことになるだろう。
もしそうでなければ、そんな夢やビジョンは捨ててしまおう。
人生は飛行機と同じで、向かい風がなければ飛べないようになっている。
前に向かって走るスピードは、あなたの生きる密度となる。
それが早ければ早いほど、向かい風、世の中からの風当たりは強くなるだろう。

しかし、やがて自分の体がふと浮かび上がる瞬間がやってくる。
空から見下ろすその景色は、あなた自身の人生の景色そのものになる。
それは安定して地上にいたときとは全く違った景色になる。
その見える範囲が、あなたの夢とビジョンの範囲なのだ。
高く飛べば飛ぶほど必ず重力が増していく。
その重力の大きさこそが、自分が背負う苦労という。
より高く飛ぶは、より大きな夢を持つと同じ。
大きな夢を持つほど、より苦労を背負う。人生も世の中の理も全く同じである。
より高く飛んでいる人間の見ている世界は、低いところを飛んでいる人間からは理解できない。
だから夢やビジョンは自分より低い人間ではなく、高い世界にいる人に語らなければ理解してもらえない。

何事も効率だけが正義とされる世の中だから、50年のときを経て、祖父から受け取った大切な日本の知恵を若い世代に伝えておきたい。

 
「若いうちの苦労は買ってでもしろ!と昔の人は言った。現在はそういう時代ではなくなり買ってでも苦労をしろとはいえないが、目の前の時間に大切に生き、とにかく行動を起こせ。それはあなたに必要な身の丈にあった苦労をあなたに連れてくる。苦労を積み重ねていけば、かみ締めるほど現在が充実し、そしてその経験は将来もきっとあなたの宝になる。」

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by japanheart | 2016-12-31 14:39 | 基本 | Comments(2)
我が医療活動の原点を見つめ直す

 ある日、ある貧しい国で目の前に病気の子どもを小脇に抱え女性が現れる。
日本人の自分を見つけ、あなたの国は豊かな国なので、この子のために治療費を出してくれとせがむ。
あなたはその国の生活環境改善の任務を得て赴任している。
その国の劣悪な生活環境は、小手先のテクニックだけではとても改善されるわけもなく、何かしら抜本的な取り組みを始めなければ同じことが繰り返される。

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そのとき、あなたはその女性にお金を与えその子を助けようとするだろうか?
それとも、お金を与えずにその場を立ち去るだろうか?
もちろんそんな試みが成功したとしても、この国の現状には全く影響などない。

私の経験上、一般の人たちはお金を与えてその子どもを助けようとする人たちが多い。
逆に、いわゆる政府機関などで公衆衛生の大きなプロジェクトに関わる人間は、与えないことが多いような気がする。

絶対はないにしても、より好ましい回答というのはないのだろうか?
私ならばどっちの行動を取るのだろうか?

国際協力に関わってから22年目になるが、昔も今も私の答えは変わっていない。

私ならば、迷わず、お金を与える。

22年前、本当に劣悪な状況のミャンマーで医者として働き始めた頃、国際機関で働く多くの日本人から言われたのは、「ちまちま一人ひとりを助けていても仕方ないから、多くの人を一度に助けませんか?」という話ばかりだった。
私のような患者一人ひとりと取り組む作業は、かなりの批判的な意見を受けたものだった。

しかし、当時も今も、日本でも医療を行う医者というのは、それこそちまちまと、患者たちの病と日本全土で格闘している。なぜ、日本でも行われている行為を、途上国で行おうとすると批判されるのか?
私は理解に苦しんだ。そして彼らの考えに一種の違和感を感じたのだ。だから自分が正しいと思う医療活動を行い続けてきて今に至る。

最近思い返してみてわかることは、彼らは各論と総論を混同していたのではないのか、ということだ。
同じコンセプトでも各論と総論は全く、見える景色が違ってくるということだ。

いくつか例を挙げると、
ポリオという病気の予防接種が日本で毎年行われている。これは生ワクチンを使うので、その予防接種によってポリオにかかってしまう子どもが必ずわずかなパーセンテージ存在する。
その子どもは、おそらく予防接種などしなければ生涯、ポリオにかからなかった可能性は十分ある子どもかもしれない。
その子どもの人生にフォーカスしてみると、予防接種がなければよかったということになる。各論的には。
ところが、もし予防接種を行わなければ、多くの子どもたちが毎年ポリオに罹患し苦しむことになる。だから総論的にはポリオの予防接種は行われるべきものとして扱われている。

車や飛行機の使用も、事故で死んだ人間や家族にとっては各論的にはなかったほうがよかったものだ。

ルーズベルトやトルーマンが原爆を日本に投下したが、大きな航空写真や風景だけでなく、一人ひとり焼けただれて死んでいった人たちをリアルタイムで見せ付けられたとしたら、もう既に数人で彼らはその計画をギブアップしたと信じたい。

各論と総論は風景が違う。
全く逆の局面が見えることもしばしばある。
そのことを理解しなければならない。
大切なのは、総論の思考で各論を扱わないことだ。
政治家が、国全体を良くすると信じる政策を行うとき必ず犠牲になる人々が存在する。
それに振り回されてその政策をやめてしまうと、多くの人々が苦しむことになる。
しかし、その犠牲になっている人々を無視したときに政治家としては死んでいく。
必ずその人々の声に耳を傾け、個別に救う試みをしなければならない。
その個別の試みは決して全体に影響など与えないだろうが。

