常識を疑え
国際貢献なんて、特別な人間じゃないとできないということが常識だった。
特に医療は、経験年数があって、英語などの外国語もできないと、やる資格すらないのだというのが常識だった。
国際医療貢献は、保健・啓蒙活動が中心で、治療を主とする臨床医療を行うなど、時代遅れだと当たり前に思われていた。
私はこれの全ての常識を疑った。
もちろん揶揄もされたし、非難もされた。
しかし、自分のこころの声と内なる基準に素直に従ったのだ。
もし言葉が大きな障害になって、医療ができないとすると、医療はサイエンスではなくなってしまう。
途上国で臨床医療をすることが、時代遅れならば、目の前にある先進国で行われている臨床医療そのものも否定されるべきものだからだ。
今から思えば、それらは常識などではなく、単なるトレンドであったのだ。
果たして、途上国の数万人の人間がその恩恵を受け、たくさんの人生が救われた。
英語などしゃべれなくても国際医療をしたものは数千人に達し、実際の途上国の患者たちに医療を届けた日本人は数千人に達した。
つまらない世間の常識など、吹き飛ばしてしまえばいい。
日本でも医療過疎地があるのに何で外国なんだ?
日本で小児科医が足りないのに、なんで外国でやるのだ?
自分ではそのために行動できない人たちの非難をたくさん受けた。
そんな彼らの常識に目もくれずに、自分のこころの声に従った。
その結果、海外に来た人たちの力を借りて海外だけでなく今では日本国内の僻地・離島に派遣した医療者も100人以上になった。
日本の小児科がなかなかできないがんの子どもたちと家族のための事業も始めることができた。
今回もラオスから1歳の小児腎臓がんの女の子をつれてきて日本で治療する。
何でその子だけなんだ?
ほかにも一杯、同じような子がいるじゃないか?
と声が聞こえそうだ。
一人も海外のそんな子どもを助けることができない人間たちがそんなことを言っても説得力があるか?
一人でも助かりゃいいじゃないか!
多くの人を助ける仕組みを作るのは大変なことなんだ。
その大変さも知らないから、簡単に建前論を言う。
そんなこと、簡単にできていれば日本で医者たちも今みたいに苦労はしていない。
力ない人間はこうして、一人ひとり丁寧に助けていくしかないんだ。
ラオスの腎臓がんの1歳の女の子は8月、日本に来て治療を行うことが決定した。