不完全さを刻む
残念ながら、私の人生の記憶は失敗ばかりに彩られている。
幼い時に食べたものの記憶ですら、ジンマシンを起こしたものや無理やり食べさせられたものの記憶が一番強烈にある。
本気で望んで、失敗したときの記憶ほど消しがたいものはない。
多分、死ぬまで思い出すことだろう。
私の前で死んでいった多くの子どもたちを思い出すたびに、いつも、”私もいつか死ぬから”と言い訳のようにつぶやいてしまう。
全ての子どもを助けれるなんて思うのは傲慢すぎると分かってはいるが、神の力を持ちたいと思ってしまう。
全ての子どもが死なない世界がその後どうなるか?
知らぬ身のわがままかも知れない。
どんなに富を蓄えても、どんなに権力を欲しいままにしても、どうせ死は訪れる。
世界で一番の権力者になったものは、どのような心境で死を迎えるであろうか?
それを想像したとき、お前も私も何も変わらないじゃないかと、少しいい気分になる。
脳のしわと頭の良さは全く関係ないと思うが、人生のしわと人生の豊かさは確実に関係する。
しわは深いほど、豊かさは増す。
豊かさというのは、いい実感というのとは異なる。
豊かさは、強いて言えば、密度のことだ。
死ぬときの木の走馬灯が、あっという間に終わっては、モッタイナイ。
密度を増すには、失敗の体験が成功の体験よりも重要な役割を果たす。
とにかく、失敗の体験が、記憶に深く留まる。
成功したいと、一生懸命がんばるとき、人は力が入ってしまう。
必死の失敗経験を、このあたりでしてみようと、ことに望むとき、どのくらい力が入るだろうか?
必死の失敗体験。
これを行うためには、自分の実力以上のことに望むほうがいい。
とにかく、ちょっと背伸びした挑戦を3回に1度くらいはしたほうがいい。
失敗しても、死ぬときの走馬灯の映像スクラップへのアップロードだと割り切って。
今日も、そんな感じでいってみようと思う。