人は総論的な事柄を推し進めようとする時、必ず各論的な視点を強く意識なければ、道を間違うことになる。
その視点さえあれば、原爆投下などという人類の愚考など行われることなどなかったのだ。
日本社会でマイノリティーの声に耳を傾ける大切さもここにある。
各論に目を向ける意識は、大きな過ちを防ぐセーフティーボックスになるのだ。

だから私はその女性にお金を与え、その病気の子どもを助けようとするだろう。
一人の母親の声に耳を傾けて取り組めない人間が、大きな事柄をなそうとすると既に危険領域に踏み込んでいることになる。
ましてや、その病気の子どもの運命とその国の生活環境は時間スパンが違うので、全く結果に影響しないのに。

そして、自分の医療を振り返ると、医者になった動機は、やはり各論的に一人ひとりの患者に関わり助けることができればということだった。
その国の医療を良くしようとか、日本の医療レベルを上げようとかそんな気持ちは微塵もなかった。
はじめからあったのは、ひたすら患者のために働く自分の姿だけだった。

それを今も、ひたすら繰り返しているだけなのだ。

私の医療活動。
ジャパンハートの医療活動は、各論をひたすら愚直に繰り返す医療活動であろうと。
患者一人ひとりの人生を考える医療であろうと思う。

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現地の医療者を育てることが一番、患者のためになるのならばそうしよう。
そうでなければ、それはしない。
それは総論的に理屈で良いからではなく、それが各論的に患者のためになるのならばそうするというだけだ。
だから政治を変えろという提言もしない。
それはそれでやる人たちがいる。
その人たちに任せればいい。

私たちはどんな時代になっても、どんな状況でもひたすら患者個人の人生に関わり続けよう。

それがこの活動に関わる多くの人々の動機であったし、今も私たちの唯一の共通した志となる。
by japanheart | 2016-09-30 16:40 | 基本 | Comments(1)
医療の届かないところに医療を届ける

これは私たちNPO法人ジャパンハートのモットーとしているものだ。
こんな当たり前のことがモットーになるとははじめ思わなかった。
しかし、ジャパンハートに毎年参加してくる数百人の人たちの参加志望動機書にもスタッフたちの発言にもそのモットーをよく見かける。

医療の届かない場所など世界中に腐るほどあるし、この先進国日本だってそんな場所はあちらこちらにある。
大都会東京にさえ、まともに医療を受けることができずにいる人たちだって数え切れないくらいに存在している。
 だから、あえてそんな当たり前すぎることを口にするなどということはする必要もないはずだった。

 私がこの言葉をもともと使った動機は、がんの子どもたちとその家族のためだった。

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日本のがんの子どもたちは、今では随分と救命率が改善されてきているとはいえ、かなり過酷な運命を背負わされている。助かればいいけれども不幸にもそうでない子どもたちはたくさんいる。
結果的に、助からないのならば治療で辛い思いをするばかりでなく、その生きている期間それなりの楽しいことも経験してほしい。
 しかし、どの子が助かりどの子が助からないかは、神のみぞ知る世界で私たちには結果はわからない。
 がんの子どもたちは、多くは母親が面倒を見てずっと長い期間を乗り越えていく。
 その子どもの兄弟姉妹は、病院にお見舞いにいってもなかなか患児に会うことはできない。
 抗がん剤の副作用で免疫系が低下している子どもに、風疹や水ぼうそう、はしか等を持っている可能性がある別の子どもを接触させることは致命的な結果を招く恐れがあるからだ。
 患児の兄弟姉妹たちは、母親と過ごす時間は激減し、多くの時間を父親や祖父母と過ごすことになる。
その期間が長期間に及ぶのだ。
それでも助かればいいけれども、運悪く亡くなってしまう子どもは最期まで兄弟姉妹との十分な接触が難しくなってくる。
 日本にいて小児がん治療に関わっている時、私は患者ばかりを見ていて、患者の家族やその兄弟姉妹の大変さまで思いを馳せることができなかった。
 ここまで視点を広げ患児やその家族をケアーすることが治療に値するのだろうと遅ればせながら気付いた。
 だから、私にとっての医療が届かない場所というのは、物理的に離れた場所や物理的に医療行為が成されていない場所を指すのみならず、医療者の意識の中に未だに認識されていない精神的な場所をも指していた。
 そうしてこのモットーを使い始めたのだが、多くの人たちにとってはそれはやはり物理的な場所を未だに指す概念であるようだ。

 ところで、このモットーを使うときに多くの人が全く勘違いしていると思うことがある。
 かつてジャパンハートは、頼まれてネパールの標高4,000メートル以上の場所に診療をしに行ったことがある。そんな場所はもちろん、医療が届かない場所だと思う。
 あるいは、現在でもラオスの山岳部、中国との国境地域に手術や診療をし行っている。
 もちろん、私たちが行けないような紛争地域、アフリカのどこかなど、世界中には多分私たちが治療に行っている地域よりも、もっと医療が必要とされている、物理的に医療が届かない場所が無数にあるはずだ。

 しかし、多くのスタッフも多くの参加者も、このモットーを使うときに大きく欠損している概念がある。
多くの場合、このモットーを使うときに意識されているのはその医療が届いていない人々の姿や地域のイメージだろう。
 一般企業であれば、私たちにとっての患者の利益は、まさに顧客の利益であり、もっというと売り上げそのものを意味するのかもしれない。
 だから、それを最高にするために努力するのは、悪いことではない。
 対象がお金ならば気付きやすいのかもしれないが、対象が患者たちの健康ということになると、霞がかかって見えなくなる。
 「患者のために」「患者様のために」という言葉は今や多くの人々には嘘くさく聞こえ、聞き飽きるほどの言葉だか、なぜそれが嘘くさくてもこれほど垂れ流されるかといえば、それが全ての人にとって絶対的な”錦の御旗”になるからだ。命は大切だというのと同じくらい当たり前で否定できない、してはいけない概念なのだ。
 お金儲けだけを追い続ける様な企業活動ならば、何度も足元を見る必要を感じるが、患者のためといわれれば、足元を見るという行為を怠ってしまうし、なんでもなし崩しになる。

