5%の実感
2013年 10月 01日
最近特に感じることがある。
人は、どのようになれば満足した生き方というのだろうか?
時間を忘れ、無我夢中で生きている、そういう状態以外に、果たして満足とか充実とかいう瞬間があるのだろうかと?
冒険家 植村直巳はなぜに、死すまで冒険を続けたのか?
イチローはなぜ、いまさらヤンキースへ移籍したのか?
最近は、彼らの気持ちがわかるようになってきたと思う。
人は、1000メートルの山を登ると、2000メートルの山を目指し、やがて地球上に存在するすべての頂きを制覇する。
しかし、そこで終わりを迎えないのだ。
人という性は、さらにその人に過酷な運命を要求する。
その次に、人は地上に存在する最も高い頂きに、再び挑戦をする。
しかも、前回よりもさらに過酷な条件を自分に課すのだ。
前回よりも、険しい経路を選択をする、装備を不十分にする、たった一人で挑もうとしたりもする。
その前回との違い、そのわずか5%のストレス、その5%の過負荷がその人の生きている実感となる。
それが重過ぎると、すべてを失うことにもなる。
それが軽すぎると、生の実感を感じることができない。
悲しい人間の性かもしれない。
上を目指しても人間はもう十分だと満足することはない。
上に到達すれば、必ずもっと上を目指すことになる。
そしてどこまでも、どこまでも満足しない。
そして、現状にとどまることは、上を目指している人間にとっては、半ば死んでいるような状態と感じるのだ。
生きていても、生きている実感がわかない状態。
そういう人間には5%の負荷が必要になる。
この5%の負荷を背負っているときだけ、その人は本当に生きている。
この5%といつも向かい合っている人間は、現状にとどまっている人間の群れが、景色にしか見えない。
違う世界の生き物に見える。
まさに現実の世界と、霊界が同時に存在し、死者と人間が歩いていても交差するような世界を見ていることになる。
そんなストレスを抱えて生きなくてもいいのではないかと思う人間も多いだろう。
しかし、私の経験からするとこれは、どうしようもなく運命的な匂いがする。
しかしながら、どんな人間も道を究めていけば、仕方なく放り出される世界であることも事実だと思う。
どちらの道を行っても、終着駅は、死。
人はなぜそこを目指すのか?
本当の快楽とは何なのか?
本当の快感とは何なのか?
本当の快感は、本当の快楽は、必ず苦痛や苦しみを含むものだと理解しなければならない。
うれしさだけの、喜びだけの、快楽や快感は、もっとレベルの低い程度のものだ。
究極の快楽・快感は、激しい苦痛と苦しみのその先にある。
それは経験したもののみ分かる世界だが、それを知ってしまったものは、本能でそれを求めるようになる。
植村直巳もイチローも、その快感の中毒といえるかもしれない。