いい出会いを求めて
いい出会いを幾つになって求めたい。
年老いて、周りに同じ年齢以上の者たちしかいない人生はどうなんだろう?
若い人々に囲まれ、求められ、指導する。
長生きするのもいいが、ただ生きればいいというものでもない。
どこかである医療団体のトップが、東南アジアに来て日本の医療を見習えと言わんばかりに、
世界最長寿の日本を支える医療のような題名で講演をしていたが、それってどうなのかと思う。
日本は年寄りの生きやすい社会かな?
肉体だけ生きながらえても仕方ないと多くの人は思っているはずで、生きがいとか、幸せであるとか、そういう感情とともに存在していたいと思う。
かつて書いた例で、スウエーデンの年寄りは、衣食住を社会のシステムとしてやってもらって後年を施設で生きることができる。まあ、生命を維持するにはいい境遇を手に入れれる。
一方、バングラディシュの年寄りは、衣食住の保障は社会はしてはくれない。しかし、忙しい。何せ、冠婚葬祭、もめごとの類まで、若い人たちが相談に来るからだ。
ミャンマーの年よりも、ある意味、そういう世界観の中にいる。
年取って農業や孫の世話に忙しい。
そしてぽっくり死ぬことが多い。
日本人は核家族ゆえに、身内の若い世代は年をとっても周りにいないことが多い。
だとすれば他人の若者たちに身近にいてもらうしか、方法がない。
どうすればいいのか?
結論から言うと、若い人が求めるものがなければならない。
バングラディシュの年寄りのように。
でなければ、あなたの晩年はあなたより皺がよった人々の中で過ごすことになる。
若い人が求めるもの。
それがお金などの物質であっては、無いよりはましだが、あなたの心の充足は低くなる。
そこで、ものではなく、それをあなたの中に造っていかねばならない。
それこそ地道に時間をかけてつくる必要がある。
形無きものは、造るのに時間がかかるのだ。
だから、若い時代にそれを造り始めないといけない。
あなたが将来、あなたがあなたの周りにいて欲しいと求めているような若者たちと同じ位の年から、それを造り始めなければ間に合わないという、人生の皮肉がある。
それぞれの特性、個性に見合った魅力あるものをつくらねば。
若いときしかできないこととは何なのだろう?
年取ってからでも、できることは何だろう?
今一度、詮索したし。