 医療の届かないところに医療を届ける

実はこの言葉の中には二人の主人公が存在する。
 もちろんその一人は、医療を受け取る患者たちである。
 もう一人は、医療を届ける側の人たちだ。

 「医療の届かないところに医療を届ける」というモットーが最高の状態というのは、医療を届ける側と届けられる側のバランスが過不足なく最高の状態に達したときだ。
 まさに、おもりが釣合ったときのような均衡の取れた状態のイメージだ。
患者の利益が最大化するポイントが、このモットーが最高の状態であるわけではない。
患者に最高の利益を与えたとしても、医療者が疲弊してしまったり、命を失ったりしてしまってはこのモットーは最高の状態にはならない。
 だからこのモットーの元では”患者のため”という掛け声は完全な錦の御旗ではありえない。
医療を届ける医療者が過度に疲弊することなく、過度の危険にさらされることもなく、医療を行えるというポイントでたたき出す最高の患者利益がこのモットーが目指すところとなる。

 企業活動でいうともっと分かりやすい。
患者の利益は、企業の売り上げ。
医療者の状況が、労働者の状況と置き換えてみる。

 企業利益を最大化したとき、労働者が過度に疲弊していたり、危険に晒されている企業というのは、今の言葉でいうと、ブラック企業と呼ばれている。
 
 「医療の届かないところに医療を届ける」というモットーを実行する者は、患者のこと、そこで働く医療者のことを同じくらいに大切にしなくてはいけない。

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 そのバランスを上手く取れないと、 やがて時間が経てば、医療を届けていた場所に医療が届かない状況に陥る。

 私たちの活動は結果、その両者のバランスを取りうる最高の状況を目指した場所で行われているに違いない。

 それが、ミャンマー、ラオス、カンボジア。
 日本の離島や東北。
 そしてがんの子どもや家族への企画ということになるのだろう。
by japanheart | 2016-08-24 03:24 | 基本 | Comments(0)

日本の戦い方

日本の戦い方

一体いつからこのような考え方が蔓延ってしまったのだろう?
どのような過程でこうなってしまったのだろう?
日本では全ての予算が単年度で決済される。
政府の予算などはその傾向が強い。
私たちが関係するODAなどはその傾向が顕著で、その年に決めた予算を何が何でも消化しなければ次年度は予算が減らされるという。
今年は予算をセーブして余ったお金を次年度にもっと投入をなどとやってしまったら、余ったお金は返金させられて、もちろん次年度の予算は全く足らなくなってしまう。
NGOとしてある途上国で病院を作り、現地の医療者を育成しそこにある程度の運営システムを一から構築しようとする。
これを日本政府の予算を使って行おうとすると単年度予算X3年でそれを成せと要求される。
こんなこと不可能に決まっている。
相手は医師も看護師も日本の十分の一程度しか存在しない国で、目を覆いたくなるような医療状況の国であるからこそ、病院をつくる価値があるにもかかわらず。
この話を色んなところで日本の医学部の大学教授たちにしてみると、皆、失笑する。
日本の医者たちが一体どれくらいの時間とエネルギーを使い、技術を磨き医療を遂行しているかを理解しているからだ。
しかも3年でシステムすら構築しなければならないとしたら、普通は不可能に決まっている。
建物はお金さえあれば建つ。
しかし建物ではなく、その中身をつくるのが大切だし、それこそが日本政府がODAで失敗に失敗を重ね学んだ教訓だったにもかかわらずだ。

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しかし、そんな現実はお構いなしに相変わらず日本政府は自分たちの形を押し付けてくる。
「本当の成果を上げたい」のか、それとも「やったという形だけ示したい」のか?
その辺もわからなくなってくる。

それを管理する役人たちは決められたルールをひたすら守る権限しかない。
だから実現可能かどうかではなく、そのルールを守ることに全てのエネルギーを割くし、強要する。
一体このあり方のせいでどれくらいの人間の労力が無駄になり、どれくらいの私たちの税金が無駄になってきただろうか?
と考えると恐ろしいものがある。

何事も早いに越したことはないかもしれないが、時間をかけてみないと判らない事も沢山ある。
3年で正解であったものが、10年後には、不正解のことだってある。
物事は長い期間かけて見なければわからないのだ。
せめて10年スパンで物事を判断できないものか。
それくらいの期間、それに関わる意思がない人間や組織に大きな税金を投入する必要はない。

ところでブラジリアン柔術の400戦無敗の男、ヒクソングレイシーは面白いことを語っていた。
最近、日本人たちが格闘技の国際試合でなぜ勝てないのかという理由についてだ。
彼曰く、「日本人たちの本来の戦い方は長期戦で戦い、相手のミスを誘発し、そこに付け入るカタチで自分のペースに引き込み最後に勝利するという戦い方なのに、今の格闘技は短い時間制で瞬発力のみ必要とされ日本人の戦い方ができないでいる」というものだった。

