患者搬送に悩むーその6
2009年 01月 07日
日本への帰り道、ヤンゴンでバンコクから帰った22歳の患者を見舞ってきた。
相変わらず寝たきりだが、意識は搬送前と比べて少しはよくなっているようで、時にはお母さんと呼んだり、問いかけにうなずいたりするそうだ。
ミャンマーのこの家族は3000ドルを握り締めバンコクの病院へ向かう。
ミャンマー人のある友人がバンコクで迎えてくれたそうだ。
その人がこれを治療に使ってほしいと3000ドルを彼らに手渡した。
入院、治療となり、そして手術、結局15000ドルほどかかったと言っていた。
いろんな人が助けてくれて何とか支払いを済ませて帰ってきた。
未だに借金は残っているそうだが、皆、娘の回復を喜んでいた。
私たちを助けてくれているあらゆる人に感謝しているといっていた。
どうもその中には私たちも入っているらしく、何となくばつが悪い。
しかし家族の姿を見たときに素直に私も嬉しかった。
家族あってのこの患者で、私は何度も家族みんなに
「この子をここまで回復させたのはあなたたちの愛情と絆で、それ以外はないですよ。」
と言った。
家族とは本当にありがたい。
貧しくてもいい家族を持つことは人として、最も価値あることのようだ。
今の日本にはこの姿はないような気がする。
豊かな家族を演出はできても本当に作ることは難しい。
日本人たちは一体、どうしたらこのような家族ができるのかを知らない。
だから子どもが親を殺す。子が親を殺める。
お年寄りが取り残される。
ミャンマー人を見ていて思うのは、貧しい中で皆、自分の役割をしっかり演じている。
それぞれがしっかり役目を果たし、必要以上にそれを犯すことはしない。
日本人は親が子どもの役割を奪い、侵食する。
子はその役割を避け、敬遠する。
お年よりはすっかりその役目を放棄する、あるいはさせられる。
いつかも書いたが、本分を知るは大切だ。
相手の本分を奪ったり、放棄させるのは愛情ではない。
そういう意味では試練もまた愛情だ。
どうせ自分が死んだ後、親は子どもを守れないのだから、稚拙な愛情を示すより、本当に生きてゆく力を与えるのが愛情だともっと実感すべきだと思う。
子にとっても親にとっても辛い作業だが、楽して何かを得ようとしてはいけない。
人生とははじめから苦しいものなのだ。
しかしその苦しさが幸せを産み落とす親なのだから仕方ない。