戦前の柔道の日本選手権などは30分以上戦ったという。
その中で勝敗を決めたらしい。
今のように5分で全て決めなければならないなどという無理な戦い方を要求されない。
このような戦い方は欧米人のように筋肉量を重視する瞬発力を命とする人々には向いている。
肉を沢山食べ、瞬発力を増やす。
既に国際試合は欧米人たちによって都合がいいように知らぬ間にルールが変えられている。
戦前の日本人たちはほとんど肉を食べなかったが強靭な持久力の持ち主たちだった。
戦争中の3日間不休不眠の行軍などということは当たり前に成されていた。
今の日本人たちでは絶対できない所業だ。
既に敗戦によって食生活を変えられてしまい、知らぬ間に持久力を奪われていることに日本人たちは気付いていない。

第二次世界大戦だって日本はアメリカに対して短期決戦前提で臨んでいる。
こんな戦い方は日本の戦い方ではなかったはずだ。
日本が、長い歴史のある国であると豪語するならば、長い歴史を感じさせる、その知恵を用いた戦い方をすべきだったのだ。
100年の戦争という視点で戦うべき国なのに、1年や2年の戦いしか想定できないとは愚かなのだ。
既に戦いを始める前のこの時点で戦争に負けていたのだ。
ない資源の中でどのように戦略・戦術を立てれば100年戦えたのかという発想が必要だった。
その中で相手のミスを誘発しながら、負けない戦いが可能だったかもしれない。
だから、ぶちぎれて真珠湾攻撃などという馬鹿な作戦などありえなかった。

話を戻すと、こういう視点は今なを大いに意味を持つ。
私たちは日本人には単年度予算は合わない。
職人の国で、なんで即席に物事を完結しようとする発想になるのか?
時間をかけた熟成・発酵という発想を当たり前に生み出した国がなぜ1年や3年で全てを成さねばならないという発想に陥ったのか?
この文化と政治や行政の不整合性には何かしら歴史的にも人為的なゆがんだ意思を感じるのだ。

日本の国際支援は欧米ではできないような長期的視点で成されるべきではないのか?
たくさん数をするというのも大切だが、長期視点の支援もたくさん投入すべきだ。
様々な海外支援が日本政府が真に日本の利益のためになされるとしたら、もっと長期的視点に立った支援を投入したほうがいい。
単に政治家のリップサービスのためにあちこちに短い支援を散らすべきではない。

長期的展望に立った、欧米の組織では気付かないような、あるいはできないような支援とはどういうものなのか?という視点に今一度たってみる必要がある。

日本人たちが気付かなかった世界一の格闘家が教えてくれている視点は、単に格闘技のみではなく、もっと視点を広げればこれからの日本の国際貢献のスタンスに十分利用できるものだと思う。
by japanheart | 2016-07-23 09:18 | 基本 | Comments(0)

才能について

才能について

天・地・人。
天運・地運・人の運。
未来・過去・現在。

私が大学の頃、海外で遺伝子の研究をしている学者の授業を受けたことがある。
その中で今でも忘れない講師の言葉は、「人の運命はおおよそ遺伝子で決まっている。」
現在でも、遺伝子検査がこれからのトレンドになると予想されている。
どのがんに何歳くらいでなるのか?
どんな病気を何歳くらいで発症するのかをおおかた予想でき、その時までに前もって
例えば乳房を取ったり治療を始めたりできる時代がもうそこまで来ている。
その人にはどのような才能があり、何をしたら向いているのか向いていないのか?
そんなことまで予想できてしまうようになるのか?

本当に人の運命はそこまで遺伝子によって確定してしまうのか?
それゆえ、精子バンクで高額で優秀な遺伝子が取引されているのか?

私は才能には実は、二種類の才能があると考えている。
天・地・人の地と人の部分があるということだ(天の部分についてはまた機会があれば考えを述べる)。
地の部分(地運)というのは私の中では、先祖の運だ。
そこにはもちろん遺伝子の継承も当てはまるし、自分の先祖や現在の親の財産も含まれる。
生まれつき足が速いとか、記憶力がいいとかそういうものも含まれる。
いくら努力したところで、普通の日本人がイチローの運動センスやジャマイカのボルトに100メートル走で勝てることはない。
政治家の子弟は、300倍も政治家になりやすいというが、それは親の地盤という地運を継承するからだ。


ということは、やはり遺伝子や先祖からの継承という地運があの学者が言ったように人生の全てなのか?

私の中では地運という生まれ持っての運には一つの弱点が存在すると思っている。
そのことを理解し自らにそして他者に対するのとそうでないのとは本当に運命が変わってしまう可能性がある。

その弱点とはなにか?
この地運という才能に根ざした能力は生涯にわたって伸び続けることはないということだ。
どこかで必ずピークアウトする。
死ぬまでボルトがいくら努力しても記録を伸ばし続けることはできないということ。
先祖から受け継いだお金も地盤もそのままでは減少していくということ。

そこから得られる結論は、このような強い地運をもつ人間や組織、国家と相対するときは静かに長い時をかけ勝負を挑まないといけないこともあるということだ。
それが国単位や企業体になればもしかすると、数百年の時間を掛けて成されなければならないこともあるかもしれない。
江戸時代、大阪を日本一の商都にした淀屋はあまりの繁栄振りに幕府によって財産を没収されお取り潰しにされた。
そのことを予想した淀屋はその前に山陰に今でいう分家を行う。
この山陰で生きながらえた淀屋の末裔が幕末の維新に全ての財産を投げ打って倒幕を支えたのだ。



さて、もうひとつの才能、人の運。
ここの才能を切り開いたとき、私たちに生きる意味を大いに与えてくれることになる。

私がいるこの海外の医療地には毎年数百人の医者たちがやってきて手術を行う。
その中には今日本の医療を支えているトップクラスの医者たちも含まれている。
ある時、誰もが知る超有名病院のトップのの医者がやってきた。
その手術を私は横で見ていたが、その医者の手つきは決して器用な感じではなかった。
むしろ元は不器用な人だなと感じたほどだ。
しかし、手術は淡々と、滞りなく進んでいく。
そして、しっかりと終わっていくのだ。


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一方、結構手先は子どもの頃から器用にできていている人間は、むしろいつも器用貧乏で、
人が10回かかるところを5回でできてしまうと何でもすぐ飽きて長続きしなくなる。
不器用な人間は逆にいつも上手くできないという意識が働き、常に努力するモチベーションを維持できることが多い。

器用であるという地運、才能。
不器用であるという地運、才能。
例えば、外科の世界ならば、1000件手術を経験すると、この地運がものをいう。
器用な人間とそうでない人間の差は歴然で、圧倒的に生まれつき器用な人間のほうが手術は上手くなる。
ところが、両者が10000件の手術を経験したらどうなるのか?
このとき、どちらもすごいレベルになっており、甲乙を付けがたいレベルになっている。
この時点で、生まれつきの起用・不器用の差は単なる誤差になってしまうのだ。
むしろ、不器用な地運を背負っている人のほうが努力を怠らず大成することが多いのだ。

あるアメリカの研究では既にこのことが指摘されている。
すなわち、成功することに才能はほとんど関係ない、ということが。

多くの人が上手くいかないことを、自分の才能がないという。
頭が悪いだの、不器用だの。
しかし、それは単に努力しないことの言い訳でしかない。
地頭がいいだの悪いだのは、圧倒的努力の前には誤差に変わるのだ。

まさにそれが人の運であり、私たちの生きる価値を生み出してくれるものなのだ。
そしてもうひとつ大切な事実は、この才能にはピークアウトがないということだ。
生涯にわたって伸び続ける可能性があるのだ。
自分の努力によって。

先祖の運がたとえ貧弱でも、親の財産がなくても、運動神経が生まれつき悪くても、努力しだいで
生涯、伸び続ける才能とそれにかけるチャンスが私たちには与えられている。

二つの才能を混同し道に迷ってはいけない。
私たちには現在と未来を創造する力が与えられている。
地運に囚われず、自らの人生と才能を信じ、努力を続けていくほうがいい。



by japanheart | 2015-11-24 05:47 | 基本 | Comments(1)

アタリマエを疑う

”アタリマエ”を疑うということを日常化する


 ここ10年で一番私自身が変わったことは、”アタリマエ”を疑えるようになったことだ。

 この”アタリマエ”という常識の罠はどこにでも転がっている。

 しかし、こういう常識は時代や社会環境の変化でいくらでも変わることは誰だって理解できるだろう。

 70年前の日本は国家のために死ねることが常識的な正義だったし、今でもそうかもしれないが老後に備えて貯金をすることはアタリマエなことなのだ。しかし、これは本当なのだろうか?誰かがそう思わせているだけではないのか?


 よくよく考えてみれば、常識というのは誰かの基準であって、それを社会に浸透させていったものが多い。時の権力者や国内の大資本、今ではグローバル企業によってきっと私たちはある種の洗脳状態にある。マスコミだって、偏らない公平な視点といいながら、誰が見ても思いっきりバイアスをかけている(そして国民はそんなことを十分にアタリマエに嘘くさいと理解している)。


 「本当にそうか??」 と幾度となく自身に問いかけれるようになった。


 公務員は公僕である。

 病院が何より患者さんのために私たちはがんばっていますとか、

 アメリカは自由と正義の国だとか、

 イランやミャンマーは危険な国だとか、

 

 何でもいい。社会にあふれているありふれたアタリマエに全て??を一度付けてみて、その後、自分で調べながら、自分の頭で考え、結論を出すという経過を意識してやり始める。


 そうすると、面白いことに世界観が変わる。

 

 そこから導かれる結論は、やはり最後に信じれるのは自分の頭と体験だけなのだということになる。



 最近、わが子を全て東大の医学部に入れたある親の話が話題になっている。

 すごい母親だということかもしれない。

 受験は時間との勝負だから、恋愛は逃げだと確か言っていた。

 

 これはすごいということで紹介されたのかもしれないが、私の頭と体験は、それをすごいという結論には結び付けなかった。

 東大の医学部へ入るのがすごいことなのだというアタリマエを疑ってみたのだ。

 大体、東大の医学部出身=いい医者、優秀な医者、社会的安定という方程式には医局制度が解体し始めた今はそういう時代ではないと思う。

 また、私の経験では、10台の恋愛体験はすばらしいと思う。

 10台の恋愛体験は、20台や30台のそれとは全く違うし、すばらしい経験だと思う。

 それは決して逃避でない。

 それともうひとつこの年になって思うのは、10台や20台はまさに自己拡大の時期であったのだということで、我ながら後悔している。

 自己拡大は、すなわちさまざまなことを経験し、さまざまな人々と出会い、自分の視野を広め自己相対力を高める時期で、これが出来ていると30台や40台を越えたあたりからかなり威力を発揮できるようになる。ところが、医学部と医者の世界は、全く逆に人生が振れる。

 10台から学問は医学だけ、受験は忙しく、大学に入っても勉強に忙殺され、医師になってからも研修、レジデント時代と毎晩病院に泊り込み、医療をすることに明け暮れる。

 世界はこんなにも広く、世界にはこんなにもすごい人たちもいて、世界にはこんなにも価値あるものがたくさんあるのに、外へ外へと動かずに、内へ内へと人生が収縮していくようだ。

 そういう意味では医師になるというのは、人生の大変貴重な何かを犠牲にしてなっている可能性がある。その犠牲の前には将来の多少の収入の増額などほとんど価値があるとは思えないのだ。

 そういう世界に自分の息子3人も一度に引っ張り込んでしまっていいのだろうかと?と私は感じてしまう。それだけ優秀な子どもたちならば、きっともっとすばらしい世界が見れたのにとも思ってしまうのだ。




 私たち国際協力の世界では、現地の自立という概念が重宝される。

 学生たちと話していても、自立させるという言葉がよく出てくる。

 現地の医師や看護師たちに技術移転し、最終的には現地人だけで運営するのが自立であり、すばらしいことなのだというスタンスである。

 しかし、これも本当か?と疑っている。

 現地人だけで医療をすることが本当に自立ですばらしいことなのか?

 医療というのは患者のためにあるとしたら、患者が最も幸せになる仕組みこそが最も優れた医療の体系ではないのか?それを阻害する構造は改定されるべきものではないのか?と思っている。

 例えば、ビジネスの世界では、アタリマエに多国籍の人々が行きかい働いている。それを日本人だけで働いていないと自立していないのだとは誰も考えないだろう。

 なぜビジネスの世界では外国人が多く働いていても自立していないとはいわないのに、国際医療の世界では外国人が混ざっていると、あるいはたくさん働いていると自立していないと考えるのだろう?それって誰かの洗脳なんじゃない?と思っている。

 現に、ユーロ圏は医師たちは比較的自由に医療を出来る仕組みが整いつつあるし、アセアンでも医師の免許は統一の方向に動いている。ということは、そういう思考回路自体が、古い、人や経済の流動性が弱かった時代の発想であると思うのだが。既に世界は、大きく動き出し人々が国家という仕組みを超えて混ざり合う時代に突入し、現地人だけで運営される医療がすばらしい自立したあり方なのだという概念を吹き飛ばす段階まで来ている。


 今まで常識と思っていた事柄がどんどん音を立てて崩れていく感覚がある。

 それは同時に、全くすごい可能性の時代の中に自分がいることと、その古い常識や既得権益にしがみつく人々の近未来がかなり厳しいものになっていくだろうことを感じさせる。


 世の中には二通りの人間しかいない。

 自ら変わる者と、無理やり世の中の力によって変えられる者。

 自ら変わる者は、新しい時代に上手く合わせるチャンスと時間をもてる。

 常識を、アタリマエを疑えず、最後までそれにしがみ付く人間は、突然、時代の高波に襲われることになる。


 世の中のアタリマエを疑えば、時代が見える。

 実は時代のトレンドは、世の中のアタリマエのカウンターポジションとしてひっそり進行しているのかもしれない。

 

 

 


by japanheart | 2015-10-04 01:09 | 基本 | Comments(1)

私の子育て論

私の子育て論


 今年の夏はひと月以上の期間、10歳の長男と行動を共にした。

 夏休みになったその日に日本を飛び出し、夏休みの終了するその日に日本に帰国する。

 この間、医療活動にもずっと同行させていた。



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 日本から北京経由で、タイのバンコクに入りラオスには陸路で国境を越える。

 それから中国とラオスの国境地帯の医療活動に同行させた。

 ラオスから始まった医療活動は、その後、カンボジア-ミャンマー-カンボジア-ミャンマーと巡り、その間に、タイやマレーシア、シンガポールと移動を重ね日本帰国までに21回のフライトを私と行ったことになる。


 実は私と長男は40歳も年齢が離れており、おそらく長男が私の歳になったときには私はこの世にいないだろう。

 こんな生き方なのでどうせ物質的な財産は残せないと確信しているのでせめて、無形の財産をわが子には残して逝きたいと思っている。


 なぜ、この機会にわが子を連れ立ったかというと、実は私なりの理屈がある。




 人間には第一次反抗期という大体、3歳くらいまでの子どもが通る反抗期がある。

 この時期までに、子どもにはしっかりと母性を伝えなくてはいけない時期だと思っている。

 母性とは絶対的安心であり、無条件の受容であり、子どもの脳幹深くに沈み、人生を決定的に左右する大切なチカラである。

 母性を受け取ることが上手くいかなかった子どもは脳の奥深くに欠乏感を宿し、成人しても愛情を求めて彷徨うことになる。

 お金や物質でその脳幹の欠乏感を埋めようとするが、決して埋まらない。

 愛情は物質ではないからだ。精神的欠乏は物質的満足では一時的にしか埋めることができないということも分からないままに、それを無意識に求め続けてしまう。

 だからこそ母親の役割は大きい。

 

 そして第二次反抗期がやってくる。これは中学生頃に遭遇することが多い。

 この時期からは、親の言葉が子どもに入っていかなくなってしまう。

 昔はこの時期は、元服の歳で、それから後は一人前の大人として扱われていたのは偶然ではない。この時期を通過すれば、もう一人前の大人になるのだ。

 すなわち、第二次反抗期は人間が親離れ、子離れのするための生理的通過点なのだ。


 この第一次反抗期と第二次反抗期の間の時期は、また大切な時期で、この時期は子どもに父性を伝える時期でもある。

 父性を伝え損ねると、あるいは父性が弱くなってしまうと、子どもは生きる力を失う。

 父性の弱い家庭で育った子どもは、ひきこもりを起こすようになることも多い。



  核家族化が進み、父性を与えるのは主に父親の役目かもしれないが、昨今の父親の弱体化は子どもの生きる力に影響をしていると思っておいたほうがいい。

 


 私の2冊目の著書の「死にゆく子どもを救え!」を出した冨山房インターナショナル社からは、聖路加国際大学の日野原先生が「10歳の君へ」という本を出している。この本を出している動機は、日野原先生自身が人間にとって10歳という年齢が最も意味のある、しかもキーになる年齢であると考えているようだ。

 そういえば、私たちの記憶も10歳を境に大きく増えているような気がする。


 そして私自身もその10歳の時間を大切に考えている。

 なぜならば、この後、子どもは反抗期に入り私たちの言葉を受け取らなくなってしまう可能性が高いからだ。

 この10歳をスタートに12歳頃までの間に、わが子に私の持っている知恵や経験を伝えておこうと思ったのだ。


 だからこの夏の同行期間は毎晩、子どもと色々なことを話した。

 時間について、お金について、努力について、才能について、世界はどうなるか?人とはどう付き合っていくか?などなど幾夜も話込んだ。

 それから、私の生き方もそばで見せた。

 一切、飾らず、良いことも悪いことも、ごく自然に振舞ったつもりだ。


 途上国に暮らす多くの人々の暮らしや病気の人たちの大変さも知ったに違いない。

 多くの人たちの情けも知り、日本との違いも経験したことだろう。

 



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 目的はたった一つ。

 どんな時代になっても、たとえ何が起こっても、生き残る能力を与えること。

 サバイブさせる能力を与えることこそ、親の最大の役目なのかもしれない。


 この後はどうなるか?

 この種が何をわが子に与えるかは時間を待つより仕方ない。


 今回、10歳のときに本当に私のすべてを伝えたかったが、やはり理解力には限界があったので、まだ2年ほどかけてかなり補強しなくてはならないと思った。


 近い将来、私なりの生きる知恵を世の中の子どもたちに伝えるために1冊の本にしてみるつもりでいる。

 

 とにかくこれから日本は大変な時代に入るし、海外の子どもたちも私の持つ東洋的な思想に触れておくことは悪いことでもないと思うから。


 どの親も子どもに願うことは、生きていてもらうことだから、とにかく母性と父性を上手く子どもに示し、的確な時期に大切なことを伝えていかねばならないと思う。

 

 ただそれは、生まれてすぐからはじまり、思ったより早く訪れ、そして早く終了してしまうのだ。


 


 


 

 


by japanheart | 2015-08-22 05:14 | 基本 | Comments(0)
学校教育は本当に役に立った??

 吉田松陰は講孟箚記のなかで、勉学というのは官職を得るためにやるべきではなく、おおよそ人の道として学ぶべしと言っている。

 先日の学校教育は必要かという記事が転載され、おおよそ批判的なコメントが寄せられていたが、それでも私の意見は変らない。
 小学校・中学校までの教育はまだしも、高校教育は今の形で全ての人には必要ないと考える。
 自分は役に立ったという人はいるかもしれないが、10%くらいの人にしか直接は役に立っていないと思う。
何度もいうが、直接、役に立っていないということ。

 そもそも、、何で学校で勉強するんですか?
 何で塾に通わせるんですか??
 
 学生に聞いてみてほしい。
 松蔭のように、人として必要だからという子どもがどのくらいいますか??
 松蔭が嘆いたように、いい学校に入るため、いい就職をするため、いい会社に入るため。
 そう応える子どもが多いでしょ。
 根本がおかしくない?
 それって手段じゃん。
 
 もっと勉強しておけばよかったという人の本意は何ですか?
 人として、それが大切だからですか?それとももっといい学校へ入るためですか?
 本当に大切で役に立ったという、あるいは役にたつというならば、なぜ今からでもはじめないのですか?
 なぜ、役に立つことを分かっていながら今も継続していないのですか??
 大人たちがそんな調子だから、子どもたちに見透かされているんだと思う。
 それを役立てているような大人の数が少なすぎて、自分には関係ないと思われている。
 本当は役に立っていないでしょ!って。

 私は役に立ちますかと聞かれて、ほとんど直接には役に立ちませんと答えたけど、勉強しないでいいとはいっていないんだよね。
 今ある教育の形が、正しいなんて思っていること自体が違和感を感じるわけで。
 学校で学べないような大切な事柄はいくらでも外で学べるし、学びたくもない、携帯したり、寝ていたり、ゲームしたりしているような子どもをどうするのっていう話で。そんな子どもを中高大合わせて10年も机の前に座らせますか??っていう話ですよ。

 そんなことに10年も使ってるくらいであればもっと違う形の教育方法を考えたほうがいいと思う。
ほとんどの人が平方根とか素数とか知って、自分の人生が豊かになるかな?
小中の教育のうちに勉強に興味があるのか、数学に興味があるのか、歴史に興味があるのか見極めて、あれば続けてやればいいし、嫌ならばやめるという選択肢も与えるべきで、その代わりになにをするかという選択しだけど。

 人生は無駄なことはないから、そりゃ今の教育でも何がしかの学びはあるけど、それを別に今の教育の内容に全ての人が一律に求めなくてもいいのじゃない。
 そういう学びは違う形で得ることはできないのかな??

 数学に少しは興味ある人間は、それをやり続けれる環境は大切だけども。
 ホント多くの人は、研究者になるわけでも、大企業に勤めるわけでもない。
 主婦であったり、レジを打っていたり、町工場で働いていたり。
 そんなに高等の学問を、無理やり詰め込む必要あるかな。

 ちなみに大学入試をこの世から消してみたらいい。
 どのくらいの子どもたちが本気で今ほどに勉強し、その親がどのくらい子どもの教育に投資するか?
 本当に大切だと思っているんだったら、大人たちが説得し、今と同じだけ子どもにお金を使い塾に通わせてみるかな?

 教師たちも気の毒に思う。
 受験のための教育だと思えば、そりゃ力は入らないわ、、。
 
 化学元素記号全て忘れたな。
 数学のsin/cosってあったな、、。
 ドップラー効果ってあったな。
 政経や倫理やったな、ほとんど忘れたけど。
 信長が楽市楽座を始めたな。中身忘れたけど。
 
 でも、まあ、いいか。
 
 ウキペディア(Wikipedia)みれば書いてあるから。
 数秒で分かるからね。
 

 
 
by japanheart | 2014-12-24 10:42 | 基本 | Comments(0)

学校教育は役に立つ?

学校教育は役に立つ?


 「学校教育は役に立つ?んですか?」という質問を先日の高校での講演会のとき、ある生徒から受けた。
 うちの妻もその時にたまたま一緒にいて、そのときの私の回答をFACEBOOKに投稿したところ、コメントが結構、あったらしい。

 そこでこの件につき、改めて私見を述べてみたい。

 私の回答はなんだったかというと、
  「はい、ほとんどの人にとっては役に立ちません!」
 というものだった。

 少なくとも、中学・高校の勉強に関しては私はこう考えているということだ。

 妻のFBのコメントを見る限り、色々な考え方はあるにしても、ここが大切なんだけど、
 
 1)直接的には役に立たない。
 2)それを嫌嫌何年もやっているよりはもっと学んだほうがいいことは世の中にはたくさんある。

 間接的には学問に興味を持ったとか、学ぶ面白さを知ったとか、根性がついたとか、まあいろいろあるけど、しかし、
 使わないでしょ!物理や化学使います?
 数学の公式使います?
 一生のうちに、2度、直角三角形の面積の公式使って、それって元取ってるかな?
 物体の摩擦係数とか、落下加速度とか、興味あるかな、普通の会社員が。
 せいぜい、語学や国語は大切だとしても、そのほとんどはね。
 やっぱり役に立たないよね、直接は。
 ああいう高等学問が、国力の上昇させるという目的を結果として本当に反映しているんだろうか?
 せいぜい、小学生の頃の勉強で間に合うように思うんだけど。

 確かに、いつでも学びたくなったときに何でも学べる環境は必要だけど、食べたくもないものを口あけて食べさせるような
 明治の富国強兵目的に始まった現在の教育システムは、既におかしいのじゃないかな?
 それを、全ての先進国でやっているわけで、そういうシステムを引きずっている限り、まあ、日本は欧米のコンプレックスからは抜け出せないな。
 今の学問のほとんどは、彼らの文化から出ているわけだから、今だに彼らが有利じゃない???
 
 昔は都会では寺子屋で基礎学問を教え、商人や職人として生きた人も多かったからね。学問レベルは低くてもそれはそれで十分成立していたと思う。
 いい大学を出なくては、高い給料をもらえなくするから、逆説的にほとんどの人には役に立たない学問の価値が上がっている。
  
 尺度なんだよね。
 学問する本人のためではなく、社会が選択するために、国がある基準で選択するために、ものすごいお金を使って競争をさせている感じは否めないよね。
 勝ち残った人は記憶力も思考体系も忍耐力もまあ、優秀な人ということで。
 それはそれである程度正解なんだけど。
 
 ところが社会に出て分かったことは、人間というのは”きっかけ”なんだということなんだ。
 ちょっとした”きっかけ”で、もちろん自分に興味あるとか得意分野であるとかという環境が必要である場合も多いけど、あっという間に記憶力や忍耐力をはじめ
 すごい能力を発揮するするのをこう何度も見せつけられると、学問だけで優劣をつけるのはいかがなものかと思うようになる。
 
 ところが、この人はそれくらいの能力を示しているのでまた何がしかの学問的な課題を与えると、これが全く勉強もせず、元の学生時代のようなレベルになってしまう。
 
 学問で人間力を測るというのは、一つの尺度に過ぎないから、もっと多くの切り口を社会は用意する必要が絶対にある。
 これは日本が生き残っていくために最も大切な多様性を獲得するということだ。
 色々な能力を評価する社会にいち早く移行できた先進国だけが次の時代にのし上がる。
 アメリカはどうだろうか??
 あそこは良さそうでダメだと思う。
 戦争に負けてない悲劇がそういう形で出てくると思う。
 人種問題、銃の問題、独占の問題、超学歴社会、、、。
 まあ、アメリカの時代は既に遠い昔になる。

 そういう意味では、日本は楽しみなんだけど、学校の学問なんかなんの役に立つんですか?
 と、子どもたちに質問されて、ああだ!こうだ!と色々、もっともらしい、大人らしいことを言う大人たちがたくさんいるうちは、変らないだろうな。

 その講演会で、最後に私はこう付け加えました。
 「しかし、これは社会が決めたルールだ。参加者にルールは変えられない。だから役に立たないからこそ、つべこべ言わずに、一気に集中してこんなものいち早くやり遂げて、なるべく早い時間でこんな期間終わらせるべきなんだ。」


 

 
by japanheart | 2014-12-14 11:43 | 基本 | Comments(0)